怠惰な愛より情熱的な恋をくれ




 よりにもよってこのタイミングで思い出すなんて。


 足元でキラキラと輝く夜景もなく、フルコースのフレンチレストランでもなく、フラッシュモブだののサプライズもなく、特別なんて演出のない、彼の部屋でご飯を食べてご馳走さまを言って食器を洗い終わって、さあシャワーでも浴びようか。なんて、いつも通りの日常の中でポンとテーブルの上に出されたベルベットの小箱。
 深い濃紺の、安っぽい照明の下でしっとりと濡れたように照り返す小箱は、ワンルームのマンションの中で一目で高価なものだとわかる。定番通りに給料3ヶ月分を貯めた価値あるものなのか、それ以上なのか、もしかしたらそこまで高価ではないのかもしれない。
 しかし如何にもそれっぽい、女性の喜びと憧れと期待が詰まった夢の小箱だ。
 ほらよ、なんて。無造作に、パーカーのポケットにでも突っ込んでいたのかぶっきらぼうに出されたそれと南泉の顔を見比べて、恐る恐る手に取る。こちらを見下ろす南泉の顔は平常通りで、ここは私以上に君が緊張するべきなんじゃないかな、と思いながらもドキドキと五月蝿く高鳴る心臓を抑えてパカリと小箱を開いた。
 情けなくも僅かに震える指先で開けた中には、煌びやかに輝く金色のシンプルな指輪。余計な装飾のない丸い輪っかは、しかし己れを飾り立て、彩るには申し分のない代物だろう。
 過度な飾りはいらない。長義をより引き立てるためだけに選ばれたようなそれに、南泉が自分をどのように見ているか知れて面映くもある。知っている。南泉が長義に相応しくないものを与えるはずがないことを。
 頭を悩ませたかどうかは知らないが、この指輪はきっと長義の薬指にピッタリとハマるし、彼女の魅力を損なうことはない。しかし確かな輝きで存在を主張するだろう指輪を見下ろして目を丸くして固まっている己れに、相手はきっとこの状況に驚いて硬直しているのだと思っているのだろう。
 そろそろ頃合いだろ、と。最後に締まりなくにゃ、なんて可愛らしい訛りを乗せて、長義を見つめる南泉の顔を見返す。
 確かなプロポーズの言葉もない、言わなくても伝わるだろう、と分かりきっている顔。お互いに、知り過ぎている程に知っている仲だ。幼馴染で、年は南泉の方が上だけど長い付き合いで、告白らしい告白もなく隣にいて、デートをしてキスをしてセックスをしてお互いの部屋に泊まり合うような、半同棲をしているといっても過言ではないどこから見ても、誰から見ても、恋人同士だと言われるような関係だ。
 そんな相手から、指輪を贈られる。その意味を、分からないほど愚鈍ではなく、自信がないわけでもなく、また枯れてもいない。
 天井の照明の光を跳ね返して光る、金の中に薄く緑が混ざったような不思議な目。幼い頃は、にゃんこの眼、なんて言って一等お気に入りだった、南泉だけが持つ独特の風合い。
 そこに浮かぶ感情を、長義を見つめる眼差しを、正しく理解して長義はフッと笑みを浮かべた。

 美しく、鮮やかに、完璧に。

 白い頬を薔薇色に染め、青い瞳に水を湛えて、桜色に艶めく唇を綻ばせて。華のように、笑う。自分が出来る、最高に美しく気高く、少し意地悪な、完璧な微笑みで。
 視界に映る南泉が、驚愕したように目を丸くした。

「お断りだよ、猫殺し君」

 年の差はあっても長い付き合いで、キスをして、セックスをして、半同棲生活をして、――ずっと好きだった、長義の幼馴染。
 好意を隠してはいなかった。言葉には、あまりしてこなかったかもしれない。お互いに長く側に居過ぎて、言わなくてもわかる事の方が多かったから。疑わなかった。当然だと思っていた。


 思い出すまでは、確かに「私」は君の「特別」を信じていたよ。


 絶句する幼馴染を――腐れ縁の間抜け面を笑って、長義はきらきらと輝く未来の蓋を、そっと下ろして閉じ込めた。





 長義には、多少変わった記憶がある。
 それは所謂前世、というものに相当する記憶であるが、正しく前世と呼ぶには違和感のある、そんな代物だ。かつて、彼女は刀剣の付喪神として歴史を守る戦いに身を投じていた。という、なんとも夢のあるファンタジーな内容のそれである。
 しかもその付喪神は大概が男性体で、つまり今は人間の女である長義もかつては神様で男であったというのだ。ライトノベル、いや漫画、それともゲームか。そんな媒体であればそこそこ売り上げが上がりそうなその内容の記憶を、長義は妄想と断じず、事実として受け入れている。
 ただ、前世というよりはパラレルワールドの1つ、といった感覚ではあるが。刀剣の付喪神であった長義を、人間の長義は自分であって自分ではないもう1人の自分だと思って受け入れた。だって相手は曲がりなりにも付喪神、神と呼ばれる存在だ。まあ、妖の要素も強い底辺の存在だけれど、そんなものが輪廻転生に巻き込まれるなんて早々ないだろう。
 だからきっと、生まれ変わり、転生したというよりも別世界の自分の記憶がなんらかの弾みで長義にinした、と考えている。なんらかの、というのはあれだ。神のみぞ知る、という奴だ。
 そう思うのは、長義がその記憶を思い出したのが、極々最近、詳しく言うなら1週間ぐらい前のことだからだ。
 成人もして数年。社会人にもなって、世間の荒波を絶賛越えている最中の、今までなんの過不足もなく健全に生きてきた自我がある。育ち切った自我は我ながら強いと思うので、いくら数百年余り存在し続けた付喪神の記憶といえど、長義の全てを塗り替えることなど不可能だ。
 そうだろう、私。そうだね、俺。異なる記憶という自我は、そうやって長義に溶け込み、記憶よりも記録に近い形で居座っている。
 そもそも基本的には同一人物と言っても過言ではないので、どちらも長義だから為せる話なのだが、ただそれはあくまで育ち切った長義の話。この濃く強烈な記憶が、例えばもっと幼い、確固とした自我が確立する前の、まだ形成段階の時分に思い出していれば。
 それはきっと飲み込まれてしまうだろうなぁ、と思うのだ。
 そう、それは、長義の幼馴染のように。

「君達から感じていた疎外感ってこれだったんだなぁ、とようやくわかったよ」

 今どきのカフェというよりは、昔ながらの喫茶店、というようなレトロな内装のアチコチに傷みが見えるような店内で、青い陶器の器に並々と注がれたコーヒーを傾けて一口啜る。
 しみじみとした長義に、正面に座る友人…鯰尾は苦笑を浮かべて同時に注文したセットのアメリカンチーズケーキの端をフォークで切り取り口に運んだ。

「あの頃には長義以外は全員思い出してましたからね。除け者にしているつもりはなかったんですけど」
「わかっているよ。実際されていたとかじゃなくて、連帯感というか、そういう空気感の話だから」

 教えてくれなかったのはあえて必要のないことだと判断したからか。いずれ思い出すだろう、と気長に待つつもりだったからか。まあ、付喪神の感覚であれば待つ時間というのは苦ではないのかもしれない。
 しかし、それはそれとして寂しくなかったわけではないので、長年の疑問が解消されて実にスッキリとした気分だ。
 苦味の中に酸味を感じる店独自のブレンドがなされたコーヒーに舌鼓を打ち、長義はソーサーの上にカップを置く。かちゃり、と陶器のぶつかる音が響いた。

「でも、やっと、とうとう?長義も思い出したんですねー。俺、長義はもう思い出さないんじゃないかと思ってました」
「私も、まさか思い出すとは思わなかったよ」
「俺たちが覚えていて、長義だけ思い出さないのはなんで何だろうって、相談までしてたのに」
「気を揉ませていたんだね。不可抗力だけど」
「まあ勝手にこっちが気を揉んでただけですし。でもその時南泉が言ったんですよ」
「猫殺し君が?」

 くるり、とフォークを回して鯰尾は小首を傾げた長義に向けてこっくりと頷いた。
 動きに合わせてみょん、とアホ毛が揺れ動く。

「記憶があろうとなかろうと、山姥切は山姥切だって。何も変わらないから、気にするだけ無駄だにゃ、なんて言ってたんですよ!」

 ご丁寧に語尾まで再現して、本人にしてみればまさか暴露されているとは思わない、多分最大級に秘密にしていたかっただろう過去の所業を与り知らぬ所で暴露され、長義の顔が笑み崩れた。

「へぇ。猫殺し君が」

 どんな顔で言ったかも、その声音も、視線の動きさえ具に想像できる。なにせ、猫殺し君とは長い長い腐れ縁なので。
 今頃くしゃみでもしているのかな、と楽しげに目尻を下げて、その全幅の信用を面映ゆく首を竦めた。
 サラリと動いた拍子に肩から滑り落ちた銀糸を再度後ろに流して、変わらないなぁ、とピンクベージュにふっくらと色付けされた唇を綻ばせた。薄っすらと刷かれたチークとは違う朱に染まる頬に、鯰尾は舌の上で滑らかなケーキを味わいながら、長い睫毛を瞬かせた。
 嬉しそうに、満更でもなさそうに、喜色を隠しもせずに長義ははにかむ。きっと南泉以外では早々に引き出せないだろう表情で、とろりと蕩けた瑠璃色を凝視した。
 そんな顔を、当たり前にする癖に。

「なんで断ったんですか」

 心底不思議に、鯰尾は長義を見つめた。あんなにも傍にいたのに。昔から変わらず、互いの隣に何の疑問も挟まずに立ち続けていたのに。好意を、向けていたのに。
 どうして今更。1人で立てるくせに2人でいるから、もうずっと、飽きるぐらい近くにいて、それを当然だと、あの2人だからと、鯰尾達でさえ微笑ましく見守ってすらいたのに、今更離れようとするなんて。
 ――南泉のプロポーズを、断るなんて。
 その事実を知った時、仲間内でどれだけの衝撃が走ったか。冗談、あるいはまたぞろ変なすれ違いでもしたのか。いやでもあの南泉が山姥切に関してミスる確率ってどれくらいだ?ないとは言えないけど、限りなく低い確率であることは確かだ。だって南泉と山姥切だぞ?ていうか、山姥切は南泉のこと好きでしょ?なんで断る?その理由は?
 好意を隠しもしてこなかった姿を思い描いて、同時に不機嫌な…いや、あれは困り果てていた南泉の姿を見て、昔馴染がこぞって額を突き合わせ、今までになく山姥切の思考が読めない事態に動いたのだ。
 あの南泉でさえ、プロポーズを断った山姥切の心情を読みかねたのだ。唯一わかったのは、あるいは理由として挙げられそうなのは、彼女がかつての記憶を思い出したこと――しかし、だからといって断る、という方向に舵を取ることは解せなかった。だって、山姥切は、南泉のことをずっと。
 複雑怪奇なようで、その実長義の中身は一貫性があるので存外に分かりやすい。芯があるというか、確固たる己を持っているので、そこからズレることがないのだ。
 周囲に悟らせない程度の腹芸は出来るが、する必要のない場所…気心知れた仲間内であれば、彼はわかりやすい部類に入るだろう。面倒臭くないとは言わないが。
 菫色の双眸でじっと真っ直ぐに見つめられ、長義は一瞬虚をつかれた顔をしたが、すぐに泰然とした笑みを浮かべた。
 細くしなった瞳に臆した様子も気まずげな影もなく、至ってフラットな態度でふふ、と吐息を零す。

「腐れ縁の愛が欲しいわけじゃないからね」

 サラリと答えて、澄ました調子でコーヒーを啜る。鯰尾がきょとんと瞬き、丸い目を瞬かせてえぇ…?と困惑したように眉を下げた。

「今更…?」
「ンフフ。そうだね、今更、今更かな。でもねぇ、鯰尾、なお。俺は、私は、…惰性の愛なんてお断りだよ」

 瑠璃色がキラリと光を放つ。チリチリと怒りにも似た苛烈な光に、思わず鯰尾は息を飲んだ。それは鯰尾の知らない熱に見えて、目の前に座る美しい友人が何か知らない人物にも見えて、二の句が告げれずに口の中でもごりと言葉を転がした。
 よく知っているはずの昔馴染。だというのに、今目の前にいるのは誰なのだろう?そう思ってしまったことが意外で、鯰尾はぎゅっと膝の上で拳を握りしめた。

「南泉が私の横にいるのは、義務感からだろう。昔馴染だから。腐れ縁だから。好きじゃないけど、嫌いじゃないから…分かりやすい情だね」

 あれで南泉は身内に甘いし、処世術を心得てないわけではないけど、自分の性格が社会で生きていくには多少生き辛いことは承知していた長義は、だからこそ南泉が横に居たのだと知っていた。易々と潰されるような、潰れるような存在ではないが、別に南泉がいなくたって長義は生きていける。それは南泉だってそれぐらいわかっていたし、特段彼が長義を手助けをする場があったわけではない。それでも近くで見ていてやろう、と思わせるぐらいには、南泉から情を持たれているとわかっていた。
 それは500年余りの月日を重ねてきた南泉と山姥切の関係で、南泉の方が長義よりも年上だったという庇護にも似た感情からだ。実際庇護するかはさておき、あの世界では長義は彼らの中でもっとも年若い付喪神であったことは事実なので。
 しょうがないから、近くにいる。今までだってそうだったから、今更それが続いたところで変わりはない。今までの延長上にあるのだという諦観から、南泉が長義を選んだというのなら――そんなもの、誰が要るものか、と長義は晴れ晴れとして顔で吐き捨てた。

「私はね、南泉が好きだ。ずっとずっと恋をしていた。他でもない、一文字南泉に恋をしていたんだ。不覚にも、南泉も同じだなんて思っていた自分が腹立たしいよ。あぁ全く、この長船長義とあろうものがとんだ盲目っぷりだ。自分で自分を八つ裂きにしてやりたいぐらいだよ」
「えぇ…過激…でもさすがの殺意…」

 いっそドン引くぐらいに高い殺意の波動にどこかほっとしつつ、鯰尾は訳がわからない、と首を傾げた。

「あの南泉がプロポーズするなんて長義ぐらいじゃないですか。腐れ縁でも情でもなんでも、愛があるのに不満なんですか?」

 ずっとそうやって隣にいたのに、と憮然とした顔をすると、長義はふっと殺意を消して柔和な顔に戻った。そこに引かれた確かな一線に、鯰尾が息を呑む。
 そうだね。君達は、ずっと昔から覚えていたから。だから、私とは違うね、と。「鯰尾」が知らない顔で、「長義」は笑った。

「私は、ずっと、長船長義として、好きだったんだ。私が求めたのは、500年以上の残り火のような、生微温いものじゃない。惰性で燃え続ける火ではなく、新たな火種から激しく燃えるものが欲しかったんだ…今更、同じものを欲しがる訳ないだろう?」

 だってそれは、欲さなくてもとうの昔から持っていたものなのに。
 それをわかっていなかった。南泉が隣にいるから、離れていかないから、「長義」を好きなんだと勘違いした。いつだって優先されてきたから、確かに、南泉にとって長義は「特別」だったから。
 でもそれは、彼が付喪神の記憶を持って、そうあったからだ。人間のくせに。人間じゃない目線で、長義の横にいた。500年以上離れられずにいたから、今更数十年居ても変わらない、と惰性で選ぶのではなくて、ただ、共に居たいのだと、選んで欲しかった。
 だって長義は、南泉だから、好きになったのに。南泉だから、選んだのに。
 前提が違っていたなんて、記憶を取り戻さなければ気づかなかったなど、全く信じられないぐらいの体たらくだ。

「山姥切だって、記憶を思い出したんでしょう…?」

 それなのに?と、困惑する鯰尾もまた、幼い頃から記憶を持っていた側の人間だ。長義の周りはそういう人間ばかりで、だからこそ明確な隔たりがある。
 まあ、確かに、その記憶があるからこそ、南泉と長義は一緒にいたといってもいい。そうでなければ、果たしてこんなにも長く共に居たかどうか。
 決して、2人の相性がピッタリだなどと長義は思っていないので、記憶の全てを否定する気はない。というか、そうでもなければ長義はともかく南泉は傍にいなかっただろうな、と思う。なまじ性別も違えば年の差もあるので、早々に別離していた可能性は否めない。人間にとって、年の差性別の差は、いとも容易い別離の理由になるのだ。
 長義は面倒臭い性格をしているし、南泉は好き嫌いがはっきりしている方なのも理由に挙げられる。わざわざ面倒だと思う相手に長いこと関わっていくような博愛精神など南泉は持ち合わせてはいないだろう。だからその点は感謝しているし、役得だとも思っている。記憶の全てを否定する気はないし、別人だと完全に切り離すわけでもない。
 しかし、付喪神山姥切長義と、人間長船長義が全く同じだなんて、そんなことはないだろう、とも思うのだ。
 それはそれ。これはこれ。
 付喪神が許容出来ることも、長義はできなかっただけで。なにせ、彼女は自我がしっかりとあるので。記憶と今を、同じ線上には置いてはいなかったので。

「恋と戦争においてはあらゆることが許される、とは言うけれど、私は私を折るぐらいなら後悔する方がマシかな」

 利用してしまえ、と囁く声がないわけではないけれど。卑怯でも食い違っていても、それで南泉が手に入るならいいじゃないかと、恋する女は叫ぶけど。いつか振り向かせればいいじゃないか、と、甘く誘惑をしてくるけれど。
 だけど長義は、南泉の腐れ縁でいたいわけじゃなかったので。腐れ縁の、惰性の愛など、ほとほと飽き飽きしていたので。
 欲しいのは鮮烈で意欲的な恋で、南泉が自ら欲しいと欲望をぶつけてくれるような、そんな恋が、欲しかったので。

 長義は、そんな熱情を、南泉にずっとぶつけてきたので。

 そうじゃないものを、打算で手に入れるなど。それでもいいと、妥協で受け入れるなど。長義の矜持が、かくあれと立ち続けた魂が、南泉が信用してきた、美しく苛烈な長義の在り方が。
 そんなものは自分じゃないと叫ぶのだ。
 欲しいものがある。それでなくては意味がないのだと吠える自分がいる。
 だから。

「リスクも無しに欲しいものを手に入れようだなんて甘っちょろいことを考えていたなんて、長船長義として許せることじゃないよね」
「え、いや、そんなことはないんじゃあ…」
「大体猫殺し君も猫殺し君だ。この私があんなにアピールしていたのにちっとも察しないなんて、記憶に胡座をかいた怠慢だよ。不可だ不可。不可中の不可!」

 憤慨したように腕を組み、悪態を吐く長義に目を白黒させた鯰尾は噛み砕くように長義の言い分を脳裏に刻んで、なるほどなぁ、と頷いた。
 まさか、記憶の覚醒の時間差が、こんな弊害を生むなんて。
 はっきり言えば、正確なことは鯰尾にもわからない。だって鯰尾も、物心ついた頃には鯰尾藤四郎の記憶を抱えて生きてきたので。人間としての記憶が作り上げられる前に、鯰尾藤四郎になってしまったので。
 だから、長く2人を見てきた記憶があるから、それが当然のことだと思ってきたから、長義の言い分より南泉の困惑の方が理解できるのだけど。

 でも、と思う。

 でも、もしかしたら、自分は、自分達は、人としてちゃんと生きていなかったんじゃないか、なんて。
チラリと考えて、鯰尾は…人間としての鯰尾は、あぁ、と嘆息した。
 付喪神の延長線上にいるのではない自分を、考えたことはなかったなぁ、と食べかけのチーズケーキを見下ろして眉を下げた。
 全くの別人だとも、思ってはいないけど。そう考えることは土台無理な話なのだけど。
 だけど、この人生を一炊の夢のように考える必要は、なかったのかもしれない。そう思ってチーズケーキの欠片を頬張ると甘酸っぱい味が舌の上を通り過ぎた。

「でもそれじゃあ、長義はこれからどうするんです?」

 仮に、南泉との行き違いがあったとして。いや、長義の言うところ、鯰尾からみても、多分きっとそれは間違いではないのだけれど。だけど、好意があることには間違いがないはずなのに、長義はどうするつもりなのだろう、と伺うように上目使いをすると、彼女はそうだね、と一呼吸おいてからきらっと目を輝かせた。

「外国にでも行こうかと思っているよ」
「……はぁ!?」

 いやいやちょっと待て。さらっと述べられた内容は聞き流すにはあまりに衝撃的で、ゆっくりと穏やかな時が流れる喫茶店には相応しくない仰天の声が響いた。幸いにも店内に2人以外の客はいなかったけれど、だからといって大声を上げていいわけではないので、長義はこら、と窘めるように鯰尾に眉を吊り上げた。しかし、彼女の発言に意識を持っていかれたのかパクパクと開閉する口に、苦笑して長義は肩を竦める。

「が、外国…?」
「丁度、私の勤め先が海外に支店を出す予定でね。その立ち上げメンバーにどうかと誘いがかかっているんだ」
「え?長義、まだ入って2年ぐらいじゃありませんでした?」
「それだけ期待されているということかな。まあ、私だからね。私を選ぶ上司の慧眼は流石だよ」
「な、南泉はそのことを」
「まだ話してはいないね。この際だから一旦別れようとも考えているんだ。いつまでいるかもわからないし、縛り付け続けるのも、ね」

 プロポーズも断っちゃったし、とあっけらかんとする長義にくらりと目眩を覚えながら鯰尾は頭を抱えた。

「言ってることとやってる事が違いすぎません?なんで南泉を手放す方向にいっちゃってるんです?!もし南泉が他の誰かを好きになっちゃって、あまつさえ結婚までしたらどうするんですか!?」

 だって、好きなんでしょう!?と、狼狽えたように視線を泳がせる鯰尾に長義は一瞬きょとりと目を丸くして、それからやんわりと口角を持ち上げた。ゆったりと椅子の背もたれに背中を預ける。きし、と木製の古びた椅子の背もたれが泣き声をあげると、華やかに、嫣然と微笑みを刻んだ。

「だからこそ、だよ。言っただろう?リスクもなしに欲しいものを手に入れようだなんて甘っちょろいこと、言ってられないんだよ」
「意味がわかりませんよっ」

 悲鳴のように声を荒げて、鯰尾は混乱の目で長義を見た。だって、そんなの。長義と南泉が別々になるなんて。今更そんな姿、想像できるわけが。

「私達はもう道具でも付喪神でもない、人間なんだ。自分でなんだって選べて、どこにだって行けるんだよ。縛られるものなんてなにもない。自分の意思で、なんだってできるんだ――その中で、南泉に選ばれなくては意味がないんだよ」

 ひゅっと、鯰尾の息が止まった。丸く見開いた目で、長義を凝視する。あ、とはくりと動いた唇を眺めて、長義は少しばかり憂うように目を伏せた。

「勿論、離れるリスクは承知しているよ。君が言うように、南泉は私を選ばないかもしれない。私以外の女が、南泉の近くに居るなんて到底許せるものではないけれど…だけど、それでも、そうでもしなければ、…私の望みは得られない」

 近すぎたのだ、きっと。あるはずの選択肢を、知らず知らず狭めて見えないようにしていた。見ないようにしていた。だけどそれでは、長義が望む一文字南泉の心を得られないのだというのなら――例え未来で傷ついて、後悔して、死にたくなっても、私はこの道を選ぶことを止めはしない。
 かつて、茨の道を突き進んだ己のように。さすがにあそこまでの被虐趣味はないけれど、それでも臆して留まるような意気地のない真似など、この私ができるはずがない。
 一旦目を伏せ、次に開けた瞬間の、長義の青い双眸に魅入られたように鯰尾は呆けた。
 キラキラと。宝石のように輝く、苛烈で、情熱的で、透き通るような深い青。
 決意を固めた、この平和な世でこれから戦場へと赴くのかと思うほどに覇気のある眼差しに、鯰尾は白旗をあげた。あぁ、もう、全く。なんだってこう好戦的なのだろうか、この友人は!

「もう、南泉になんて言えっていうんですか!ケーキでも頼まないとやってられませんよっ」
「適当に言えばいいよ。それとも私の方からさっさと報告しようか?何頼む?」
「ガトー・ショコラで!それはそれで結局修羅場になるんじゃないですか。あーもー。なんで長義はさっさと記憶を思い出さなかったのかな!」
「さてね。それは私にもわからないかな」

 ふふ、と吐息を零した長義を尻目に、呼び出しのベルをチンチンチン、と鳴らした鯰尾はこうなったらやけ食いだ!と残りのチーズケーキをかっ込んでぐいっとコーヒーを煽ってソーサーに乱暴にカップを置く。

「俺は!2人が幸せであることを望みますからねっ」

 高らかに告げた鯰尾に目を瞬いて、長義はふわりと相好を崩した。