波乱の恋より平穏の愛を知っていた



 嵐のような女だった。
 あいつほど、この形容が似合う人間もそういまい、と強く思う程度には。
 長船長義は、南泉に嵐を持ってくる、嵐そのものな女だった。





 凪いだ湖面のように透き通った目だった。
 まるで、嵐が起きる前の、一瞬の静けさを切り取ったかのように静かな瞳。
 折れることなど知らぬように見つめる瞳は、ただただ真っ直ぐに射抜くような力強さで前を見据え、南泉をその瑠璃の中に閉じ込めんと深く色づいている。
 きらきらと安っぽい天井の照明を反射するその瞳が、ピンと張った弓弦のようにキリキリと空気を引き絞る。いや、そう感じているのはオレだけか。
 あれ以来、連絡を取ろうにも取りにくかった相手から唐突に連絡が入り、南泉は仕事中ながらひどく落ち着かない気持ちを味わった。
 なにせ南泉は、幼い頃から共にいた幼馴染にとうとうプロポーズ、などという行為を行ったので。結果は、まぁけんもほろろな結末だったのだが、あれは南泉のせいというよりもあのタイミングで記憶なんぞ思い出した相手のせいだろう、と南泉は堂々と言い張る。
 今の今までちっとも思い出す素振りもなかった癖に、どうしてあのタイミングだったのか…おかげで非常に微妙な空気になったものだ。あの時のなんとも言い難い空気感を思い出して、あんなもの二度と味わいたくはない、とぶるりと体を震わせて切実に願った。
 そんな、いくら腐れ縁とはいえお互いに気まずいという他ない状況から、恐らくはほとぼりが冷めたのだろうタイミングを見計らって呼び出しを食らった南泉は、帰宅するまでの間そわそわと落ち着きのない時間を過ごす羽目になった。あぁ、なんでオレがこんなに気にしなくてはならないのだと、悪態を吐く程度には振り回されている自覚がある。
 記憶があろうとなかろうと、あの化け物切りは南泉をいとも容易く振り回してしまうのだ。なんて厄介で面倒な相手なのだろう!と、がくりと肩を落としながら帰宅した南泉を、頭を悩ませていた張本人は以前と変わらぬ様子で出迎えた。
 なんで当たり前みたいにオレの部屋にいるんだ、と思わず口をついて出そうになったが、元々合鍵を持ちあうような間柄である。というかよくあることだったので、南泉は億劫そうにちらりと一瞥するだけで、遅かったね、などと平素と変わらぬ長義にいつも通りだにゃ、と返して革靴を脱ぎ捨てた。とはいっても、元の育ちが良いので、きちんと揃えて端に寄せる几帳面さはどこか微笑ましい。その様子を眺める長義の目は緩やかに弧を描いており、その眼差しに嫌そうな表情を浮かべつつ、南泉は長義共々部屋の奥へと進んだ。
 その後は、拍子抜けするぐらいにいつも通りだった。毎度のごとくよく回る口相手に、南泉も負けじと反論して、長義が準備していた夕食を食べ、ニュースではなくバラエティ番組の流れる少し騒がしいリビングで、食後の一服にお茶を啜る。
 あの時のあの空気はなんだったのかと思うぐらい馴染んだいつもの光景に、南泉はようやく人心地吐いたかのようにずずず、とお茶を啜った。南泉の舌に合わせて少し温めの、渋みの少ないお茶はその風味を損なうことなく食道を通過していく。
 悔しいことに、長義の淹れるお茶はいつだって南泉の好みをバッチリ射抜いてくるのだ。無論、逆だってあるのだが自信満々に、自分が間違えるはずがないだろうとばかりに出されると妙な反骨精神が湧いてくるのも自然なことだと思う。まぁ、お茶に罪はないのでありがたく頂くが。そうやってちびちびと口に含みながら、ニュースではなくバラエティ番組がテレビのスピーカーから聞こえてくるのに身を任せていると、不意に話があるんだ、と口火を切った相手に南泉はぱちりと瞬きをした。ごくり、と口に含んだお茶が音をたてて嚥下される。不意打ちだった。危うく気道に入りかけて僅かに咳き込む南泉に、小馬鹿にするような視線が突き刺さる。なにしてるんだい、という呆れた声に咳き込みながら相手をギロリと睨んで南泉はマグカップを置いて顔をあげた。
 この前とよく似た流れだった。日常に溶け込みそうなほどに今まで通りの時間の中で、南泉が小箱を差し出したときと。
 ただ違うのは、目の前の相手は日常を日常にさせないように空気をピリリと切り替えたことだろうか。
 がらりと変わった部屋の空気に、居慣れた自分の家だというのにどこか座りの悪い面持ちで南泉は最後にけほり、と咳払いをしてからぶっきらぼうになんだよ、と応えた。先ほどまで流れていた平穏で、少し退屈な空気が今や見る影もなく南泉の心中をざわつかせる。
 今更、改まって話すようなことが自分達の間にあっただろうか。思考を巡らし、しかしこれといって思いつかず南泉は口を閉ざすしかない。記憶のことなら、この数週間ばかりの間で整理もついたことだろう。だから南泉に連絡をいれてきたのだろうから。
 さすがに、南泉とて突然に記憶を思い出した長義について、思うところがなかったわけではない。想像しにくい部分はあるが、いくら山姥切でもあの時の状況とタイミングで動揺しなかったはずがないのだ。あんなタイミングで思い出すから、こちらも少々取り乱した記憶はある。だか、落ち着いて考えてみればなんてことはない。要するに昔に戻るだけだ。プロポーズは確かに失敗に終わったが、むしろ成功した後に思い出されて一悶着あるよりはマシかもしれない、とすら思ったものだ。なにせあの腐れ縁と記憶がないときにそういう関係になって、その後記憶を取り戻すなどということになったら南泉とてのた打ち回る自信がある。
 ある意味で、あれはラストチャンスだったのかもしれない。そう思えばこそ、南泉はプロポーズが失敗に終わったことも長義が記憶を取り戻したことも、特に重大事だとは考えていなかった。加えて、今のこの男女の関係性に拘る必要はないと改めて考え直すぐらいである。
 ただ一応、形式として。片方が記憶がない状態で、男女が長く連れ添うならばその形が自然であろうと思ったから、あの形を取っただけで。
 だから記憶を思い出した今、別に形式に則る必要もあまり感じないのだけれど――妙齢の男女には、色々と煩雑な視線と意見が向けられるのもまた現実なので。男同士であれば問題もなかろうに、どうしてだが腐れ縁は女などに生まれてしまったのでしょうがない。そしてそれに付き合ってやるぐらいには、南泉は長く長義と共に在ったので。
 しかしその鬱陶しい諸々を一掃するための手段も数限られており、その手段の1つを成し遂げるには、南泉も、また長義も、お互い以外を見つけることは億劫だろうと思っただけだ。
 付喪神としては短くとも、人としてはそれなりに長く共に居たとは、さすがに南泉もわかっていた。正直連れ添う相手としていかがなものかと思う存在ではあるのだが、それでもそこらの人間を相手にするよりは現実的だとも思っている。あと、非常に認めたくないことではあるが、目の前の腐れ縁の顔は、顔だけは、とても南泉の好みど真ん中を突いていたので――今更、これ以上を見つけろというのは酷だろう、とすら思うのだ。記憶が戻っているのなら、尚更に。
 そもそも、他人に恋だの愛だのと浮つく自分が想像できないこともあって、それならこのままでもいいのではないかと思ったのだ。何も変わらない。昔のように、気が合わないながらも気楽な相手と、つかず離れずいればそれでいいと。望むことなど、たったそれだけのこと。
 あいつのことだから、変に拗れることもなく受け入れて、恐らく南泉と同じような結論に至っているはずだと疑う余地もない。化け物みたいな精神を持った人間なのだ。むしろ今まで音沙汰がなかったことが意外なほどで…記憶を思い出す前の己を受け入れるのに時間がかかったのかもしれない。まぁ、記憶を思い出したのならば、これまでのことで減らず口の1つや2つ、叩かれることは覚悟しているが。まずは女になったことにでも愚痴を吐くだろうか、とぼんやりと考えている南泉に、長義は一つ息を吸うと静かに吐き出した。

「別れよう、南泉」
「………は?」

 愚痴でも悪態でも嫌味でも皮肉でもない。想像の斜め上から殴りつけてくるような内容に、虚を突かれた南泉はポカンと口を開けて呆けた。
 丸くなった目で正面に座る長義を凝視すると、彼女は涼しげな顔で薄らと口元に笑みを刷いた。ギラギラと、いやにギラつく目で南泉を射抜いて。

「私も、ようやく思い出してね。よくよく考えたんだが、このまま付き合い続けるのはお互いにあまり喜ばしいことにはならないと考えた。だから、別れよう」
「……あー…」

 淡々と、あまりこれといった感情の起伏を見せずに話す長義の凛とした面差しを眺めて、南泉は喉から絞り出すように声を出した。
 それは、わからなくもない。なにせ、お互い500年以上腐れ縁として過ごしてきた、言うなれば悪友のような、そういう関係だったのだ。それを今更恋人なんて、と思うのは、まぁ、南泉だって考えたことはある。だって南泉は、ずっと前からその記憶を持っていたから。ただ、相手は持っていなかったから、しょうがないかと付き合っていただけで。だから、まぁ、お互いに前世とやらを思い出した結果、そういう結論に行きつくのも理解できた。
 そっちかぁ、と思いながら、南泉はガシガシを後頭部を掻いて、はぁぁ、と溜息を吐きだした。

「別に、別れるのはいいけどよ」
「…そう、か」
「でも、お前、今更オレ以外とどうこうなれるのかよ?…にゃ」

 なにせ、人生の半分以上を南泉と過ごしてきたのだ。尚且つ、前世の、しかも付喪神の記憶などという奇怪なものを抱えた人間がこれからまともなレンアイなどできるような気がしない。しかもこいつ、昔は男だったし。無理なんじゃねぇの、と率直に南泉は思った。
 ただでさえプライドが馬鹿高く、扱い難い性格をした奴だというのに、ゼロから他の人間の男とどうこうできるのかと思うと、まぁ普通に考えてかなり高いハードルではあるだろう。こいつの外見や外面に騙される相手が可哀想だ、とも。むしろそんな被害者を出さない方が世の為なのでは、と南泉は訳知り顔で頷いた。大体、南泉とて今更な気もしているのだ。なにせ長義が記憶を取り戻すまで、ずっとそういうカンケイでいたので。今から別の人間を見繕うのはいささか面倒な気がしていた。

「別に、別れる必要はねぇんじゃねぇか。ぶっちゃけ、昔に戻るだけだしにゃ。それなら別に今まで通りでも問題は…」
「嫌なんだ」
「…あ?」

 まぁ、互いに記憶を取り戻した結果、一般的な男女のまぐわいなどの接触は、確かになくなるかもしれない。けれど距離感でいえばそう変わるわけでもないし、今後の煩わしさを考えれば現状維持でも構わないだろう、と。なにせ、今までずっと、傍にいたのだから。嫌でも顔も見たくなくても、無理矢理にでも顔を合わせるような距離にいたのだから。なにより似たような記憶を持つ者同士、これほど気楽な話もあるまいと、それだけのことだったのに。
 長義から出てきたのは、泣き笑いの拒絶だった。
 歪に口角を持ち上げ、なのに下がった眉で、南泉を見つめる。笑っているのに、目だけはひどく傷ついたように揺れるから、そのらしくない顔に咄嗟に南泉の息が詰まった。
 だって、そんな顔、南泉は見たことがない。今までだって一度も。あの頃、その逸話が奪われかけた時でさえ。そんな、諦念の浮かぶ、弱弱しい微笑みなど。一度だって。

 傷ついたように、どうしようもなく。傷つけられたように、笑うなんて。

 ざわり、と南泉の胸中がざわめく。背筋を悪寒が駆け巡るような、ぞくぞくとした不快感にも似たものが走り、ぐっとテーブルの上で拳を握りしめる。
 直視し辛く、狼狽えるように視線を泳がせたその隙に、先ほどの表情を消し去って長義はいつものように高慢な笑みを浮かべた。細くしなった瞳と、自信ありげに吊り上った口角は、見慣れた不遜な長義の笑みだ。戻した視線の先がすでにそうだったので、南泉は知らず力のこもった拳を解いて、ほっと無意識に安堵の息を吐いた。
 先ほど浮かんだ儚げな顔は何だったのかと思うぐらい男らしいその笑みは、南泉の良く知る化け物切りの顔に酷似していた。なんだ、見間違いか。と思うぐらいには一瞬の出来事で、南泉はゆるりと体から力を抜いた。

「腐れ縁の情など私はいらないよ。これから先の人生は長く、だけどあっという間だ。そんな停滞したものにかかずらっていられるほど私は暇ではないんだよ、南泉」
「他の奴に関わる方が時間取られねぇか?」
「それが人生の醍醐味だろう?それに、仕事の関係で外国に行くことになったんだ。期間がどれほどかかるかもわからないし、その間君の時間を奪うのも申し訳ないと思ってね」
「は?んだそれ。聞いてねぇぞ」
「今言っただろう。正式に決まったのは一昨日のことなんだ。まぁ、だから、…わざわざ、遠くに行く人間にそこまで拘る必要はないだろう?」

 そういって、僅かに首を傾げた長義の肩繰りから、さらりと銀糸が滑り落ちた。いつだって手入れを欠かさない、艶々と天使の輪を作るしなやかな絹糸のような髪。仄かに花のような香りをさせる、指通りの良いしなやかな銀糸。ふと、その指通りを思い出して南泉は胸元へと垂れた髪の束を見つめた。長義の我儘で、幾度かその髪に触れたことがある。するりと指の間から逃げる銀糸に悪戦苦闘しながら、幼い少女の我儘に付き合わされたのは一度や二度の話ではない。ポニーテール、ツインテール、三つ編み、編み込み、シニヨン、フィッシュボーン…地味にツインテールが一番難しかった。なにせ高さやサイドの量が違うだとかで何度もやり直しを強制されたのだ。何度放り出してやろうかと思ったかしれないのに、辛抱強く付き合っていたのはなんでだったか。ぼんやりと過去に想いを馳せかけた南泉を見咎めるように、キュっと瑠璃色が細まった。注がれる視線の圧に、はっとして瞬く。その様子に小さな嘆息を零し、長義はそっと、それこそ今まで以上に淡々と。波打つことのない声音で、何も特別なことではない、と案に含ませて。にっこりと、晴れ晴れとした顔で笑って見せた。

「私達は、ただの腐れ縁なのだから」





 ポコン、と、スマートフォンから聞こえた通知音に視線を落とし、眉をピクリと跳ね上げる。馴染んだ、けれどここしばらく連絡の途絶えていた相手からの通知にしばし黙考してから、さほど時間をかけずに返事を打ち込む。送信すれば、向こうからも間を置かずに返事が返ってきた。それを見届けて、南泉は無造作にズボンのポケットにスマートフォンを押し込むと、溜息を一つ零してデスクの上に広げていた荷物を片付け始める。
 その動きを見ていた近くの同僚が、パソコンの裏からひょこりと顔を覗かせた。

「なんだ一文字。もう帰るのか?」
「残りの奴は明日片付けるわ。お前もあんま残業すんなよ、…にゃ」
「俺は明日の楽を作ってるんですぅ。ってか、お前が早く切り上げるってことは、彼女絡みか」
「別に、あいつじゃなくても用があれば早く帰るっての」
「でも彼女絡みだと早く帰るだろ、お前」

 ベタ惚れですねぇ、とからかい混じりのにやついた顔に眉間に皺を寄せ、そんなのじゃねぇよ、と吐き捨てる。それを照れ隠しだと思っているのか、同僚の顔のにやつきは増すばかりだが、ここで反論を重ねても無意味なことを悟り、南泉は肩を竦めてじゃぁな、と手を振った。それを引き止めるつもりはないのか、お気をつけて、なんて畏まった調子で手を振りかえした同僚に内心で毒を吐く。
 本当に、ベタ惚れだとか、そんなことじゃないというのに。そもそも、その「彼女」とはとうの昔に別れているのだ。数か月も前に、実に晴れ晴れと。まぁ、それをわざわざ報告する必要を感じないので、好きに放置しているのだが。
 今頃相手はこの島国を飛び出てどこぞの異国で意気揚々と暴れているに違いない。我の強いあいつを御せるような人間が果たして現地にいるのだろうか?と思ったが、御せずとも多分問題はない。どうせなんだかんだ自分の思うように動き回るに決まっている。あいつはそういう奴だにゃ、と脳内でぼやいて、初夏の青い匂いを鼻孔に吸い込んだ。
 だって、正直面倒なのだ。別れたとなれば増えるだろう誘いの数も、別れた理由を探ろうとしてくる無粋な好奇心も、擦り寄ってくる女の相手も。
 長義とそういう関係だと思わせていた頃にはなかったものが、別れたことによって一気に噴き出てくることが南泉には酷く億劫だった。回避できるのならば回避したい。南泉は、己のコミュニケーション能力にそれなりの自信はあるが、それとは別にできるものなら関わりは最低限に留めておきたいタイプだった。
 大勢で賑わうのも嫌いではないが、それならば友人よりも身内の集まりの方が気楽だ。この身内とはつまり刀時代の古馴染み等を指すのだが、それは刀の記憶があるからなのか、元々の南泉の気質なのかはわからない。ただ、ともすれば出不精に属する南泉を引っ張り回していたのは、そういえば長義だったな、とまたしても過ぎった相手に顔を顰めた。
 ふるり、と頭を振って、過ぎった銀を打ち消して青く葉を茂らせる街路樹の下を通り過ぎていく。樹木の下はやや小さな羽虫が多く、服や顔にぶつかってくるそれを鬱陶しげに払いながら目的地まで歩く。時折風に乗って見えない糸が絡みついてくるので、やはりそれも取り除きながら南泉は暖かくなるのはいいが、この虫の量だけは辟易とするな、と眉を寄せた。
 特にバルーニングで飛びまわる蜘蛛の幼生の糸は中々に鬱陶しい。ある意味で風物詩とはいえ、あまり好ましいことではないのは確かだ。腕にくっついた小さな幼生を指先でそっと抓んで放り捨てながら、南泉は目的地に辿り着くと音もなく左右に開いた自動ドアを潜り抜けて店内を見渡す。入店した南泉に気が付いたのか、店員が近寄ってきたので先に来ているだろう相手の名前を言えば、心得たようにこちらです、と丁寧な対応で案内された。少しばかり薄暗い照明の下、店員の後についていけばすぐにテーブルが見えてくる。個室というほどはっきりと区切られているわけではないが、それでも隣り合うテーブルの間には仕切りがあるので、オープンすぎる場所よりはよほどプライベートが確保されている。
 その中で一際目を引くテーブル…座っている面子が殊更に派手、というわけではないのに視線を集める昔馴染みを遠目にみて、南泉はいやあれただの美少女の集団じゃないか、とふと脳裏を過ぎった。艶々とした黒髪もふわふわの金髪も、くるくるとよく表情を変える菫色も、おっとりと瞬きをする蜜色も。少年らしいというよりも少女めいた作りに近い造作は、あまり気にしたことはなかったが多分他人からみれば勘違いの元なのだろうな、と思う。
 あそこに座るのか。今更だけれど。仕切りはあっても完全個室なわけではないのである程度筒抜けな店内で、ちらちらと男衆から向けられる視線の中をにこやかな店員に案内された南泉が近づくとより視線が集まってくる。なんだ男がいるのか、という落胆と、ヤンキーだ、という畏怖と、羨ましい、という嫉妬と、かっこいい、という賛辞と。様々なものが込められたざわめきの中を少し背を丸めて進んだ。

「鯰尾、物吉」
「あ、南泉。久しぶりっ!」
「お久しぶりです南泉さん。どうぞ、こちらに」
「おー」

 声をかければ、テーブルに広げて覗き込んでいた冊子から顔をあげて、ニカ、と鯰尾が満面の笑みを浮かべる。ごく自然に物吉が南泉の椅子を引いて着席を促すと、それに抗わず荷物を床の籠の中に置きながら南泉はぎしりと椅子を軋ませた。
 腰を下ろすと即座に横からメニューが書かれた冊子を渡され、一通り目を通してから無難にアルコールを一杯注文した南泉は、一つ開いた席をみて首を傾げた。

「後藤は?」
「バイトで遅くなるって」
「頑張ってんな」
「欲しいものがあるって言ってましたから、後藤君」
「へぇ」

 注文したものが来るまで提供されたお冷で口の中を湿らせながら、きゃらきゃらと笑いながら弾む会話に時に相槌を打ちながら聞いていた南泉は、ふと鯰尾の肘の下になってしまっている冊子に目を止めて、うん?と片眉を動かした。

「どっか旅行でも行くのか、お前」
「え?あ、これですか?」

 この前いち兄が鶴丸さんの企画したヒーローショーイベントで巻き込まれてさにきゅあになって大変だったんだよ、なんていう、南泉からしてみれば「なんて??」と首を盛大に捻る話題を面白おかしく提供する鯰尾が、手元にある冊子を手に取ってへらり、と相好を崩す。

「違いますよ、南泉さん。鯰尾君、留学を考えているんですって」
「…は?留学?」
「まだ考えてるだけで、実際に行動するかはわかんないんですけどねー。でもまぁ、ちょっと興味が出てきたんで、今色々調べてる所なんです」
「へぇ。留学、にゃぁ」

 ぱちり、と瞬きをして、グラスの水に口をつける。鯰尾の手元を見やれば、北欧辺りの資料なのか、日本にはない鮮やかな色をした街並みを切り取った写真が載っている。
 テレビやパソコン、雑誌などで垣間見るだけのそれらを、南泉は確かに美しいとは思うけれど行きたいか、と問われるとそこまでの興味は持てなかった。
 むしろ、そこに興味を持っていたのは長義の方だ。数多ある情報媒体から垂れ流される外つ国の光景を、一度は行ってみたいね、と笑いながら南泉に話していたほどだ。この国がいい、ここに行ってみたい、世界遺産は押さえたいよね、このホテルで、こういうルートで、この風景を見たくて。笑いながら計画とも呼べない計画を語って、いつか必ず行こう、だなんて一方的に約束して。いつか、いつか。そのいつかが来る前に、結局あいつは1人でさっさと行ってしまったわけだけれど。
 水と一緒に口に含んだ氷をガリッと噛み砕いた瞬間に、店員がお盆に乗せて南泉の注文したドリンクを持ってきたので、多分その一瞬の顔を誰かに見られることはなかったはずだ。氷を噛み砕いたはずなのに、苦虫を噛み潰したかのようなしかめっ面など、とてもじゃないが目の前で無邪気に会話している昔馴染みには見せられない。ましてや、それが長義を思い浮かべた末の顔だなんて。良すぎるほどに察しの良い奴らなので、多分南泉のささやかな変化にも相応の理由を見つけ出すはずだ。だとしたら余計に、見られなくてよかったと思う。何が悲しくてあんな奴の話題をこちらから提供せねばならないのか。しかもそれが南泉の胸中からなど、断じてあってはならない。
 コースターの上におかれたドリンクを煽るようにくっと傾けて、気を落ち着けると南泉は再びメニューを開いて視線を落とした。飲んでばかりでは悪酔いする。何か腹に収めなければ、と適当なものを注文しようとすると、そういえば、と物吉が思い出したかのように口を開いた。

「この前、長義さんからエアメールがきたんですよ。綺麗なポストカードも入ってて、長義さんとてもお元気そうでした」
「あ!それ俺にも来たよ。後藤にも来てたし。まだちょっと大変そうだけど、長義楽しそうだった」
「…あ?あいつ、そんなもん送ってきたのか、にゃ」

 仕事のことはあまり書いていなかったけれど、街のここが綺麗だとか、これが美味しいとか、逆にあれは日本の評判ほど美味しくないとか。短くはなく、けれど長すぎもせず。次の手紙が待ち遠しくなるような適度な話題を振って、お元気で、と締めくくられた内容の手紙。
 そんなものを和気藹々と話す2人に置いてけぼりを食らったかのように茫然と呟けば、驚いたように物吉が目を見張った。鯰尾は、僅かに目を丸くして、何故か苦笑を浮かべてみせる。

「え?南泉さんの所には来なかったんですか?」
「…ポストカードは来た、けど。一言書いてるぐらいで、後は別に」
「相変わらず南泉には雑ですね、長義は!」

 ケタケタと笑って、鯰尾はよくやるなぁ、としみじみと頷いた。何がよくやるんだよ、と思ったが、丁寧に手紙を書いて南泉に送る長義もどことなく面映ゆいものを感じるので、あれぐらいで丁度いいのだ、と思うことにする。
 ポストカードの写真は、南泉の知らない異国の空を映していて、長義の面影など一言だけ綴られたメッセージと宛名ぐらいのものだったけれど。あの鮮やかな青の下で、さぞかしあの銀髪は映えるのだろうと夢想して――南泉はメニュー表から適当な料理を注文した。

「…んで、お前はなんでまた留学なんて思い立ったんだよ、にゃ」

 今まで興味もなかっただろ、と長義のエアメールから意識を逸らすように鯰尾の話題に戻す。電子メールの類ではなく手紙を選ぶ辺り、気障なあいつの気質が見えて辟易とする。
 元々好奇心が旺盛な奴だったが、わざわざ国元を飛び出していくほど興味が惹かれるものなどあっただろうか。考えてみるが、今までの付き合いでそのような話題が出たことはない。どちらかというと、過去を懐かしむように日本国内を回ることの方が関心を買っていたはずだ。
 元が刀であっただけに、外国を飛び回るよりも国内に居る方がどうしても馴染むので、南泉自身あまり外に興味が湧かない性質故に、突然、とも言える鯰尾の言動に内心で首を傾げる。
 
「え?別に深い理由なんてないですけど、しいていうなら長義のせいかなぁ」
「はぁ?あいつぅ?」

 またか。どうしてこうも顔を出すんだあいつは。今この場に居ない癖に、やたらと主張する存在感はなんなのだ。渋面を作れば、鯰尾はそんな怖い顔しないでくださいよ、とにんまりと口角を持ち上げて、くるくるとグラスを揺らして中のドリンクを回転させた。カロン、コロン。と、氷のぶつかりあう音が響く。

「長義が外国に行っちゃったから、なんだか気になって。そういえば、俺って日本の外には出たことないなぁって思ったんですよね」
「それで留学?旅行じゃダメなのかよ」
「いや、なんか。勿体ないじゃないですか。折角こうして人として生きてるのに、学ばないのってつまんないなって思っちゃったんですよね」
「鯰尾君は、何か学びたいことを見つけたんですか?」
「そう言われるとまだ全然何も思いついてないんだけどねー。ただ、俺には今足があるんだよなって」
「足?」

 語尾を上げて、頬杖をつく顔を眺める。照明のせいかやや薄暗く印象を変えるその顔は穏やかに、けれどキラキラと星屑を散らしたかのように光っていて思わずひゅっと息を吸い込む。同じように、物吉もまた魅入られたように鯰尾の目を見つめていた。

「俺には足があって、それで逆に、使命だとか役目だとかは何にもないんだなって、気付いたというか。気付かされたというか」
「それは、刀の頃のことを言ってるんですか?」
「んー…そう、そうかな。そうだね。刀の頃の、付喪の頃の話。ねぇ、南泉。知ってます?」
「…何を」
「俺達ね、帰る処って選べるんですよ」

 そういって、ふにゃりと笑った鯰尾は多分南泉が来る前にいくらかのアルコールを嗜んだに違いない。そういえば、彼が持つドリンクが何かは知らないが、成人をしていたんだったか、と思い出して、南泉は自分の指先がいやに冷たくなっていたことに気が付いた。咄嗟に隠すように握り拳を作ると、見計らったように注文した料理が再び運ばれてくる。
 それを甲斐甲斐しく物吉が受け取り、テーブルの上に並べる姿を視界に入れながら、頭の中で先ほどの台詞がリフレインする。

「道具だった頃も、男士だった頃も、帰るところなんて決まってたし、そこから出ることなんて考えたこともなかったけど。でも今は、そういうのすら選べちゃうんだなぁって気づいたら、行動しないのが勿体なくなっちゃって。だから、きっと俺、その内どっか行ってます!」
「あんまり計画性のない行動は心配しますからやめてくださいね。一期さんも胃潰瘍で倒れちゃいますよ」
「大丈夫だって!なんとなるなる!」

 そういって、南泉が注文したのに断りもなく大皿に乗せられた料理を自分の小皿に取り分けていく鯰尾は、アジア圏もいいと思うんだよねぇ、と言いながらぱくりと口に食べ物を放り込む。物吉は礼儀正しく頂きますね、と南泉に一言断ってから小皿に取り分けていたが、南泉はそれに反応をする間もなく、頭の中で繰り返される言葉にぼんやりと瞬きをする。俯いた視界に、自分の握りしめた拳が映って愕然とした。
 握りしめた拳から見える、シルバーリング。虫除けだ、といつか、どれほど前だろう。昔に買った、揃いの指輪は少し鈍い光を灯して、歪に南泉を写し取った。咄嗟に片手で覆い隠すようにして視界からそれを消して、違う、と戦慄く唇を噛み締める。
 違う。これは、虫除けだ。外したら目敏い奴に気づかれて突っつかれるのが億劫で、指輪をしていれば女避けにもなるから、だからも今もしているだけで。諸々の面倒がこれ1つで回避できるから、だから外していないだけ。
 それだけの理由で、それだけの理由で十分の筈で。カリ、と、表面に爪を立てた。
 脳裏には、もう一つ、金に輝く指輪が燦然と光っている。



あぁ、じゃあ、どうして、オレは。



 突き返されたベルベットの小箱は、今もまだ南泉の部屋の引き出しに眠っている。