咲いて花蜜、蕩けて甘露



 歴史修正戦争において前線基地となる本丸は、その特異性と九十九の神々を下ろす場として現世とは異なる空間に居を構える化学と神秘が複雑に混ざり合った異相の神域だ。
その空間では基本的に季節というものは存在しておらず、本丸の機能の一つとして景趣、景観といった人為的な操作により現世と似通った気温や自然現象といったものを再現している。
 そんな機能が必要なのかと問われると、判断は難しい。しかし、人という生き物が住まう限り、普遍であることは相応の危険性を孕むことも事実だ。変化のない場所で正常に生きていくことは難しく、些細なことで人は簡単に正気を失う。
 本丸の景趣をどのようなものにするかは審神者の采配によるが、大体の審神者が四季を一巡りさせるように設定していることが、一つの結論を出していることの証左にはなるだろう。個々の季節の長さこそそれぞれだし、特定の季節を避ける、という本丸もあるが、一切景趣を変更しない、という審神者もまた稀だ。
 そして今はそんな審神者の采配で、山姥切長義がいる本丸は現世になぞらえて真夏の猛暑を再現している。大半の男士は割り振られた仕事がない限りは冷房の効いた室内に引き篭もっていることが多く、中には暑さを堪能する為に庭先で水遊びに興じているものもいるが人の身で夏の日差しはあまりに耐え難い。
 少しの用事で部屋から廊下に出ただけで汗だくになるのだから、その暑さは推して知るべしというものだろう。
 飾られていた頃では鈍かった感覚も、人の身となればこれ程に違うのかと、生え際にじわりと浮かぶ汗を掬い取るように指先で払い、長義は廊下を突き進んだ。
 むわりと湿気を孕んだ熱気はベトベトと肌にまとわりつき、雨のように降り注ぐ蝉の大合唱がくわん、耳に木霊する。早く程よく冷えた部屋に帰りたいと思うが、目的を達成しなければ帰りたくとも帰れない。少し苛つきながら進めば、ようやく目的地…正確に述べれば、目的の刃物を見つけて長義は呆れを紺碧の眼差しに浮かべた。

「全く、人の身なら下手したら死んでしまうかもしれないというのに…」

 ため息を混ぜてぼやくが、その声は縁側でかろうじて日陰になっている場所で寝息を立てる件の人影には届かない。
 あと少しもすれば太陽の位置も変わり日陰も無くなるだろうギリギリの場所で、汗みずくになりながらスゥスゥと寝息を立てる神経はある意味尊敬する。決して見習おうとは思わないし、何故わざわさ暑い場所で寝るのか理解に苦しむが。
 まあ、猫は時に気に入りの場所である事を優先して暑さだとかは度外視する事があるというし。飼い主が管理に気をつけねばね、と考え直し、長義は寝入る南泉の枕元に膝をついた。

「猫殺し君、こんな所で寝ていると干からびてしまうよ。それとも溶けたバターにでもなるつもりかい?」

 上から声をかけて、サッと張り付いた前髪を払う。すっかり汗でまるで頭から水を被ったように濡れている前髪の束を避けて、露わになった額をぺち、と叩く。寝汚い彼は眉根を寄せて、むずかるようにごろんと寝返りを打った。

「猫殺し君。起きなよ。まさか昼寝中の熱中症で手入れ部屋行きだなんて風が悪いことをするつもりじゃないだろうね?天下の一文字、徳川無代の刀がそんな情けない理由で手入れ部屋行きだなんて…面白いな」

 そうなったらここぞとばかりに揶揄い倒してやろう。反論もできずに歯噛みする姿を想像して、ぽつ、と呟けば下から低い唸り声が聞こえた。

「なんも面白くねぇよ…人の不調をネタにすんにゃ…」
「おや、ようやくお目覚めかな」
「嫌な起こし方しやがって…」

 まだとろんと持ち上がり切らない瞼の下で、金色の瞳が長義を見上げる。混ざった緑柱玉の虹彩が日陰でキラキラと光ったように見えて、長義はくすり、と笑みをこぼすと汗の浮かぶ鼻をちょん、と突いた。

「君が溶けてバターになってしまう前に起こしてあげたのに、酷い言い草だな。感謝されこそすれ、不満をぶつけられる謂れはないけど」
「頭の上で不穏なこと呟かれるこっちの身にもなりやがれ、…にゃ」

 最悪の目覚めだ、とぼやくけれど、多分暑さで茹だった頭とか、タンクトップをぐっしょりと濡らす汗だとかそういうもののせいではないだろうか。寝起きとしては中々に最低な有様である。
 むくりと起き上がった南泉の背中に張り付いたタンクトップを眺めて、長義は肩を竦めた。

「起きたのなら早く広間に行くんだね。歌仙たちがお八つを準備しているよ」
「あー、今日はなんだ?」
「暑いからね、カキ氷だったよ。シロップは色々、多いのは手製の果物のシロップかな」
「甘くねぇのあるかにゃ」
「…さて。飲兵衛たちは日本酒をかけて楽しむ気満々だったけど、真っ昼間だからね。お許しが出るかどうか」

 その内カキ氷なんてしゃらくせぇ、と酒に手を伸ばしそうな気もする。容易に想像できる光景に苦笑を浮かべ、汗で張り付く髪を避けるように耳にかけると生え際から滲んだ汗がつぅ、と輪郭を伝った。

「酒か〜。まあ、甘くないならそっちのがいいかも、…にゃ」
「相変わらず甘味が苦手だね、君は」
「あんま甘くなきゃ食える」
「一口二口だろう。まあ、趣向はそれぞれだし、何に困るわけでもないからね」

 小さく口角を上げ、すっかり目が覚めた様子の南泉から視線を外す。いい加減戻らなければ厨組の迷惑になってしまう。氷という性質上、作り置きという手段が取れない代物なのだ。ほら、行くよ、と南泉を振り返り声をかけるが、振り向いた先に想像以上の近さで整ったやや童顔気味の貌が視界を埋め尽くし、さすがに長義もぎょっと目を剥いた。いつの間に、と目を丸くしてびく、と跳ねた肩にも頓着せず、南泉は固まる長義の首筋に鼻先を寄せ、すん、と息を吸い込んだ。

「…なんか、お前甘い匂いがしねぇか?」

 突然の奇行に動揺して避けることも出来ずに接近を許した長義は、南泉の怪訝な声にどくん、と心臓を跳ねさせた。
 眉を潜めて首筋に鼻を寄せる南泉は、長義の動揺に気がついた様子もなくスンスンと鼻を鳴らしている。
 気になる匂いの原因を必死に突き止めようとする動物のような仕草が可愛らしいと思わなくもないが、長義は内心それどころではなかった。しかし、その狼狽を表に出すことはせず澄ました顔で長義はあぁ、と頷いた。取り澄ました顔は平素のままで、ギクリと動揺した内心などおくびにも出さずに片手を上げて手首を見せつけるように突き出す。

「練香の匂いじゃないかな。ほら、ここから香るだろう?」
「んー。あぁ、確かに」

 ハーフグローブから覗く白い手首に素直に鼻先を寄せた南泉が納得したように頷いたことにほっとして、長義は距離を取るように立ち上がった。座り込んだままの南泉を見下ろして口角を持ち上げる。

「安心しなよ、シトラス系の香りは控えているからね」
「猫じゃねぇ!!にゃ!…いや、あんま好きじゃねぇけどよ…」
「ふふ。鼻が利くのも呪いのせいかな。便利な時もあるけど、あまり利きすぎるのも考えものだね。さて、それはともかく、俺はいい加減に広間に戻りたいんだけど?」
「俺はちっと汗流してから向かうわ。さすがにベタベタして気持ち悪ぃ」

 張り付いたタンクトップを肌から剥がすように摘んで引っ張りながら顔を顰める南泉に、確かに、と頷いた。こうして話している間も真夏の暑さはジリジリと長義たちを炙り、汗腺から汗が止め処なく溢れてくる。長義もそれなら、と口を開いた。

「歌仙たちには少し遅れると伝えておくよ」
「悪ぃにゃ。ついでにオレの分は日本酒にしといてくれって伝えてくれ」
「鶴丸がブートジョロキアのシロップを作っていたからそれにしてあげようか?」
「殺す気か!?ぜっったいやめろ!!」
「冗談だよ。さすがにあんな殺人カキ氷は今剣と主ぐらいしか食べられないかな」
「でもチャレンジする奴はいるんだろうにゃあ…絶対やめろよ」
「はは。でも早く来ないと酒呑みに食べ尽くされるかもしれないからね。そうなったら選択肢は少なくなってしまうかな?」

 ニコリと有り得そうな未来を語れば、南泉もその光景がありありと浮かんだのだろう。うんざりしたような顔ですぐ行く、とすっくと立ち上がった。ほぼほぼ変わりのない視点を合わせて、急ぐんだね、とひらりと手を振る。おー、とやる気のない返事と共に向いた背中を眺めて、長義は遠ざかる南泉にほっと息を吐いた。
 まだ少しドキドキと暴れる心臓を手袋越しに抑えて、鎖骨から胸板に流れる汗の動きにびくりと体を震わせる。一度目を閉じて、たらりと流れる汗を掬い取って濡れた指先に目を細めた。

「嘘じゃ、ないんだけどね」

 甘い匂いの正体が、手首や首筋につけた練香の香りであることは、嘘ではない。長義は身嗜みの一環としてそういったものをつけているし、本丸には香を嗜む刀剣は何振りもいる。だから香の香りは珍しいことではないが、しかし、長義の場合それだけが理由ではなかった。
 鼻先を汗で濡れる指先に近づけて、くん、鼻を引くつかせる。僅かに香るような、しかしほぼ無臭に近いような曖昧なそれに、猫の呪いとはなんて厄介なことかと眉を顰める。
こんなささやかな、無臭に近いそれを嗅ぎ取る鼻なんて、全く本当に、面倒な刀だこと!

「まあ、匂いだけなら誤魔化しようはいくらでもあるからね」

 絶対に、彼にだけはバレてはならない。
 拳をぎゅっと握りしめて、長義はサッと踵を返した。ひとまず、厨の歌仙たちに南泉のことを伝えなければ。ついでに、南泉所望の日本酒のカキ氷も確保して。横に並んで食べることを、彼はきっと拒絶したりはしないから。





 山姥切長義には秘密がある。
 その秘密は何が何でも隠し通さなければならないような重大なものかと言われると、いや別にそんなことはないんだけどね、とサラリと口を割るぐらいには大事でもあり、ささやかな秘密である。
 少なくとも本丸の主である審神者とサポーターであり政府と繋ぎのあるこんのすけ、それから古巣と言える政府で長義と関わりがあった職員は知っている程度には公然の秘密で、しかし語らなければ本丸の誰も知らない長義だけの事情があることは確かな話だ。そしてそれは聚楽亭から配属され、半年以上の時を経ても主以外の本丸の仲間には知られていない。
 知られていないのは語る場もなければ語る必要もなく、また日常生活、引いては戦ごとになんら影響のない、あくまで限定的な内容だったからだ。
 山姥切長義の秘密とは、その体液が花蜜のごとき甘露の性質を持っている、という極めて稀でそして何かに影響を及ぼすような重篤なものではない、というある種奇跡的な体質の持ち主であるということだ。
 顕現した刀剣男士の中には見た目に影響が出る物、能力的に特異な物、性格、心と呼ばれる内面に多少の問題がある物、等様々な物がある。それは時に生活や戦、対人、対刀関係になんらかの支障を来すことがあるが、そういう面でいえばただ体液に味が伴うというだけの体質はノーマルな個体と大きな差異はないと言っても差し支えはないだろう。
 これで何かを異常に誘うだとか、本能を狂わせるだとかの異常が見つかればまた違ったかもしれない。だが幸いなことに、長義の体液…唾液や血液、汗といったものは確かに甘いが、それが何かを誘発したことは今まで一度もなかった。口に含んだことで何かが起こる可能性というのも考慮され、体質が判明してから政府で調べ尽くされたが、ただ甘味を伴うだけのそれは通常個体と相違無し、という太鼓判を押されて、聚楽亭の監査官を務めて本丸に下った。もっとも、政府と異なり1人の審神者の元で顕現する事で体質に変異が見られる場合もある。今は大丈夫でも、今後何が起こるかはわからないのだ。もしかして、未実装の付喪神の中に長義の体質に影響を覚える個体がいるかもしれない、と、未来の可能性は枚挙に暇がない。油断は禁物だが、今のところ長義の体質に変異は見られず、周囲に影響はない事から問題なしの経過観察となっている。
 だからあえて語ることはないが機会があれば話すことに抵抗はないと長義は考えていた。何に問題があるでもなし、ただ体液が甘いだけならば隠し立てすることもないと思っていたーーある刀剣の趣向を知るまでは。
 話は変わるが、長義の本丸の審神者は大の辛党である。甘いものが食べられないわけではないが、辛い物や塩気のある食べ物を好み、特に激辛と呼ばれる料理には目がないタイプの辛味マニアだ。
 自分専用の辛味調味料を持ち、七味やタバスコといった本人曰くちょっと一味足すためのスパイスを持ち歩いている。
 勿論なんでもかんでも辛味を足すわけではないが、それでも側から見れば正気を疑われるような味付けを施すことに抵抗はないタイプの味覚の持ち主。その主の影響か、顕現した刀剣男士の多くは甘味よりも辛味を好む物が多かった。
 幸い、ブートジョロキアをおやつレベルで食す辛味マニアは主の他に初鍛刀である今剣ぐらいしかいないが、それでも一般的な基準と比べてこの本丸の男士は辛味を好み、強い個体が多い。ちなみに今剣の相棒たる岩融は本丸内では珍しい甘味を好む個体で、今剣の横で大体泣きそうになっていることが多い。それは今剣が食すドギツイ赤い食べ物の余波であって、無理矢理食べさせられているわけではないことは述べておこう。
 さておき、そんな本丸に配属され、審神者に再顕現された長義もまた以前と比べて辛味には強い個体となった。以前はそこまでではなかったが、これが主を持つという影響かといたく感動したことは覚えている。しかし、元からの体質もあってか、辛味に強くはなっても好むのは甘味の方で長義は本丸内では比較的に珍しい側と言えるだろう。だからといって中でなにかしらの不和が生まれるわけではなく、日々恙無く戦争に従事しているわけだが、たった一つだけ、本丸の大多数を占めるその趣向が長義の胸の内に影を落としたことがある。
 長義には知り合いも、関係のある刀剣も多いが最も関わりが深いといば500年余り共に過ごした同じ所蔵元の刀剣が挙げられることが多い。だが彼らは長義と違い、あまり甘味は好まない側に属していた。食べれなくはないが、バタークッキーよりも醤油煎餅をバリバリ噛み砕く方が好きだし、生クリームが乗ったケーキよりも山葵フレーバーのソフトクリームなんかを好む。それはしょうがない。好きなものが違うだけで、長義だって別に嫌いなわけではない。ただ、そう、ただ、その中でも特に長義が気にかけている一振りが…南泉一文字という刀が、中でも特に甘味を好まない性質だったのだ。
 腐れ縁として、同じ所蔵元の関係で、あるいは化け物切りと猫斬りの刀として。長義は南泉一文字をいたく気に入っていたし、その見た目、切れ味、性根、全てを好ましく思っている。呪われている、とされるその可愛らしい語尾さえ、南泉を構成するものとするなら愛おしく思えるほどに。気に食わないといえば刀にしては優しすぎる部分があるところだが、まぁそれも南泉が南泉足りえる部分であるので総合的に見ればなんら問題はない。
 その南泉一文字が、殊更に甘味を厭う。厭う、という言い方は間違っているかもしれない。けれど、彼が甘味を好まないことは確かで、本丸内で誰ぞが食べていてもそれを欲しがることはないし、出されたものもなんだかんだと口につけないことが多い。
 そういう趣向のものは一定数いて、食べないことをどうこう言うような物は誰もいないが、一度だけ。勧められて、甘味を口にしたときの南泉を見たことがある。周りも南泉の味覚は知っていたし、無理に勧めることはないがまぁ偶には、と勧めたそれを、南泉も何の気まぐれか口にしたのだ。勧めたのが昔馴染みの刀であったことも断らなかった理由の一つかもしれないが、それを食べた時の南泉の表情を、長義は今でも思い出せる。

 口に含んで、一拍。
 舌が甘みを感じた瞬間、くっと寄せられた眉と、細くなったライムグリーンの混ざった金目。鼻に寄った皺と、への字になった口の形。――不快感を滲ませた、その表情。

 食べた物を出しこそしなくとも、南泉が不快感を覚えたことは確かだった。その顔に差し出した刀剣はカラカラと笑い、やっぱり苦手なんですね!と笑い飛ばす程度にはささやかな日常の風景だったけれど…長義には、南泉のその表情が目に焼き付いて仕方なかった。
 そうか、甘いものを食べると、あいつはあんな顔をするのか。自分も同じものを舌の上に乗せながら、ちくりと心の臓が針に刺されたような痛みを覚えた。
 何故痛むのだろう。南泉が甘いものを好まないことは知っていた。けれどそれが誰かの迷惑になるわけでも、本丸の運営に支障を来すわけでもない。ただの個刃の趣向の問題で、それが長義に影響を及ぼすわけでもないのに。チクチクと刺す痛みにそっと胸に手をあてて、あぁでも、とはつりと瞬きをした。

 俺は、南泉と口付けを交わすことはできないのだな。

 そう思った瞬間、長義は大きく目を見開いてパチパチと瞬いた。口付け。接吻。キス。言い方を変えても、それの意味することは同じだ。人型を取った者同士が、口と口を合わせる接触の仕方。けれど、そこに含まれるものは著しい問題を抱えている。なにせ、その行為は一般的に恋仲の関係に当たる者同士が行う行動で、決して友人だの腐れ縁だの仲間だのといったそんな関係のもの達がするような行為ではないからだ。
 何故それが脳裏に過ぎったのか。どうして自分は南泉とそんなことをすると考えたのか。ぐるぐると思考を巡らして、そしてはたと行き着く先。

 ――あぁ、俺は、あいつのことを好きだったのか。

 南泉と口付けをする想像をして。それが不快ではなくて。むしろ抵抗感もなくその姿を思い浮かべることが出来て――少し期待して。
 気が付いた感情に、しかし浮かぶのは苦笑でしかなかった。考えれば納得できる。いささか驚かなかったわけではないが、それでも南泉への恋慕をすんなりと受け止められるぐらいには、恐らくこれは長いこと長義の中にあった感情なのだ。ようやく気付いたか、と己の感情に呆れられているような気もしたが、すとんと受け入れたその想いに、けれどこれはどうしようもないな、と諦観も覚える。
 好きだと気が付いたからには、今までよりも一層南泉を恋しく思う自分がいる。キラキラと輝いて見える、と、よく人の子は表現するが、確かに今までも惹きつけられていたそれがより一層引力を伴う気もして、長義は日々が楽しい。南泉に近づいて、揶揄って、共に戦って、何気なく隣にいて。その距離を愛しく思うし、楽しいと思う。それは今まで以上の重みを伴うものだったが、幸福だと言える。できることなら、南泉にも長義と同じ思いを抱いて欲しいと思うぐらいには欲深く考えて――だけど、仮に本当にそうなっても、自分は受け入れられないだろうな、と思ったのだ。

 だって、南泉は甘いものが嫌いなのだ。

 忘れてはならない。長義の体質は、一般的に問題になるようなものではないが、それでも特殊なそれをしているということを。
 長義の体液は、一般的なそれではなく花蜜のような甘みを伴う。汗も、血も、――唾液も。長義が生成する体液の全てが、甘露となること。それは、甘みを嫌うものとして受け入れがたいものだろう、と冷静に思考する。
 恋人になれば、程度や進展の速度の差はあれ、いつかきっと口付けなり、それ以上の交わりを求める日は来るだろう。そうなった時、南泉にとってきっと長義は受け入れがたい存在になるのだ。口付けを交わして、長義の味を知って。――その顔が、あの甘味を食した時のような不快なそれに変わる様を、どうして受け入れられよう。
 想い人の顔が、ようやく思いを交わし合った仲の相手の顔が。自分との口付けで、顔色を変える。それも好意的なそれではなく、全くの逆の意味を込めて。
 さすがに心が化け物と言われる長義とて、好きな相手にそんな視線を向けられればちょっぴり傷つくし、それが原因で疎遠にでもなってしまえば大いに悲しい。
 今更性格や趣向の不一致でどうこうなるような関係ではないけれど、性の不一致は如何ともし難い。恋人同士が別れる理由としてそういうものは大いに挙げられるし、深いまぐわいが出来ないとなれば気持ちさえそぞろになることがある。
 友人同士、昔馴染みのままならともかく、新たな関係を築いてそうなることは耐え難く、それならばこの関係のまま、長義は己の思いを深く沈めることに抵抗はなかった。だって、どうしようもない。もっと別の要因ならば如何様でも覆して南泉を手に入れる努力は惜しまなかった。例え相手が己をそういう目で見ていなかったとしても、そういう目で見てくるようにいくらでも長義は南泉に挑みかかっただろう。
 だけど、体質。政府時代から、審神者に顕現し直されても直らなかったものが理由に挙がるのだとしたら…それが、最も大きな障害で、自分の力でどうにもできないことなのならば。
 諦めるしかないではないか、と長義はほろ苦い気持ちを抱えるしかなかった。自分と口づけて、不快感を示されるなんて耐えがたい。あの目が、長義の好きな金色の目が、常とは違う心からの嫌悪を浮かべる――そんなものを間近で見せられるなんて、遠慮被りたい。
 幸い、長義と南泉はこの本丸でまさかそんな関係になるような素振りは一切見せていないし、互いに油断ならない腐れ縁の関係で通っている。寂しいが、南泉が長義をそういう目で見ていないこともわかっていた。それならば、このまま。知られることなく。知らせることなく。腐れ縁のままでいればいいと、そう結論づけることはなんら可笑しな思考ではなかった。
 恋人になることは無理だ。長義の体質が何かの拍子で直りでもしない限り、南泉にそういったアプローチをすることも、思いを向けるのも封じなければならない。
 しようがないね、と肩を竦めて、チクチクと心臓を苛む痛みに素知らぬフリを決め込む。仕方ない。仕方ない。だって俺はそういう体質で、南泉は甘いものが好きじゃないんだから。口付けもできない、契りも交わせない。そんな関係を恋仲だなんて呼ぶにはあまりにお粗末だ。それが全てではなくとも、それが大きな違いだということは間違いない。
 苦い気持ちを押し殺して、甘い自分の唾液を飲み込む。仕方がないね、そういうものなのだから。南泉だって長義をそういう目で見てくることはないだろうし、この思いは、長義の中だけで抱えて昇華していくのだ。大丈夫。ずっと持っていたものを、これまでと同じように相手に気取られないようにするだけ。自覚した分、少しばかり大変だけど。でもまぁ、俺は山姥切なのだから。本物がそれぐらいできなくてどうする、と張った胸を、ツキリと刺すものは無視をして。
 長義は、素知らぬ顔で南泉の横に立つ。揶揄って、弄り倒して、やり返されて。それだけで幸せだと瞳を蕩けさせて、時折溜まった物は戦で発散させて。そうして、過ごしていく。変わらぬ日々を澄んだ瞳で見続けて。疑うことなく謳歌して。
 決して、彼にだけはこの体質を知らせまいと決意して、長義はにこりと不遜な笑みを浮かべるのだ。――その均衡が、崩れる日が来るなど考えもしないで。





 黄水晶にライムグリーンの混ざった美しいグラデーションの瞳が近づく。目尻に差した朱は色気を伴い、少し大き目のつり目にきょとんと気の抜けた己の顔を写して。
 通った鼻筋、少し厚くて柔らかそうな淡い色味の唇。白すぎない健康的な肌色には染みも皺も傷も出来物もなくつるりと肌理細やかで、整った輪郭の美しいこと。全てのバランスが絶妙で、あぁ、好きな顔だなぁ、とその顔が近づいてくることも忘れて見惚れた長義は、その柔らかそうな唇が一層近づき、吐息が己の唇に触れた瞬間現実に引き戻されたように反射的に片手を互いの顔の間に持っていった。むちゅ、と、手袋に包まれた掌に慣れない柔らかな感触と潰れた鼻先の少し硬い抵抗を感じて、バクバクと早鐘を打つ心臓を気取られないように息を詰めた。
 あと一歩、遅ければ。血の気が引くような心地と、それとは裏腹に期待に震える胸の内。相反するものを暴れる心臓と共に抑え込んで、眇めた目で不満を訴える金緑の双眸に長義はいささか引き攣った笑みを浮かべた。

「…何のつもりかな、猫殺し君」

 殊更に低い声は、動揺を面に出さないために少し小さく、口付けを拒まれた南泉は眉をぴくりと動かす。掌一枚分の距離で見つめ合うと、やがて長義の掌から熱い体温と柔らかな感触は遠ざかり、少し距離のあいた先で南泉が不愉快そうにじとりと長義を見つめた。

「なんで邪魔すんだよ」
「なんで?当たり前じゃないか。君、今何をしようとしたかわかっているのか?」

 離れた距離にほっとしながら、不服そうな南泉に長義こそ意味がわからない、と眉を寄せてじとりと目を座らせた。何故。どうして。ただ縁側で隣り合って、冷たい麦茶を飲んでいただけなのに。どうして、急に顔を近づけて…もっと言えば、口付けを求めるような行動をするのか。
 長義と南泉は、それが許されるような関係ではない。昔馴染みで、腐れ縁で、友人とは言い難く、仲が良いとも悪いとも言えない、絶妙な均衡で成り立つ本丸の仲間。ただそれだけの、特別だといえば特別な、されど何もないといえば何もない――そんな関係のはずだ。少なくとも、接吻などという極めて特別な行為を許し合う関係性ではないはずなのに。どうして急に。何が切欠で。そもそもどういう意図があって。理解に苦しむ状況に眉根を寄せて、長義は南泉を見つめた。その瞳に映る自分が困り果てている姿が目に入り、益々眉が寄る。
 対して南泉は長義の疑問を受けて、剣呑だった目を少し緩めて、こてん、と首を右に倒した。ふわふわとした襟足の髪の毛が首筋で揺れて、思いの外長い睫毛がぱちりと上下する。

「好きな相手に接吻がしたいと思って、何が悪いんだ。にゃ」
「す…っ?!」
「お前だって、オレのこと好きだろ?そーいう意味で」
「な、は、はぁ?!俺が!?君を!??」
「なんだ、気が付いてなかったのか、…にゃ?ようやく自覚したと思ってたんだけど
にゃあ。…見誤ったか?」

 可笑しいな、と首を捻る南泉に、長義は二の句が告げれない。絶句して、パクパクと口を開閉する姿に南泉はふむ、と頷いてから改めて向き直るように体勢を変えた。
 庭に向けていた体を斜めに捻って、長義と向かい合う。突然南泉から思いもよらなかった告白を受けて、常の回転の速さが嘘のように鈍足になった長義は茫然と整ったその顔を見つめた。どうして、なんで。自覚?何時から。気付かれていた?まさか、そんな。嘘だと言って。懇願するように縋る視線を、しかし南泉は取り合わない。見つめう目が爛々と光っていて、それは正に獲物の息の根を止めんとする獣のそれで、狙い打たれた長義は息を呑んだ。知らない、そんな、熱を孕んだ眼差しなんて。気づかなかった。そんな目で俺を?
じり、と無意識に逃げを打つ体を、しかし伸びてきた南泉の腕が捕まえた。床板についた手首を取られ、びくりと肩が跳ねる。

「好きだ、化け物切り。お前が気づかなくても、ずっとオレはお前が好きだった」
「…正気かっ?」
「残念ながら、にゃ。お前みたいな糞面倒くさくて嫌な性格をした刀に、伊達や酔狂でこんなこと言うかよ」
「随分なことを言ってくれるな。誰の何がなんだって?」
「そこを拾うのかよ。面倒くさい奴だにゃあ…」

 ちょっと聞き捨てならない。誰が面倒くさくて嫌な性格だって?動揺から瞬時に臨戦態勢を取って眉を吊り上げた長義に、南泉がいささかの呆れを浮かばせて溜息を吐きだす。甘い空気も告白の余韻もない有様に、しかしらしいといえばらしいのかと南泉は苦笑を浮かべて、するりと長義の頬に手を滑らせた。そういう奴だよ、お前は、と突き放すような言葉はしかし愛しげな響きを帯びて、苛立ちを浮かべた長義も思わず怒気を引っ込めた。

 なんて目をするんだ、猫殺し君。

 愛しいと、好きだと、そんな、語りかけるような眼差しで。頬を包む掌は熱くて、決して真夏のそれだけではない熱さに、カッと長義の頭も燃える。ばくばくと鼓動を打つ心臓の余りの痛みにきゅうっと服を握りしめて、長義は視線を逸らすことも忘れて南泉を見つめた。吸い込まれるような、黄水晶。中心部が緑がかって、キラキラ光って。

「にゃぁ、お前は?」

 求める言葉に、答えを促す声に。歓喜に震える心を、どうして誤魔化せるだろう。本当は、飛び上るほどに嬉しい。叶うはずがないと思っていた。そんな未来は来ないと断じていた。俺と君は昔馴染みで。仲は良くないけど腐れ縁で。口でも刀でもやり合うような関係で。喧嘩友達のような、だけど友達だというにはちょっと違っていて。その枠からはみ出すような、そんな未来など有り得るはずがないと思っていて。
 諦めていたそれが、あるはずがないと断じていたものが目の前に差し出されて――南泉を好きだと叫ぶ心が嬉しい、と悲鳴をあげる。諦めていたものを差し出されて、与えられて、込み上げる熱いものに吐息が漏れる。
 嬉しい、俺も。俺も、君のことが。求める心が今にも飛び出して、その手を握ろうと囃し立てるそれを…しかし長義は、捻じ伏せた。
 やんわりと、頬を包む手を剥がして。見張る瞳に笑みを浮かべて。遠ざける。心ごと。君から。だって、俺は。

「君の想いには応えられないよ、猫殺し君」
「なんで」
「…どうしても。君が悪いわけではない。無論俺もね。だけど、そう。…どうしようもないことが、世の中にはあるんだよ」

 どうしようもない。どうしようも。例え今この幸福を、奇跡を受け入れても、きっと未来は明るくない。先のわかる結末ほど始末の悪いことはないだろう。俺達では、そういう関係に至ることは出来ない。どちらが悪いわけでもなく、ただままならないことがあるだけの話で。諦念を浮かべて、長義は愛しい刀から視線を外して目を伏せた。

「俺は君の恋刀になることはできない。諦めてくれ」

 そうして、今まで通りの関係でいてくれさえすればいい。そうであるならば、きっと俺達は隣同士でいられるはずだから。だけど痛む胸を、長義は苦々しく思いながら顔をあげて笑みを浮かべる。きっといつもと変わらない笑みを浮かべているだろうことを確信して南泉を見やると、彼は思いっきり不快感を見せる苦々しい顔で低く喉を唸らせた。
 一切納得していない。目で、顔で、態度で語る南泉の眼差しは剣呑に眇められ、長義は少しばかり困ったように眉を下げた。

「猫殺し君?」
「そんな顔で、目で、断られて、納得できると思ってんのかぁ?……にゃ」
「どんな顔をしているというのかな?俺はいつも通り、…っ」

 余裕を崩さず、常のように泰然と口元に笑みを浮かべる。声音は軽やかで、揶揄うような響きさえ含めた。多少、動揺はしても山姥切長義は揺るがない。それを示して見せたのに、チッと舌打ちをした南泉にやにわに顎を掴まれ顔を固定され近づかれると、長義は咄嗟に息を詰めた。

「ねこ、」
「オレが好きで好きで仕方ないって熱っぽい目で、自分の言ってることに勝手に傷ついて、それでも嫌われたくないって縋ってる顔だよ。オレがわからないとでも思ってんのか?舐めんにゃ、化け物切り」
「そんな顔!俺がしているわけ、」
「してる。してんだよ。にゃぁ、化け物切り。…そんな理由で、理由とも言えない言い訳で、オレが引き下がると本気で思ってんのか」

 だとしたら、それはお前、随分とオレを見くびってやがるにゃあ。
 声は剣呑だ。可愛いね、といつもは揶揄う語尾はその印象を覆すほどドスが効いてとてもじゃないが可愛い、などと口に出来る雰囲気ではない。あ、これはかなりの地雷を踏んだぞ、と容易に察せられるぐらいには南泉の纏うそれが張り詰めたのがわかった。薄く犬歯をチラつかせる口元は笑みに歪んでいるが、その目の奥が笑っていないことなど簡単にわかる。少しばかり力のこもった指先のせいで掴まれた顎が少し痛むが、長義は眉を寄せて怯みかけた内心を奮い立たせた。元来の負けず嫌いと、人の気も知らないで、という八つ当たりを込めてギッと強く南泉を睨みつける。睨み返されて、南泉の眼差しがその鋭利な切っ先のように尖った。
 第三者が今の現場を見ればすわ一触即発かと狼狽えるほどに、両者の間に流れる空気はピリピリと強張っている。少なくとも、告白してされて、といった甘やかな名残など微塵もなかった。

「俺と付き合えば後悔する。わかりきっている結末にわざわざ付き合うほど暇じゃないんだよ、猫殺し君」
「付き合ってもない癖に何がわかるっていうんだ。未来が見えるってのか?化け物切り様はよぉ」
「そうだね、見えるといっても過言ではないかな。事、この事柄に関してはね」

 ふふん、と挑発するように鼻を鳴らす。だって確定的に明らかだ。きっと俺たちは恋刀同士の触れ合いなどできない。わざわざ嫌悪に歪む顔を見たいともさせたいとも思わず、長義は顎を掴む手を振り解こうと手首を掴んだ。しかしその手を逆に絡め取られ、更にきつく力が込められる。
 チッという舌打ちが聞こえ、南泉は苛立ちの垣間見える視線で長義を射抜いた。

「理由を言え。オレが納得できる理由を」
「しつこい男は嫌われると言うよ?」
「言えもしない理由で逃げる気か。政府に長いこといたせいで腑抜けたんじゃねぇか、…にゃ」
「…安い挑発だな。そんな挑発で俺が簡単に引っかかるとでも?」

 片眉を動かし、酷薄に顔を歪ませる。青い双眸は冷たく凍って、唇に浮かんだ笑みが怜悧な美貌も重なりより一層冴え冴えとした煌めきを放った。冷たい微笑みとは裏腹に、青い瞳の奥はぎらりと剣呑に燃え立って、その視線を受けて南泉はニィ、と口角を吊り上げる。獰猛に剥き出した歯茎から、犬歯がチラリと垣間見えた。

「挑発…あぁ、挑発だよ。なぁ、でもよ。これを逃げ以外のなんと呼ぶ?理由も告げず、煙に巻いて、のらりくらりと躱そうとする。それでオレが納得すると、お前が、よりにもよってお前が、そう思うのか。山姥切」

 オレを知るお前が。他ならぬ猫殺しと呼ぶお前が。そんな浅慮を犯すと言うのか。

 募る言葉に、息を詰める。声ならぬ声が問う。お前はそんなものに成り果てたのかと。安い挑発だ。目に見えて長義を揺さぶろうとする言葉の羅列だ。わかっている。わかっているとも。わかっているのに、頭では理解しているのに、長義の内は沸々と燃え立つような怒りに打ち震えた。
 南泉一文字に、そう言われることが、どんなに耐えがたいことか。この男に。そんなものかと侮られる。期待をされていたわけではない。こいつならきっと、なんて、甘えるようなそれであるはずがない。そんな関係をこの刀と築いてきたわけではないのだ。
 けれども、信用があった。500年余り。食えない奴、と互いに監視しながら、こいつならばという、信用が。それを今、疑われた。
 こんなことで。こんなやり取りで。他でもないこの男に。言葉ばかりとはいえ、本心からとは言い難いとはいえ、それでも、その言葉を吐き出させた。
 その事実に腸が煮えくり返りそうな憤怒と驚愕と、ほんのわずかな罪悪感が胸を過ぎる。あぁそうか。そこまでいうのか。お前にそこまで言わせてしまうのか。こんな、たかが恋愛事で。わかった、わかったとも。――精々、後悔すればいい!

「そこまで言うなら教えてあげよう。――覚悟を決めろ、南泉一文字」

 折角、穏便に済むように珍しく引いてやったのに。
 そう、憐れむように長義はいっそ慈愛深く微笑んだ。するりと手を伸ばして、南泉の輪郭を撫でる。夏の気温で汗ばむ肌を撫でて、仕返しのように顎を鷲掴んだ。みし、と骨が軋むような音をたてて咄嗟のことに南泉の顔が歪み、長義を固定していた手の力が緩む。その隙を見越して、思いっきり顔を引き寄せるとガチン、と歯をぶつけるようにして長義は南泉の口に食らいついた。さすがに、歯列がぶつかれば痛みが伴うが、同時に衝撃で隙間ができる。うっと互いに痛みに顔を顰めるも覚悟をしていた長義は立ち直りが早く、唸る南泉に溜飲を僅かに下げ、痛みを押して狙い澄ましたかのように隙間から舌を捻じ込んだ。
 びくっと、南泉の肩が跳ねる。まぁるくなった目が混乱を如実に表していて、愉快気に長義の目元が三日月形にしなった。至近距離で瞳孔の開いた金緑を見つめながら、あぁ、なんて綺麗な目の色だろうと長義は喉奥を震わせた。

 綺麗な綺麗な、レモンキャンディのような瞳。舐めてみようか、きっと味などないのだろうけれど。

 あぁでも、もう二度とこんな距離でこの瞳を見ることはないのだろう、と瞳を眇めて、無心に舌を動かした。驚き、奥に引っ込む南泉の舌を追いかけて、長義の舌が口腔内を暴れ回る。上顎、歯列の裏、頬肉の裏側を悪戯に舌先で突いて、最後に引っ込んだ肉厚のざらつく舌を先っぽで撫でる。じゅ、ぐちゅ、じゅるり。故意的に唾液を流し込んで、その味を教え込むように舌上に塗り込んでいく。
 ――この味が、君にとって好ましくないことを知っている。
 思い出す。甘味を舌の上に乗せた時、君がどんなにか不快な顔をしたことを。好ましくない味は容易く嫌悪を引き寄せる。瞬く間に歪んだ顔。顰めた眉、皺の寄った眉間、…瞳に浮かぶ、拒絶感。
 そんな顔を見たくなかったから。させたくなかったから。だから拒んだのに、煽ったのはお前だよ、と長義は思い知らせるように一層深く舌先を伸ばした。喉奥に流し込むように、己の唾液を南泉に送り込む。
 拒絶されれば、さすがに長義だってちょっとは傷つく。そして、長義を拒絶した南泉もまた傷つくだろうとわかっていたから…お相子だね、と笑った。どうせなら道連れにしてやろう。そうして迂闊な自分を恨めばいいよ、と、こくりと上下した喉仏にくぐもった声をあげて、絡めていた舌を解放した。見つめ合う目に嫌悪が浮かぶ様を見るのは心苦しいが、それでもこれが最後と真っ直ぐに見つめる。振りほどかれるだろうか。肩を押されて、口元を抑えて。苦々しい顔で、拒絶されるのだろうか。そういう顔を見たことがないわけではないけれど、心からのそれとはまた違うから、やはりちょっと悲しいな、とぼんやりと思考を回すと南泉の目が一つ、パチリと瞬いた。あぁ、ようやく思考が追い付いたのかな、と長義は目を眇めて、そっと食らいついた唇から距離を取る。僅かな隙間で、互いに息を乱して――次の瞬間、長義は再び南泉と唇を合わせていた。

「ッン!?」

 今度は歯はぶつからず、代わりに虚を突かれ緩んだ口元からぬるりと侵入を果たす熱くぬめる舌が長義の舌を絡め取る。それはまるで先ほど長義がしたことをやり返すような執拗さで、ぐちゅぐちゅと唾液を交換し合う濡れた音が際立った。
 咄嗟に下がろうとした後頭部を、いつの間にか伸びていた南泉の掌が抑えて、がっちりと固定される。逃げ場をなくして、長義はそれでも距離を取ろうと背中を反らすと、するりと腰に腕が回され密着させられる。逃げ場を失くして、んんっ、とくぐもった抗議の声をあげるが舌を吸われ、口蓋の上を舐められて、ぞくぞくと背筋が震えた。
 押しやろうと南泉の胸板に手を添えるも、じゅうぅ、と強く舌を吸われると力が抜ける。かぷかぷと歯で甘噛みされて、べろりと口腔中を舐め回される。
 何故。どうして。馬鹿な。何が。混乱と気持ち良さと多幸感で眩暈を起こしそうだ。意味が解らない。どうしてなんだと言い募りたいのに、物理的に口を塞がれては問い詰めることもできない。なんだこいつ。急に味覚音痴にでもなったのか。息苦しさに目尻にじんわりと涙が浮かび始めたところで、ちゅぽ、と音をたてて、唇が解放された。つぅ、と、互いを繋ぐ細い淫猥な糸が重みで垂れ下がり、ふつりと途中で途切れて口元を汚す。
 ハッハッハ、と乱れた息で、長義は涙で滲む視界で南泉を睨みつけた。今だ南泉の手は長義の腰に添えられて、一向に解放してくれる気配はなかったけれど。どん、と八つ当たりでもするように、厚い胸板を殴りつけた。

「ど、いうつもりだ、南泉…!」
「先に仕掛けてきたのはお前の方だろ。俺はやり返しただけだ、にゃ」
「ふざけるなよ!?君、まさか味覚障害でも患ったか!?それなら早く手入れ部屋に行くんだな!!」
「おーおーよくまぁそんだけ大声出せるにゃ。…ん、まぁ、お前が何を躊躇ってたかはわかった」

 そういって、南泉はしょうがねぇなぁ、とばかりに苦笑を浮かべて、唾液でべとべとになった長義の口元にそっと親指をあてて横に動かす。拭い取るような仕草に咄嗟に口を閉ざすと、長義は瞳を揺らめかせた。

「他の山姥切もこうなのか?にゃ」
「いや。これは俺だけだよ。だからといって、日常生活や戦いに支障を来すようなものではないけど。主や、こんのすけも知っているし、把握している」
「ふぅん」

 少しだけ面白くなさそうに鼻を鳴らして、南泉は長義の腰を引き寄せたままゆっくりと体重をかけた。え、と瞬きながら、押されるようにして長義も体を傾かせる。ゆっくりと背中から倒れて、縁側で折り重なるように、長義の上に南泉が覆いかぶさる。顔の両側に突かれた手がまるで囲いのように長義を捉え、逆光を背負った南泉の顔を真下から見上げて、長義は状況が呑み込めないようにパチパチとしきりに瞬きを繰り返した。

「南泉…?」
「それで。お前、どうするつもりだ?」
「え?」
「お前の唾液が甘いことはわかった。唾液が甘いってことは、多分他の体液だとかも似たようなもんなんだろ。それで?それをオレが知って、嫌がるとでも思ったか?」
「だっ、って。君は甘い物が嫌いだから、俺のこれだって好ましくはないと、」

 そうだ。甘い物が嫌いな癖に、どうして彼は長義に再び口吸いをやり返したのだろう。負けず嫌いにもほどがないか、と自分のことは棚に上げて胡乱気に見上げれば、南泉ははぁ、と溜息を吐いて、ずいっと鼻先まで触れ合うほど顔を近づけた。ぎく、と長義の体が強張り、丸くなった青い瞳が南泉を写し取る。

「お前、甘さにも種類があるって知らないのか?…にゃ」
「しゅ、るい…?」
「砂糖だのをこってこてに使った菓子と、花蜜や果実の甘さを一緒にするんじゃねぇよ、ってことだにゃ」
「え?は?…えぇ…?」

 つまり?
 上手く呑み込めないのか、混乱したように目を白黒させる長義に、南泉は面倒くさい奴だなぁ、という顔を隠しもしないで、がぶり、と鼻先に噛みついた。

「いたっ」
「嫌いじゃねぇよ。お前の味」
「へ、」
「それで?未来がわかる化け物切りさんはーどー落とし前つけてくれるんだにゃー?」

 ぼそ、と呟いた声は近くにいるのに聞き取り辛く、けれど確かに届いたそれに言葉を失くせば、次の瞬間には鬼の、いや化け物の首を取ったとばかりにニンマリといやらしい笑みが視界に一杯に広がり、長義はあ、と呆けたように口を開けた。理解が追い付けば、顔色がサッと変わる。
 ニヤニヤ、にまにま。勝ち誇った南泉の顔は、実に長義の神経を逆撫でた。口喧嘩には滅法強い長義をやり込められると確信したその顔に、拳の一発でもぶち込みたいほど腹立たしいものが込み上げるが、読み違えたのは事実である。だってまさか、こんな自分に都合の良い話に転がるなんて、さすがに考えたことがない。
 拒絶されるものとばかり思っていた。長義の体は甘く、南泉の厭う味そのものだったから。あぁでも、そうでないのなら。南泉が、この甘さをも受け入れて拒むことがないと言うのなら。長義は一度気を落ち着かせるように目を閉じて深く呼吸をすると、次の瞬間にギラリと目を開けて南泉の首に飛びついた。

「おわっ、ン?!」
「ぢゅっ、ん、ふ」

 首の裏に手を回し、ぐいっと離れたそれを引き寄せて、再び唇同士を重ね合わせる。柔らかな唇を食んで、べろりと舐めて、舌先で上唇と下唇のあわいを辿って。時間は先ほどよりもずっと短い。戯れるようにちろちろと舌を動かして、最後にちゅぱっとわざとらしい音を立ててから、長義は呆気に取られた南泉にニッコリと快活に笑いかけた。

「君専用の甘味料になってあげるよ、猫殺し君!」

 俺を花蜜と言うのなら、君は俺以外から蜜を吸えない虫になればいい。それとも笹しか食べない大熊猫だろうか。
 そういえばあれも猫の字が入っているな、とくふくふと笑って、長義は見せつけるように赤い舌でぺろりと口唇を舐めあげる。それはまるで獲物を定めた獣のようで、果たしてどちらが食らう側なのかと迷うぐらいに攻撃性を伴っている。その様子にひくりを口角を引くつかせ、南泉は早まったかもしれない、とチラリと思うも、しょうがないか、と諦めた。
 まぁせいぜい、南泉以外にこの甘露を与えないように徹底的に教え込む必要があるだけだな、と、南泉はわざと腕の力を抜いて長義に覆いかぶさった。だらりと体重をかければ、ぐぅ、と潰れた声が体の下から聞こえてくる。重い!!と暴れる体を押さえつけて、ミンミンと鳴く蝉とうだるような暑さに、べとつく体がくっついて熱を分かち合う。




「あっちぃにゃあ」




 祝福の声には蝉の鳴き声はあまりに五月蠅く、夏の暑さは耐え難い、そんなある日の、昼下がり。