そのベールを上げるのは、
柔らかに光を跳ね返す艶のある純白のサテン生地。フロント部分は短く、後ろに流れるに連れて長く形を整えられた裾野は床になだらかなドレープを描いて広がっている。
わざと膨らみを作っているのか、丸みを帯びたスカートの形はその下にそれなりのパニエを仕込んでいるのだろう。スカートの裾からフリルとレースがチラリと垣間見え、首とデコルテの部分は薄いレースでまろやかな素肌を透かして、肩口はパフスリーブで膨らみを帯び細くしなやかな二の腕が伸びていた。手首まで覆う短い手袋もレースで作りこまれ、フロント部分が短いゆえにしっかりと見える足元は足首から膝まで絡みつくように交差するレースリボンが白い足に異なる白さを際立たせ、少し高めのヒールが大人びた印象を与える。
まるで、純白の花のよう。フリルとレース。チュールとサテン。異なる材質、同じ白でも異なる白の組み合わせでまるで幾重にも折り重なった花弁のような様相で、部屋の中に一輪の純白の花が咲いたように見える。思わずうっとりと溜息を吐きたくなるようなその光景に、休憩用のお茶菓子を持って訪った長義は思わずほぅ、と吐息を零した。
「とても綺麗だね、乱」
「あ、長義さん」
明けた障子戸を後ろ手に閉めて部屋の中に入りながら、足元に主を侍らせ立ったままの乱に長義は声をかけた。主は集中しているのか、乱の着ているドレスにチクチクと針を通してひたすら微調整を繰り返している。なるほど、まだ仮縫いの段階なのだな、と思いながらトレイに乗せたお茶と茶菓子を生地と型紙、糸やレースといった素材で溢れているテーブルの上に先住者を退けるようにして置くと長義は改めてドレスを身に纏った乱藤四郎に視線を向けた。
「今回のテーマは婚礼かい?」
「そう。6月でしょ?えっと、西洋でじゅーんぶらいど?っていうらしくて、折角だから花嫁さんにしようって主さんが」
「一期一振が見たら泣いてしまいそうだね」
「あ、もう泣いてたよ、いち兄。おっかしいよね。ボクならお嫁に行くんじゃなくてお嫁を貰う方なのにさ!」
そもそもモデルなだけで、実際式をあげるわけじゃないのにね、と笑う乱に確かに、と長義も頷く。多分想像だけで感極まったのだろうが、この本丸の一期一振はいささか感情が豊かすぎる節がある。そしてその代わりのように弟達が割りとドライな性格をしているのだが、兄弟仲は変わらず良いので問題はないのだろう。
さておき、そろそろ主に声をかけなければならない。ここをもうちょっと詰めて、丈はこれでいいかなぁ、などとぶつぶつとぼやいている主に視線を向けた。
「主、そろそろ休憩を入れた方がいい。乱も立ちっぱなしでは疲れてしまうよ」
「へあ!?」
「ボクはまだ平気だけど、確かに主さんは休憩した方がいいかもね」
声をかけると、すっかり裁縫に集中していたせいかびくん、と肩を上下させて気の抜けた奇妙な声が主の口から飛び出す。その間の抜けた様子にくすくすと乱が控えめな笑い声を零して、主に呼びかけた。
「ほら、長義さんがお茶を持ってきてくれたんだよ」
「ほえ、あ、長義っ?何時の間に部屋に入ってきてたんだ?」
「つい今しがたかな。ほらほら、針は危ないから置くようにね」
手首につけてあるピンクッションに針を刺すように促しながら、長義は目をパチパチと瞬かせる主に微笑ましく目を細めた。集中しすぎると周りのことが目に入らなくなることが悪い癖だが、それもまた愛嬌の1つと言える。それが事務仕事にも生かせるといいのだけれど、まぁそれは高望みというものだろう。
促されるままピンクッションに手元の針を刺し、テーブルに置かれたお茶の前に座った主はまだ仄かに温かい紅茶のカップを両手で抱え持つと、ミルクをたっぷりと注いでこくりと一口啜った。
「この紅茶、長義が淹れてくれたのか?」
「まぁね。お菓子は祖が作った物だけれど」
「ボク燭台切さんの作ったクッキー大好き!いくらでも食べれちゃうよ」
「食べるのはいいけど、ドレスに落とさないようにね」
すとん、とドレスの裾を広げながら座った乱に一言注意をかけながら、言った傍からポロポロと食べかすを落とす主の方にお手拭を渡す。乱よりも主の方がよほど注意していなければならなかったな、と思いながら口元についている滓を甲斐甲斐しく拭き取ると、長義はざっと部屋を見渡して瞬きを一つこなす。
「あぁ、今回はこの衣裳と揃いなんだね」
「ドールの方は一応な。あとで乱の方のドレスにもコサージュとかつけてく予定なんだけど、ベールの形をどうしようか迷ってるんだよ」
手を伸ばして脇に飾られているドールを手に取り、その細部にまで拘った純白のドレスをしげしげと眺めて、座る乱と並ぶように掲げ持つ。比べてみると、そっくり同じドレスをきた一対の人形がそこにあるようで、相変わらず服飾の才能は素晴らしいものがあるな、と長義は誇らしく頷いた。
元々、長義達の主は趣味でドール服を手掛けるハンドメイド職人だったが審神者になったことで一時期その製作を止めていた経歴の持ち主だ。就任当初は初めてのことばかりで余裕もなく、趣味に裂く時間も作れなかったが本丸の運営も軌道に乗り、勝手がわかるようになると幾分か自分の時間というものが作れるようになる。それに加えて、刀剣男士という見目麗しい付喪神が傍にいたことも、彼の創作意欲に火をつけるような形になったらしく、気が付けばドール服と揃いの人間用の衣裳も手掛けるようになっていたのだとか。
特にモデルは乱藤四郎や粟田口といった短刀が多い。どちからというと線の細さや性差というものを感じにくいジェンダーレスな部分がドール服との相性が良いとのことだが、脇差以上の刀剣も稀にモデルを頼まれていることもあるので、要するに刀剣の気持ちと主のイマジネーションが噛みあえば何でも良いのだろう。
本業ではなくあくまで趣味の範囲だというが、その腕前はプロに勝るとも劣らないと本丸の刀剣は全員思っている。
実際、主の手がけた服飾は固定ファンとやらもついており、一度市場に出せば即座に買い手がつく程度には認知もされており時にはオークションに出されるほどだともいう。
最も、作り手本人は評価にこそ喜びこそすれ、あくまで好きでやっていることなので金銭に関してはそこまでの執着はないらしい。博多藤四郎が商売の臭いを嗅ぎつけていたが、あくまで本業が戦争従事者であることを忘れてはいないので泣く泣く諦めているのが現状だ。
そして、最近の主は男士とドールの揃いの衣裳を作ることに嵌っている。人形が来ている服とそっくり同じ服を男士にも着せ、写真を撮ってネットにアップする。宣伝も兼ねてらしいが、その写真は大層好評らしく写真集の要望もあるのだとか。さすがにそこまでするつもりはないらしいが、博多藤四郎が虎視眈々と狙っているとかいないとか。
さておき、今回の衣裳もその一つであり、こうして時間も忘れてせっせと作業をしていたわけだが、悩むように眉根をよせた主に長義はこてり、と首を傾げた。
「ベール?」
「そ。ベールにも色々種類があってな。長さとか、刺繍とかビーズとか、まぁデザインに迷っててなぁ。ドレス自体はそこまでゴテゴテしてねぇから、マリアベールでもいけそうだけど、この形ならどっちかっていうとフェイスアップかなぁ」
「長義さんはどれがいいと思う?」
そういって、指についたクッキー滓や油をお手拭で拭い取った乱が、悩む主の横からごそっと件のベールを取り出して並べて見せる。それを眺めて、なるほど、と長義も頷いた。長さ1つとってもショート、ミドル、ロング、と3種類あるが、その中でも細分化されて実に細かい仕分けがなされている。そこに施す飾りも、シンプルに何もしないのか、それとも縁にレースをあしらうのか、ビーズ刺繍をあしらうのか、といった違いで更に小分けされ、その一つを手に取りながら長義はうぅん、と小さく唸った。
「これは迷うね。どれも似合うとは思うけれど…」
「そうなんだよなぁ。どれも似合うから困るんだよなぁ」
うちの子ホント可愛くて綺麗だから、なんでも似合うのマジ困るんだよな、としみじみと頷く主に乱の誉れ桜がはらひらと舞い落ちる。主からの掛け値なしの賛辞を送られて喜ばない男士などいるはずがなく、薄らと頬を染めて喜ぶ姿はまるで愛しい新郎を前にした新婦そのもの。両頬に指先をつけて、えへへ、と笑う乱に目を細め、長義は再び並べられたベールを見下ろすと黙考し、するり、と透けるようなチュール生地のそれにとん、と指先をあてた。
「ブルースターの、刺繍はどうだろうか」
「え?」
「ブルースター?」
「こう、ベールの端から縁取るように、淡い青の花の刺繍をいれるんだ。青いものを身に着けると花嫁は幸せになれる、というし。青い薔薇でもいいけれど、ブーケなどにブルースターもよく使われると聞くよ」
全てが真っ白だから、少しぐらい差し色が入っても綺麗ではないだろうか。そう言って、そこに刺繍があるかのように無地のベールの縁を白い指先が辿ると主は一度目を閉じて、何かを思い浮かべるように息を潜めた。乱も、辿る長義の指先を見つめ、キラキラと青い瞳を輝かせる。
「――いいな」
「うん。すっごくいい。それ、とっても素敵だよ、長義さん!」
「ブルースター、ブルースターか。こういうのはカサブランカや薔薇が多いから目を惹くな。そうなると、ドレス、ドレスにも刺繍が欲しいな。うん。ドール服にも手直しをして、…長義」
「何かな」
「お前、刺繍できたよな?ドレスの方は俺がやるから、ベールの方だけでも頼みたいんだが」
「あまり手慣れてはいないのだけど、提案したのは俺だからね。期待に沿うように尽力しよう」
「よし、決まりだ。乱、悪いけど撮影はまた今度だ。急ピッチで手直しするぞ!」
「はーい!まっかせて!ボクも手伝うよ」
そういって、生き生きと顔を輝かせた主と乱が、早速とばかりに青い刺繍糸を選出し始めるのに合わせて、長義もまたベールに合わせる刺繍糸を選ぶ輪に混ざる。ほぼ完成している中に急遽予定外の作業を組み込ませてしまったことに申し訳なく思う気持ちもあるが、より良いものにしたい、という欲求は職人、あるいはその職人の手から生み出された刀剣として無視できるはずもない。とりあえず、寝食を忘れないように注意だけはしなくては、と夢中になって刺繍糸と図案を描き始める主の姿を視界に収め、長義は滑らかな手触りのベールをふわりと抱きしめた。
※
チクリ。チクリ。しゅるり、しゅる。煌めくような淡い青の糸が、細い銀の針の動きに合わせて踊るように薄絹の上を滑っていく。
チクリ。チクリ。しゅるり、しゅる。糸を通す度にぷくりと浮き上がる図柄に一刺し一刺し丁寧に仕上げながら、最後に糸を止めてぷつりと糸を切れば、そこには青い花園が広がっていた。ばさり、と広げれば、四角い形のチュール生地の縁にぷっくりと少し立体感を持たせたブルースターが咲き誇りその出来栄えにほっと息を吐くように皺の寄っていた眉間の力を緩めた。
「出来た…」
感慨深く呟くと、大事そうに仕上がった刺繍に指先を伸ばしてうっとりと這わせる。細やかな凹凸を愛しげに撫でて、早速これを主のところに持っていかねば、と立ち上がりかけた瞬間、すらりと部屋の障子戸がスライドした。
「入るぞー化け物切りぃ」
立ち上がろうとして出鼻を挫かれ、座布団の上に座り込んだままの長義は言いながら入ってきた昔馴染みの姿にクッと緩んだ眉間に再び力を込めた。
「許可もなく入ってくるなんて、礼儀のなっていない猫殺し君だな」
「お前が言えた義理かよ。ほら、物吉からのお裾分けだ、にゃ」
軽いジャブのように投げかければ、すげなくそれを受け止めて投げ返さる。テンポの良い応酬にどこか張りつめていたものを緩ませ、目の前にお茶と共にトン、と置かれた皿の上のお菓子に首を傾げる。幾重にも層になった、丸い円を切り取ったような扇形のケーキ。記憶を照らし合わせて、それがバームクーヘンと呼ばれるお菓子だと辺りをつけた長義はどかりと前に座った南泉にちろりと視線を向けた。
「お裾分けって?」
「万屋街にある幻のバームクーヘンなんだと。焼き上がり時間はランダムで、その上毎日あるわけでもない、買えるかどうか運任せだそうだぜ」
「なるほど。彼の得意分野だね」
万屋に出向いて、幸運にも焼き上がり時間に立ち会ったというところなのだろう。そしてそれを他者にも惜しみなく分け与えるのも、彼の刀の良い所だ。ならば有難く頂こう、と強張った肩をぐるりと回しながら長義はすでにバームクーヘンにフォークを突き立てて切り分けている南泉を尻目に、まずは口の中を湿らせようとお茶に手を伸ばす。
バームクーヘンには牛乳が合うと言うが、その代わりにミルクティが並々とカップに注がれている。薫る紅茶の芳しさに目を細め、薄い唇を縁に近づける。触れると少し熱く、口に含めば鼻を抜ける芳香とミルクの混ざった口当たりの良い仄かな甘みが舌の上を滑っていく。食道を通って内側から温まるようなほっとする温度だ。
「このミルクティを淹れたのは亀甲かな」
「あー貞宗のとこはこういうの上手いよな」
「太鼓鐘は確か食事系が得意だったっけ」
「パスタとかだろ。あれは燭台切の影響もあんだろうにゃぁ」
「彼自身は祖が作るものが一番だと豪語して憚らないけどね。まぁ俺も祖の作るものが一番だと思うが」
「歌仙はどうだよ」
「ジャンルが違うな。上手いこと歌仙と祖の得意ジャンルは被らないことだし。勿論二振り共、万弁なく美味しいものを作ってはくれるけれど」
政府での食事が美味しくなかったわけではないけれど、大衆向けに量産されたそれと本丸で刀剣自ら手がける食事とではやはり違うものがある。どっちがどう、などと優劣をつけるのではなく、あくまで好みの問題だとは思うが長義は自本丸の刀剣達が手ずから作る食事を好んでいることは事実だ。祖の作るご飯は美味しい。政府勤めの同位体に自慢できる内容ではあるが、それをすると大体やっかみを受けるので大人しくしているのが一番だ。
話しながら皿を持ち上げ、そっと横に薄く削ぐようにフォークでバームクーヘンに切れ込みを入れる。食べ方も見苦しくなく、マナーを守って美味しく食べられればなんでもいいと思うが、この削いで食べるというやり方が垂直に切れ込みを入れるよりも美味しいと長義は思っている。まぁ要するにこれも好みの問題なのだが、口に含んだ瞬間しっとりとした生地の甘みと焼けた部分の香ばしさが口の中で合わさって蕩けるように目を細めた。このバームクーヘンすっごく美味しい。
「すごい。さすが幻のバームクーヘン」
「物吉に感謝だにゃ」
垂直に切ったバームクーヘンの欠片を堪能し、ふにゃ、と相好を崩す南泉にコクコクと頷く。物吉すごい。こんなものお裾分けしてくれるなんて。今度何かお礼をしなくちゃ、と思いながら黙々とバームクーヘンを頬張っていると、一足早く食べ終えた南泉がミルクティを啜りながらそういえば、と口を開いた。
「主に頼まれてたベール?の刺繍、できたのか?」
「誰に物を言っているのかな。完璧に仕上げたに決まっているだろう」
口の中にまだケーキが残っていたのできっちりと飲み下し、中に何もなくなってから喋ったのでテンポが遅れたがそれでも自信満々に見下ろすかのごとく言い草で、長義はにんまりと目を細めて皿をお盆の上に置くと、見せつけるようにばさりと脇に置いたベールを広げて見せた。
ふわり、と空気を含んだ柔らかなチュール生地が広がり、南泉の目の前にパッと青い花園が広がる。軽く目を細めて、達成感に溢れた快活な笑みを浮かべる長義と、鮮やかにしとやかに、刺繍の施されたベールに南泉はへぇ、と吐息を零した。手を伸ばしてみれば、抵抗なく長義も南泉に力作のベールを受け渡す。さらりとした手触りのそれを手元で広げて、長義手ずから縫い付けた刺繍の花をまじまじを眺めた。半透明の白いチュール生地に、淡く光沢のある糸で描かれた青い花園が広がっている。華美ではなく、決して白を食わない程度に配慮された淡い花園は慎ましく凛と咲いて、南泉はその出来栄えにすっと目を細めた。
「綺麗だな」
「そうだろう?なにせ主の図案で、それを俺が手掛けたのだからね。ドールの方のベールも刺繍が終わっているし、これから主の所に持っていくんだ」
「へぇ。よくこんな細かいの刺せるな」
「君は糸なんか触っていたら絡まってしまいそうだよね」
「じゃれつかねぇよ!!」
毛糸玉で遊ぶ猫じゃねぇぞ!と反論する南泉に、へぇ、と揶揄するような響きを込めて長義の目が悪戯にしなる。ギクリ、と肩を強張らせた南泉に、丸いものは好きなのにねぇ?とくすくすと笑い声を零した。
「うぐぐ…っ」
「まぁ、もし絡まっても解いてあげるから安心しなよ。細かい作業は別に苦ではないからね」
「万が一、臆が一!そんなことになってもお前にだけは頼まねぇにゃ!!」
「おやおや、そんな情けない姿を他に晒す度胸があるとは、恐れ入ったよ」
「お、お前に馬鹿にされるよりはマシだ、にゃぁ!」
「ふぅん。まぁ、そんなことになったら是非見せておくれよ。楽しそうだから」
「絶っっ対!見せねぇよっ。つか、そんなことにならねぇよ!!」
噛みつくように長義に反論して、目尻をキリリと吊り上げる。その反応すら面白可笑しい、とばかりに長義はくすくすと吐息を漏らして、さて、と話を唐突に切り上げた。
「猫殺し君でリフレッシュできたし、主の所に行ってくるよ」
「性質の悪いリフレッシュの仕方だなおい」
目を半目に座らせてじとりとねめつける南泉ににっこりと輝かしい顔を向ける。その全く悪びれもしない清々しいほどに晴れやかな顔にひくり、と南泉の口角が引き攣ったが、やがて大きな溜息を一つ吐き出してぐったりと項垂れる。しかしそこでふと、手元のベールを見下ろして思いついたように顔をあげた。
長義に至っては、南泉の食べ終えた皿ごとお盆に乗せて、脇に退けるように横に向いている。白銀の髪が滑る白い横顔を眺めて、ほぼ衝動的に南泉はふわりとベールを広げた。
「…は?」
気の抜けた、素っ頓狂な声が淡い唇から零れ出る。丸く見開いた視界は薄靄のようなベールに遮られ、少し煙る視界のすぐ近くで、金色の猫目が閃いた。
「やっぱ似合うなお前」
「は?いや、いきなりなんなんだ」
さして重みは感じないが、それでも確かに頭上に感じる違和感と遮られる視界に、長義は自分の頭の上に何が乗っているのか正確に把握していた。少し視線を落とせば、青い花が健気に咲いている姿が目に入る。自分が睡眠時間を削って仕上げた花に間違いようがなく、自分は今、南泉に作り上げたベールを被せられたのだと理解してきょとり、と瞬いた。
少し頭を傾ければ、ずるりとベールがズレそうになる。固定をしていないので当然だが、咄嗟に手を伸ばしてベールに触れ、長義は正面から何処か満足そうな南泉に怪訝に眉を潜めたが、同時にふと閃いてベールの下で口角を吊り上げた。
「そういえば、知っているかい猫殺し君」
「なんだよ」
ベールを被った長義をしげしげと眺めていた南泉が、長義の一言に首を傾げる。その様子を内心で可愛いなぁ、ときゅんと胸を高鳴らせながら、長義は肩繰りから滑り落ちるしなやかなベールの裾をちょいと抓んで、ずれないように微かに首を傾けた。
「花嫁のベールは、花婿しか上げることは許されていないんだよ」
「…ほー」
「古来より、結婚という儀式は花嫁となるものの死をイメージしている。死んで、新たに生まれ変わることを嫁入りに例えているんだね。だから、花嫁を生者にできるのはその者の夫になるものだけ、というわけさ」
「なるほどにゃ」
「それで、俺は今死人なわけだけれど、どうしてくれるんだい?」
「こんな生気に溢れた死人初めてみたにゃー」
呆れたように細くなった目に見られるも、長義は楽しげな顔を崩さない。ベールとはこの世とあの世の境目のようなもので、一説には魔除けの意味もあるという。たった一枚の薄衣に大層な意味を持たせたものだと思うが、日本の婚礼衣装の角隠しも似たようなものなので、国は違えど婚姻に対する根本的な思想はどこの国も変わらないものなのかもしれないな、と長義は奇妙な繋がりを見た。
が、しかし、だ。ああは言ったけれど、特に長義にこれといった深い思惑はなかった。せいぜいちょっとした言葉遊び程度のそれで、豆知識の披露といったところか。なにせ南泉は長義の恋人でもなければ旦那でもなく、長義も南泉の恋人でもなければ妻でもない。そもそもの前提が成り立たないので、長義は一頻り南泉とのやり取りを楽しむとさっさとベールを剥ぎ取ろうと指先に力を込めた。まぁ、俺達には関係のない話だけどね、と微笑みを浮かべながら瞼を伏せ、ベールの裾を引っ張り――その手を遮るように、南泉の手がベールの縁にかかった。
きょと、と瞬いた視界が、薄靄からクリアなそれに変わる。一枚隔てた向こう側にいた南泉の顔が、何にも遮られることなく鮮やかに写り込めば、しかしすぐにそれは焦点がぼやけて見えなくなってしまった。いや、正確に言うと、南泉の黄色い猫目だけが克明に、長義の瞳に映り込んだ。しっとりと重なるように。啄むように微かに。仄かな熱が、唇に触れる。柔らかな感触が一瞬触れたと思ったら、すぐにその感触は遠ざかる。
それは瞬きの間に終わるほど一瞬で、風が通り抜けたかのようにささやかで。離れていく南泉の顔がぼやけることなく視界に全て映り込むと、長義は今起きたことの処理が追いつかないまま茫然と、離れた、しかしまだ近い南泉の顔を見つめた。伏し目がちの瞳が、キラリと宝石のように煌めく。いや、獲物を捕まえる獣のように、ギラついたのか。
唇の熱はすぐに冷めて、全然熱くはないはずなのに。何故だろう。顔中、耳まで熱いと感じるのは。吐息すら感じるほど近く。けれど絶対触れない距離で。南泉の瞳が、はんはりと三日月を描いた。
「知ってるか?花婿が花嫁のベールを上げるのは、誓いのキスをする時なんだよ、…にゃ」
低く掠れた、してやったり、の声音とは裏腹の、目尻に差した朱とは違う赤の色に気が付いて。近くて熱い、眼差しに射抜かれて。長義は、掠れた声で唸りをあげた。
「順番をすっ飛ばしすぎだ、このすけこまし!」
「人聞き悪いこと言うんじゃねぇにゃあ!」
どったんばったん。ぎゃあぎゃあにゃぁにゃぁ。
賑やかな喧噪に、ひらりと一枚。ベールが床に落ちたことなど、戯れる二振りが気づく由もなかった。