プラスチックの恋よりも、金色の愛を捧げたい



 祭囃子が聞こえる。
 赤い提灯が揺れて、人混みと騒めきが辺りを覆って、混ざり合った屋台の匂いがして、汗がじんわりと肌を湿らす熱気に覆われて。
 祭囃子が聞こえる。
 甘いわたがし、食欲をそそるソースの匂い、様々なキャラクターのお面に、色とりどりの水風船、水面を泳ぐ金魚の群れ。
 祭囃子が聞こえる。
 はしゃぐ子供の声、友人同士の笑い声、酒飲みの話し声に、響く太鼓、蝉の声。
 祭囃子が聞こえる。
 朝顔が咲いた白い浴衣。赤い提灯の光を浴びて艶めく銀色の髪。青い帯が揺れて、花の顔が白い頬を染めて笑う。


「ありがとう、にゃんくん」


 安っぽい玩具の指輪を小さな手に握りしめて、少女は心からの幸福を浮かべていた。





 お盆には実家に帰ってこい。
 サービス業でもないので程々にカレンダー通りの休日が支給されていた南泉は、実家からの帰省コールに渋々と重たい腰をあげて地元へと戻っていた。
 どうせ帰るならば混雑が容易に想像できる時期よりもズラしたかったのだが、地元ではそれなりの名士で名を売っている実家には盆時期に人が多く集まる。それは血の繋がりが最早疑わしい親戚であったり、挨拶回りにやってくるそれなりに地位や名誉なんかがある人間だったりと様々で、正直跡取りでもないのだからわざわざ顔をだす必要もないのに、と南泉はこの時期が少々億劫だった。
 しかし、お盆といえば実家に帰って故人や先祖を迎えるもの。
 刀剣であった南泉には血の繋がりという概念は薄いが、しかし長く人の系譜を見てきた記憶はある。
 今はいくらか廃れ、さほど重要視もされなくなってきた行事だが、昔から連綿と引き継がれてきたそれを蔑ろになどする発想は生憎と南泉にはなかったので、人付き合いは気乗りしないが実家に帰ることは吝かではなかった。
 むしろ、血の繋がりを重視する、家督を継ぐということを一等大事にしてきた家々を見てきたのだ。その重要性は身に染みていて、そこらの若者よりもよほどそういった行事も先祖への畏敬も強く覚える。不思議なものだな、と一人ごちた。
 刀の癖に人になって、そして祖先を敬うなど、血の系譜などに自分が組み込まれるなど、全くもって世の中どうなるかわからない。そこに付随してくる諸々の煩雑な事柄には辟易とする部分もあるが、家を出て割と好き勝手にさせて貰っているのだから、親への孝行と考えて諸々の感情を飲み込む程度には理性的だった。
 人はすぐに死ぬ。長くて百余年。500年以上、あるいはそれ以上。存在し続けた側からすれば微睡の中で生きて、死んでいくようなもの。そんな僅かな間ならばと、寛容な気持ちで付き合っている。そんな感覚だった。―――今までは。

「長義ちゃんはどうしたの、一緒じゃないの?」

 帰省するとなれば、幼馴染なもので地元も、実家も近い2人が共に帰ってくるのはよくある話だった。ましてや2人は曲がりなりにも恋人同士。それは周知の事実で共に帰ってくるだろうという固定観念を、責めることなど南泉にはできなかった。だって、今までずっとそうだったから。南泉の隣には長義がいて、南泉の家なのにまるで自分の家のような顔で帰ってきていたのだ。まぁそれは南泉も似たようなものなのだけれど、しかし長義の我が物顔は南泉より堂に入っていると思っている。だから、母親がそう問いかけてくるのは当然で、父親ですら不思議そうにしているのだからどれだけ根付いているのかと南泉の目が死んだように濁るのも仕方がないと言えた。
 母親からの問いかけに、なんと答えたものかと言葉に窮し、当たり障りない事情を話す…その事情は長義側のもので、そして嘘などでは決してない。海外に仕事に出ているので、お盆には帰ってこられないという、あらまぁそうなの、とあっさりと納得させることができるだけの事実だ。ただそこに、2人の関係が変わってしまったのだという些末なことは口にしないだけで。
 寂しいわね、楽しみにしていたのに。そんな大事なこと前もって言っておきなさい。最終的には小言のような母親の愚痴を聞き流して、それ以上聞きたくはないと帰省の疲労を言い訳に、適度に掃除がされているのだろう自室へと引き上げるために早々に切り上げる。荷物は多くはない。背中に背負ったバックパック一つを背負い直して、道中の疲労だけではないじっとりと重たい胸の内を抱えて南泉は言葉少なにリビングを後にした。
 背中に、南泉も長義ちゃんがいないと調子が出ないのねぇ、という可笑しげな母の声が聞こえる。それに背中を向けていることをいいことに、ぐっとこれでもか眉間に皺を寄せた。そんなことはない、と振り返って吐き捨てたい衝動を堪えて、賑やかな声から逃げるように階段を上った。
 あぁ、実家がこんなに嫌な所だったとは、考えもしなかった。
 自室に入り、床の上に放り投げるようにして荷物を投げ捨てると、むわりと熱気の籠った室内にじわりと浮かんでくる汗を厭うて、南泉は壁につけてあるリモコンを手に取るとすぐ様電源をいれた。ピッという音と共に、ゆっくりと送風口があいてゴォォ、と唸るような音が聞こえてくる。
 エアコンの掃除までしているかはわからないが、一瞬生温い風と共に黴臭いような、誇り臭いような臭いがツンと鼻を刺激したが、その内気にならなくなるだろうと溶けるような熱気に、より冷気が回るようにと扇風機も回した。ブゥン、と回るプロペラの前に立って温い風を浴びながら、キチンとノリの利いたシーツが敷かれているベッドの上にごろりと寝転がって、南泉は胸の淀みを吐き出すように深い溜息を零した。
 部屋の籠った空気を吸い込んだ拍子に、肺に入り込む太陽の匂いに母親が南泉の帰省に合わせて布団を干していた気遣いを知る。ふかふかと、クリーニングだけではない天日の柔らかさを背中に感じながら、帰ってくるんじゃなかった、と奥歯で苦虫を噛み潰したかのように南泉の顔が歪む。

「…面倒くせぇ…」

 窓から差し込む日差しから目元を庇うように腕で影を作り、腹の底から零れた唸るような低い声が自らの鼓膜を震わせる。恐らく、いや、確実に。これから、長義の名を聞かない日はないというような目に合うのだろう。
 下世話な話題も振られるかもしれない。余計なお世話だとがなりたくようなことも言われるかもしれない。なんにせよ、あの腐れ縁の影が色濃く残るこの場所で、その影から逃げおおせることなどできるはずもない。容易く想像できる未来に、適当な理由でもつけて帰省を拒否すればよかったと今更ながらに後悔が南泉を襲った。
 幼馴染なのだ。長く過ごした地元で、あいつを忘れたままになどできるはずがない。
 家にも、街にも、人にも。当然のようにその影はあり、それは同時に南泉の横に長義がいた事実に他ならず、もう一度、帰ってくるのではなかったと唇を噛み締めた。
 上京先でならば、共通の友人でもない限りその存在が堂々と顔を出すことはない。他のことにかまけていればそれなりに忘れられたし、考えないようにもできた。
 別に、常時あいつのこと考えているわけではないけれど、それでも、故意に目を逸らしたい時もあるのだと、事あるごとに呼び起こされるだろう存在に嫌気がさして、南泉はようよう冷えてきた室内で、薄いタオルケットを足先に引っ掛けるようにして引き寄せると、腹の上にかけて体を横向きに倒した。
 体重を受け止めるベッドのスプリングがギシキシと音を鳴らして上下に揺れ、枕の下に腕を差し込んで目を瞑る。そんなにすぐに睡魔がくるわけでもないが、それでも帰省の疲労というのは満更嘘でもなかったのは、うとうとと忍び寄ってくるそれが存外に早く南泉の足首を掴んだからか。引きずり込むように南泉を眠りという沼に誘いかけるそれに抗うことなく身を任せれば、次に起きた時には窓の外の風景はとっぷりと暮れていた。
 かろうじて、西の空の地平に近い部分が燃えるように赤く染まっているのが見えたが、空の大半はスパンコールのような綺羅星が瞬く藍色のベールが広げられている状態だ。
 さほど時間も経たず、太陽は地平の向こうに消えるだろうと想像できる。寝すぎたな、とぼんやりと思ったが、午睡というのはどうにも起き上がるのを憂鬱にさせるもので、南泉はこのまま二度寝を決めてやろうかと思った際に、その思考を遮るようにポコン、と携帯に通知音が響いた。エアコンの音か回しっぱなしの扇風機の回転音しか聞こえない部屋で、油断しているところに大きく聞こえた音にびくっと微睡の中に居た南泉は肩を揺らした。ドキッと跳ねた心臓に、充電したままの携帯にノロノロと手を伸ばして液晶に指を触れさせる。パッと明るくなった画面に表示されるメッセージをみて、南泉は軽く眉間に皺を寄せると、ぐぅ、という唸り声と共に背中を丸めて、懐くように枕に額をズリズリと摺り寄せた。ぐずる子供のようにしばらくそうして布団の上でだらだらと時間を潰して、ようやく踏ん切りをつけたかのように顔をあげて身を起こす。ぎしぎし、とかけた体重分揺れるベッドの上から降りると、ぶるりと肌が粟立った。あぁ、冷えすぎたな、とつけっぱなしのエアコンと扇風機を止めて、寝乱れた髪を手櫛で乱雑に梳いた。
 電気もついていない部屋の中ではカーテンを開けたままの窓からの光源が唯一で、寝起き独特のぽやっとした頭のまま電気をつけようかと一考し、すぐに出るからいいか、と後回しにすることを決めた。
 唯一携帯だけを手に持って、部屋から出て一階に降りれば夕食の準備をしている家族の姿が視界に入る。急な強い光に僅かに目を眩ませながら、テレビの音声と賑やかしい話し声の中にのそりと入っていけば、あんたずっと寝てたの、と呆れたような母親に声をかけられる。それに疲れてるんだよ、と言い返してダイニングテーブルに備え付けられている椅子を引いて座れば、目の前にさっと茶碗に盛られた白米が置かれた。
 ありがと、とぼそりと呟けば母親は笑って早く食べちゃいなさい、と背中を向ける。すでに食べ終えたのだろう父親はテレビに夢中で、南泉は箸置きに置かれた自分専用の箸を手に取って、口の中でもごもごと頂きますと転がしてから夕食に手をつけた。
 時折キッチンの母親から明日以降のスケジュールを聞かされながら、適当な相槌と共に咀嚼して舌鼓を打つ。明日は親戚が集まるからちゃんと顔を出しなさいよ。食事は店屋物だから、準備を手伝いなさいね。お酒とかも取りに行かなくちゃ、早々それとね。
 立て板に水のごとく流れる話にあぁ、わかった、はいはい、と合いの手を入れて明日は忙しいのだな、と肩を落とす。いやわかっていたことだが、それでもできるならバックれたいなぁ、という南線の気持ちに感付いているのか、母親がくるりと振りかえって猫のように目を細める。その無言の圧力に、ごくり、と不自然に音をたてて赤味噌の味噌汁を飲み干した。風味を飛ばすほどではないが熱い味噌汁に思わず顔を顰めるも、すぐにまた前に向き直った母親の視線から外れてほっと息を吐く。
 傍らのコップに注がれている麦茶を手に取りごくごくと飲み干しながら、なんだってこう、母親というものは逆らい難いものを備えているのか。逃げられない現実を改めて認識しつつ、再び料理に箸先を伸ばす。
 料理自体はありふれているのに、おふくろの味とでもいうのか、懐かしいなと思うのはよほど人間臭いと思った。母親に逆らい難いという本能も、まるで人間のようで――刀なのに、人間。いや、人間なのに刀、か。
 ごくり、と肉の欠片を飲み込んで胃の腑に落ちていくそれを腹の上から撫ぜて、知らず皮肉気な自嘲を浮かべた。箸を止めた南泉に気づいた父親が、どうした、と声をかけてくる。帰ってきてからいささか様子の可笑しな南泉に気が付いていたのだろうか。少しばかり気遣わしげなそれになんでも、と素っ気なく返して食事を再開させれば、向けられる胡乱な眼差しがプスプスと南泉に突き刺さる。あえてそれを無視しながら、もぐもぐと一気に食べ終えて空になった食器をキッチンのシンクに運ぶ。水が溜められている盥に潜らせて、早々に二階に戻ろうとする南泉に、先にお風呂に入っちゃいなさい、と声がかけられて生返事を返した。
 どことなく南泉の調子が思わしくないことを察しているのだろう。折角帰ってきたのに、なんて文句を零すでもなく、さりとてあからさまに心配しています、と見せるのでもなく素っ気なささえ伺わせる様子で距離を取ってくれる両親に親なのだな、と感慨深く南泉は一瞥し、こくりと頷いた。
 二階に上がり、着替えを手に取って浴室に向かう。さっさと風呂を済ませてから一旦リビングに戻り、火照った体をクーラーのよく利いた部屋で冷ましながら冷蔵庫から麦茶を取り出す。ビールやチューハイなんかも欲しいと思ったが、恐らく明日嫌でも飲むことを思えば今日はこれでいいか、とコップに注いでぐびりと煽った。
 よく冷えた冷水が喉元を通って体の中から冷やしていく。首にかけたタオルで軽く浮かんだ汗を拭き取り、ふっと息を吐いた。

「南泉、明日は長義ちゃんの家にも顔を出しなさいよ」
「…なんで」
「いつも顔出してたでしょう?今年は長義ちゃん帰ってこないみたいだし、寂しがってると思うから」

 そう言われると、嫌だとも言い難い。長義が南泉の家に我が物顔で居座るように、南泉もまた長義の家に我が物顔で居座ることがあったのだから、最早お互いにお互いの家で息子娘のような扱いが定着しているのだ。
 確かに、一度も顔を出さないのも不自然だろう。行きたくないな、と率直に思ったが、行かないという選択肢はおのずと周囲から奇異の目を集めることになるだろうことも察していた。まだ、互いの家に別れただとかそういう話はしていない。いや、案外長義の家の方には伝わっているのかもしれないが、それなら尚の事行き辛い。南泉は逡巡したが、結局のところ長義の件どうこうは抜きにしても昔から世話になっている家で毎年顔を出していたのだから、急に顔を出さなくなると言うも感じが悪いだろう、と諦めることにした。
 わかった、と頷いて麦茶を冷蔵庫に戻し、少々憂鬱な気持ちを抱えて背中を向ける。その背中に、そうそう、と母親の声が追いかけてきた。

「明後日は盆踊りがあるから、折角だし行ってきたら?」
「盆踊りぃ?」
「そうよ、友達でも誘って行ってきなさいな」

 どうせ長義ちゃんはいないんだし、と軽い言葉にずくりと腹の底が重みを増す。眉間に皺を寄せて、気が向いたらな、とだけ言い残すと南泉は止めていた足を動かした。
 部屋に戻れば真っ暗で、室温も上がっている。つけっぱなしにしておけばよかったな、と思いながら再度エアコンを起動して、手探りで部屋の明かりをつけるとベッドの上に携帯を放り投げながら俯せに倒れ込んだ。勢いよく倒れ込んだ拍子に南泉を受け止めたベッドが悲鳴をあげる。弾むスプリングを全身で受け止めながら、指一本も動かすのが億劫だとばかりに、南泉は虚ろに目を向けた。

「面倒くせぇ…」

 何もかもが、今の南泉には煩瑣な事柄に見えて、低く呻き声をあげるとゆっくりと瞼をおろした。



 まだ日も暮れきらない内から集まる人だかりは地元の祭りで決して有名な代物ではないにしても、それなりの集客率をあげて会場を盛り上げていた。見知った顔もチラホラいる中、スピーカーから聞こえる祭囃子を背景に、南泉はぶらりと屋台の並ぶ通りを歩いていた。
 地元の友人に声をかけようかとも思ったが、そうすると必然的に長義の不在を突かれる。そのことに思い当たると、折角地元に帰ってきたのに誰と交流する気にもならずに結局1人で南泉は祭り会場をぶらついていた。関わりたくないのなら家にいればいいのに、それはそれで親の目が気になる。なんで地元に帰ってきてこんなに居心地の悪い思いをせねばならないのかと憂鬱にもなるが、結局のところ周囲がどうというよりも南泉の心持次第の話なので、周囲に何の非があるわけでもない。たかが、人一人隣にいないだけなのに。
 その空白の大きさを如実に見せられたようで、誰に言えるでもない苛立ちがふつふつと南泉の胎の内を騒がせた。しかし、それを直視するのはなんだか癪だ。
 だって南泉は、長義がいなくとも生きていける。1人で立って生きていけるのが南泉で、長義だってそうだから別離を選んだのだ。どちらかに寄りかからなければ生きていけないなど、そんなのお互いにお互いが許せないから、離れたことは後悔するような事柄ではない。
 南泉が長義の傍にいたのは、腐れ縁で、幼馴染で、あんな面倒で性格の悪い、自尊心も自信も馬鹿高い猫かぶりなんて、己以外に面倒見られないだろうから。それだけのことで、だから、あいつが1人でいいというのなら、別にそれで良いはずなのだ。むしろ解放されたと、清々したと、そう思うぐらいで。ぐるりと思考が一周し始めたところで、緩く頭を振って南泉は思考を打ち切った。
 折角の祭りだというのに、不毛な思考などただただ気が滅入るだけだ。いや、滅入るような内容でもないはずなのだけど。気を取り直して、南泉は俯きがちだった顔をあげて周囲を見渡した。
 混ざり合う人の声がほどよい雑音となって祭りの空気を作り上げていく。そこに屋台から香るソースや油の匂いが加われば、ついつい財布の紐も緩くなってしまうというものだ。
 大体祭りの屋台なんぞ割高なのに、どうしてこうも誘われてしまうのか。味なんて大して変わらないし、むしろ日常的に経営している店の方が味のクオリティは高いはず。だというのに普通に買って食べるよりも割増で美味しく感じるのはこの非日常感が為せる魔法というものだろう。その祭りの魔法とやらに引っかかって、南泉もまたズボンのポケットに突っ込んでいた財布を引っ張り出してふらふらとソースの匂いが香ばしく、鰹節の踊るたこ焼きを購入する。
 まいどー!という威勢の良い声に適当な返事を返しつつ、熱々の容器に入ったタコ焼きを抱えてぐるりと首を巡らした。機械音の聞こえるかき氷、お好み焼きにフライドポテト、イカ焼きにクレープ、牛櫛にベビーカステラ、フルーツ飴。祭ならではのラインナップに心惹かれるものの、思うがままに買い漁っていては財布の底が尽きてしまう。再三忘れてはならないが、祭の屋台というのは大概が割高なのだ。それが軒を連ねているのがまた購買意欲をそそるのがいけない。匂いの魔力とは実に恐ろしく蠱惑的で、欲望に抗い切れずに買い漁った結果寂しいことになった財布の末路もまざまざと思い浮かべることが出来る。
 ツレでもいればシェアもできるが、1人の南泉にその選択は取れない。胃袋にも限界があることはわかっているので、とりあえずたこ焼きを食い収めてから次の物色をしようかと視線を泳がせた。歩きながら食べてもいいけれど、人ごみの中食べ歩きは誰かの迷惑になってしまう。店先で食べるわけにもいかず、南泉は勝手知ったる、とばかりに人並を縫って通路の端の方に寄ると、丁度花壇の段差となっている場所に腰を下ろした。
 首を巡らせばチラホラと南泉と同じようなことをしている人影があるので、さして目立ちもせずに焼きたてのたこ焼きに長めの爪楊枝を突き刺しながら半分に割る。たこ焼きは熱いものを食べるのが一番なのはわかっているが、熱すぎると南泉の舌は火傷をしてしまう。
 半分に割ったたこ焼きの中身からとろりと中身が零れ出るのを見ながら、ほどよく冷ましたそれを口の中に放り込む。それでもやっぱりまだ熱いので、はふはふと息をしながら咀嚼すれば、出汁とソースの味が舌の上に広がった。鰹節と青のりの匂いも混ざって鼻孔を通り抜けて、胃の腑に落ちていく。外はカリッと焦げて、中身はふわふわとろとろだ。タコの大きさは、まぁそんなに大きくはないけれど、まぁまぁ及第点だな、と思いながらもう半分を口に含んでごくりと唾ごと飲み込んだ。…飲み物も一緒に買ってくればよかった。
 近くにないかと視線を彷徨わせるが、生憎と食べ物か射的やスーパーボール掬いかといった屋台しか見えず、飲料水を売っているような屋台は見当たらない。自動販売機も見えないので、南泉は食べ終わったら飲み物を探すか、と肩を竦めて2個目のたこ焼きに取りかかった。
 やっぱりこの空気感で食べるたこ焼きは美味い。味のクオリティが高いというよりも、やはり祭りという非日常感が脳や味覚を刺激するのだろう。そもそも神というのは祭り好きなのが大半である。付喪神という半妖怪染みた存在だが、それでも神寄りの存在だった南泉とて祭りが嫌いなわけではなかった。むしろ、自分の仲間たちは大概が祭り好きといえるだろう…あの化け物切りでさえ、祭りと聞けばそわそわと落ち着かなくなるぐらいには、この行事は人ならざるものを浮き立たせるものなのだ。まぁ、今は人なのだけれど。
 最後の1つを食べ終え、さて次は飲み物でも買ってこようか、と腰をあげかけた南泉の前に、ざり、と砂を踏みつける足先が視界に入った。藍色の鼻緒に色白の剥き出しの足先。下駄を履いたくるぶしの上に黒い布地に紫綱と白い唐草が踊り、腰は薄い青みがかった白い角帯で締められている。徐々に視線を上にあげていけば、がっしり、というよりは少し繊細な首筋に、その上に小作りで儚げな美貌の顔が載って南泉を見下ろしていた。
 輪郭を擽るアシンメトリーの白金の髪に、黒いメッシュが入った一房が揺れるとはっと南泉は瞬いた。青みがかった紫の、まるで星屑を散らしたような煌めきを宿した知性的な双眸は長く豊かな睫毛で覆われていて、薄い唇が仄かに弧を描く。

「やぁ、南泉。久しぶりだね」
「日向、…さん」
「呼び捨てでも構わないよ?とはいっても、今の姿だと難しいかな?」

 そういっておっとりと笑みを浮かべる目の前の男は成人した男性で、線は細いながらも決して貧弱には見えない、けれど耽美な色香を放つ様は夕暮れの薄闇に混ざってどこか危うげだ。その実、そこらの男など軽くあしらえる程度には実力のある男だと知っているので、ある意味で外見詐欺にも近いものを感じつつ、南泉はまさか会うなどと考えてもいなかった既知の存在に面食らったように瞬きをして、立ち上がるのも忘れてポカンと呆けた。

「ところで、お茶はいる?先ほど自販機で買ったんだけれど、当たりが出てね。もう一つ手元にあるんだけど」
「え、あ、あぁ…頂きます、にゃ」

 動揺を隠せないまま差し出されたペットボトルを受け取った南泉は促されるままにプシュ、と音をたててキャップを捻り開ける。
 喉が渇いていたことは事実なので、ありがたくお茶で潤しながら、正面で立ったまま見下ろしてくる日向に居心地悪く目を細めた。日向正宗。同じく日本刀の、南泉と同じ元付喪神。彼は短刀であったので、南泉が知る彼の姿は幼い子供の姿をしていたものだが、この世界の日向は成人をとうに過ぎた男性で、見た目だけならまだ20代もかくやという美貌を持ちながら、その実年齢のほどは聞けば誰もが驚く程度には齢を重ねている。
 神がかった美しさは南泉の知り合いの誰もがそうなので今更だが、南泉にとって彼は他とは多少違う立場にいる。なにせ、彼は長義のお師匠様なのだ。
 元々刀剣であった頃にも刀匠の関係性故に、長義が日向を敬う節はいくらかあった。まぁそれをいうなら正宗十哲に名を連ねる刀剣は、大なり小なり彼に尊敬の意を持っている者がほとんどではあったが。
 さておき、今生で限定をするならば、まさに日向は長義のお師匠様なのだ。こう見えて日本舞踊の師範代を務める日向に、長義が師事していたことは南泉も知っている。見た目こそ日本的というよりは英国的な耽美さを持つ男だが、その心は日本男児そのものなので特に違和感は覚えない。記憶のない長義から一心に尊敬と敬愛を向けられ、一時期など南泉は日向の賛美をこれでもかと聞かされていたぐらいだ。いやこいつ日向大好きだな、と思うぐらいには聞かされていたが、あれで大抵のことは人並み以上にこなせる長義のことだから、純粋に尊敬に値する実力を持った日向の存在は彼女にとって大きかったに違いない。
 ともかく、南泉自体に深い関わりはないものの、長義を通しての浅からぬ縁に今ここで遭遇したことは一体なんの運命の悪戯というものなのか。ペットボトルの蓋をきゅっと締めると、見計らったように日向は口を開いた。

「帰ってきていたんだね。向こうでの生活は順調かい?」
「それなりに。仕事は上司がちょっと面倒臭いけど」
「得てして上下関係とはそういうものさ。元気そうで何よりだ」

 一見薄幸の美青年めいた男と、どちらかというと素行があまりよろしくない印象を与えがちな南泉の組み合わせは、大通から外れているとはいえそれなりに衆目を集める。
 南泉にしてみれば長義と共にいた頃から慣れた視線なので気にもしないが、日向はどうなのだろう、とちろりと目を向ければうん?と穏やかな目線を返されるばかりで、相手も大して気にしていないことがわかった。
 印象でいえば真逆ながらも、どちらも大層整った顔立ちをしていることは明白でそれ故に視線にはいささか鈍感な節がある。更に言えば日向は日本舞踊の師範代だ。見られることなど茶飯事なことを思えば、気にする方が馬鹿馬鹿しいのだろう。1人納得をして、南泉は少し逡巡したのち、ポン、と自分の横を叩いた。

「あー…座りますか?…にゃ」
「そうだね、お言葉に甘えようかな」

 そういって腰を下ろしかけた日向に、あ、と声を零して南泉は待ったをかける。きょとん、と動きを止めた日向に急いでズボンからハンカチを取り出すと、日向が腰を下ろす場所にそれを広げて見せた。いや、相手は男なのだから気にする必要はないのかもしれないが、彼が来ている浴衣はそれなりに値が貼る代物だと南泉はわかっている。さすがにそれを砂で汚すのもどうなのかという気遣いなのだが、日向は軽く見張ってから綻ぶように口元を緩めてその上に腰を下ろした。

「気にしないのに。本当に気配りができる子だね、君は」
「いや、さすがにアンタの着てるそれ、そこそこ高いだろ」
「うーん。まぁ、立場上、少しはね」

 そういって、自分の分の飲み物だろう缶のプルタブをパキン、と開けた日向が喉を逸らしてぐびりと煽る。横に並ぶと、体格は南泉の方がいささか良いのがよくわかる。上背はさして差があるわけではないが、筋肉のつき方が違うのだろう。相手は浴衣で、自分はラフな洋装であることも印象に差をつけるのかもしれないが、南泉は日向の横顔を盗み見て少しばかり奇妙な感覚を覚えた。大人の男、なのだ。人間なのだから成長することは当たり前だ。南泉とて、幼い頃というものは存在しており、成長してこの姿になっている。
 既知にはかつての見た目年齢そのままの年代のものがいれば、南泉の歳すら飛び越えてしまうものもいるのだが、少々不思議な気持ちになるのは避けられないことだった。
 変だ、とも可笑しい、とも言わないが、それでも、記憶との間にできる齟齬は如何ともし難い。特に短刀の成長した姿というのは、如実に時間の経過と人間であるということを見せつけられるようで少しばかりの郷愁を思い起こさせた。その視線に気が付いたのか、目を細めて大通りを眺めていた日向が、うん?とばかりに小首を傾げて南泉を振り返る。
 さらりと揺れる横髪の動きにはっとして、南泉は誤魔化すように視線を逸らした。

「あいつが、海外に行ったこと知ってますか?」

 何か話題を、と思考を巡らして、結局口をついて出たものがそれで内心で舌を打つ。しかし、考えても見れば互いの共通の話題などそれぐらいで、何をどうしても逃がさない気かと、ニンマリと笑う腐れ縁を思い浮かべて南泉はがっくりとうなだれた。
 そんな南泉を尻目に、日向はあいつ、と口の中で転がしてあぁ、とこくりを頷く。

「長義のことかい?それなら僕にも連絡が来たから知っているよ。記憶が戻ったことも」
「あ、あぁ…あいつ、アンタにも話してたんだ、にゃ」

 敬語と砕けた口調が入り混じって、自分でも可笑しな会話になっているなと南泉は目元を引き攣らせる。現在を思えば日向は年上の、南泉にとってみればさほど付き合いがあるわけでもない知人の男で、しかし記憶を思えば同じ戦に参戦した仲間で、見た目だけならば年下の男だ。どちらに沿うべきか、判断に迷いながら敬語とタメ口が交互になるようにどっちつかずでいれば、南泉の葛藤を見透かしたように日向はコロコロと笑い声をあげた。

「ハハッ。気兼ねしなくていいよ。ここに取り繕うような相手はいないだろう?」
「あー…じゃぁ、遠慮なく」

 話しづらそうな南泉に、日向はそう促して中身の入った缶をくるりと回した。半分ほどに減ったそれが中でたぷんと揺れるのを感じながら、よかったね、とほっと胸を撫で下ろしていた南泉に話しかける。

「え?」
「長義の記憶が戻って。今は遠くに行ってしまったけれど、安心したんじゃないかい?」
「別に、記憶があろうとなかろうと、変わらねぇよ」

 そこに、邪推するようなものはないのだろう。単純に昔馴染の記憶が戻って、それを不幸事にするようなものではないから、よかったね、と言っただけだ。
 悲しく、辛い記憶ならまだしも、付喪神の記憶をそう断定するには幸福な記憶も多く、悪いモノかと言われると誰もがそんなことはない、と断言できるものだ。だからこそ喜ばしいと声をあげることは不自然でもなんでもなく、しかし記憶が戻ろうと戻らなかろうと、結局何も変わらないだのと思うことも自然なことだった。
 当たり前のようにそう答えると、日向は長い睫毛をふさりと瞬いて、そうか、と一つ返すと正面を向いた。

「君にとって、山姥切も長義も、同じなんだね」
「腐れ縁だからにゃぁ。今生でも腐れ縁とは、考えてもみなかったけどな」
「そうかな?別れようと思えば、いつでもできたじゃないか」
「は?」

 可笑しげな響きで、日向は紫の虹彩を煌めかせて赤い提灯を見上げた。

「刀剣の頃とは違って、僕達はいつでも別離を選べるよ。今、長義がここにいないようにね」
「…それ、は」
「君が長義の傍にいたのは、君がそう選んだからだろう?更に言えば、長義もそう望んだから、隣に立っていた。違うかい?」

 そう問われて、反射的に否定しかけた口を閉じて、南泉はぐっと奥歯を噛み締めた。眇めた目で日向を睨みつけると、齢を重ねた余裕なのか、薄らとした微笑が口元をやんわりと彩っている。

「…アンタ、何しにここに来た」
「お祭りを楽しみに、だよ。君を見つけたのは偶々さ。ただ、そうだね。君は、少し付喪神ということに振り回されているんじゃないかと思って」
「なに?」
「しようがないことではあるけどね。記憶とはなんて厄介で、愛しいものかと思うよ。うまくやれればいいけれど、時にそうでないこともある」

 今の君のように、と告げられて、南泉がひゅっと息を呑んだ。横っ面を叩かれたような衝撃で日向を凝視をすると、彼は僕はね、とおっとりと口を開いた。

「長義のお師匠様だから、君よりも彼女を優先するよ」
「優先って、」
「ねぇ、南泉一文字。いや、一文字南泉。君、何か思い違いをしているのかもしれないけれどね」

 そういって、日向は整った顔に冴えた表情を浮かべて、膝に肘をつくように背中を丸め、下から南泉を仰ぎ見た。かつてと似たような位置から向けられる視線に、はく、と南泉の口元が戦慄く。

「長義が、君の元に必ず帰ってくるなんて、心のどこかで思っているんじゃないかな?」

 ぶっすりと。その切れ味の鋭い短刀で心臓を穿つ様に。突き刺さった言の刃に、南泉は虹彩に煌めく星屑に絶句した。

「物であった頃はそうだろう。自ら動くことなどできやしないのだから、ちょっとどこか遠くに行っても、戻る場所は決められているね。僕達の所在は人の手に委ねられて、一度定まってしまえばおいそれと動くことはない。ましてや近代では武器ではなく美術品だもの。微動だにしないこともあるだろう」

 淡々とした声が南泉の鼓膜に響いていく。突き刺さった短刀は抜かれないままに、ずくずくと胸の内を疼かせる。反論もできぬままに、南泉はただ日向の目を見つめ返した。

「考えたことはなかったかな?それとも考えたくなかったのかな?――家族でもない、恋人でもない君の元に、長義が帰ってくる理由が今の世のどこにあると思う?」

 その気になれば、二度と会わなくすることだってできる。お互いに会う意思がなければ離れていくのは当然で、そしてそれは互いがそう思い合わなければ叶わないことでもある。どちらか一方だけが会いたいと思っても、成り立たないことなのだ。
 日向はそこまで言うと一呼吸おいて、丸めていた背中を戻して再び缶を斜めに傾けた。薄い唇が飲み口に触れて、こくりと喉仏が上下する。

「例えば、あそこにいる幼子のように」

 語るように軽やかに、日向が示すので硬直していた南泉はのろのろとした動きで顔をあげた。思考が鈍く、日向の言葉がじわじわと南泉を縛り付けるようで、今すぐにでもここから立ち上がって逃げ出したい衝動に駆られる。考えないようにしていたのに。長義のことなど、もう関係ないのだと、それだけのことだと思っていたのに。どいつもこいつも、と悪態をつきかけた口を、しかし引き結んで南泉は日向の言う幼子を見た。
 可愛らしいピンクの浴衣は、昨今の子供用らしくレースとフリルがついて、裾がまるでスカートのように広がっている。ドレス浴衣、といって、古来の形からは外れているが子供が着る分には愛らしい仕様に目を細めれば、少女は屋台の前で何やら親に何かを強請っているようだった。

「今はああして親に物を強請っているけれど、成長すればそんな頻度も少なくなるだろうね。大きくなって、成長して、誰かに恋をして、恋をされて、愛し合って、そうして親許を離れていく。まぁ、結婚だけに拘らないけれど、もしかしたら実家にすら寄り付かなくなるかもしれない――それほどに、人とは自由なものなんだよ」

 根負けしたように、男親が幼子に何かを買い与えている。遠目ながら、それがなんなのかわかって南泉はふるりと睫毛を震わせた。
 嬉しそうにはしゃいで、握りしめた手を解いて父親に向かってまた何かを強請っている。それを仕方なしに受け取って、父親は子供の前にしゃがむと小さな手を取った。
 きらり。屋台の照明を反射して、2人の手元で何かが光る。

「長義は選んでしまったから、君も、そろそろ何かを選ばなくてはいけないかもね」

 光る何かが、父親の大きな手でまだ短い指に通されていく。丸い輪っかの、ごてごてと大きな飾りのついた、安っぽい玩具の指輪が幼子の指に収まり、満足そうに少女が笑う。きゃらきゃらと笑い声がこちらにまで届きそうで、南泉は記憶の端でチリリと焦げ付くものを感じた。
 幼子の指には少し大きくて、似合うか似合わないかでいえば、多分あまり似合ってはいないのだけれど。
 それでも満足そうに、嬉しそうに、笑う少女。安っぽくてちゃちな、如何にも子供向けの玩具だとわかるそれを、宝物のように掲げて。そんな安物よりも、よっぽど似合うものがあるはずなのに、これがいいのだと強請る、我儘な声。あぁ違う。物欲しそうに見つめていたから、南泉が買ってやったのだ。お小遣いを握りしめて、買おうか買わまいか迷って、諦めようとしていたから。金メッキに青い樹脂でできた宝石がついた、ごてごてした装飾のそれを、名残惜しげに見つめていたから――女の子だものなぁ、と、買ってやったのだ。
 今のあいつは女の子で、だからこういうのも好きなんだろうと。欲しいのなら我慢せずに言えばいいのに、変な所で我慢しいで。
 買い与えたそれは、南泉の目からしてみれば長義に似合っているとはお世辞にも言えないような作りのものだったのだけれど。欲しがったのはあいつで、そしてあいつはそれを、それはそれはとても嬉しそうに、宝物のように、喜んだから。
 まぁいいかと。また、いつか。そうだ。大きくなったら。


 あいつに相応しいと思えるそれを、買えるようになったら、その時は。


 ザリリ。砂を踏む音がして、ハッと南泉は瞬く。横を向けば、飲み干した空き缶を片手に立ちあがった日向は、尻に敷いていた南泉のハンカチについた砂を払い落とすと綺麗に畳んで差し出した。反射的にそれを受け取りながら、南泉は夢から覚めたような心地で見下ろす日向を見上げた。ぱちりと瞬くと、柔らかな金髪の上にポンと軽い重みが加わる。くしゃくしゃに混ぜっ返されると、なるほど。という声が頭から振ってきた。彼女が言っていたように、ふわふわと柔らかな猫っ毛だこと、とくすくすと笑い声が零れ落ちる。

「君は南泉一文字だけれど、一文字南泉であることも忘れないでね。彼女が、長船長義であるように…うまくやるんだよ、南泉」

 名残惜しげにくるりと一房指に巻きつかせた髪を放して、日向は囁きを残すと背を向けた。ごくり、と思わず生唾を飲み込んで遠ざかっていく背中を見送れば、気がついた時にはその背中は人ごみに紛れて見えなくなり、茫然と木陰に取り残されたまま、ぺこり、と渡されたペットボトルを凹みを作る。

「は、あ、ぁぁぁぁぁ………」

 深い、深すぎるほどに深い溜息を、肺の中の酸素が全てなくなるぐらいに吐き出して。足の間に顔を埋めるように項垂れた南泉は、グルグルと唸り声をあげてべこぼこ、とペットボトルを握りつぶした。中身はまだ入っているので、完全に潰すことはできなかったが、それでも凹んだそれを不機嫌に睨みつけて、南泉はふざけるなよ、と吐き捨てた。

「やってられるか…!」

 幼い少女に、与えたいと思った心は、果たして南泉一文字だったのか。
 今更過ぎて、南泉は財布を握りしめると親の仇かのように前方を睨みつけた。
 賑やかな祭囃子は、南泉の苛立ちを増長させこそすれ、何一つとして宥めてはくれなかった。