木春菊は捨てられない



 桜と共に、山姥切長義はこの本丸に顕現した。はらひらと薄紅の花弁を散らしながら顕現した山姥切を出迎えたのは妙齢の女性で、傍らには初期刀であろうか。加州清光を従え正装姿で、ゆるりと青い瞳を瞬いた長義にほう、と吐息を零す。少しだけ熱に潤んだように見惚れる眼差しに悪い気はせず、長義はその繊細な作りの顔に常のように自信に満ちた笑みを刷いて口上を口にした。契約の名乗りとなるそれをうんうんと聞いて、審神者はよろしくね、とおっとりとした口調で長義に手を差しだすと、けれど、と少しばかり躊躇うように口を開いた。差し出された手を握り返しながら、この本丸は当たりかな、と考えていた長義がおや?と柳眉を動かし、言いよどむ審神者の太目に描かれた眉が下がる様を見つめる。しっかりとアイラインとシャドウの刷かれた垂れ目がちの目元を憂いるように伏せて、グラデーションに彩られた瞼が鮮やかに長義の目に映った。

「あなたが号を大事にしていることはわかっているの。私はなにもその号が国広のものだけだとは思わないし、あなたを山姥切ではないと言うつもりはないのよ」
「・・・あぁ」

 話しはじめた審神者に、そのことか、と思いながらも口を挟まずに長義は黙って審神者の話を聞いた。少し濃い目の艶紅でぽってりと肉厚の唇に演出されている口元が、遠慮がちに開いて白いエナメル質の歯を垣間見せる。山姥切の号の問題は各所の本丸も頭を悩ませているもので、大なり小なり火種となっていることは彼自身も承知していた。むしろ自分から火種を持ちこんで爆発炎上させている節があるので、最初にその話題に触れられることも想定内だった。
 戦いを挑むときは開幕一番で相手の意表をつくのが一番いい。自分のペースに持っていけるし、そうすることで印象付けることも可能だ。強烈であればあるほど、人はそれを意識せずにはいられない。山姥切とはなんだと、思い知るのだ。山姥切長義が苛烈に、過激に、鮮烈に、それを提示してみせることで、人は考えずにはいられないだろう。それが悪感情を伴うというのなら、それでもいい。悲しいかな、人とは良いことよりも悪いことの方が記憶に残りやすく、また囚われやすい。否定だろうと、肯定だろうと、それでも、きっと山姥切長義を得た審神者は、山姥切長義の情報を知り得た審神者は、その感情と共に痛烈に刻み込まれることだろう。それでいい、と長義はほくそ笑む。
 場合によっては即行で蔵行き、開口一番の存在否定、あるいは単騎出陣など顕現初っ端からハードモードな個体もいるという。むしろそういった扱いに至った本丸の主は、それ以後、何をどうしても彼を忘れることなどできないだろう。元が善良であればあるほど、己の感情のままにふるまった末の結末を、例え消えていなくなったとしても、清々したと笑っても、それでも刻み込まれることだろう。ふとした時に、思い出す。山姥切の名を持つ刀が、二振りいたことを。
 まぁ、長義とてそれが本来の望みなわけではない。望みは山姥切を取り戻し、本丸で仲間と共に歴史を守ることだ。なのでそれは二次的要素だが、しいていうなら痛み分けといったところかな、いやでも相手は自分の矜持まで折れてはいないし、相対的にみて俺の勝ちじゃないかな、と長義は思う。まぁ俺とはいっても余所の俺だけれども、どんな形であれ勝利を引っ提げてくる気概はそれでこそ俺である。うんうん。と内心頷きながら、思考がズレたな、と冷静に目の前の審神者に意識を戻した。表面上は至って穏やかな微笑みを浮かべているので、恐らく審神者にはバレていないはずである。
 現に当の審神者は長義を気遣っているのか、言葉を探すように視線を泳がせていたので多分気づいていないだろう。横の加州清光も審神者に意識を向けているので、長義のやや外れた思考に気づくものはこの場には誰もいなかった。

「気を、悪くしないで欲しいのだけれど」

 考え考え、ゆっくりと口を開いた審神者は整えられ、つやつやと光る爪先を組み合わせて上目使いに山姥切を見上げる。

「今はまだ、私、あなたを考えるときには国広の本歌である、というの考えの方が強いの。言い訳になるかもしれないけれど、国広の方が早くにこの本丸に居て何年も一緒に過ごしてきたから、どうしても、国広が先に来てしまうのよ」
「国広は古参だからね。最初期組ってわけではないけど、それなりに長くいるんだ。だから主も国広があんたの写し、っていうよりは、あんたが国広の本歌、って考えが先にくるとは思う」

 あんたには居心地が悪いかもしれないけれど、と申し訳なさそうに言った加州清光に、ははぁん、と頷いてにっこりと笑った。

「そういう風に考えてしまうことはしようがないことだよ。誰しも、先に印象付けられたものを優先してしまうものだ。俺はそんなことをとやかくいうほど狭量ではないつもりだし、それに、それこそこれからの戦働きで払拭するつもりだからね。君達が気にするほどのことじゃない」

 当たり前の話だ。長く側にいて愛用しているものと、新しくきた物と。いきなり同列に扱えという方が無理な話だし、より思い出を共有しているものの方を優先してしまうのは誰しもある話だ。そんな当然のことに怒りを覚えることはないし、その意識を変えるために、山姥切としての価値を見せつけるためにこうしているのだ。
 無論早くにその認識が変わってくれるのが望ましいことには違いないが、その歩みがゆっくりとはいえ、きちんと俺を見て判断してくれるのなら別に急ぐ必要はない。
 きちんと号の意味を名の意味を、本歌と写しの歴史を、俺という刀をみて、考え、歩んでくれるのならば、話を聞いて、愛用してくれるのならば。それだけでいいというのに、それさえしてくれればおのずと問題は解決されるだろうに、どうも一部の審神者は早とちりをしていけない。別に俺は写しから山姥切を奪い取りたいわけじゃない。あれも山姥切だと認めた上で、それでも俺が本歌であり、霊刀山姥切であるとわかってもらいたいだけなのだ。
 あいつは俺の写しだけれど、俺があいつの本歌であることも正しいことなのだから。
これぐらいゆったりと鷹揚に構えて、きちんと話をしてくれればいいのだけれどなぁ、と思いながら、長義はにぃ、と好戦的に笑みを深めた。

「俺こそが山姥切だと、今後の働きぶりで知らしめて見せよう。君達は、それに目を逸らさず、思考を止めず、きちんと見届けてくれるだけでいい」
「それは、勿論。ふふ、なんだ、噂だともっと厳しいのかと思ったけれど、思ったよりも優しいのね」
「写しには勿論厳しいさ。なにせ俺の偽物なのだからね」

 誰よりも、何よりも。俺こそがあれには厳しくあらねばならない。うっそりと笑みを浮かべると審神者はふふ、と笑い、加州清光はうわぁ、とばかりに頬を引き攣らせた。同じ刀だからこそわかるのだろう。これが冗談でもなんでもなく、正しく厳しい目で見られることになるだろうと、加州清光は彼の写しの姿を思い浮かべて同情心が芽生えた。

「やだ、長義ったら。でも、そうね。何があっても、いざとなったら体同士でぶつかり合えばなんとかなるものよ」

 そういって、コロコロと笑う審神者に、この本丸では私闘が許可されているのだろうか?と首を傾げる。まぁさすがに本体は持ちだせないだろうから、やるなら拳で殴り合えということだろうけれど。その時は政府で鍛えた某冬将軍な大国式武術で迎え撃ってやろう。システマは強いぞ!
 そうして、長義は本人が思っていた以上に穏便に、戦闘意欲を漲らせながら本丸へと着任した。可か不可かでいえば、十分に可に入る優良な本丸である。誠実に長義に向き合う姿勢も良い。無理にあなたが山姥切なのよね、と理解してみせた風を装わないところも好感が持てる。良い本丸、良い審神者だ。さすが俺が優判定を下した本丸だね、と本丸全体で行われた宴会で盛大に迎え入れられた長義はほろ酔い気分で自室へと戻ろうと夜の帳が落ちた本丸の廊下をしずしずと歩いていく。
 本丸の刀剣達は気の良い刀剣達だった。偽物君は正直苛立たしい部分もあったけれど、誰も彼も気兼ねなく長義を迎え入れてくれた。そもそも、号の問題など人との間だけの話で、刀剣同士で問題が起きるはずもない。皆、長義を山姥切だと理解し、認識していたし、俺の写しが山姥切国広なのだともわかっていた。ただ、俺達はわかるが、主はまだ混乱するだろうから山姥切ではなくて長義と呼ばせてね、という刀剣は何振りかはいたが。まぁそれもまた仕方がないだろう。人の子ではどちらの「山姥切」なのかと音だけで判別することは難しいものなのだし、それを跳ね除けるほど長義も意固地ではない。
 そもそも認識さえしてくれれば、どちらも大切な名なのだから、否やもあろうはずがなかった。酒や料理に舌鼓を打ちながら、これから仲良くしていきましょうね、大丈夫ですよ、この本丸の皆ならすぐ仲良くなれますから!と昔馴染みがしな垂れかかりながら話していたそれにうんうんと相槌を打っていれば、すっかりと夜も更けてしまった。
 日付を越えても尚飲み明かす酒豪達は、きっと朝まで飲み明かすのだろう。さすがにそれには付き合いきれないし、着任早々酒の席での失態など犯したくはない。
 火照った体に夜風がほどよく、明日からの出陣に胸を躍らせながらふふ、と笑みを零した。多少おぼつかない足元は幸先の良い出だしに浮かれているからか、酒精に酔っているからか。ぺたぺたと無防備に廊下の床板を踏んでいると、ふいに耳に届いた声に長義はピタリと足を止めた。ふわふわと夢見心地な頭に冷や水をかけられたような心地で、はつり、と睫毛を上下させて廊下の真ん中で縫いとめられたように体を硬直させる。
 しん、と静まり返った廊下に、それは思いのほかよく響いた。いや、長義が無意識にでも耳を欹ててしまったからか、否が応にも聞こえてくる声に知らず息を殺すように呼吸が細く小さくなっていく。聞こえてくる。女の声。色艶を帯びて、濡れたあえかなその声に、押し殺した男の、昂ぶった女を呼ぶ声が重なる。獣めいた、本能を刺激する、そう、それはまるで、色事の、ような。
 そこまで思考を巡らしたところで、ひゅっと息を呑んだ。何故こんなところで、とか。まさか審神者と、とか。今朝方みたばかりの穏やかな風貌の審神者の姿を思い描いて、長義はぐっと押し殺すようにして一度息を止めると、深い溜息を細く吐き出して踵を返した。・・・まぁ、審神者が刀剣と良い仲になる、そんな本丸も存在することは確かだ。偶々この本丸がそうであっただけで、それをどうこう口出しする権利は長義にはないし、する気もない。任務に支障さえきたさなければ好きにしてくれればいいが、さすがに顕現初っ端からそのような現場に居合わせるとは思いもしなかった。姿を見ていないことは救いだが、声だけでも少々居た堪れない。背後から聞こえる喘ぎ声に気まずい思いをしながら、他の刀も審神者に良い仲の刀剣がいるというのなら教えてくれれば良いのに、と思わずため息を零した。そういうことは割と大切なことではないのかな。全く、報連相がなっていない。すっかりと酔いが覚めた頭で遠回りをしながら自室に帰る道すがら、明日には本丸での注意事項をもう少し詳しく聞いておこう、と脳内の予定に組み込んだ。
 円滑に本丸生活をするためには、そう言った配慮は不可欠なのである。写しに関してはむしろ波風立てる気満々なので除外するが、この本丸ならば時限爆弾にも大時化にもならないだろう、と確信を持っていた。

 ――そう、それは、ある意味で正しかった。

 審神者には良い仲の刀剣がいる。所謂清い仲というわけでもなく、やることをやっている確かな関係だと。ならばそれに配慮した生活をすればいい。たったそれだけのことだと思っていて、長義は今後のことに憂いなど一つも抱えちゃいなかった。
 しいていうなら色恋の修羅場や、溺れるが故の誤りなどがなければいいなぁ、という懸念だがなるようにしかならないだろうとも思う。
 元職場の同僚曰く「周囲が気を遣っててもなるときゃなるから諦めろ」ということらしい。なるほど。酒を飲みながら「修羅場に巻き込むんじゃねぇよこんちくしょうが。こっちがどんだけ気を遣って仲取り持ったと思ってんだこれ以上の介入なんぞできるか糞が恋愛脳めこちとら連日連夜不眠不休の365日戦えますか状態だぞやだやだ私も恋人欲しいよぉ!癒しが欲しいよぉ!!なんで私には恋人できないのよ!ねぇ山姥切様、・・・はわわ、カオガイイ・・・!山姥切様顔が超いい!え、やだ超顔いいナニコレ神様?神様だった!この顔の前なら人間なんて有象無象じゃんミジンコじゃんアメーバじゃん当然じゃんだってこの顔だよ?この顔と体ともてあたよ?地球の男に興味なんてないわー!この顔でお酒何杯でも飲めるー!」と管を巻いていた女性職員の座った目が忘れられない。あの子は俺がいなくなって今度は誰を酒の席に誘うのかな。監査官の任に就くときに号泣して顔面を汁という汁塗れにしていた姿を思い出しつつ、長義は恙なく本丸に着任したのだ、が。

 あれ、この本丸ヤバいんじゃね?

 出陣を重ね錬度を上げながら、内番や非番を重ねて本丸での生活をスタートさせた長義の脳裏にそんな言葉が過ぎり始めたのは、着任から僅か一か月も経たぬうちのことだった。
 切欠はなんだったか。鬱々としたものを抱えながら、長義はいささか生気の失った目で過去に想いを馳せる。
 そうだ、あれは、確か、出陣を幾度かこなして本丸に慣れ始めた頃だったか。見てしまったのだ。同じ部隊で出陣していた仲間が、空き部屋で出陣後の姿もそのままに、もつれ合うように雪崩れ込む姿を。そりゃ特に手入れも必要もなく、あとは身綺麗にしてしまうだけとはいえ、え、まさかあいつらが、と見てしまった長義は戦後の高揚感も忘れて呆気に取られた。しかし、まぁ、そういうこともあるか、ともつれ合う二振りから目を逸らして、その場は見なかったフリをした。
 戦後の熱を収めるためのまぐわいなのか、それともそういう仲なのか・・・少なくともそういう行為をするのに抵抗がない程度には好感があるのだろうと思って、彼らの為を思って口を閉ざした。誰だって褥事情をつまびらかにはされたくないだろう。まぁその後さりげなく周囲にあの二振りってどういう関係?と問いかけて「普通の関係ですよ!」っと答えられたので、結局長義の中であの二振りが恋仲なのかそうでないのかの答えは出なかったが。普通ってなんだ普通って。周囲に隠しているのか?と思いつつも、色事に首を突っ込むのはあまりよくない、と管を巻く元同僚を思い浮かべて長義は大人しく口を噤んだ。そういえば主の恋愛事情に関しても周りは知らないようだったな、と。
 まぁこの辺は本丸の主と刀剣男士ということを考えれば、隠す理由もなんとなくわかるので、やはり突っ込んで聞こうとは考えなかった。思えばあの時にもうちょっと気が付いてもよかったかもしれない。しかし正直長義にとって恋愛事など興味の範疇外であったし、目的は号の認識と歴史修正主義者との戦争についてだ。それ以外のことにかまけている暇などない、と本丸の人間関係、それも深い位置にあるそれらには目も向けず、戦場へとただひたすらに集中する。戦働きで俺こそが山姥切だということを証明すると言ったのだ。他のことに目など向けている暇はない。
 さて。その次はなんだったか。多分その目撃事件から2日ぐらい後のことだ。その日は確か内番で、畑仕事をしていた。仕事を終えて道具の片付けを手分けした時に・・・そうだ、倉庫の物陰で致している現場を見てしまったのだ。おいおい外でなにやってんだお前ら、とさすがの長義も度肝を抜かれた。彼の中で野外プレイは特殊プレイに位置している。え、いや特殊だよね?
 悲鳴をあげなかっただけ偉い、さすが山姥切だと自画自賛する状況である。当の二振りはというと、片づけにきた長義に気づかず盛り上がっていて、あまりの居た堪れなさに全力で隠蔽を駆使して道具を片付けて即行で逃げた。誰か来たらとかじゃねぇよすでに来てるし見つけてるよ隠れるならもっと隠蔽駆使して本気で隠れて!!というか偵察値低過ぎじゃないかなんで気づかないんだどんだけ夢中になってるんだやめろあんあん啼かないでくれ。
 えぇ・・・この本丸どれだけカップルいるんだよ、と思わずそこら辺の縁側で寝転がっていた昔馴染みを捕まえて問い詰めたが、返ってきた答えは「恋仲の奴なんていねぇにゃ」だった。えぇ・・・恋仲でもないのに真昼間から盛るような奴らがいるの・・・。この本丸の風紀どうなってるの・・・。それともこれも誰も察知してないってことか。どんだけ鈍感な本丸なんだ。軽く混乱しながら、長義はそういうこともあるのかな?かな?と思いつつ飲み込んだ。個刃間のあれそれに首を突っ込む野暮はしたくなかったし、やっぱり長義にとってそれが大事なことであるとは思えなかったからだ。
 そしてその次だ。今度は夜中、喉が渇いたと厨に水を取りに起きたときの話である。静かな夜の帳が落ちる中、ぺたぺたと廊下を歩いて厨に向かえば、今度はそこで。・・・そこで、致している刀剣がいた。しかもなんか割とアレな感じで。その時初めて長義は顔色を悪くさせた。待ってその野菜何に使う気なの?え?それ明日の朝食に使わないよね?ね?いやお前「そんなのらめぇ」って言うならもっと本気で抵抗しろお野菜様に失礼だろうが?!
 あまりの衝撃的シーンに、その後どうやって部屋に帰ったのか覚えていない。ただそういえば戻る最中でもどこぞの部屋であんあんらめぇな声が響いていたような。いやいや考えたくない。思考を全てシャットダウンして迎えた翌日の朝食は食べる気がおきなかったので、謹んで辞退申し上げておいた。ここまでくると、ちょっとこの本丸、なんか、あれなのでは?という思いが長義にも過ぎった。
 いやいや、でもまぁ、うん。きっとカップルが多い本丸なんだな。そうだそうに違いない。・・・ただ、あんまり遭遇する確率が高いので、主に頼んでできるだけ遠征か出陣に回してもらうように直談判した。いくら戦場に興味の大半を置いているとはいえ、他刀様の濡れ場事情を見たいとも聞きたいとも思わない。ていうか場所を選ばない刀多くない?大丈夫ここ?
 その時、やたらと加州清光と主の距離が近かった気もしたけれど、不思議そうながら許可をくれたのでやっぱりそのことからは目を逸らすことにした。加州清光は刀剣の中でも特に主に愛されたい、可愛がられたいという願望が強い刀剣である。べったり懐くことなどよくあることだろう。
 それから、出陣によく出してもらうようになって、錬度もメキメキ上がって、本丸にいる時間を減らして・・・それでも帰ってきたときに、本丸のどこかで嬌声が聞こえるようなことはままあったけれど、まぁ俺には関係ないことだし、と耳を塞いで見ないフリ。この時点でちょっと、いや大分アレかなとは思っていたけれど、まだ、まだ大丈夫だ、と根拠も理由もない言い訳を自身に重ねていた。誤魔化していたともいう。だってそれ以外は至って普通の、長義にとってそう悪くはない優良本丸だったのだ。審神者の認識はまだ甘いが、刀剣の認識はしっかりしていたし、極めた写しに関しては、やっぱりド地雷踏み抜いてくれたわけだが、それでもその問題を抜きにすればそう悪くない関係を築いていると思っている。
 巷でいうように別に常時偽物君に喧嘩売っているわけじゃないのだ。ただ極めたあいつの持論がどストレートに癪に障るので話し合う気にもならないだけで。
 とりあえずお前その主張をちょっとそこの平安短刀やら小さくない狐やら概念集合の薙刀に言ってみろ。意図はどうあれ、選んだ言葉があまり宜しくないことは笑っていない目をみればわかるはずだ。山姥切国広は言葉選びがあまり上手ではない、というのは大体の本丸で共通していることだろう。それでもその行間を読み取ってしまう刀達のコミュニケーションスキルが馬鹿高いのだ。初期刀の偽物君はチュートリアル鍛刀が短刀であることを感謝するべきである。大体の短刀はコミュ力も気遣い力も空気を読むスキルも高レベルなので、どんなコミュ障でも面倒くさい刀でも根気よく付き合ってくれる出来た刀達なのだ。本当に、審神者の傍に二番目にくる刀としてこれほど適任な刀種もいないだろう。
 さておき、山姥切国広が大事にしたいものが違うということはわかるので、ひとまず写しとの会話は当たり障りないものだけで、本筋には触れないようにしている。
 そもそも、それについて写しと話し合いたいわけではないので(なにせ写しと本歌の問題というよりも、人間対刀剣の問題なので)それについて積極的になられても困る。むしろお前なんでその話をしようと思った?しいて俺がお前にそのことについて言うことがあるのなら、もうちょっとマシな方法で本歌と写しアピールをしろ、というぐらいだ。
 なので、その話をしよう、と寄ってくる分には早々に離脱しているのである。それが写しに冷たいと取られるのかもしれないが、そもそも前提が違う相手とどう議論しろと。お前はそういう考えなんだなということで理解するしかないし、相手だってそう考える他ないと思うのだが、俺は何か間違っているのだろうか?そもそも写しに関しては山姥切の名が欲しいと言っているわけでもないし、いや本当そのことについて話し合おう!と言われても困る。
 まぁそんなよくある本歌写し問題はさておいて、別に任務に支障をきたしているわけでもなし、目くじら立てる必要もないかなぁ、と長義は考えていた。言うなれば外野がちょっと目に毒なことを頻繁に行っているだけで、気にしなければそれまでのこと、というだけの話だったのである。
 この刀は人の心がわからないわけじゃないが、さして重要視することもないどちらかというと器物寄りの思考の個体だった。ぶっちゃけ戦って敵切って任務達成して戦争に貢献できればそれでいいんじゃない?戦に支障をきたすようなら遠慮なく監査対象にして貰うが、一か月余り過ごしてそんな様子はないのだから、分別はつけているんだろう多分。
 それならそれでいいかなぁ、と戦場で敵の首を切り飛ばしながら、最高にハイな頭で長義はニッコリと笑った。うん。やっぱり、戦えればいいんだから、外野の下事情なんてどうでもいいよね!





「山姥切!今いいですか?」

 明るく弾んだ声で呼び止められ、廊下を歩いていた長義が振り返った先でニコニコと笑顔を浮かべた昔馴染みが立っていた。連日連夜の出陣の合間の休日で、さすにが出ずっぱりは問題があるから、と定期的に取らされる休みの日だったが、所蔵を同じにする人懐っこい脇差の呼びかけに、足を止めて長義もひらりと片手を振った。

「やぁ、鯰尾。なんだか久しぶりだね」
「本当ですよ!山姥切ってば、ずぅっと戦にばっかり出てるんですから」

 雑談を交えながら長義があまり本丸におらず、会話する時間が少なくてつまらない、なんて唇を尖らせて言うものだから、ついつい長義も目尻を下げる。いくら長義が戦場に重きを置いているとはいえ、昔馴染みと会話をすることはまた別だ。この戦に参戦した刀剣の中には、歴史のためだけではなく、滅多と会えない同派や兄弟刀と会えるから、という理由も多分に含まれている。だってずっと共にいた昔馴染みだ。長義は彼が大好きだし、彼だって長義が大好きだ。

「ねぇ、山姥切。今日は休みでしょう?どうせならもっと話しましょうよ。俺、山姥切がここにきたら話したいことが一杯あるんです」
「そうだね・・・うん。俺も、君とゆっくりと話したいかな」

 ねだるように片腕を取られて体を寄せられ、上目使いに請われて悪い気はしない。自分の使い方をよく知っている鯰尾のおねだりに、長義も少しだけ目を伏せるが、確かに本丸にいると見ちゃいけないようなものを見てしまいがちで、できるだけ外に出る時間を作っていたせいで思った以上に周囲との交流もできていないな、と今までの行動を思い返した。同じ部隊の面子とはそれなりに交流はあるのだけれど、それと重ならない面子とはどうしても顔を合わせる機会が減っている。
 ・・・まぁ、この本丸がちょっとアレレ?な気質であろうと、共にいる限り他の刀剣ともそれなりに交流していかねばなるまい。

「山姥切ってば、部隊以外の人達とちゃんと話してます?無理に仲良くしろとは俺も言いませんけど、ちょっとぐらい交流しなくっちゃ!」
「返す言葉もないね。早く錬度をあげたかったのもあるけれど、本丸内のことを疎かにしていたのは俺の不手際だ」
「ふふ、そうやってすぐに改めようとするところ、好きですよ。今日は、そんな山姥切の為に俺が場を用意したから楽しみにしてて」
「そうか、ありがとう鯰尾」
「いえいえ。山姥切にも早く本丸に馴染んで欲しいですし、皆楽しみにしてますよ」

 とはいっても最初なんで、人選は選りすぐってます!とアホ毛をぴーんと立てて胸を張った鯰尾を微笑ましく見つめてそれは楽しみだな、とくすくすと笑い声を零す。
 気遣い屋でムードメイカーな彼の脇差の底抜けに明るい顔をみていると、こちらまで明るい気持ちになってくる。彼のことだから、あまり長義が気を張らないような人選で、且つ少数に限っているのだろう。気を張らないといえば徳美や小田原の面子だが、交流しろというのならもうちょっと違う人選かもしれない。誰だろうなぁ、なんて呑気に考えながら部屋に向かった長義は、だから考えもしなかった。だって昔馴染みが相手だし。全くノーガード、ゆっるゆるに警戒を解いて、まさかあんなことを計画していたなんて小指の爪ほどにも考えていなかったのだ。
 ルンルンと足取りも軽い鯰尾に部屋に招かれ、知己と、それから彼の紹介で同派の多数と挨拶をして、これなら俺も気兼ねしないでいられるかな、なんて考えたところで、鯰尾があっけらかんと、長義にとって耳を疑うようなことを言いだした。

「ほら!山姥切も脱いじゃって!」
「は?」

 なんて、とびっきりの笑顔で無邪気に言うものだから。一体全体何を急に言い出したのかなこの子は??と目が点になってしまうのもしょうがないだろう。

「あ、それとも脱がしてもらいたい派ですか?いいですよー!じゃぁ脱がしますねっ」
「え?あ、いや、鯰尾?え?」
「山姥切殿は脱がされる方がお好みですか。確かに、それもまた気分を盛り上げますので、わかりますよ」
「え?あ?え?い、一期一振・・・?」

 え、爽やかな、俗にいうロイヤルスマイルで何を言ってるんだこの太刀は?服に手をかけてくる鯰尾をちょっと待てちょっと待てと諌めながら、輝かんばかりの微笑みで己の襟元を寛げはじめた粟田口唯一の太刀の発言にぎょっと目を剥く。ハ?なに言ってんの?とキャラも忘れて口を開けて呆けたところに、同派の脇差が鯰尾、と声をかけた。
 長義が抵抗するので、自分で脱ぎたいんですかー?と手を止めた鯰尾が、その声に相手を振り返る。そこをすかさず、白く細い手が鯰尾の頬を捉え、吸い寄せられるように顔を近づけたところで、長義は内心で悲鳴をあげた。
 ちゅ、くちゅ、と濡れた唾液の音とくぐもった吐息が耳朶を打つ。刀剣男士の見目は良く、特に粟田口の脇差の二振りの顔立ちはどちらかというと少女的な愛らしさも兼ね揃えているので、甘やかな百合めいた雰囲気を匂わせていたが目の前で突然ディープな口付けを始めた二振りに(しかも片方は古馴染み)目を白黒させて顔色を蒼褪めさせた。

「な、なん、なまずお、ほねばみ、」

 長義としては恥ずかしいほど狼狽した様子で、はくはくと口を動かせば、おや、先を越されましたな、なんて呑気な声がすぐ近くで聞こえた。ハッと嫌でも引きつけられる光景を凝視していた山姥切が慌てて横を向けば、すっかりと服を着崩して白いシャツのボタンを数個外し、喉と鎖骨を露わにした一期一振がにこりと微笑んでいた。晒された胸元は、見た目の優男ぶりからはそうとわからぬほどに引き締まった筋肉をしており、浮き出た鎖骨の艶やかさは目に毒だ。白い手袋をしたままの手をするり、と長義の頬に伸ばして太刀らしく大きく筋張った手が、滑らかに陶磁器のような肌を撫でる。布一枚隔てているとはいえ、ぞわり、と産毛が逆立つ悪寒めいたものが背筋を駆け抜け、長義はとろりと蕩けた蜜色の瞳を呆けたように見つめ返した。

「さぁ、我らも一つ、洒落こみましょうか」

 蠱惑的に微笑んで近づいてくる顔に、声にならない悲鳴をあげて渾身の力で一期一振を突き飛ばすと(殴りつけても良かったが、かろうじて鯰尾の兄だということで我慢した)脱兎のごとく部屋を飛び出した。後ろで山姥切殿!と呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まってなどいられない。立ち止まったら喰われる。絶対喰われる。ぐるぐると突然の凶事に混乱した頭で、常の余裕もかなぐり捨てて逃げ出した長義は自分の部屋に急いで飛び込むとばしん、と勢いよく戸を閉めてずるずるとへたり込んだ。
 あぁそんな、まさか、だって、鯰尾が、油断した、いやでもだって、こんな。
 ぐるぐると出口のない迷宮に入り込んでしまったかのような取り留めもない思考で、己の体を守るように抱きしめて身を震わせる。
 そこでようやく、そう。ようやく。この本丸、大分ヤバいのでは?と思い至ったわけだが、それにしても古馴染みにいきなり複数プレイへの参加を推奨されようとは、さすがの長義も予想だにしなかった。いや一対一がよかったとかそういうことではなくて、単純に、なんでそうなる?と疑問しか涌いてこない。え?交流深めるのに手合せ(物理)じゃなくて手合せ(性的)を求められるってなんなんだ?
 え?は?と未だ咀嚼できていない事態に、優秀を自負する頭のオーバーヒートを予感しつつ、意地と矜持で持ってして毅然と顔をあげた。正直わけがわからない上にあんまりにも衝撃的現場だったが、なにはともかく、これは事案である。間違いない。
 よし、とりあえず、主に相談だ。もし彼女がこの事態を把握していないのだとしたら問題だ。本丸での性事情をうら若き女性に話すのも気が引けたが、さすがに複数プレイが平然と罷り通るような性生活はちょっと由々しき問題である。しかも同派内でとか、長義の中の常識という辞書の中には書かれていない項目だ。
 自分が色事に赤面するようなピュアな個体だなんて思ってはいないが、元は政府で顕現されていたからか、その辺りの倫理観は真っ当なつもりである。言うなれば現代のそれに合わせて、一夫一妻が主流だと思っているし、浮気や股掛け交際などもっての外だと信じていたし、複数プレイやなんならお野菜プレイなんかも割と特殊な部類に入ることも知っていた。
 刀にとって兄弟やら親戚やらといった血縁関係は厳密に言えばないと言えるが、それでも同派で「兄弟」やらと家族を意識させる関係を築いている以上、さすがにその中での乱交騒ぎはいくら長義が興味をあまり持っていないとしてもショックを受けるには十分な案件である。ただ厳密に言えば鋼の繋がりもないので、どうくっつこうと気にはしないけど。
 少なくとも一般的な性行為において、それらを活用することなど滅多とないと言えるだろう。セフレの概念は理解できても、特殊プレイに関してはちょっと遠慮したいものがあるので、長義は現代の倫理観になぞらえて、性的接触に関しては至ってノーマルな思考だった。マンネリ打破には多少の刺激が必要よ☆という人間もいたけれど、それはマンネリ防止であって、初っ端からぶつけてくるものではない、はずだ。・・・はずだよね?
 なにせ、浮気や二股三股やらなんやらで修羅となる女性職員も、灰のようになる男性職員も見てきたのだ。今の世ではそれらは到底認められないことなのだ、と常々炎上する現場を見てきた山姥切は痛切に思い知っていた。いやでも昔でも浮気や不貞があれば大概なことになっていたので、そこらの認識は今も昔も変わらない筈である。
 そんな、政府で真っ当な倫理観を育ててきた長義には、いささか鯰尾の、恐らく好意からなるお膳立ては恐怖すら覚えた。あんないつも通りの人懐っこい笑顔でなんということを薦めてくるんだあの脇差は。
 そう、つまり、この本丸、ちょっと貞操観念が破たんしている部分があるのでは?と思い至った長義は、一時の混乱とちょっぴり感じた恐怖を蹴り飛ばすように颯爽と立ち上がった。
 そうだ俺は長義作山姥切。こんなことで子猫のごとくぴるぴる震えるなど矜持に反する。問題があるのならば、今までの経験や知識を総動員して問題解決のために尽力するまで。なに、俺は優秀だからね。正々堂々立ち向かってやろうじゃないか!!ふはははは!とどこぞの古備前の赤い方、みたいな笑い声をあげて、長義は審神者に突撃した。
 恐らくこの本歌、ちょっとしたキャパオーバーを起こしてナチュラルハイになっている。かといって、本当にカチコミよろしく審神者のところに乗り込むわけではなく、いつも通り余裕を持って、落ち着き払った様子で審神者の部屋を訪い、いや、訪いかけて、即行で回れ右をした。いや、だって、ほら、部屋から、複数の、男女の、声が。正確に言うと、男数名、女1名の、声が。

 あーあーあーそーいうーーーー???もしかしてこの本丸、周囲がどうじゃなくて根本的にーーーー????

 アイデアロール成功、ただちに撤退致します。
 長義は優秀なので、判断も行動も迅速だった。中で盛り上がっている連中に気付かれない内に足音もなく部屋の前を去り、再び自室にUターンしたところで今度こそ頭を抱えて打ちひしがれた。そうか、この本丸、大本が、割と、あれだったのか。そうか、そうか・・・。突如として突きつけられた本丸の内情に、途方に暮れたように項垂れたのだった。





 明けて翌朝、長義は正確にこの本丸の実情を掴むため、審神者の元へと訪れていた。おおよそなんとなく察するに余りあるアイデアを成功させてはいるが、実際のところの確認を取らなければ、それはあくまで憶測の域を出ない。
 何事も思い込みで動くわけにはいかない。律儀且つ几帳面な性格で、長義は裏を取るために恐らく、大体考えた通りであろうとは思いつつも、意を決して審神者に問いかけた。
 この本丸、ちょっと性に対して奔放すぎやしないかい?と。勿論、実際に口に出した言葉はもっと湾曲的だったし、昨夜の鯰尾主催仲良し()パーティのことを挟みながらの質問だったが、審神者は昨夜の情事など微塵にも感じさせないいつも通りのおっとりとしながらも主らしく泰然とした態度で、あらまぁ、と呑気に口を開いた。

「やだわ、鯰尾ったら。もう長義を誘ったの?もう少し待った方がいいって言ったのに」
「・・・それは、その、この本丸では、あれが、普通、だと・・・?」
「そうね。私がそういう考えだからかしら?皆あまり、そういったことに抵抗だとかはないみたいなのよねぇ」
「・・・主は、その、複数人で事に及んでも、あまり気にしない・・・?」
「楽しくて気持ち良ければいいんじゃないかしら。趣味趣向はそれぞれだし、それにセックスって、スポーツ、・・・運動みたいなものじゃない?体を動かしたらすっきりする、手合せと同じものよ」

 いや違うだろう、と思ったが、くすくすと笑う主は艶めいたものを見せるでもなくいつも通りで、長義は考え深そうにむっつりと口を閉ざした。

「それに、少なくとも嫌いな相手や興味のない相手にわざわざ自分の一番無防備なところを見せようなんて思わないから。好いているからまぐわうのよ。仕事なわけでもないんだし、プライベートなら尚の事、好きでなければやらないわ」
「それは、そうだが、いや、しかし主、」
「長義。・・・そうね、あなたの言いたいことはわかっているわ。私のこの考え方も、この本丸の皆の行動も、一般的には受け入れられるようなものじゃないことは」

 そういって、しゃなり、と衣擦れの音をたてて審神者は髪を掻き上げた。持ち上げた拍子に、肘まで下がった着物の袖からちらりと花びらめいた赤い痕が覗く。その痕が何によってつけられたかなど明白で、長義は今日もきっちりと化粧の施された顔を見つめて、ごくりと息を呑んだ。

「だから一応、ちゃんと一線は引いているのよ。無理強いはしない、嫌がる相手からは手を引く、同意のない行為はしない。無理矢理だなんて、それはさすがに犯罪だもの。性犯罪は撲滅しなきゃ」

 にこにこ笑いながら、さらっと中々に過激な単語が出てきたかのように思うが、言ってることは真っ当だと思うので長義も口を挟まなかった。いやでもそういう考えがあってなんでこうなるんだ?とも思ったが、そのことは審神者の中では矛盾点なく同居しているらしく、ぴっと審神者は人差し指を立てる。

「だから、逆に同意があって、当人同士が楽しく、気持ちよくできるなら別に何人で事に及ぼうとどんな事をしようと、さして問題があるとは思わないわ。愛情の確認にもなるし、ストレスや熱の発散で気持ち良いことができるならそれが一番じゃない?」
「え・・・そう、かな・・・?」

 いやでも倫理的に、でも道理は通っている・・・?あまりに堂々と持論を展開されて、それが一定の納得もできそうなものだから、長義もそれは違う、とは言い切れなかった。
 倫理的には間違っているといえる。俺は刀だが、見聞きしてきたことを思えばそう言ってのけることは簡単だ。複数人での行為が正常なことだとは言えないが、さりとて当人たちがそれを良しとしているのならば、確かに外野が倫理観を説いたところで無意味かもしれない。
 それこそ個人の趣向の問題なので、平行線を辿ることになるだろう。事に及んでいる本人達が意識を変えないことにはどうにもならないことだ。何より、公私の区別をつけているところが厄介だった。これで公に支障を来すならば健全な関係を、と言えるものを、なまじ周りは真面目に仕事はこなし、それでいて成績はそれなりに優秀。ならばプライベートぐらい好きにさせてもいいんじゃないか、なんてことをちらりとでも思ってしまえば、もう駄目だった。

「セックスは確かに恋人同士の行いでもあるけれど、それを友人や同僚としてはいけないなんて決まりはないわけだし。でも長義があまりそういうことが好きではないのなら、皆にはちゃんと言っておくわね。他には?何か聞きたいことはある?」
「いや、・・・その。皆、あまり、場所などは選ばず・・・?」
「そうねぇ。その時の気分で盛り上がったら事に及ぶことが多いようだから、確かに場所は問わないかもしれないわ。出陣後は特にそれが顕著だけれど・・・きっと気が高ぶってるからでしょうね。それでもあんまり人目につくところは避けるように、とは通告してるわね」
「そうか。・・・そうか。わかった。俺は、その、あまりそういったことをしたいとは思わないから、主の方から本丸の皆に伝えてくれるなら助かるよ」
「えぇ、わかったわ。でも、したくなったらいつでも言ってね?皆きっと大歓迎よ」
「はは、そうだね。そんな時がきたら考えておくよ」

 多分、いや絶対ないが。そんな内心は綺麗に隠し、いつも通り人当りの良い笑顔を浮かべて審神者の部屋を出ると、脱力したように肩から力を抜いて深い深い溜息を吐きだした。
 キリキリと痛むような米神を揉み解し、なんともいえない所に来てしまったな、と渋面を作る。しかし、もう一度深い息を吐き出して顔を上げたときには、いつものように悠然と、何ほどのことでもない、と背筋を伸ばして不敵に笑みを刻んだ。・・・まぁ、言うなればちょっと皆性に奔放なだけで、任務に影響はないのだし、自分がそこに巻き込まれないのであれば好きにしてくれ、というだけの話だ。そう、俺はただ名を取り戻し、この歴史修正戦争を勝利に導ければいいのだ。そこにちょおっと倫理的にどうかな?と思うようなことが起きても、邪魔さえされないのならば気にするだけ無駄ではないか!
 ただまぁちょっと、知り合いが可愛い顔してそういうことを楽しんでると思うと割と、いや大分きっついものがあるが、まぁそれはそれ。個人の趣向の問題だから仕方ないよね!趣味趣向に否定を投げかけたりするのは人格否定にも繋がるからよくないことだ。ほら、人の子だって自分の好むことを頭っから否定されることは大分嫌なことだと思っているし。俺だって俺の考えを話も聞かずに否定、拒絶されれば流石に嫌な気持ちになる。今絶賛そういう期間なわけだし、そう思えば別にちょっと性的に奔放なことぐらい良いのでは?と長義は1人頷いた。
 参加する気は微塵もないが、皆がいいならいいんじゃないかな!誘われても断固拒否するけど!
 持てるものこそ与えなくては。この場合、共感はできないけど理解はするし否定もしない、というだけの話だ。戦えればそれでいいし、まぁ特に問題もないだろう、と実にあっさりと長義は結論づけた。その晩、どうやら早々に主が全体に通達をしたらしく、鯰尾の方から謝罪にも来たので、性的な方面に関してはともかくそれ以外は真っ当なんだなぁ、と思いながら長義はその謝罪を受け入れた。そうだね、今までの刀剣があっさり受け入れていたのなら、長義もそうだと思うのは当然のことだね。それはそれとして謝りつつも、いつでも参加していいですからね!と輝かんばかりの太陽の笑顔で乱交に勧誘するのはやめて欲しい。ギャップが酷い、と泣きながら、しかし根性で笑顔を張り付けて考えておくよ、とだけ返しておいた。
 それからは、概ね長義の周囲は平和だった。出陣も遠征も内番も恙なく回され、周りも色事ばかりにふけるでもなく真っ当に真面目に仕事をこなし、時折聞こえてくる情事の音も心を無にするかあーはいはいまたですねーと流せる程度には強かになった。
 だがしかし、俺を誘うんじゃない。やめろ俺は真っ当な貞操観念の持ち刀なんだ。匂い立つような流し目で誘いをかけてくる平安太刀に、目一杯貼りつけた笑みを浮かべて、断りをいれながら長義は深い溜息を落とした。





 長義があまりそういうことを好まない、と周知されて、本丸内での刀剣の反応はおおまかに二通りに分かれた。
 そうか、それならしょうがないね、と素直に諦める組と、そんなの勿体ない!と不屈の精神で誘いをかける有難迷惑な組と。前者はあんまり好きじゃないならしょうがないね、でもその気になったらいつでもいってね、手解きするから!という善意100%の笑顔で告げられ、それだけならば長義も笑顔でその時があれば、と返せばことは済む。
 しかし問題は、あんな気持ちが良くて楽しいことを好きじゃないなんて刃生損している!!と声高に言う面子だ。それだって別に悪意があるわけではなく、良い事なんだから知らないのは勿体ないというやっぱりこちらも善意100%で、長義にしてみれば「うるせぇ知った事か」と切り捨てたい案件なのだが、外面が良いばかりにやんわりとしたお断りの仕方になってしまうのが難点だった。しかも、性質が悪いことに、決して無理強いはしてこないのだ。
 ただ、絶対事あるごとに誘いはかけてくる。長義が好みなのか単純に興味本位なだけなのか、今晩どうか、この道具を使うと気持ち良いんだよ、お。暇かい?どうだい一発。実に気軽に声をかけてくるものだから、彼らの中で性行為とは本当に一種の娯楽と化していることは否めなかった。
 そして頻度や趣向の差はあれど、この本丸に顕現している刀の大半は、本当にそういったことに抵抗がないのだということも判明した。粟田口が乱交状態で事に及んでいることを知った長義はさすがにその時だけは自室に引きこもって咽び泣いた。やだ・・・短刀の見た目で爛れすぎでは・・・?多分どの刀派よりもショッキングな事例だった。幸いなのは、それを全員親愛的愛情を示す行為であり、あるいは運動と同列に扱ってそもそも彼らに精神的ダメージが一切齎されていないことだろうか。まぁ、短刀は懐刀ともいうからね。そういう事情に一番詳しいのは彼らだからね。より一層抵抗がなかったのかもしれないと思いつつ、天使のように無邪気且つ無垢な見た目で、昼間は庭で鬼事やボール遊びなどしている姿とは裏腹な夜の事情に、夜戦以上のギャップを感じて山姥切がそっと彼らから距離を取ったのは仕方がないと言えるだろう。庭で遊んでいたと思ったらいきなり舌を絡めあうキスシーンを目撃して目を剥いたことは忘れられない。子供の戯れレベルのそれではなかったので、長義は心を無にしてやり過ごした。ほっぺにキスとかおでこにちゅーレベルの感覚でべろちゅーをする短刀は解釈違いです。
 あとは刀によって本当に趣向が違うことだろうか。道具を使うのが好きなものもいれば、こう、体位の研究に余念がなかったり、一対一を好めば複数人がいいとのたまうものもいる。その場合は大人数ですればもっと楽しいよね!という感覚らしい。ついていけないなーと長義は赤裸々に語る刀剣の適当な、しかし適当と思われない相槌を打ちながらチョコレートを放り込んだ。甘いものっていいよね、癒されるし、なんだか活力が戻ってくる気がする。この本丸にきて、長義は甘党にメタモルフォーゼした。最近は給料を使ってお取り寄せスイーツにも手を出し始めたぐらいである。あ、このとろとろ半生カステラ美味しそう。ポチっとな。
 さて。そうなってくると、酒宴の席などそれこそ目も当てられない事態になっていくのは自明の理だった。自分が顕現した当時のあの宴ではさすがに新人だからとセーブしていたらしいのだが、本丸に慣れてきて、尚且つ事情も知らされた今遠慮する必要もないと思ったのか、以前以上にあけっぴろげになってきた周囲に長義の目は死んだ。
 簡単に言えば、酒が入ればただでさえ緩い理性がゆっるゆるのがっばがっばになり、即座に組んず解れずのどっろどろ乱交パーティに早変わりだ。酒精のときめきを性的なそれと混同し、見つめあったら吸い寄せられるように口づけに持っていく。手は相手のあらぬところをまさぐり、肌蹴ていく衣服はひたすらに目の毒と言えよう。
 特定の相手などもおらず、近くにいる相手を引っ捕まえて事に及ぶのだから、長義は酒の席はできるだけ不参加を通したし、参加することがあっても早々に退散することにしていた。だって巻き込まれたくないし、その現場を見ていたくもない。
 そうして抜け出した長義は、倒れ込んだ布団の上でもぞもぞと動くともう寝ようかな、と枕元に用意していた寝間着に手を伸ばした。先に湯は頂いているので、あとは着替えて寝るだけだ。のろのろと手を動かしてベストのボタンに手をかけたところで、おい、と外からかけられた声にびくん、と肩が震えた。

「起きてるか?山姥切」
「ッ・・・南泉?」

 聞き慣れた昔馴染の声に、咄嗟に身構えてしまうのは悲しいかな、この本丸の事情故だ。声に動揺が出てしまったかもしれない、と迂闊な自分に舌打ちをしたくなりながら、じっとりと襖を見据えた。経験上、うっかり夜中に応えてしまうと、そういう雰囲気に持っていかれそうになったことが何度かある。恐らく相手はそういうつもりで声をかけてきていたからだろうし、その度に笑顔のゴリ押しで躱してきたが、まさか古馴染の・・それも腐れ縁、悪友とでも呼べそうな間柄の相手にまでそんな警戒をすることになるとは・・・世知辛い、と長義は誰にも見られないことを良いことに、儚く自嘲を浮かべた。
 古馴染みとはいえ油断はできない。その事実が重く鉛のように長義の胸を塞ぐ。なまじ最初が最初であっただけに、彼はそれを骨身に染みて痛感していた。
 ・・・確か、彼もあの酒宴にいたな、と隣り合うでもなく、むしろ酔っ払った刀剣に絡まれながらもちびちびと日本酒を舐めていた姿を思い描いて、長義は眉を潜めた。
 この本丸の南泉一文字とは、まぁそりゃ普通に嫌味を言いあう仲なのだが、この本丸の事情故、長義があまり本丸に留まることを良しとしないので恐らく余所の本丸よりも交流は少ない方だろう、と自負している。まぁあいつだって俺に会いたくなかったというぐらいだし、丁度良い距離感だろう。
 あと、南泉もまた、ああいうことを抵抗なく致しているのかと思うと、どうしようもなく鳥肌が立つので精神安寧上、接触は控えていたともいう。誰だって、顔見知りの夜の顔など早々知りたくはないものである。
 さすがに、彼が己をそういう目で見ているとも誘いをかけてくるとも思わないが、この本丸の貞操観念を思うと無いとは言い切れないかも、と漠然とした不安が忍び寄ってくる。だって鯰尾があれだったし。南泉から運動がてら付き合えよとか言われたら、長義は南泉を折らない自信がなかった。泣く前に秒で殴りかかると思う。しょうがないよ、南泉だもの。思いのほか、あの事件は長義の中で大層な爪痕を残していたようだが、しかしこのまま無視をするのも長義の性格的に無理な話で、渋々と口を開いた。

「起きているよ。なんだい、こんな夜中に」

 着替えかけていた手を止めてゆっくりと襖を開けると、南泉は酒を飲み交わしていたとは思えないほど素面の様子で、眉を潜めている長義を見つめて「ん」と言葉短く、ずいっと手に持っていたものを差し出してきた。
 ついつい、きょとん、と寄せていた眉を解いて目を瞬き、胸元に押し付けるようにして差し出されたそれを凝視すれば、南泉は自分から声をかけておきながらどこかむっつりと不機嫌な様子でそっぽを向いた

「お前、あんまり飲んでなかっただろ、にゃ」
「それは、・・・わざわざ持ってきたのかい?」
「毎回酒の席でニコニコ笑いながらほぼ酒に手つかずなんて楽しくもなんともねぇ飲み方してるのが癪に障っただけだにゃ。・・・まぁ、お前が酔えないのもわかってるけどよ」
「・・・そういう君は、あの席から離れてよかったのか?ああいうときは、皆嵌めを外しているものだろう」

 押し付けられた酒瓶をどうしたものか、と逡巡しながら受け取れば、ぱっと南泉の手が離れる。その途端ずっしりとかかる重みにこれ開けてもいないんじゃないか、と思いつつ今頃濡れ場と化しているだろう宴会場を思い描いて、探るように視線を向けた。
 大体ああいう時は酔い潰れて寝ているか、早々離脱していない限りそういう雰囲気になったら雪崩れ込むことが多いのだ。いや、寝ていたとしてもうっかり寝込みを襲われることがあるので、長義は絶対に酒宴では酒を飲み過ぎないように徹底している。
 元々人前で正体を失くすような飲み方はしないが、万が一でも事が起こらないように万全を期すのは当然のことだ。
 しかし、そんな無礼講ともいえる、きっとこの本丸の刀にとっては楽しいのであろう席を外れて、わざわざ南泉がこちらに来る理由がこの為だけとは考えにくい。そもそも長義が酒宴を楽しもうが楽しまなかろうが、彼には関係のない話の筈なのだから。
 腑に落ちない、とばかりに酒瓶を抱えると南泉は片眉を跳ね上げて、はん、と鼻を鳴らした。

「誰も彼もがあんなんだと思うんじゃねぇよ。俺はあいつらとヤる気もなければ興味もねぇ、にゃ」
「そうなのかい?」
「お前に嘘吐いて何になる。少なくとも、あんなのに混ざる気なんてこれっぽっちもないにゃ」
「ふぅん・・・まぁ、確かに、君が俺に嘘を吐く必要はどこにもないね」

 むしろ願い下げだ、とばかりに肩を竦めた南泉に、意外なものを見たかのように瞬いて、少しばかり考え込むように俯いてからこいつの言うことにも一理ある、と納得した。南泉一文字が必要のない嘘を長義に吐くはずがなく、また、そんな虚偽を吐く理由がない。ならば彼の言ったことは真実なのだろう、と長義は初めて肩から力を抜いて、どこかほっとしたように頬の筋肉を緩めた。
 さて、そうなると、彼は純粋な気持ちで長義に酒を持ってきたということになる。わざわざ未開封の酒瓶を、会いたくなかったと言った本人の為に、だ。純粋に楽しめていない彼を気にかけていたのだろうことは明白で、あんなに絡まれていた酒の席でも長義の様子に気づいていたのかと思うと、思わずふふ、と笑みが零れ出た。ああ、全く。こいつは変わらないな、と瑠璃色を細めて、ぎゅっと酒瓶を軽く抱きしめる。

「つまり君は、俺を心配してわざわざきたわけだ」
「は!?な、調子に乗るにゃ!俺はただ、碌に飲んでないから飲み足りねぇだろうなって思っただけでっ」
「ふふ。顔が赤いよ?お酒のせいかな?可愛い顔だね、猫殺し君」
「うるせぇにゃっ。ったく、相変わらずの減らず口だなお前はよぉ」
「それはどうも。折角君が俺を心配して持ってきてくれたんだ。どうせグラスも持ってきているんだろう?特別に俺の部屋に招待してあげようじゃないか」

 にやにやと笑いながら、さっと朱の差した頬を指摘するようにつんと突いて、山姥切はギリギリと奥歯を噛みしめて睨みつけてくる南泉に、耐え切れないようにぷっと噴き出した。
 あはははは、と笑い声をあげると、苦虫を噛み潰したかのような顔で酒瓶を奪い取ろうとしてくるので、それを華麗に避けてすっと襖を大きく開けて体を半身ずらして中へと南泉を誘った。布団を敷いて寝るばかりの部屋だったが、今日ばかりは腐れ縁とくだらない話でもしながら飲むのもいいだろう。ニコニコと笑っていれば、南泉はぐっと目を細めるように眉間に皺を寄せて、はぁ、と溜息を吐いてしょうがねぇにゃ、と愚痴めいたことを呟いて室内へ堂々と足を踏み入れる。
 長義は楽しそうに抱えていた酒瓶をドン、と床に置いて、ほらほら猫殺し君、と手招きをして南泉を布団の上に呼ぶ。座布団を用意するのも面倒だし、布団があるのならばその上でいいや、という実に軽いノリだ。今まで部屋を訪った誰にもしなかった扱いを、さらりと南泉に許して長義はキラキラと瑠璃色の双眸を煌めかせた。
 そのはしゃぐような楽しげな眼をみて、南泉は苦笑を浮かべて酒瓶と一緒に持ってきたグラスを長義に手渡した。ひんやりと冷たい、繊細な切子細工のグラスを両手で受け取り、矯めつ眇めつくるくると回して観察すると、目元が緩やかに弧を描いた。底の方から濃く、青のグラデーションがかったガラス細工の器はまるで長義の瞳のようで、反対に南泉が持つものは赤から橙にグラデーションのかかったもので、一目で対のものだとわかる。

「いい器だね。これなら酒も一等美味しく飲めそうだ」
「中身も大事だが、器も大事ってな。ほら、とっとと出せよ、にゃ」

 言われるがままグラスを差し出すと、危なげもなく酒をとくとくと注いで、透明な液体がグラスの器を満たしていく。たぷんと揺らすと、どちらからともなく、チン、とグラスの縁を重ねて煽った。ごくごく、と白い喉が上下して冷た液体がざっと食道を抜けて胃に落ちていく。舌先に残る少し甘い後味に、濡れた唇をぺろりと舐めて、長義は自然と緩まる頬でほう、と吐息を零した。

「美味しいね」
「だろ?酒飲み共のお墨付きだからにゃぁ」

 目を細め、得意げに笑った南泉が飲み干したグラスにまた酒を注いで煽る姿に山姥切も酒をグラスに注ごうとすれば、南泉が無言で瓶の口を傾けてくる。あぁ、本当にこの腐れ縁は、と思いながら素直にグラスで酒を受け止めて、ほわりと暖かくなる臓腑をするりと掌で撫であげた。
 あぁ、今日は思った以上に良い夜だ。旧知の仲と久方ぶりに飲み交わす夜に、今までにない安心感を覚えて、そっと目を伏せた。そうか、思っていたよりも自分は、大分無理をしていたのかもしれない。決して悪い本丸ではない。長義を十二分に使ってくれて、仲間同士の仲も悪くはなく、戦場で背中を預けるには十分な仲間たちだ。けれど、心から安心できる場所かと言われると、そうではないことも事実だった。
 こういう本丸で、心から無防備になることはできず、どこかで常に気を張って。昔馴染の前でさえ、昔のようにはできなくて。――この本丸の価値観と、山姥切の価値観はどうしても相容れないから、一線を引くしかなかった。お互いの為、自分の為に。
 けれど、南泉は違う。違うといっていた。彼はこの本丸の色に染まりきってはいないらしく、多分それは珍しいことなのだろうと思う。刀剣男士は、大なり小なり顕現したものの影響を受けることがある。この本丸が特に、性に奔放になったのも審神者の影響もあるだろうが、環境がそうなっていたことも染まりやすかった理由のだろうと長義は考えていた。
 閉鎖的になりがちなこの前線基地において、刀剣男士にとっての本丸とは人の身を得た己の初めての世界だ。それ故に、その環境が他者とズレているなど思いもしないことはままある。それ以外を知らないのだから、それはしようがないことなのだけれど。
 ただ、長義は元は政府で過ごした時間もあって、審神者の影響は受けにくい性質ではあったが故に、こうして齟齬が生まれてしまった。しかし政府で顕現されていたわけでもない南泉がこの本丸に染まらずにいたことはきっととても稀有なことだ。
 やっとどこか息を吐けたような心地で、長義は目の前で酒を煽る南泉を見つめた。
 白いジャージも、猫の耳のように癖ついた柔らかそうな金髪も、鋭い金瞳も、目元に刷かれた朱も、均整のとれた、悔しいが長義よりも肉付きの良い肉体も。にゃ、なんて独特の語尾も、口では文句を言いながら、長義を気に掛けるお人好しな部分も。何も変わらないんだな、と胸の内が酒ではない何かに温かくなるのを感じた。いい酒の肴だな、と思いながら、満足そうに人心地ついてにっこりと笑みを深めたのだった。





 それから、長義は今まで避けるようにしていた南泉と共に居る時間が増えた。勿論本丸にいれば色ぼけた刀の情事を見かけたり、誘われたりする回数は減ってはいないので、外にでる時間はさして変わらない。ただ、その横に南泉がいることが増えてきてはいたし、なんなら本丸に居る時でさえ自然と横に並ぶようになっていた。長義にとって色事に興味のない南泉は落ち着ける場所で、南泉にしても長義の揶揄や態度は鼻につくものがあれど、あえて突き放すようなものではないのか渋々と受け入れている節がある。
 あぁそうだ、この距離感、この関係だ。初めてこの本丸で戦場以外に居場所ができたようで、今まで避けていた分を取り戻すように南泉を構い倒した。構われる側の南泉はというと、非常に鬱陶しそうにしていたが、それでも甘んじていたようなので案外悪い気はしていないのかもしれない。いやでも割と本気で嫌そうだな、とは思っている。それでもしょうがないか、で受け入れてしまうのだから、そういうところだよ猫殺し君、と長義はくふくふと笑みを押し殺し、気付かれないように眉尻を下げた。そういう突き放せない甘さがあるから、俺みたいな面倒臭い奴に構われるんだ。
 外見は、人の世でいうのならば所謂素行不良の人種のように、取っつき難い印象を与える彼だ。服装が所謂ヤンキーだとかその道の男めいた迫力のあるものなので、審神者の第一印象はひえっヤンキーだ、と遠巻きにされることがままあるという。
 彼を引き立てる良い衣裳だとは思うけれど、まぁ、そう見えることも確かだよね、とちらちらと隠すこともなく見せられるおへそを見つめる。うん。いい腹筋だ、優だね。
 ただまぁ、その外見で呪いのせいだとはいうが、あの可愛らしい、一部であざとい!と言われるような語尾で話すのだから、所謂ギャップ萌えという奴かな?と小首を傾げる。
 その上で、他人に興味が薄いような態度を取りながらも決して邪険にはせずに、律儀にも付き合ってあげる性格の良さがある。猫扱いは好まないが、さりとてしようがないな、とある程度は許容する器の大きさに虜になる審神者は多いと聞く。当然だね、猫殺し君だからね。でも彼は猫ではないから、その辺りのさじ加減を間違えると割と簡単に切り捨てられる(物理的にではなくて、精神的なものだ)危険があることは、多分審神者はわかっていないだろうなぁ、と縁側ですいよすいよと眠りこけている横に座りながら、つい、と瞳を細めた。
 彼は猫を斬った刀であって、決して猫ではないのだから、その本質を見誤ってしまうと存外に容易く線引きをしてしまう。審神者と刀剣としての立ち位置は変えないだろう。命令違反をすることも、背くこともきっとしない。だがそれと、南泉一文字がその審神者を己を扱うに足る主だと思うことはまた別の話だ。そういうところは天下の一文字。存外にシビアなのだけれど、まぁ、南泉を猫扱いするような審神者なのだからしようがないよね、と寝ている南泉の口元に引っかかっている髪の毛を指先で払いのけ、ついでに撫でるように耳にかけて肩を竦めた。むずがゆそうにむにゅむにゅと口元を歪める姿にふっと口元を緩め、柔らかな猫っ毛を指先で梳くように弄んでいると、きしり、床板を踏みしめる音に動きを止めた。穏やかに緩んでいた瞳が、途端に剣呑に眇められる。

「本歌」
「・・・なにかな、偽物君」

 控えめに、じっとりと。低い声が己を呼ぶのに、一度目を閉じてからくっと口角を持ち上げて振り返る。非番だったのか内番だったのか、赤いジャージ姿でボロボロの布を肩に巻きつけて、かつてはその鮮やかな金髪を隠していたという山姥切国広は空のように透き通った青い瞳を真っ直ぐに山姥切に向けていた。気圧されるほど真っ直ぐな眼差しを好戦的に見返して、写しは偽物ではない、という定型のような反論を聞き流した。
 国広は今いいだろうか、と控えめに問いかけて、長義を伺うようにそろりと眼球を動かす。それに眉を潜めて、長義は殊更に笑みを深めてみせた。

「よくないね。見て解るだろう?今俺は猫殺し君を構うのに忙しいんだ」
「そいつは寝ているだろう?その、少しでいいんだ。話さないか?」
「寝ているものの横で五月蠅く話すものではないよ。そんなこともわからないのかな、偽物君は」

 取りつく島もない。微笑みを浮かべながらも、目の奥は冷ややかに国広を見ている。どこかピリリと張りつめた空気は長義からの拒絶で、それを確かに感じ取り、途方に暮れた子供のような顔で国広は下唇を噛んだ。
 誰かと交えて話す時はもっと穏やかなのに。決して、決して会話をしてくれないわけじゃないのに。呼べば応えてくれるのに、どうして2人で話そうとすると、この美しい刀は頑ななまでに国広を拒絶するのだろう。
 ある一定の距離から決して近づいてはくれない。国広から近付いても、鼻先でぴしゃりと戸を閉められてしまう。けれど無視をされるわけでもなくて、もどかしい距離感に懇願するように長義を見つめた。その眼差しを受けて、長義は落ちてきた髪を耳にかけ直しながら、はつり、と瞬きに瑠璃が隠れる。

「日常会話や、仕事の話ならしてあげる。だけど、それ以外でお前と話すことなど何もないよ」

 声色は淡々としていて、突き放すようだが語尾は穏やかだ。細められた瑠璃色の宝玉も、三日月にしなった桜色の唇も、なだらかに弧を描く眉尻も。穏やかに、散る桜のように繊細で、彼の刃紋が桜花に例えられることを思い出した。美しい、鋼色の髪を持つ、気高い刀剣。
 美しく、優しい微笑みを浮かべている癖に、それらは全て拒絶の意味を為している。どうして、と力なく国広は眉を潜めた。どうして彼は、優しく、穏やかに、けれど断固として、国広を受け入れてはくれないのだろう。彼が口にしたそれが一番の答えなのだと、気づけないままに。

「本歌。やまんばぎ、」
「んにゃぁ・・・」

 それでも諦めきれないと、手を伸ばし続けなければ永遠に届かないとばかりに名前を呼んで、呼びかけたところで、欠伸のような呻き声がそれを遮った。ハッと口を噤めば、頑是ない子供を見るような瑠璃色の双眸がなんの未練もなく国広から外され、とろりと柔らかく綻んだ。決して国広には向けられない、心からの信頼の浮かぶ目。キリ、と床板に爪を立てるように、掌に力が籠る。

「おや、起きたのかい猫殺し君」
「んー・・・頭の上でごちゃごちゃ言ってたら嫌でも目が覚めんだろ・・・」
「それはそれは、申し訳ないことをしたね」
「白々しい謝罪だにゃぁ」

 そういって、くしくしと目元を擦る南泉は、くぁ、と大きな欠伸を零すとのっそりと体を起こし、長義と国広をちらりと見やって乱暴に頭を掻いた。

「昼寝の邪魔をしたお詫びに、俺の部屋で茶菓子を振る舞ってあげよう」
「あー・・・それよかもちっと寝ていてぇ、にゃ」
「ふむ。なら、どっちみち部屋の方が都合がいいね。さ、行くよ南泉」
「っ本歌!?」

 何故、どうして。今まで誰も、部屋になど招き入れなかったのに。誰の誘いも全て煙に巻いて、寄り付きもしなかったのに。驚愕に見開いた目をつい、と一瞥したが、長義はすぐに視線を外して立ち上がり、後ろを振り返りもせずに歩き出した。あ、と伸ばされた手は無意味に空気を引っ掻いて、力なく落ちていく。
 そのやり取りをじっと見つめていた南泉は、ふっと短い息を吐くとやれやれ、とばかりに立ち上がり、こちらも国広を見ることは無く長義の後に続いていく。先に行く背中に追いつき、すぐさま横に並ぶと、南泉はちらりと横目を向けた。
 一切の変動なく、涼しげな顔で歩く山姥切に先ほどまでの余韻はない。まぁ、そうだろうな、と思いながら、一応、とばかりに口を開いた。

「あの調子じゃ、あいつまだ気づかねぇぞ、にゃ」
「そうかもね。けれど、こればっかりは話をして解らせるものでもないだろう?大体が、皆あいつを甘やかしすぎなんだ」
「お前が言うかぁ?」
「は?どういう意味かな?俺がいつあいつを甘やかしたというんだ?ん?ほら言ってみろ南泉。俺が、いつ、あの偽物君を甘やかしたと?」
「面倒くせぇ絡み方してくんなよ・・・」

 笑顔で圧力をかけてくるそれを乱暴に押しやって、無視せずに相手にするところが甘いんだってーの、と言葉にせずに盛大な溜息に乗せて南泉は半目で長義をみた。ヒントまで与えてやって、つくづく本歌とは写しに甘いものなのかもしれない。・・・いや、そうでもねぇな?とある一振りの刀を思い描いて首を横に振った。これはこいつだからこうなんだな、うん。
 乱暴に顔を鷲掴まれて押しやられた長義は「ちょっと、俺の顔を鷲掴むとかいい度胸だね」とぶつくさと文句を述べてべしっと力強く南泉の手を叩き落とす。
 割かし強めに叩いたのか、じん、と軽く痛みが走ったが大したことではない、と叩き落とされた手をぷらぷらと揺らして南泉はもう姿が見えなくなった後ろを気にするようにちら、と視線を向けた。

「・・・まぁ、あんだけヒント出されて思い至らないようじゃ、にゃあ」

 猪突猛進なところは誰に似たんだか。首を竦めて、まだ横で立石に水のごとくべらべらと文句を言い連ねる長義に意識を戻す。あー・・・まぁ、こいつの写しだしな、と、1人納得した事実を、きっと本人達だけが知ることは無いのだろう。そう思いながら、南泉は薄らと口角を持ち上げた。浮かべた笑みを見咎めた長義が食って掛かるのを往なしながらぐるぐると喉を鳴らして、ぺたぺたと床板を踏みしめる。

「ちょっと、聞いてるのか、南泉っ」
「聞いてる聞いてる。っと、着いたぞ、山姥切」

 通り過ぎかけた部屋の前で立ち止まり、襖をサッと開ければ長義は口を閉ざしてしようがないな、と肩を落とした。そのまま部屋の主の承諾もないままにずかずかと入り、ごろりと横になるとまた小言が降ってくる。うるさいにゃぁ、とぼやけば、何か言ったかな?と笑顔が深くなったので、大人しく口を噤んでおいた。無駄に口答えをすれば倍になって返ってくることは500年来の付き合いでわかりきっていることである。そしてその顔に乱暴にブランケットが重ねられ、ぽいぽいとクッションも飛んでくる。ちょ、おい、顔に向けて投げてくんにゃ!と文句を言えばさぁ知らないな、と自身もブランケットとクッションを抱えた長義がごろんと隣に横になったので、顔を顰めて大人しくクッションに頭を預けた。

「お前も昼寝すんのかよ、にゃ」
「俺がどうしようと勝手だろう?」
「へーへー。好きにしろよ」

 そういって、山姥切に背中を向けるように横を向いてクッションに埋めた頭をいごいごと動かして丁度いいポジションを探る。後ろを向かずとも、山姥切のことだからどうせ行儀よく仰向けで寝ているに違いない。そう確信をして、南泉は背中に感じる確かな熱に、とろりと意識が微睡んでいくのを感じていた。





 油断した。いや、油断というよりも、まさかこんな手段を講じてくるなんて考えてもみなかった。
 どくどくと常よりも早いリズムで鼓動を刻む心臓につられて、熱い息が薄い唇から零れ出る。身じろぐ度に擦れる布地の淡い刺激すら鋭敏に拾い上げる肌に忌々しく唇を噛み締め、意図せず漏れ出そうになる声を押し殺した。くっと声を潜めれば、たらりと滲んだ汗が頬を伝う。ぱたり、と、畳の上に丸い染みあできあがると、その形を忌々しく睨みつけてぐるぐると腹の奥で蟠る熱から逃げるように背中を丸めて床に蹲った。
 ずくずくと、あらぬところが熱を持つ。痛いほどに、張り詰めていくそれから気を散らすように握りしめた拳が白く血の気を失い、掌に爪先を食い込ませた。
 くそ、と口汚い罵倒が零れ出る。それさえもどこか媚びを含んだように頼りなく聞こえて、それが己の口から出たことに酷い羞恥を覚えながら聞きたくないと強く目を閉じた。
 あぁ、まさか、こんな手を使ってくるなんて。どうかしている、とひたすらに自身を犯していく熱源に身悶えながら、大きく息を吐き出して少しでも熱を逃がそうと苦心するものの、体の熱はただひたすらに上がっていくばかりだ。
 油断していた、考えなかった、信用していた。だって、嫌だと、好きではないと、ずっと言っていたし、周りだって了承していたではないか。無理強いをしてこないから、断ればすぐに諦めたから。だから、この孤立してしまいそうな本丸の中でもやっていけたのだ。

 それを、こんな、こんな形で、裏切られるなどと。

 滲む視界に、それが今自身を支配しようとじわじわと魔手を伸ばす熱のせいなのか、それとも想定外の事態に心が追い付かないせいなのか。どちらが理由なのかはわからなかったが、ぐっと唇を噛んで頭を振った。ぱさぱさと頬を叩く自分の髪にさえ背筋が震えて、無意識に太腿を振り合わせてしまう。腰が揺れ、小さく声が漏れたところで、はっと目を見開いて己の口元を両手で覆った。まずい、蝕む興奮が、思考さえも蕩かせ始めている。
 股間に伸びそうになった手を押し留めて、吐息さえも押し隠すように強く掌を押し付ける。黒い手袋がハァハァと熱い己の吐息で湿り気を帯びて、足が動くたびに、ぬちゃり、と下着が濡れる感覚が増した。
 その感覚が気持ち悪くて、気持ち良くて、相反する思考に脳みそが掻き混ぜられて飽和していく。なんて性質の悪いものを飲ませたんだ、あいつらは。恨み辛みを吐く気力さえも、悦楽の気配に溶けていく。その狭間で、長義はカッと目を見開いた。

「山姥切」

 ―――最悪だ。
 ぴったりと閉じた襖の向こう。低く、聞こえた耳馴染の良い声に、その持ち主を長義は嫌でも知っていた。どうして今なんだ。解けはじめた理性の糸を、必死に掻き集めて結び直しながら、長義は涙の膜が張った目で忌々しく閉じられた襖を睨みつけた。こんな、こんな情けない姿を、あいつにだけは晒したくはない。こんな――薬に侵されて、浅ましく身悶える姿など、長義の望むべく姿ではないのだから。
 ふぅふぅと息を荒くしながら、ずりずりと這うようにして襖から距離を取る。壁際によって、ピッタリと背中をくっつけながら、長義は仇でも見るかのように襖の、正確にはその向こうに苛立たしげに舌打ちをした。

「おい、山姥切。大丈夫か?」
「・・・っ開けるな、南泉!」

 カタリ。ほんの僅かに聞こえた戸の音に、ほぼ怒鳴りつける勢いで制止の声をあげる。開けてくれるなと、懇願も混ざっていたかもしれない。最早自分の声がどのような色を持っているのか判別もできず、それでも長義はきつく二の腕を鷲掴みにして唾液をごくりと飲み干した。

「俺のことは、放っておけ」

 こんなことは大したことではない、自分だけでどうとでもできることだと、声色に込めて毅然と言い捨てる。その声が届いたのか、それ以上襖が開く気配はなく、わずかの隙間もないまま沈黙が落ちたがその前に立っている気配が一向に動いていないことはわかっていた。ちっと、舌打ちをする。さっさとどこぞへ行けばいいものを、と苛々しながら目つきを鋭くすれば襖の向こうで、ふぅ、という溜息が聞こえた。そのまま、きしりと床板が軋みをあげる。

「誰にやられたんだ?平安の爺共か?それとも織田か?お前に感づかせることなく盛れるなら、長船か」
「・・・違う」
「へぇ・・・じゃぁ、堀川派か」

 ひゅぅ、と軌道が狭まる。ぎり、と二の腕に食い込むほどに力を籠めると、沈黙したこちらにおおよそを悟ったのか、襖越しでもわかるように、南泉が肩を竦めた気配がした。

「媚薬を盛る、なんてこと考えて尚且つお前に口にさせることができるといったら、脇差の国広の方だろう、にゃ。油断したな、化け物切り」
「ぅるさい、くそ、なんだって、こんな・・・!」

 呑気な、とも取れるほどのったりとした口調で、くつりと笑う声がする。揶揄するような響きに歯がゆく思いながらも、己の過失だということはわかっていて長義は小さく悪態を吐いてぎゅっと下腹部に力を込めた。余裕が剥ぎ取られていくのがわかる。常ならこんな荒々しく、自分の内面を見せるような荒れ方はしない。取り繕う余裕もないのかと、ハッと己を嘲笑った。

「どうせ、写しが落ち込んでいたから見かねて、だとかだろ。ここの連中は肉体言語に性交渉を持ってくるからにゃ。お前も気持ち良くなれば褥で会話できるだとか、そういったお節介のつもりだったんだろうよ」
「本当に余計なお世話だよ・・・っ」
「違いない。それで?お前、写しの方はどうしたんだ、にゃ。そういう状態ってことは、一応来たんだろ?あいつ」
「殴り飛ばして捨ててきた」
「おぅ・・・」

 そこだけ流暢に答えながら、当然だろう、と鼻を鳴らす。こちらの言葉の裏を考えもせず、薬に頼って夜這いに来るような写しに、かけてやる情けも差し出す貞操もない。
 如何な錬度差があれど、拳に物を言わせて沈めてきたのだ。某大国式軍用武術は伊達ではない。今頃どこかの部屋で気絶でもしてそうだな。中傷とはいかないが軽傷程度で転がっているに違いないが、長義に罪悪感などあろうはずもなかった。ただただひたすら忌々しいだけで、その怒りで沸々と腸が煮えくり返りそうだ。
 そもそも褥で会話ってなんだ。ピロートークか。体を繋げた後なら素直になれるよね、とでもいうつもりか。余計なお節介極まりないし、そもそも長義は捻くれているつもりはない。いや捻くれた性格ではあるが、写しに対しては真向から向き合ってきたつもりだ。
 恐らく媚薬を持ったことに、彼らに大した考えはないのだろう。簡単に気持ちよくなって気分が盛り上がるエッセンス程度のそれで、躰で繋がり合えばもっと打ち解けられるだろうという、善意に他ならない。通常、拳か刀で殴り合うべき手段をセックスに置き換えているだけなのだ。まぁその考えこの本丸以外だったらただの犯罪なんですけどね!ちょっと気持ちがおおらかになれば会話もできるかも、程度で、盛られた側は堪った物じゃないんだけど、本当どうなってんだこの本丸。普通に媚薬なんてものを持ちだす辺り、中々にとんでもないんじゃなかろうか。
 前提が違うとこうも噛みあわないものかと嘆きながら、長義は未だ収まる気配のない熱源にうんざりと項垂れた。

「・・・それで、君はいつまで部屋の前にいるつもり、なのかな」
「アン?・・・そうだにゃ、夜明け前ぐらいには部屋に帰れるだろうな」
「それまで、いるつもりかいっ?」
「鍵もかかってない部屋にそんな状態で一振りでいて、大丈夫だと思ってんのか?誰かに喰われたくないなら、素直になっておくのが身の為だ、にゃ」

 姿も見せず、部屋の襖越しの会話で鼻先で笑う気配がしてぐぅ、と低く唸り声をあげる。
 不満気な長義を見越した、日頃上から物申す彼を逆にやり込められる状況に楽しげですらあるそれに、長義自身気に喰わないものはあったが、確かに、躰の調子に気を取られてつっかえ棒もしないままの戸は、誰かが来て開けてしまえば一貫の終わりだ。いや、この状態でも長義が拒絶すれば引いてくれるのかもしれないが、刀にもよるだろう。それに、善意という名のお節介で、こちらの熱を下げようとしてくるかもしれない。それだけは絶対に嫌だと、長義は少しの逡巡のあと、仕方なしに諦めたように目を伏せた。

「猫の門番とは、なんだか、・・・頼りない、ね。寝落ちだけは、しないでくれ、っよ・・・」
「猫じゃねぇっつの。ったく少しはしおらしくできないのかよ、お前は」

 頭が芯がぼう、として、躰の奥はまだ疼いている。まだまだ下がる気配のない熱の中、それでも皮肉を口にしてしまうのは、長義の負けん気からだ。この程度で弱っているなど思われたくはない。困ってはいるけれど、弱ってなどいないのだと、股間の熱を散らすように長義は深く呼吸をした。

「借りは、返すよ」
「いらねぇよ、そんなもん・・・いや」

 与えられるだけなど長義の主義に反する。頭の中でどう最高の返し方をしてやろうかと、震える身体を押し殺して考えていると、南泉の言葉が不自然に途切れた。
 うん?と目線を上げるが、その姿が見えるはずもなく、じっと彼の行動を待つしかない。なんだ、俺のお礼が気に喰わないとでもいうのか。熨斗つけて押し付けるぞ。

「なぁ、山姥切」
「・・うん?」
「お前、この本丸から出る気はねぇか?・・・にゃ」

 は、と、熱ではない息が口から零れ出る。ぐっと見開いた目で襖を凝視すると、カタカタ、と僅かに襖が揺れる音がした。南泉の背中でも触れたのだろうか。しかし、そんなことよりも、今南泉の口から出た言葉が長義の脳内を占めていて、驚きに言葉を失くしているとに゛ゃ゛ー、と、低い唸り声のようなものが廊下から長義の耳へと届いた。

「なに、・・・何を、」
「別に、有り得ない話でもねぇだろ、にゃ。審神者や、本丸と合わないと判断した刀剣が刀解を申し出るのも、別の本丸に引き取られるのも、正式な手続きをすれば可能だ。別に、本丸自体に罰則があるわけじゃないだろ?にゃ」
「それはっ・・・それは、そうだが、お前は、俺にこの本丸から逃げ出せというのか?!」
「違ぇよ。逃げるとか、逃げないとかじゃなくて、・・・これからも闘い続けるための手段、だろ?・・・にゃ」
「・・・っ」

 激昂しかけた長義を遮るように、南泉は殊更静かに言葉を紡ぐ。言い聞かせるよりも淡々と、このままでいいのかと問いかけるようなそれに、ギリリ、と奥歯を強く噛み締めた。

「俺は、この本丸に、不満なんて・・・っ」
「不満はなくても、合わないんだろ。じゃあ仕方ねぇじゃねぇか、にゃ。このままここにいて、ずっと気を張り続けて過ごすつもりか?それこそ、いつか限界が来るぜ、お前」
「そんなことっ・・・そんな、こと・・・」

 反論は、最後には掠れるように言葉にならなかった。悔しげに唇を噛んで、二の腕に爪を立てる。・・・南泉の言いたいことは、長義もわかっていた。きつく眉根を寄せて、立てた両膝の間に顔を埋める。
 わかっている。わかっていた。この本丸が、長義にとって安らげる場所でないことなんて。
 冷遇されているわけでもない。真綿で首を絞められるような、息苦しさを覚える、そんな場所であったわけでもない。審神者は誠実に長義と向きあい、少しずつその認識を変えている最中であったし、本丸の刀剣達だって、誰も山姥切を否定しなかった。きちんと理解して、認識していた。審神者は長義をよく使ってくれたし、戦場は胸躍らせる場所で、遠征先だって楽しかった。内番は嫌なものもあったけれど、決して拒絶するほどのものではなく、上手くやれていたのだ。問題など、あるはずがなかった。
 ただ、ただ一点。―――どうしても、この本丸の考え方と、長義の考え方が噛みあうことなど有り得なかっただけで。

「・・・主に、責など何一つない」
「わかってるよ。ただ、まぁ、偶々、お前とこの本丸とじゃ、性質が合わなかっただけだにゃ」
「・・・いい本丸だよ。俺が優判定を出したんだ、いい本丸に決まっている」
「そうかよ。・・・で?」
「―――明日、主に相談するよ」

 ぽつりと、区切りをつけたように静かな声で。長義は、一つ瞬きをして睫毛に溜まった雫を払うと壁伝いにズルズルと倒れ込んだ。
 本当は気に喰わない。南泉の世話になることも、こうしてただ耐え忍ぶことしかできない自分も。それでも、どこかほっとしている自分がいることも事実で、猫殺し君の癖に、と口の中で呟いて長義は疼くそこから意識を逸らすように、この夜を越えた後に思考を巡らした。
 良い本丸だ。長義を大切にしてくれる、良い本丸だった。ただそれでも、――心からの安息がない場所で、長く戦い続けることが難しいことなど、本当はわかっていたのだ。
 いつでもどこでも艶めいた夜の気配を纏う場所。合わない価値観の中晒され続けるのは、想像以上に長義の精神を削っていたらしい。戦えさえすればいいと、思っていたんだけどなぁ、と、ままならぬ人の身の心というものに瞼を閉じて、ひっそりと息を潜めた。





 この本丸を出たいと告げた長義に、審神者は一瞬目を見開いた後、そう、と残念そうに囁き、けれどわかっていた、とばかりに微笑みを浮かべた。

「いつかこうなるんじゃないかとは、思っていたわ」
「この本丸自体はいい本丸だよ。仕事ぶりも刀剣の仲だって悪くはない。君だって、・・・とても、良い主だ。この本丸が不利になるようなことはしないと誓おう」
「優しいわね、長義は。でも、出ていくんでしょう?」
「・・・中途半端に投げ出す俺を、罵ってくれて構わない。君にはその権利がある」
「まさか。しょうがないわ。この本丸があなたに合わなかっただけだもの」

 そういって、フッと息を吐くと、審神者はこんのすけを呼び出し、長義の返還、及び移動の申請を願い出た。こんのすけはくるりと瞳を動かし、長義と審神者を交互にみて承りました、とコン、と一声鳴いてどろんと姿を消した。政府に戻り、その旨の報告と必要書類を持ってくるのだろうを目星をつけて、長義と審神者はお互いに向き直る。

「親しい刀に挨拶はしていくの?」
「あぁ。世話になったからね」
「そう、じゃぁ今日の夕飯時にでも全員を集めなくてはね。それにしても、堀川も国広も、あとでお説教しなくちゃ」

 そういって、ぷりぷりと怒る審神者の目が、存外に笑っていなかったので長義はそっと視線を逸らした。あ、結構頭にきてるな、これ。そういえばこの審神者、性犯罪は撲滅すべし、との信条を掲げていた。その割に貞操観念がゆっるゆるだが、彼女の中で同意なく薬を盛るという行為は大分アウトだったらしい。まぁ自業自得だが。同情する余地など微塵もないな、と長義は逸らしていた視線を戻してにっこりと笑った。被害を被った側からしたらいいぞもっとやれ、というものである。
 それから、諸々の書類の申請や職員の聞き取りなんかを済ませて、本丸の移動を受理された長義が一旦政府預かりということで古巣に戻ることになった。
 長義が移動する、という旨の報告を受けて本丸はざわついたが一部の刀剣はさもありなん、とばかりに頷いていたので、もしかしたら今までも数件、そういう案件があったのかもしれない。皆が皆染まっていたわけではないんだなぁと思いながら、泣きべそをかきながら謝罪をする写しと脇差の両名、それから兄弟の不始末は己の不始末、そして相棒の問題は己の問題、とばかりに兄弟刀と新撰組の最年少が揃って土下座して平身低頭、いっそ腹を掻っ捌いて、とまで言い出しそうな気迫で謝罪にきたので、長義は行為自体は許せないが、それでもそれを引きずることは無い、と顔面蒼白にしている山伏と和泉守を宥めた。
 いやさすがに首を差し出されても困るのだ。長義は何も、この本丸に禍根を残していきたいわけではない。切欠は確かに件の媚薬のせいだったが、遠からず、こうなることは今ならおのずと察していた。どちらにしろ、長義はここに長くは留まれなかったのだ。偶々、踏ん切りをつける切欠が、あれだっただけで。
 本気で問題を起こした刀とその縁刀達が自身を折ってしまいかねなかったので、宥める方に尽力してしまったな、と本丸の皆に惜しまれながら政府に戻った長義はふっと笑みを浮かべた。
 悪くなかった。いい本丸だった。けれど、長義には合わない本丸だった。それだけの、ことだった。

「・・・それで、なんで君までいるんだい?猫殺し君」
「んにゃあ?まぁ俺も、おちおち昼寝もできない本丸には居辛かったからにゃぁ。丁度いいから、便乗しただけだ、にゃ」
「全く。俺は良いように君に利用されたわけだ?へーほーふーん。・・・後で覚えていろよ、南泉」

 傍らに立つ、金色の髪の刀剣をじとりとねめつけて、ふん、と鼻を鳴らした。何故か、政府に戻った長義の横には当然のような顔をして立つあの本丸の南泉一文字が立っていた。本人曰く、あそこの空気は合わなかったとのことだが、それがどこまで真実なのかは定かではない。
 物珍しげに政府の庁内を見渡して口を開けている姿を一瞥し、今ならあの口に団子でも突っ込めるんじゃないかと思いながら、長義は眉間に皺を寄せてあまりにも自然に後をついてきた刀剣から視線を外した。
 どこから、いつから。何を思って、南泉が長義についてきたかはわからない。全てが全て長義を気にかけたから、なんて理由は有り得ないだろうし、むしろそんなことで本丸を出ようものなら蹴り飛ばしてでも長義は南泉を本丸に戻しただろう。
 そんなことのためだけに、この猫を斬った気高い刀は己の行く道を決めたりなどしないし、したとしたらそんなものは南泉一文字ではない。それだけは確信していたから、長義はその思考をそこで止めることにした。真意など、この刀本刃でなければ到底わかりえないことだ。腐れ縁で、おおよそ思考回路は把握していても、深いところまでわかるはずもないのだから。
 しかし、なんだか南泉に良いように転がされたような気がするのも事実で、非常に不愉快な気持ちになりながら長義はばさりとストールを翻した。

「言っておくけど、政府は忙しいからね。易々と昼寝なんてできると思わない方がいいよ、猫殺し君」
「へーへー。精々頑張りますって、にゃ」

 嫌味の1つも言わなければ割に合わない。ツンと顎を引いて、長義は颯爽と歩き出した。後ろを振り返りもせず、真っ直ぐに、背筋を伸ばして。その後を、南泉が追いかけてくることを疑いもせずに。山姥切長義と南泉一文字は、二振り揃って、ゲートに背を向けたのだった。