氷ざとうの恋
ころり。
掌に転がった半透明に少し白く濁った塊を、指先で摘んで光に透かす。透明度の低い結晶は向こう側を透かすことはなく、柔らかに光を拡散して鈍く輝いている。少しずつ時間をかけて育てたそれは、まるで研磨前の原石のよう。例えるならば、水晶のそれのような。磨けば美しく輝くかもしれないそれを、穏やかに笑みを浮かべて差し出した。
たおやかな白い手が、差し出した結晶を受け取りころりと転がす。丸い形の爪先が丁寧に摘んで、パカリと開けた口の中に放り込んだ。ころころ、ころころ。舌の上で転がして、白い頬に赤味が差す。ふにゃりと緩んだ口許で、ゆっくりと味わうように舐め溶かし、ごくり、と喉が動いて嚥下した。
ほう、と満足そうな吐息がその口から溢れる。美味しかったのだろうか、キラキラとした眼差しが注がれ余韻を惜しむように舌先が唇を舐め、うっとりと恍惚に蕩けた瞳がぱちりと瞬いた。
愛らしい笑顔に、彼もまた穏やかに目を細める。
「また欲しくなったらいつでもおいで」
優しく、言い聞かせるように告げて、天使の輪を作る艶やかな黒髪を撫ぜた。
「その代わり、他の子には強請らないように」
俺のでよければ、あげるから。
子供に言い含めるように瞳を細めると少女は頷き、約束ね、と小指を差し出した。
その稚い仕草にゆるりと口角を持ち上げて、手袋に包まれた小指を絡めて揺らす。
ゆーびきりげーんまん
うそついたら はりせんぼん
のーます ゆーびきった
※
好きだ。
告げる気はなかった。告げることでもなかった。むしろ、言葉にして初めて自覚したぐらいだった。
パチクリ、と少しつり目がちの瞳が丸く見開いて、怜悧な美貌がいつもよりも幼い表情になる。呆けたような、例えるなら間抜け面、とでもからかえそうな全くの無防備な顔を晒すその顔を眺めて、綺麗な顔をしてるな、と何度思ったかしれないことを考える。性格はともかく、この冷たい色彩を持つ刀は顔だけは極上なのだ。
いつだって隙なく、癪に障るほど余裕で高慢な顔を崩さない癖に、南泉他、限られたものにはその壁を崩して見せる瞬間が、悔しいけれど嫌いじゃない。胸の内がむず痒くなるような落ち着きの無さを感じたが、今はそれ以上に自分の口からポロリと溢れた言葉の方が重要だった。
咄嗟に、ばちん、と勢いをつけて掌で口元を覆い隠す。しかし、そんなことをした所で出てしまったものが今更口の中に戻ってくるわけでもなく、痛いほどの沈黙が辺りに横たわった。
だらだらと背中に汗を流しながら、南泉は口許を掌で覆ったまま、ゆっくりと瞬きをした長義の顔を窺い見た。今日の夕飯のおかずになるのだろう、大量の土筆の袴をせっせと取る作業中だったせいか、手の中に細い土筆を持って長義はへぇ、と呟いた。
「猫殺し君、土筆が好きだったんだね」
「へっ?」
「好きなものなら祖に言うといいよ。融通してくれるから」
「え、あ、お、おう・・・?」
初めて知ったよ、と、人の身を得てから好物になったのかな?なんて言いながら、袴を取った土筆を二振りの間に置いてあるボールに放り込んで、また一つ笊から取り上げる。
その顔はいつも通りで、南泉の告白など気にした素振りもなく黙々と土筆の袴取りを続ける横顔を見つめて、南泉は「は?」と瞬きをした。マジかこいつ、という目で、涼しげな横顔を凝視するとさすがに視線に気が付いたのか伏し目がちだった横目がつい、と動いて怪訝に南泉を見た。柳眉がくっと寄って、嗜めるような色を持つ。
「何フレーメン反応を起こしてるんだ。今日の夕飯に間に合わなくなるだろう。さっさと作業を続けなよ」
「俺は猫じゃねぇっ。てか、そうじゃなくて、」
「なにかな、まさか仕事をサボって昼寝でもしたいとか言うんじゃないだろうね?まぁ確かに、縁側で作業なんてしてると眠気を誘うのは確かだけど。猫殺し君には辛い時間かな?」
くっと口角を持ち上げて見下すように笑う顔にムッとしながら、するわけねぇだろっと腹立たしく言い返してむんず、と土筆を手に取って袴を取り始める。その様子に、やれやれ、とばかりに肩を竦めた長義の黒い手袋に包まれた手がまた土筆の山に伸びるのを横目で見ながら、南泉はくっきりと眉間に皺を寄せて唇をへの字に引き結んだ。
深く突っ込まれなかったのは良いことなのか、悪いことなのか。こいつのことだからここぞとばかりにからかってくるかもしれないと案じたそれを裏切られて、腑に落ちないものを抱えながら黙々と作業を続ける。南泉としては、拾われなくてよかった、という気持ちもあったが、それにしたってあまりにも聞き流しすぎではないだろうか、と複雑な心境を反映したかのごとくいささか手荒い手つきで茶色い袴を毟り取った。
まぁ、あまりにポロリと、しかも土筆の袴取りだなんて色気も雰囲気もあったもんじゃない状態で零れたものなんて、確かにまともに取り合う気にもならないだろう。そもそも、二振りの常日頃の関係から言えば、そういう意味の台詞だと繋げる方が難しいかもしれない。南泉だって口にする気は毛頭なかったし、むしろ口にした瞬間でさえ自分が発した言葉ながら意味がわからなかった。言い終えた後で、長義の顔をみて理解したぐらいだ。
間の抜けた、きっと南泉ぐらいにしか見せないだろう無防備な顔。いつもならそんな顔を晒せば南泉の方が揶揄ぐらいしてみせるのに、最初にしでかしたものだから後手に回ってしまった。それと同時にこいつのこんな顔、俺以外には滅多に見れないんだよな、と思うと、腹の底にむずむずとした感覚が沸き起こって居心地が悪くなる。けれど悪い気はしていなくて、そういう思考になる時点で取り繕えもしない、と自分で自分に愕然とした。
なんて趣味が悪い、と自分のことながら呆れ混じりに溜息を吐きだした。よりにもよってあいつ。顔がいいけど性格は最悪な、自分を猫殺し君、なんてからかってくる意地の悪い男を、好きだなんて。むしろ何かの間違いなのでは、と自問自答しながら、全ての袴を取り合えた土筆が山となったボールを抱えて、じゃぁ厨に持っていくよ、と立ち上がった長義をおー、と気だるく送り出した。その姿が廊下の向こうに見えなくなったところで、南泉は頭を抱えてうにゃぁ、と唸り声をあげた。胡坐を掻いた膝の上に肘をつき、額に手を押し付けてはあぁ、と深い溜息を吐きだす。痛くはないけど頭が痛い、とばかりに、南泉はもやもやとしたものを抱えてもだもだと廊下の床板の上を転げまわりたい衝動に駆られた。
まさか、腐れ縁だとずっと思っていた相手を、そういう意味で好きなんだと自覚する日が来ようとは。一体誰がそんなことを思うというのか!南泉と長義の仲は、ぶっちゃけ悪くもないが良いともいえない関係だと思っていた。なにせ嫌がる南泉を至極楽しそうにからかいにくる長義は、なにをどう言い繕ろったって性格が良いとは言えないだろう。イイ性格だとは思うが、それは決して誉め言葉ではない。出来るなら関わりたくない刀不動の№1で、南泉はできることなら会いたくなかったし、傍に居たいとも思っていなかった。
強引に、我儘に。南泉になら何をしてもいいのだとばかりに振り回そうとする相手を、恋だの愛だのという意味で好きになるなんて、考えたこともなかった。そういう対象なのだと、今初めて自覚して南泉もひどく動揺している。
いやそりゃ、会いたくはなかったけど別に嫌いなわけでもないし、ただあいつがからかってくるのがすごく面倒だからで、でも本当に嫌なことを踏み抜くようなことはしないから、まぁ別に相手にしてやってもいいかと思うところはあって、なんだかんだ500年も近くにいるのだから今更隣に立った所で忌避感があるわけでも・・・って、なんだこれは。ぐるぐると脳内を駆け巡る言い訳めいた数々の羅列にはたと気づいて、とうとう廊下にべしゃりと突っ伏した。
ただ、何気なくみたあいつの横顔が、あまりに綺麗だったから。
空から雨が落ちてくるのと同じぐらい必然に、ぽとん、と南泉の内に落ちてきてしまったから堪らない。
あぁ、こんなタイミングで自覚しようとは、いくらなんでも予想外の事態である。嘘だろ自分。考え直せ、と思いながらも廊下に伸びたまま庭先を見つめ、花壇の上をひらひらと舞う蝶を見つめて南泉はすん、と鼻を鳴らした。春の匂いが柔らかに鼻先を擽って、どこからか甘えるような猫の声がにゃぁん、と耳の奥に木霊した。
「・・・どうすっかにゃぁ」
まぁ、答えなどすでに決まっているのだけど。
※
と、いう経緯を経て今に至るのだ、と相談にきた南泉一文字に、相談されている側の後藤藤四郎は今更かよ、とチベットスナギツネのような顔になるのを止められなかった。
というか今まで無自覚だったのか。お互いきっと自覚してるけどあえて口にしていないのだと思っていたのに、まさかの無自覚だったとは。
相談料に、と渡されたスノークッキーをもしゃもしゃと口に運んで、煩雑な気持ちごとごくりと飲み下す。手ぶらじゃなんだから、と手土産を持参するところが見た目に反して気遣いのできる刀なのだが、きっとこれが長義相手ならばもっと品物を厳選することを後藤は知っている。南泉曰く下手なもんをやると五月蠅いから、とのことだが、後藤、及び徳川美術館で共に所蔵されている者達は知っている。南泉は、口ではそういいながらも長義に渡すものに妥協なんてしたことは一切ないし、なんなら無意識に長義に相応しいものを与えようとする癖があることを。かといって、そのついで、とばかりに他に配ることも良しとするので、存外本丸で南泉の貢ぎ癖に気づいている刀はあまりいないかもしれない。でも俺達にはわかる。あくまで後藤達はついでで、南泉は長義の為に品物を用意しているのだということを。
それ以外でも、長義の強引な行動を渋々の体を取りながらも許容して付き合っているところとか、偶に長義が南泉をスルーして他を誘うとちょっと不機嫌になるところとか、長義が一振りでいればさりげなく近くに寄るところだとか。挙げればキリがないが、あれで付き合ってないとかどんな関係、と言われる程度にはこの二振りの距離は近いのだ。
まぁ、後藤達にしてみれば500年余りその状態を見せつけられてきたので、近頃では実は本当にあの二振りにはそういう感情がないのでは?と議論にあがるぐらいだった。毎回あの二振り付き合ってるの?という問いに付き合っていないと答えるこちらの精神的負担を考えて欲しい。正直、腐れ縁、悪友にしても、お前らちょっと距離近すぎでは?という節があるのに、一切合切無自覚だったとは。
まぁ、長義も南泉がすること、与えるものに関しては無自覚に当たり前のことだと受け入れている節があるので、結局どっちもどっちだったってわけかぁ、と少し水分の取られた口内にお茶を流し込む。
持てるものは与えなくては、を心情としている長義が、南泉の与えるものだけは素直に受け取るところにもっと注目してもいいと思うのだが、昔っからこうだから今更すぎるんだよなぁ、と溜息を零す。うぅん、まぁ、でも、ようやく片方が自覚したのだから、長年見守ってきた側としては手伝うのも吝かではない。手伝わなくても南泉と長義ならばなんだかんだ収まるところに収まるとは思うけど、逆にこの二振りだからここまで面倒なことになっているとも言える。あまり外野が口に出すべきことじゃないから見守っていたが、当人から相談にきたのだから問題ないよな、とぺろりと指についた粉砂糖を舐めとって後藤は居住まいを正した。
「それで、南泉は山姥切にもう一回告白とかしたのか?」
タイミングとして、南泉の告白が告白と取られなかったのもわかる。長義とて、まさか南泉が自分をそういう意味で好いているとは考えていなかったのだろうし。そも、長義は自分から与える分には惜しみないが、与えられる側になるといささか遠慮深いところがあるのだ。
というよりも、相手からの返しに期待していないというか。君が好きじゃなくても俺は好きだから問題ないよね、と不遜に笑う長義は、きっと今まで与えられてきた愛で満足している。
愛されてきた自負があるから、それ以上を求めずに愛されてきた分を還そうとしているその姿を、後藤も、鯰尾も物吉も、江雪も、もどかしい思いで見ていることに気づいていない。決して鈍いわけじゃないんだけどなぁ、山姥切。と内心でぼやきつつ、告白を告白とカウントされなかったのであれば仕切り直しをするのが定石ではないだろうか、と南泉を見やれば、渋面を作ってがしがしと頭を掻き毟る。
「しようかと思ったけどよ、にゃ。今更あいつに言うのも癪に障るし、それに一切意識してねぇだろ、あいつ」
「・・・・あぁ、うん。それで?」
いや、駄々漏れの好意だと思いますけど??南泉を見つけたときの長義の顔を見ていないのか、と後藤は思ったが、本刀が大真面目に言っているので口を噤む。やだ、俺一振りじゃ荷が重いよ。助けて物吉、鯰尾兄!
「だから、こう、・・・アピールをだにゃ?さりげなく試みたわけで」
「え?今までとどう違うんだ?」
「は?」
「あ、いや。なんでもない。・・・例えばどんな?」
危ない危ない。素で口から出てしまったものを咄嗟に言い繕いながら、後藤はここ最近の南泉の行動を思い返してみたが、正直以前とそう大差がない気がしていた。
あーでも、そういえば、最近は近くにいることが、ちょっと多かった、ような?いやでもやっぱり大して変わってないな?具体的になにをしていたのかと問えば、南泉はいささか気恥ずかしいものでもあるのか、躊躇いがちに指折り数えた。
「あいつが困ってたらさりげなく助けてやったし」
本丸に顕現する前からのことでは?
「万屋に行ってあいつに似合うモノ探して、プレゼントしたり」
万屋街に行く度に本丸土産に紛れて購入してたの、前々から知ってた。
「傍にいる時間増やしたり」
うーん。でもあんまり変わらないような?
「触る頻度あげたり」
「え、なんだそれ。どこ触ったんだよ南泉」
「手とか繋いだりとかだっつーの。万屋とか、出かけるときにこう、にゃ?」
ボディタッチは効果的かな、と思ったんだよ、と言った南泉に、なるほど。それは確かに今までの二振りからすれば革命的な行動指針といえる。と、後藤も感心した。正直前半は今までと何がどう違うのかと思っていたが、ボディタッチなどという今までにない行動を意識的に取るようになったのなら大した進歩だ。まぁ元々距離が近いところがあったのはこの際目を瞑ることにして。
ここで鯰尾ならもっと根掘り葉掘り突っ込んでいくだろうが、今は二振りの進展がどうこうよりも、それだけのことをして尚相談にきた、ということを重要視したい。
「それで、山姥切の反応は?」
「変わらねぇ」
「・・・え?」
「だから、一切変化無し。いやそりゃ、俺だって今更素直に態度に出すとか気色悪いしあからさまってことはねぇと思うぜ?でもあいつ平然と受け流すんだけど、どういう神経してんだ、にゃ?」
これって望み無しってことか?どう思う?と真剣な顔で言う南泉に、後藤もこれは事だぞ?と眉を潜めた。後藤達からしてみれば、南泉も長義も両想いも同然のものだと思っていた。どちらも素直ではないし捻くれている節があるので、一筋縄ではいかないにしても、相手からの行動をそこまで読み取れない、ということはないはずである。ぶっちゃけ南泉の行動を今までと変わらないと言ってきたが、そこに南泉自身の自覚と意図を含めはじめたというのなら、その違いに長義が感づかない筈がないのだ。
お互い無自覚同士ならともかく、片方が自覚して起こした行動に、なにかしら違和感を覚える程度にはお互いを知り尽くしているし、興味がないわけじゃない。
南泉の変化に気づかない長義はいないし、逆もまた然り、だ。そこから感情をどこに結びつけるかはともかくとして、全くの無反応というのも可笑しな話である。やっと長年見守ってきた腐れ縁が進展するかと思ったら、とんだ展開に後藤も腕を組んでうんうんと唸り声をあげた。
「・・・山姥切が、南泉のことをどうとも思ってない、ってことはないと思う」
「そうかぁ?」
「絶対に。あー・・・とりあえず、この件は預からせてくれ。南泉は、その、今まで通りに山姥切にアピール?を続けるってことで」
もしかしたら、山姥切も南泉の様子を誰か、まぁ相談相手など限られているだろうけれど、誰かに相談をかけているのかもしれない。言葉を選びつつ、ここで南泉が諦めて(ないとは思うが)しまったら絶対に大変なことになるので、後藤はとりあえず継続を促してぱしん、と膝を叩いた。本当に難儀な刀達だな、と思いはすれど、こちらだって長く共にいた腐れ縁、だ。ずっと見守っていた彼らを、今更見捨てられないし見捨てたいとも思わない。幸せになって欲しいと、心から願っているのだ。それならば、多少の面倒事には黙って巻き込まれてやるのが仲間ってものだろう。
南泉は腑に落ちないような、それでもどこかほっとしたような顔でこくりと頷いた。おう、という小さな声が少し頼りなくも聞こえて、思ったよりもキていたのかもなぁ、と後藤はニッカリと歯を見せる。任せろ、というつもりで、彼は今はここにいない銀の星のような刀剣に思いを馳せた。山姥切、どういうつもりなんだろうなぁ。
※
「・・・とは言ってたものの、どうしたもんかにゃぁ」
相談からしばらくして、言われるがままとりあえずアピール?らしきものを続けてきたが、やはり一向に長義からのレスポンスがない状態に南泉は僅か数日のことながら早くも挫けそうになっていた。人気のない林の片隅で、悄然とした南泉は木の根元でぼう、と木漏れ日を眺めては溜息を零す。
そもそも、恋心の扱い方なんて、南泉だって知らないのだ。精々人間が一喜一憂しているのを感慨もなく見たことがあるか、おしゃべり好きの絵巻物や美術品の付喪神達の話を聞いたことがあるだとかその程度の知識で、経験値など無きに等しい。
それも相手があの化け物切りだ。旧知の仲故、どこか踏み込み切れず、手探り状態で始めて反応が芳しくない相手にいつまでもアピールし続けられるほど心は強くない。
恋とは人、この場合刀か。刀を弱くするものらしい。らしくないと思ってはいても、なにせ勝手のわからぬ未知の領域だ。答えがあるわけでもなし、尻込みするのは当たり前ではないだろうか、と誰に向けるとも知らぬ言い訳を胸中で並べ立てる。
なまじ今まで腐れ縁だと思っていて、まさかそういう対象になると考えたこともない相手である。それが突然天地が引っ繰り返った様にこの様だ。あいつマジで面倒臭い、と責任転嫁をするものの、そう考えている時点で思考を占領されている事実に喉をぐぅ、と低く鳴らした。だってしょうがない。南泉の500年は、あの美しくも厄介な性格の刀で占められていたのだから。目を閉じなくても思い出せる。焼きついたように克明に、星の色をした髪と、瑠璃の瞳に、苛烈なまでに戦意に溢れた高潔な姿を。
自分の感情は、どうやら酷く重っ苦しいことを南泉は薄々と察していた。
自覚したのは最近でも、抱え込んでいたのは大分長い時間だったらしい。500年分ぐらい煮詰めた特大級のそれを自覚した今、どうすればいいのか見当もつかないのが正直な心である。己の中にここまでどろどろと煮詰まったものがあったのかと思うと、よくまぁ今までこれに気づかずにいたものだといっそ呆れすらする。そうか、そりゃ後藤達も呆れた顔もするわけだ。長年この状態を維持し続けていたのなら、そりゃ南泉だってそれが他人事なら後藤達と同じ反応になるだろう。申し訳なかったなぁ、とちらりと思いはすれど、それはともかくこのぬるま湯のような、南泉だけがやきもきしている現状を打破してから謝罪なりをしよう、と心に誓う。きっと、大分彼らの気を揉ませてきたのだろうから。
まぁ、原因の片割れである化け物切りは、今尚周囲の頭を悩ませ続けて居るのだが。後藤はどうやら鯰尾達にも話を持っていったようなのだが、その彼らを持ってしても長義の行動は読めないらしい。それとなく探りをいれても暖簾に腕押し、糠に釘。無反応、というよりも、南泉が求める反応がないということならばもうそれ、本当に望みがないのでは、と乾いた笑いを零すしかない。心挫けかねない南泉を、鯰尾達総出で励まされたのは記憶にも新しい。
いやでも、あいつ本当に俺に対して全くそういう関心がなさそうなんだが?
俺が好きでも、あいつは俺をそういう意味では全く好きではないのでは?いやまぁ、そういう意味で好かれていると思ってたわけじゃないけど、でもあいつの日頃の行動を比較したらちょっとは期待しても罰が当たらないのでは?良い対応ではないけれど、南泉に対して長義の行動は確かに特別、と言い換えてもよいものであるはずだ。そんなのちょっとぐらい期待するだろ、常識的に考えて。まぁ、全部思い上がりの勘違いだと言われたら、ぐうの音も出ないけれど。麗らかな春の日差しとは裏腹に、鬱々とした空気を纏って南泉は鬱屈とした気持ちを吐き出すようにうにゃぁ!と雄叫びをあげて髪を掻き乱した。
そのままばたーん、と背中から地面に倒れ込み、ごろごろと左右に転がって懊悩する。やがてピタリ、と動きを止めると、釣り目がちの目を座らせて南泉はグルル、と唸り声をあげた。
そもそも!なんで俺だけが!!あいつなんかの為にここまで振り回されなきゃならないのだ!!
一周回って腹が立ってきて、沸々と腹の底で煮え滾ってくるものに拳を強く握りしめる。理不尽だ、不公平だ、不平等だ。俺がこんなにも不本意なものに振り回されているのに、あいつはこちらの気も知らないで飄々と日々を謳歌しているなんて。
長義にしてみればそれこそ理不尽だと反論されるだろうことを描いて、うだうだと管を巻いていると不意に南泉の視界にチカリ、と銀の光りが反射するのが見えた。
横たわったまま思わず瞳を大きくして、しっかりと光の反射先を凝視すれば見間違えるはずもない。冴え冴えとした星色の頭髪が、木陰の奥に裏地の青いストールを翻して消えていく背中が見えた。どうしてこんなところに、と疑問が湧く中、無意識に体を起こして南泉は奥に消えて行った背中を追いかけるように駆け出した。
この林は南泉が偶々昼寝場所を探して行きついた、所謂穴場と呼ばれる場所で、日当たりが良い上にほどよく木の影が日差しを遮ってくれる春先に丁度良い寝場所なのだ。
腐れ縁曰く猫は日当たりの良い場所を自然と見つけるというけれど、君のそれも才能だね、なんてからかってくるぐらいには、南泉の日向ぼっこポイントへの嗅覚は鋭い。人も滅多に寄り付かないとなれば、南泉の絶好の昼寝場所になるのも当然で、今まで碌に人影など見てこなかったのにまさかやってきたのが長義だとは、気づかれないように一定の距離を開けながら追いかける南泉は目を眇めた。
用がなければわざわざこないだろうところに、あいつは一体何の用で足を踏み入れたのだ。おおよそこんな場所に縁のなさそうな姿に首を捻り、奥に進んで立ち止まった後ろ姿に思わず追いかけてきた南泉も自然と速度を緩めながら、ふと自分の行動に疑念を覚えて足を止める。・・・なんでわざわざ追いかけたんだ、俺は。
別に、長義がどこで何をしようと関係ないはずだ。あいつはこちらに気づいてもいなかったし、今正に南泉は長義のことで煩悶していた所だ。むしろ今顔を合わせる方が気まずいのでは、と今更ながらに思い当たり、脳内を埋め尽くしていた相手が突然視界に現れたからと言って何も考えずに追いかけてしまった己を恥じ入るように南泉は頭を抱えた。
・・・さっさとこの場を離れよう。幸い、長義はこちらに気が付いていない。今ならなかったことにして立ち去れる。とりあえずこの複雑にすぎる胸中を、一旦整理してから対峙したいのだ。そうだ、もう一度後藤達に相談しよう。まずアピールの仕方を変えるところからだな。もういっそ告白のやり直しをしてしまった方が手っ取り早いかもしれない。そんなことを考えながら踵を返しかけたところで、南泉は視界の端に飛び込んできた光景にぎしり、と足を止めた。
長義の黒い手袋に包まれた手の中に、見覚えのない半透明に濁った欠片がころりと転がる。それを丁寧に指先で抓んで、差し出した先。その先の存在を目に焼き付けて、南泉は先ほどまでの思考を投げ捨てるかのごとく、脳内を真っ白に染め抜いた。
※
失敗したな、と爛々と光る金緑に光る目を見つめて、長義は心の中で嘆息した。
ぐるぐると今にも飛び掛かりそうなほどの覇気を湛えて、逃げも誤魔化しも許さない、とばかりに剣呑に長義を縫いとめようとする目に、らしくもなく困った顔で眉尻を下げる。
どうして、よりによって君なのだろう、と黙っていれば、低く、押さえつけたような声音で南泉は牙を剥いて見せた。
「おい、どういうつもりだ、化け物切り」
「・・・どういうつもり、と言われてもね。誰の迷惑にもなっていないと思うけど?」
「ふざけるな。あれに、お前はなにをやった」
はぐらかすように、確信に触れるまいと言葉を濁してみたけれど、長年の付き合いの仲ではこの程度の誤魔化しなど無意味に等しい。その刀の切れ味のごとく、長義の言い分を両断して南泉はきつく詰問した。いつもなら適当にはぐらかされることを良しとする癖に、一度琴線に触れれば決して逃さないのは猫の性分か。
別に、なんということもないのに。燃えるような視線に焼かれながら、長義はふふ、と吐息だけで笑った。その瞬間、一層眼光が鋭くなり、怒気すらも漏れ出した事におっと、と笑い声を零した口を閉ざして長義は観念したように肩を竦める。降参だ、と言外に示すと、突き刺すような怒りの気配が緩やかに収まったのを感じた。けれど、じっとりと重みを伴った視線はそのままで、長義はどこから話そうか、と逡巡するように伏し目がちに視線を落とした。
「あれは、なんだ」
「君が見た通りのものだけれど、怪異だね。あぁ、一応無害なものだよ。主の命や身を脅かすようなものじゃない」
「お前が本丸の中で見逃すぐらいだ、そこは疑ってねぇ、・・・にゃ」
「ふふ、締まらないね、猫殺し君」
「っせ。問題なのは、あの怪異にお前はなにをやってたか、だ。まさか、育ててるわけじゃねぇだろ、にゃ」
この刀が、人に甘いことを南泉は知っている。持てる者は与えなくては、なんて高慢な態度で、己を不当に扱う人の子さえ微笑んで許容するような刀だ。そしてこの刀は化け物を切った反動で心まで化け物になってしまったのか、割と人判定がゆるゆるな個体である。
いや、もうそれ人間の括りじゃねぇよ、という存在に対しても、1%でも人成分が含まれれば「人の子って本当愚か~~!」と笑いながら許容するのだ。それはそれとして生きている者を害そうとすれば遠慮なくぶった切るので、そのギャップに眩暈を起こしそうな時がある。お前、自分に対しては易々と容認する癖になんだその殺意の高さは、と思うがそんな時はとても生き生きとしているので、南泉はまぁいいか、と是認してしまうことがままある。いや、だって、化け物切ってるこいつ、メッチャ綺麗じゃん。刀なのだから元気にぶった切っている姿が一番である。さておき、そんなゆるゆる判定個体であるこの目の前の化け物切りが、何の情けか知らないが本丸内で活動する怪異に何かを差し出していたその事実は無視できない。
もしそれが長義を損なうようなことの一端でも担うようであれば、本刃の意思はどうあれ、周囲も巻き込んででも南泉はあの怪異を滅することに躊躇いはない。さぁ答えて見せろ、とじろりと見やれば、長義はうーん、と少し迷うような素振りを見せて、あまり気は進まないのだけれど、とぼやいた。
「あれはね、恋に憧れた可愛そうな女の子なんだ」
「はぁん?」
「生前がどうだったのか、それは俺も詳しくは知らないよ。彼女が語ることは支離滅裂で、きっと複数の思いが混ざり合ってできたものなのだろうね。ただ共通していることは、あの少女達は恋に憧れて、恋とはどんなものかしら、と手を伸ばす、そんな怪異なんだ」
「どういうことだぁ・・・?にゃ」
コロコロと笑う長義は愛玩物を見るように目を細めて、可哀想で、とっても可愛い子達なんだよ、と南泉に語る。それに意味がわからねぇ、と南泉は眉を動かして、続きを促した。
「恋とはどんなものかしら。甘いのかな、苦いのかな、それとも初めての接吻のように、甘酸っぱいのかしら。自分達が憧れて、だけど知らなかったものへの探求心と執着が育って、あれは恋心を食べる怪異になった」
「恋心を食べる、・・・あ?」
「あれを見つけたのは本丸に配属になって、初めて万屋に行ったときだったかなぁ。道行く審神者の、恋に恋するような、可愛らしい人の子のね。恋心を、食べようとしていたから。食べるのはそれだけだから、別段人の子の何を損なうわけでもないのだけれどね。命も、何も、脅かすことはなかったのだけれど」
けれど、折角人の子が、時に何よりも大事にする恋というものを、食べられてしまうのは可哀想だなぁと思って。
折角、大事に大事に育てているものを、急にぽんと失くしてしまうのは、とても寂しいだろうから。
「だから、代わりに俺の恋心をあげるから、もう人の子のものは食べないようにと言ったんだ。幸い、俺のそれは彼女達の口にあったようだから、こうして定期的に差し出してるわけだけど」
例えるなら、氷砂糖のようなものだという。ゆっくりと時間をかけて大きく結晶化していくそれは、甘いけれど柔らかく、優しい味をしているのだと。砂糖菓子とは違う、穏やかな甘さはゆっくりと口の中で溶けて、彼女達を満足させるには十分なのだとか。
切ってしまってもよかったのだけれど、恋心をちょっと食べるぐらいのことだし、それに恋を知らずに、恋に憧れているだけの人の子を切るのも可哀そうだろう?俺のもので済むのなら、それでいいかと思ったんだ。
そう、朗らかに、なんてことのないように語る冬の星のような刀の満足気な微笑みに絶句し、南泉ははくり、と口を動かした。見開いた目が揺れて、彼の語ったことを咀嚼するようにごくりと唾を飲み込み、くらくらする頭で長義を凝視する。
「は、・・・おい、ちょっと待て。それって、お前」
お前、恋を、していたのか。
愕然とすれば、長義はあぁ、そういうことになるね、と他人事のように頷いた。他人事なのは、その恋心を怪異にくれてやってしまったからか。今、彼の中には、確かに育っていたものがなくなってしまっているのかと思うと南泉は言い知れぬ不快感に苦虫を噛み潰したかのように奥歯を噛みしめた。ぐるぐる、と噛みしめた歯の隙間から唸り声が零れて、今にも掴みかかりそうな手を拳を作って押し留める。それは、お前、なんて。いや、それよりも。
「お前が、恋をしていた奴は、誰、なんだ、にゃ」
心臓が痛い。耳の奥でガンガンと耳鳴りがして、血液が全部頭にいってるんじゃないかと思うほどくらくらする。恋を、恋をしていたというのか。お前が、化け物切りが。怪異にくれてやれるほどの恋を、形にしてしまえるほどに確かな感情を、一体、誰に。
南泉が想うその横で、お前は誰にその心を向けていた?
いっそ喚いてしまいたい。掴みかかって、押し倒して、怒鳴り散らすように問い質したいのに、ギリギリのところでそれを押し留めてぎゅう、と拳を握りしめる。それは南泉の矜持が為せる業で、みっともないところを見せたくないという格好つけの動機で、踏み込むことを僅かに畏れた臆病者の在り方だ。
握りしめすぎて手の甲がぶるぶると震えて血管が浮き出たが、南泉は長義の一挙一動を見逃さぬように爛々と瞳孔を見開いた。
その南泉の痛いほどに強い視線を受けている癖に、長義は平然とした態度を崩さなかった。しっかりと南泉を見据えて、ゆっくりと唇の端を持ち上げる。瑠璃色の双眸を細めて、白く整った美しい顔を綻ばせるように頬の筋肉を使って。淡い唇が、艶やかな笑みを刻む。そうして紡がれた言葉に、南泉は呼吸を止めた。
「君だよ、南泉」
「・・・・・・はっ、ぁ?」
「だから、俺が恋をしていたのは君だ、南泉。一目惚れって奴かな、顕現して君と会ったその日から、どうも俺は君に恋をしてしまっていたらしい」
まぁでも、500年も前からあったものだし、一目惚れというのも適切ではないかもしれないけど、と感慨深そうに呟いた長義に、南泉の思考が追い付いてこない。
耳を素通りしてしまったのではないかと思うほど、一切何も考えが纏まらず、はくはくと唇を戦慄かせて棒立ちになった。呆けたように口を開けて、瞳孔を開いたまま固まっている南泉の顔を覗き込むように長義が一歩近づく。かちり、と小石を踏む音がして、南泉ははっとして飛び退くように長義から距離を取った。ドッと、心臓が強く鼓動を打つ。止まっていた呼吸が戻ってきて、南泉は吃驚したように目を丸くした長義に指を突き付けた。
「な、は、はぁ?!お、俺を、すき、好き!?はぁ?!」
「わぁすごい。まるで胡瓜を見た猫の動画のようだよ、猫殺し君。垂直跳びがこんなに得意な刀剣もいないんじゃないかい?」
「おっまえ!お前なぁ!!こんな時にふざけてんじゃねぇにゃ!!お、俺を好きって、好きって・・・!はぁ!?」
「そんなに意外かい?結構わかりやすかったと思うんだけど・・・まぁ、定期的になくしてたからね、確かに気づきにくいかもしれないな」
長義の声で、好き、という単語がリフレインする。頭の中で繰り返されるその単語に脳内が真っ白になりながらも、南泉はくわっと大きく目を見開いた。
「・・・それだっ!!どういうつもりだ、山姥切っ」
「うん?何がだい?」
「だからっ・・・・俺がす、好きな癖に、それを怪異にくれてやるとは、どういう了見だ!!にゃ!!!」
今南泉は、自分でもみっともないと思うほどに動揺していた。予想外のところからの告白に動転し、胸が歓喜に震え、けれど彼が為したことを思えば喜んでもいられるはずがない。顔色を真っ赤にしたと思ったら今度は血の気を引かせ、ずくずくと痛む心臓をぎゅっと服の上から押さえて長義をねめつける。何故、どうして。わざわざ、南泉への恋心を捨てるような真似をするのだ。捨てずに取っておいてくれれば。育てておいてくれれば。きっと今までの南泉の苦しさも報われるというのに、どうして。
――俺へのそれは、お前にとって不要なものだったのか?
女々しい。元はただの腐れ縁だっただけの癖に。気付かなければ。南泉が自覚さえしなければ、きっとこの長義の行動だって何ほどのものではなかったはずなのに。しかし、南泉は気づいてしまったので。この、目の前の美しく残酷な刀に、恋をしてしまったので。
どうして捨ててしまったのかと、どうしてそれを俺にくれてはくれなかったのかと、相手を責め立てたい思いで唇を噛んだ。あぁ、なんて愚かな。愚かな恋。こんなにもままならぬものを、自分の身でさえ操れなくなるような激情を持て余して、南泉は途方に暮れたように項垂れた。――なぁ、恋を失ったお前に、俺のこの思いはどこにやったらいい?告白さえも無駄な気がして、南泉の口元が歪に歪む。あぁ。いっそ。俺も、あの怪異にこの思いをくれてやれば、どんなにか。
「どういう了見かと言われても。どうせ俺は君に何度も恋をするのだし、構わないかと思って」
「―――え、?」
きょとん、と瞬いて、長義は少しばかり思案するように俯いてからこてり、と首を傾げた。その、無垢な子供のような表情に、懲りずにドキリと心臓を跳ねさせて南泉の息が止まる。ひゅっと空気を吸い込むと、長義は顔の横に垂れる髪を抓んで弄りながら、少しばかり照れくさそうにはにかんだ。
「どうも
まぁ、恋は何度でもできるけれど、それとは別に愛してもいるので、結局のところ何も失ってはいないのだ、と嘯いて、長義は心なしか自慢気に胸を張って見せた。
「俺の長年蓄積してきた愛はとても人様にあげられるような代物じゃないけれど、それに比べて生まれたての恋は何度食べても飽きないような味らしいよ。ふふ、さすが俺の恋心だと思わないか?」
「いや、え、・・・え?」
「間抜け面だねぇ、猫殺し君。猫、というよりは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔かな?」
近づいてきた指先が、からかうようにぷに、と頬を突く。くつくつと喉を鳴らして、悪戯にニヤリと笑った長義の目はひどく愉快そうで、その切れ長の双眸をはたと見据えた南泉はぐっと息を詰め、顔に熱が集まっていくのを自覚した。あぁ、駄目だ。こんなの。こんな奴。
「・・・もう、やらねぇことはできないのか、にゃ」
「約束をしてしまったから。ただ、俺の一部を食べているようなものだし、その内満足して消えるんじゃないかなぁとは思っているよ」
「その内って、気が長い話だにゃぁ・・・」
付喪神のその内、なんて、何年単位のものだと思っているのか。がくりと肩から力を抜いて、呆れ果てた様子で南泉は長義に対して力なく首を横に振った。怪異なんて、さっさと切っちまえばよかったのに。切ってしまえば、甘さなど見せなければ――長義の恋は、全て南泉のものだったのに。そう思うと、むっくりと不満が頭を擡げて顔を覗かせた。それが南泉の表情にも現れて、おや、と長義の目がぱちりと上下する。
「猫殺し君?」
低く通りの良い声は、南泉にとってあまり嬉しくないあだ名で呼んでくるけれど。青い瞳は、真っ直ぐに南泉だけを映していたので。それに少しだけ溜飲を下げて、けれど面白くはないな、と南泉はつい、と目を細めた。面白くない。あぁ、そうだ。全然全く、これっぽっちも面白くなどない。だって、南泉のものを、南泉が貰うべきものを、こいつはよりにもよって怪異などに渡していたのだ。
どうせ、その怪異もこいつのゆるゆるがばがば判定で人扱いをした故の情けなのだろう。人の枠を外れたものなんて、元人であって人ではないのだからとっと切ってしまえばそれで終いだというのに、この特大級に人の子に甘い付喪神はなんだかんだで目が離せやしないのだ。
馬鹿じゃねぇの、と本気で思う。
馬鹿じゃねぇのか。あげるべき相手にやらずに、やらなくてもいい相手にやるなんて。
だから、その腹いせに南泉は長義の襟首を引っ掴むと、突然の行動に反応が遅れたのかぎょっとした長義の青い目と見つめ合ったまま、がぶり、と、減らず口を叩くその口に噛みついてやった。口付けだなんて甘ったるいものなんかじゃない。噛みついて、牙を立てて、その肉を食い破って。痛みにぴくりと寄った眉にザマァミロと目を細めて、最後にぺろりと、滲んだ血を舐めとるように赤い舌先を閃かせた。なぞるように優しく、僅かな唇の弾力を楽しむように這わせて、鉄錆の味が舌の上に広がり悪くないな、と唾液ごと飲み下す。
ごくり、と喉が鳴って、襟首を掴んでいた手を放せば僅かに相手の体がよろめいた。長義は茫然とした様子で強く赤味が増した唇に指先で触れて南泉を見つめて体を震わせる。白い頬が薄らと上気して、赤くなる様がひどく愉快だ。胸が満ちていく充足感にふふん、と鼻を鳴らした。
「な、な、な、き、君・・・っ」
「ハッ。いつもの余裕はどうしたよ?化け物切りぃ。かーわいい顔になってるぜ、にゃ」
「っか、可愛いのは君の語尾の方だろう?しつけのなっていない猫だな、全く」
「猫は気まぐれだからにゃぁ。気にくわねぇことがあるとすーぐ噛みつくし、見誤ると怪我するぜぇ?」
くつくつと喉奥で笑い、南泉は一度目を伏せると、次の瞬間にはぎらり、と獲物を狙うが如く、その眼光を光らせた。
「覚悟しろよ、化け物切り。てめぇが恋をくれてやる度、怪我しない日はねぇと思え、・・・にゃ」
あぁくそ、締まらねぇな、と出てきてしまった呪いに顔を顰めたが、噛みつかれた長義としてはそれをからかう余裕もないらしい。目を白黒とさせて状況が呑み込めていないようで、その滑稽な姿は面白いな、と南泉もいくらか胸がすっとした。
「そ、それ、は、どういう」
「あーあ。ったく、こんなの後藤達にどう言えってんだろうなぁ。お前、バレたら説教の1つはされるってこと覚悟しとけよ、にゃ」
「後藤?なんで後藤達が?いや、南泉。これは俺が勝手にしたことだから、なぁ、おい、南泉!」
さて、散々気を揉ませてきてしまった後藤達に、どう説明したものか。くるりと踵を返して黙考してしまった南泉に追いすがるように、長義の声が後に続く。
はぁ、全く。面倒な刀に恋などしてしまったものだ。
自分の趣味の悪さにほとほと呆れ、けれどそれを捨てる気も、誰かにくれてやるつもりもさらさらなく。とりあえず当分は、あいつを振り回してやろうと心に決めた。
今まで振り回されてきたお返しだ、とほくそ笑み、明日を思って楽しげに喉を鳴らす。
あぁだって、あいつは俺を見る度恋をするというのだから、そんな相手から手を出されればそれはさぞかし痛快なことになるだろう。
あいつが何度でも恋をするのなら。何度でも、見る度に、南泉に恋をするというのなら。それなら南泉は、自覚したたった一つを抱えて、そうして長義が恋を差し出さなくてもよくなった時に、大きな塊になったそれを、笑顔で投げ渡してやろうと胸を躍らせた。
遠い未来は、けれど付喪神にとっては決して長すぎる、というわけでもなくて。
ころりと転がる小さな塊を、後生大事に、永遠に抱えていくことを決めたのだった。