ウィッチハンターちょうぎ!
薄紅の桜がはらひらと散り落ちる校門を、軽やかな少女達の笑い声が通り過ぎる。
広い校庭では運動部による掛け声と、校舎の窓から吹奏楽部の楽器の音が響いて放課後を彩った。学校はまだまだ静けさとは程遠く、賑やかな学生たちの息遣いに耳を欹てながら、少女は1人残った教室の中で、まだ陰り始めたばかりの日差しを浴びて小さな文庫本を机の上に広げていた。持参したものであろうか。青い無地の布地に、三毛猫の後ろ姿のワンポイントが入ったブックカバーをかけて、扇形に広がる長い睫毛を伏し目がちに細かな活字を追いかける横顔はひどく美しく整っていた。すっと通った鼻筋は高く小ぶりで、更に下に視線を落とせばふっくらと形良い唇は瑞々しい桜色に色づいていた。
陶磁器のように白く肌理細やかな肌は染み一つなく、まるで一つの精巧なビスクドールのようにいささか冷たく無機質に見えるが、薔薇色に染まった頬と、長い睫毛の下できらりと光る深く吸い込まれそうなラピスラズリの瞳の、生気に溢れんばかりの輝きが少女を生きた人なのだと認識させる。白く細い首筋から背中の中ほどまでを覆い隠す艶やかな髪は、冬の星を思わせる銀色で、絹糸のように細くしなやかなそれが、さらりと肩口を滑り落ちて前に垂れ下がった。真っ直ぐに背筋を伸ばして読書に耽る姿はそこだけ外界から切り離されたように凛として、冒し難い静謐な空間を作りだしている。外の喧噪が一瞬遠く、小さく聞こえ、余所の世界の出来事であるかのように思わせるほどに。
少女…長船長義の世界は決して狭くはなく、けれど広いとも言い難い教室の一角で完成されていた。それは、おおよそその光景を見た他者が踏み入るのを躊躇い、見惚れるほどに完成された空間で、長義は誰に邪魔をされるでもなく黙々と本の中の世界に没頭することができた。
しかし、ふとその完璧とも言える世界に罅が入るかのように、長義がびっしりと活字が印字されている紙の上から視線を動かした。つい、と上がる顔と共に、いつから開いていたのか。外に面した窓から入ってきた風が、ふわりと少し埃っぽいカーテンを膨らませる。
カーテンの影が踊るように波打つと、一瞬だけ長義の視界を覆い隠し、しかしすぐにぱたりと動きを止めて項垂れるように落ち着いた。きぃ、と、カーテンレールの音が名残のように小さく鳴り、ラピスラズリの瞳がゆっくりと弓型にしなる。
「やぁ、猫殺し君」
ふっくらと甘そうな唇が、愉悦を含んだ声色で誰かを呼んだ。この教室に長義以外の人影はないというのに、そこに呼ばう人物がいるのだとばかりに生き生きと少女は少し意地の悪い微笑みを浮かべた。その視線の先で、たしーん、長く伸びた尾が不機嫌に揺れ動いた。
「その名で呼ぶんじゃねぇ、…にゃ、化け物切り」
教室内に、男の声が響き渡る。それは真剣に本の世界に入り込んでいた頃の静かな空気を最後の一押しとばかりに霧散させ、代わりに静謐とは違う、けれど世界を隔する奇妙な空間を作り上げた。
少女の目の前で、ピンと立った耳をピクピクと動かし、音を探る。ピンク色の小さな鼻は風に含まれた匂いでも辿っているのかひくりと動き、口元に生えた長い髭が鼻の動きにつられて揺れて、吊り上った口元から白く小さな牙が垣間見えた。光の量によって調節される瞳孔は今は縦に細く鋭くなり、ふてぶてしく半目になったそれが、にやにやと笑う少女の顔を写し取る。
そこにいたのは決して人間の男などではなく、愛らしい姿をした一匹の雄猫だった。ぐるりと周りを見渡しても、先ほど聞こえた声の持ち主の男はいない。ただ、長義の前の席に腰を下ろし、丸くなだらかなカーブを描く背中をした一匹の猫が鎮座するのみだ。たしり、と長い尾が机の上を叩く。体の前で揃えられた前足は足袋を履いているかのように白く、頭から胴体、尻尾の先まで覆う短めの体毛は黒と茶と白の3色の三毛模様。長い尻尾は不機嫌を表すようにたしんたしんと机を叩き、鋭い両目は金色で、中心の方が少し緑がかって見えた。
いつの間にか、少女の目の前には三毛猫が音もなく座っており、一見して野良猫でも迷い込んできたのかというような風貌であったが、少女の教室は3階に配置されており、早々野良猫などが侵入できるものではない。何より、猫は眼差しに動物にあらざる知性を湛えて、逃げるでも懐くでもなく、真っ直ぐに少女を見据えていた。
「化け物切り、とはなんとも可愛くない名前だね。この私を捕まえてそんな名で呼ぶのは君ぐらいだよ」
「化け物切りを化け物切りと呼んで何が悪いにゃ」
「それを言うなら君だって、猫を殺した猫殺しじゃないか」
「オレの場合は本意じゃねぇにゃ!…って、こんな言い合いをしている場合じゃねぇんだ、…にゃ。仕事だ、長義」
なんと奇妙な光景だろうか。牙の生えた小さな獣の口から、先ほど教室の空気を震わせた男の声がそれを当然のことのように流れ出した。多少語尾に訛りがあるものの、実に流暢に猫が言語を操る。
猫が喋る。なんとも奇妙で不可解な光景が、しんと静まり返った教室に広がるも、唯一それに疑問を向けられる相手もまた、人語を介した猫に意を介した風もなく、いや、むしろそれが当たり前のことであるかのように受け止めていた。長義は読みかけのページにしおりを挟みこみ、前に落ちた髪をさらりと後ろに流した。
「全く、言ってることは可愛くない癖に、語尾だけは可愛いんだから。猫殺し君は」
「可愛いとか言われても全っっく!嬉しくねぇにゃ!!」
長義の嫌味にフシャァ!と毛を逆立てるも、むしろ微笑ましく目を細めるばかりの仕草に今にも舌打ちをしそうな態度で、三毛猫はふるふると小さな頭を左右に振ると気を取り直すように背筋を伸ばした。…実際に伸びる背筋はなく、ただ心構えとして、そうしただけではあるが。丸くなったままの背中で、鋭く光った両目に長義の眉間が微かに皺を刻む。
それからふぅ、と溜息を零して、閉じた本の表紙を悩ましくつぅ、と指で辿るように撫であげた。
「別に仕事なのは構わないけれど、最近少し多くはないかい?俺の本業は学生であって、決して君のお手伝いさんではないのだけど?」
「文句があるならあいつらに言うんだにゃ。…まぁ、お前に無理をさせてない、とは言えないけど、…にゃ」
そういって、最初は不遜に、しかし最後はやや気まずそうに視線を逸らした三毛猫に長義の相好が崩れる。頬杖をついて、愛らしいなぁ、とばかりの眼差しでうろり、と視線を泳がせた三毛猫をこれでもかと愛でてから、長義はそうだねぇ、とリップクリームを塗って艶めく口を開いた。犬に比べて猫は表情がないというけれど、こんなにも愛らしい顔をされたらうっかりと絆されてしまうじゃないか。
「今日晩、私の抱き枕になるのなら許してあげよう」
「にゃ!?」
「君は一緒のベットで中々寝てくれないからね。偶にはそれぐらいの報酬は貰わないと、割に合わないな」
いくら私が与える者でもね、偶には褒美の1つも貰わないと、と嘯く姿にピーン!と尻尾を立てた三毛猫はうーうーと唸り声をあげる。しかし、やがてじっと見つめる瑠璃色の双眸に根負けしたようにしおしおと耳を下げて、うにゃぁ、と情けない鳴き声をあげた。
「…一晩だけにゃ」
「交渉成立だ。さぁ、現場はどこだい?さっさと案内しないか、南泉」
渋々、苦渋の決断だとばかりに低い唸り声混じりの承諾の声に、満面の笑みを浮かべ即座に席を立った長義が鞄に読みかけの本を押し込み、颯爽と制服のスカートを翻す。その変わり身の早さに一瞬ポカンとした三毛猫は、すぐさまこいつ、元からそのつもりだったな、とぶわっと毛を逆立てて、長義!と声を張り上げた。
「お前!お前って奴は!!」
「なにかな、南泉。ほらほら、仕事なんだろう?早く君の役目を真っ当したまえよ」
くすくすと笑みを零し、鞄を持ったまま教室を出て行こうとする長義の背中をねめつけて、三毛猫の盛大な溜息が教室に響き渡る。知っていたとも。あぁ、知っていた。あの女が、いけすかない性格をした奴だということは。上手いこと掌で転がされたような感覚により力強く机の縁を尻尾で叩き、三毛猫はうにゃぁ、と一声呻いたのだった。
※
まだ日は高く、けれど中天を過ぎた太陽は傾きその色味を強くする。あと数時間もすれば冴え冴えとした月が代わりに顔を出すのだろう夕暮れ時に、分不相応な悲鳴が辺りに響き渡った。
山に山菜でも取りに来たのであろうか。へたりこんだ男の周りには取り立てだろう山の幸が散乱し、ころりと籠が転がっている。大きく開いた足はがくがくと震え、その顔は恐怖と驚愕に引き攣り、はくはくと口を動かすのみだった。
「な、なんだお前ぇ!!」
混乱した頭で投げる誰何の声は情けなくも震えており、その声に応えるように気味の悪いしゃがれた老婆のごとく乾いた笑い声が、ひえっひえっひえっ、と不気味に辺りに木霊した。鋭く裂けた口元から覗く大きな牙は黄ばみ、真っ赤な舌がじゅるりと舌舐めずりをする。髪は白く色が抜け落ち、ともすれば銀色にも見えそうなほど細いがザンバラに乱れている。枯れ枝のように細く、骨と皮ばかりの筋張った手には老婆が握るにはいささか大きな鎌がぎらりと黒光りし、ぎょろりと飛び出た目玉の異様な輝きに圧倒されたかのように男の喉がひぃ、と悲鳴をあげて引き攣る。
一見すれば、その体躯はひょろりと細長く、押せば倒れるような頼りなげな風貌である。老いさばらえ、風化せんばかりの枯れ木のような老婆は、しかしただの老婆ではないのだと言わんばかりに全身から異様な気配を迸らせながら、白い着物の裾から、ずりり、と草鞋を穿いた足を土の上に滑らした。
「肉、肉をおくれ。新鮮な肉。血の滴るような、美味い美味い肉をおくれ」
しゃがれた声が、舌なめずりをするように男に請う。ぎらぎらと黒い鎌の刃を光らせて、黄色く濁った歯を剥きだしにしてケタケタと笑いながら男に近づいた。
「く、来るなぁ!!」
「肉を、肉をおくれよ・・・この老婆に、情けをおくれ・・・」
いかにも哀れっぽく、みじめな老婆のように声を出しじりじりと、男の恐怖を煽るように、老婆が近づく。その様子に泡を食いながら、じたばたと足を動かして男も後ろに下がろうとするものの、腰が抜けたのかその動きは遅々として進まなかった。男の顔から血の気がどんどん引いていく。目には涙の膜が張り、ハァハァと荒い呼吸音が鼓膜を震わせた。
また、ひえっひえっひえっ、と、老婆が笑った。飛び出た眼球を三日月にしならせ、裂けた口をより大きく釣り上げて狂喜の滲む双眸がひたりと男を見据える。べろりと、真っ赤に濡れた長い舌が、舌なめずりをした。
「お前の肉を、わしに寄越せぇ!!」
雄叫びは正に狂気の沙汰に違いない。しわがれた声があげた怒声に男の恐怖は臨界点を越え、悲鳴をあげて泡を飛ばした。老婆は、本当に老婆であるのかと思うほどに素早く、振り下ろした鎌の切っ先が寸分の迷いも躊躇いもなく男の命を摘み取ろうと襲い掛かる。
フシャァ!!!
今正に、その切っ先が男の首を刎ね飛ばそうと迫った先で、威嚇の声をあげて小さな影が躍り出た。枯れ枝のような老婆の手首にがぶりと噛みつき、爪をたてて短毛の三毛猫がしがみついた。
さしもの老婆も虚を突かれたかのように、慌てて飛びついてきた三毛猫を振り払うようにぶんぶんと腕を振り回し、後退る。猫は暴れる度に食い込む爪と牙を食いこませ、噛み千切らんとばかりにぶちりと皮膚を食い破った。老婆は表情を歪ませ、やがてしびれを切らしたかのように開いた片手で猫の首根っこを摑まえようと伸ばしたところでその動きを察知したのか、万力のように噛みついて離れなかった三毛猫は即座に口を放して身軽に飛び退いた。空ぶった手は悔しそうに握りしめられ、離れたところで着地した猫を睨みつける。毛を逆立てて威嚇する猫になんだお前は、と問いかけかけた所で、くすくすという笑い声が老婆の意識を持っていた。
「いい動きだね、さすが猫殺し君だ。優をあげよう」
満足気に、一触即発であった空気に相応しくなく鈴を転がすように可憐な声が気取った様子でそう判定を下した。声につられて視線を向ければ、枯れ木のような老婆とは対照的な、花のように美しい少女が制服姿で佇んでいる。瑞々しく張りのある肌が夕陽に染まり、完璧かと思われるほどに整った配置の目鼻立ちで悠然と笑みを少女は浮かべた。その態度に不満気な猫のなーお、という低い鳴き声が、代わりに少女に返答した。
「お前がちんたらしてるからだろうが、にゃ。さっさとやっちまえよ、化け物切り」
「猫の足の速さと人の足の速さを同列にしないでくれるかな。まぁでも、確かに。――人に仇為す不届き者を、いつまでものさばらしておく道理はないね」
猫が喋る。少女が平然と答える。その異様な光景を、老婆は警戒心を籠めて一挙一動に注意を走らせ、鎌を握る手に力を籠めた。
可憐な少女が、平然と凶器を持った恐ろしい形相の老婆と対峙する。その状況に唯一疑問の声をあげそうな男も、襲われた恐怖のせいか泡を吹いて気絶していたので、少女と喋る猫のやり取りは不気味な老婆にしか見られてはいない。股間の辺りのズボンの色が濃くなっていたが、こんなことになれば失禁も止むをえないだろう。
ムン、と漂うアンモニアの臭気に鼻をひくつかせ、その様子を横目でちらりと見た三毛猫は、まぁ都合はいいか、とそのまま放置を決め込む。とりあえず被害がこれ以上いかないようにと、男の近くに陣取ってぶん、と尻尾を振った。
老婆のピリピリとした警戒の糸が、引き絞られた弓弦のように張り詰める。全身に突き刺さるほどの強い警戒を、しかし心地よいものと捉えているような節さえみえる余裕を持って、少女は優雅な仕草で手の中で小さな刀を転がした。
ネックレスにでもしていたのだろうか。細いシルバーチェーンが通された刀の形をしたチャームは、しかしまだ年若い学生の少女がつけるには趣味が合うとは思えない。それよりもよほど、クロスや花の形をしたチャーム付きのネックレスの方が似合いそうなものを、少女はその小さなアクセサリーを大事そうに握りしめて、青い眼光を鋭く細めた。
「解放」
空気をハッとさせる鋭い声が、鳥の声さえ消えた山間に響き渡る。長義の声に呼応するかのように、チャームを握りしめた手の中で抑えきれないほどの光りが周囲を白く染め上げた。目が焼かれるほどに、強く白い輝きが溢れた次の瞬間。長義の手の中にあったのは、見慣れぬ大きな日本刀だった。まるで手品のようにいつの間にか現れたずっしりと重たげな刀が白くたおやかな手の中に納まっている。
見るものが見れば、その刀が少女が握りしめていたチャームと酷似していたことに気が付いたかもしれないが、生憎とこの場にいるのは持ち主の少女、と猫。それから不気味な老婆のみである。
濡れたように光る鋼色の豪壮な刀身は美しいが、それを握るのが華奢な少女だと思うといささかアンバランスにも思える。細身の刀であれば振るうにも楽で、もっと似合いであろうに、と思うものの、眼光を鋭くする少女には、何故かその大振りな刀が不思議なほどにしっくりときた。
刀身の身幅は広く、乱れた波紋はまるで散る桜花のごとく美しく映え、少女の整った顔を鮮やかに写しだす。華奢な腕が持つには大振りのそれをなんの苦も無く振り上げ、長義は大きく伸びやかな切っ先を天に差し向けた。
「刀剣武装!」
くるり。決して軽くはないだろう刀を、軽々と動かし頭上に円を描く。切っ先が空を切るように動いた先から、少女の頭上と足元に光り輝く紋が現れた。円の中に、山と、その山を取り巻くように九つの三つ巴が奥から手前に向けて大きく配置された一風変わった紋である。その紋が俄かに青白く輝き、ぶわりとどこから現れたのか、薄紅の竜巻が少女を覆い隠した。小さな花弁が密集し、少女の姿を一切の目から隠すように壁になる。
しかし、それも一瞬のこと。荒れ狂う桜の乱舞が唐突に、弾けるように霧散した。パン、と音をたてて晴れ渡った視界に、名残のようにはらりひらりと数枚の花弁が舞っている。
そうして、桜の竜巻から姿を現した少女は、その姿を一新していた。
刀を握る右手は白魚の指先を隠すような黒い手袋に包まれ、反対の左手はごつごつとした籠手に覆われている。首元を青いタイが飾り、上半身は浅縹色のベストに黒いブレザーを羽織り、それから裏地が目も冴えるような鮮やかな青色をした白いストールを巻いて風に遊ばせている。
学則通りだった膝下のスカートは、膝上に際どいところまで短くなったプリーツスカートに変わり、ひらりと翻った裾からすらりとカモシカのようにしなやかに伸びた足は薄らと透ける黒いタイツに覆われ、ベルトが太腿をきゅっと締め付けていた。足元は黒い革のローファーで、ヒールの部分が少し高く、靴先は丸みを帯びて地面をしっかりと踏みしめている。
その姿は先ほどまでの学校の制服姿とは異なり、瞬く間に別の衣服へと様変わりを果たした長義は赤く色づいた唇をニィ、と吊り上げた。
ぎらりと、戦意に溢れる青い双眸が爛々と老婆を見据え、乱舞の名残で背中に落ちた銀髪を手でうなじから掬い上げるように払いのけ、風に遊ばせるとすらりと切っ先を老婆に向けた。
背筋を伸ばし、胸を張り、威風堂々と少女が高らかに宣誓する。
「さぁ、お前の死が来たぞ!」
浮かべた笑みは凄艶で、少女の声は実に楽しげに弾んでいる。まるで、戦えることが心底嬉しくてしょうがないとばかりに、薔薇色に染まった頬が少女の高揚を教えていた。
なんて嬉しそうに笑うのかと、三毛猫はつい、と目を細める。宣誓と同時に駆けだした少女が老婆――いや、山姥と切り結ぶのを眺めながら、勢いよく腕を切り飛ばす様子に嘆息する。
「変わらない、にゃぁ」
長い銀髪を躍らせ、しなやかな足で大地を蹴り、細い腕で大きな刀を振り回す。繊細で、儚げな顔に浮かぶ苛烈な殺意は、漲れば漲るほどに長義を彩り、繊細な容姿などからは程遠い姿へと変えていく。けれど、それが長義を損なっているのかというと、そうではない。
そんなことがあるはずがないと、三毛猫――南泉は機嫌良く尾を揺らした。
「お前にゃ、その姿が一番似合いだにゃぁ」
ゴロゴロと喉が鳴る。細くなった目はとろりと蕩け、生き生きと戦う姿を焼き付けるように見つめた。本当は、自分も戦いたいのだけれど。うずうずと疼く体を持て余すように、尻尾をぶんぶんと大きく振り回す。
でも、戦う彼女はとても美しいから。その姿こそが、強く、高慢に笑う姿こそが、彼女の本当だと思うから。血飛沫を浴びながら敵を斬る姿は何よりも南泉が望むものだったから、ひとまず自分のこの不本意な姿は飲み込んで、最後に一断ち、山姥を袈裟懸けに切り捨てた長義の鮮やかな姿を目に焼き付けてゴロゴロと喉を鳴らした。
「お仕事終了だよ、南泉!」
絶叫をあげ、光の粒子になって消えた山姥を一顧だにせず、振り返った長義の満面の笑みに猫の体で器用に肩を竦める。頬を染め、溌剌とした顔は美しいというよりも無邪気に愛らしくて、やってることは可愛くないのに、どうにもこの顔に弱いなぁ、と南泉はむっくりと立ち上がった。四足歩行で、ほてほてと刀身についた血を払い落とす長義の傍まで歩き、軽く跳躍してその肩に乗る。首をぐるりと回るように胴体を沿わせ、よくやったにゃぁ、と労いをかけた。首筋と頬に触れるふわふわと柔らかい毛並にくすぐったそうにしながらも、そっと頬を摺り寄せて長義はふふ、と笑い声を零す。
「これで今日は一緒のベットだね」
「うげぇ。本気か?お前」
「勿論。春とはいえまだ夜は寒い日もあるからね。丁度いい湯たんぽだよ」
「オレを湯たんぽ扱いするんじゃねぇにゃ!」
「うら若き美少女と一緒に寝れるんだ。役得じゃないか」
「お前と寝るぐらいにゃら、外で野宿した方が何倍もマシにゃ」
やっぱり、勝手に外で寝てしまおうか。自分で美少女といってしまう不遜さに、いや全くもって正しいことこの上ないのだが、誰がなんと言おうと長義は美少女なのだが、それでもそれが癪に障るのも確かで思わず苦い顔をすれば、刀を元の、といえば語弊はあるがチャームの姿に戻し、首にかけ直して服装も学校の制服に戻した長義はむっと眉を寄せた。
「ほう?猫殺し君は約束を反故にすると?男らしくないね。…そういえば、三毛猫は遺伝子的にオスが生まれることはほぼないと聞くよ。まさか君…」
「オレは!正真正銘の男だっ…にゃあ!!」
「だろうね。後ろから見たらふぐりが見えるし」
「ニャアアアアアア!!!」
あまりといえばあまりな扱いに、思わず羞恥の叫び声をあげて南泉は牙を剥きだしにした。このアマ、そのお綺麗な面を引っ掻いてやろうか、と前足に力を込めたが、意に介した風もなく歩き出した長義に咄嗟にバランスを取るために意識を裂いたことで有耶無耶になる。もしかしたら、南泉の不穏な空気に気が付いて先手を打ったのかもしれないが。
「だけど、今日は君もあの男性を助けるのに尽力したからね。ご褒美をあげよう」
「この借りは必ず…うにゃ?」
「例のおやつにしようか。それとも刺身?あぁでも、君は焼き魚の方がお好きかな」
猫もまっしぐらなあのおやつ。君も好きだろう?と歌うように口にする長義は、気絶している男性を見下ろして、ハンカチで口の横にこびりついている泡をふき取って体勢を整えてやる。起こしてもいいけれど、山姥については夢にしても良いけれど、こんな山中に学生服姿の少女がいる理由付けは中々に難しいので、心苦しいが寝かせたままにすることにして長義は辺りに散らばった山菜を拾い集めて籠の中に戻し、男の傍にそっと置いた。それに、こんな美少女に失禁姿を見られたなんて、この男性の矜持にも関わるだろうし。濡れた股間を一瞥して、とても怖かったんだね、と長義は同情した。
そして肩の上に乗ったままの南泉はというと、長義の台詞にぐるぐると頭の中でおやつと魚が追いかけっこを繰り返し、なぁん、と悩ましい鳴き声をあげた。
「ど、」
「ど?」
「どっち、も…は…」
「ふむ。……明日も湯たんぽだね」
「ニャァァ………」
うぅ。食べ物がずるいのだ。だってあんなの、猫の身の南泉にはずるすぎる。元の姿であるならば!とくふくふと可笑しげにしている長義をねめつけて、腹いせに尻尾を動かして南泉は長義の顔面をべしりと叩いた。ぶふ、と噴き出たすっかり油断しきったみっともない息に、少しだけ南泉の溜飲も下がる。
「ちょっと、尻尾癖が悪いよ、猫殺し君」
「はん。いい気味だ。にゃ。…おら、とっとと帰るぞ化け物切り。もうここに用はねぇにゃぁ」
「はいはい。全く、人使いの荒い猫だな」
ふっと吐息を零し、苦笑を浮かべた長義は男性をもう一度眺めてからひらりとスカートを翻して踵を返した。ぽんぽんと実に楽しげに、テンポよく猫との応酬を繰り返しながら、少女は何事もなかったかのように山の中に消えていく。
静寂に包まれた山は少女を見送り、ひらりと、名残のような花びらを一枚、風に乗せてどこか遠くへと運んで行った。