「俺に恥ずべきところなどないからね!」「そうじゃねぇんだよにゃぁ!」
日光一文字が人の身で味わう初めての季節は夏だった。それも、夏の盛りともいえる8月の半ばに顕現され、鋼のままならわからなかった真夏の洗礼は人間初心者には中々に堪えるものがある。例えば、朝方目が覚めて肌に張り付く寝巻の感触や、背中に流れる汗の滴り。纏わり付くような湿気に寝巻の内に籠もった熱気を僅かに襟を寛げることで改善しようにも、焼け石に水だ。首筋に浮かぶ粘ついた汗の感触は不快でしかなく、日光の眉間に皺がよる。
やがて溜息を吐いて起き上がり枕元の眼鏡をつけ、額に張り付く前髪をかき上げて薄闇の室内を見渡した。太刀故に夜目の効かない視界では細部まではわからず、ぐっと目を細めるが視界の明瞭さに変化はさほどない。仕方なし、と目元の力を緩めて日光は徐に立ち上がった。
すらり、と襖をあければ中よりは明るい夜明け前の空が見える。まだ日が昇る前なのか、しかし白々と東雲色に染まり行く空の穏やかな風景とは裏腹にじりじりと熱を上げていく微温湯のような暑さは日光を辟易とさせ、人の身の不便さに憂鬱に目を伏せた。
…汗を流せばマシになるやもしれん。皮膚にまとまり付くべとついた汗をなくせばあるいは、と思考を巡らせ、日光は朝風呂を実践するべく踵を返した。
※
「おや、君も朝風呂に入りにきたのかな。日光」
まだ空けきらぬが、暗すぎもしない東雲の時刻。訪れた浴場でばったりとでくわした旧知の刀に日光は僅かに目を見張った。
さらりとまるい肩を滑る柔らかそうな鋼色の髪。釣り上がり気味の瑠璃の瞳は細くしなり、珊瑚色の口元が弧を描いて微笑みを浮かべる。華奢な首筋からくっきりと見える鎖骨の形、更に下にはたわわに実った胸元を支える繊細な意匠が施された下着を視界に収めて、はて。あの胸当てはなんと呼ぶのだったか、と思考を飛ばしながら日光は脱衣場の名に相応しく今まさに裸にならんと服を脱いでいる山姥切…しかもこの本丸では女士として顕現している刀の堂々たる姿に相も変わらず美しい刀だと頷いた。珠のように光る肌がなんだか眩しい。
「あぁ。どうにも寝汗が酷くてな」
「わかるよ。この時期は仕方ないにしても、不快感は消せないからね」
「お前も汗を流しにきたのだろう。俺は後から入るとしよう」
先客がいたのならば仕方ない。しかも山姥切はほぼ裸も同然の姿だ。ここは出直しだな、と脱衣場から出ようとした日光に、山姥切はきょとんと首を傾げた。
「何故だい?共に入ればいいじゃないか」
投げられた提案に一瞬日光の踵を返しかけた足が止まり、振り返った薄いガラス越しの藤色の瞳が丸くなる。再び視界に収めた山姥切は平素の態度を崩さないまま、長い髪をくるくるとまとめて白い頸を日光の眼下に曝け出す。
「風呂場は広い。わざわざ待たずとも2振りぐらい問題ないよ」
「…いや、そういう問題ではないだろう」
カチャ、とズレた眼鏡の位置を直しながらいささか困惑したように返せば、器用に髪をお団子にまとめた山姥切は日光を振り向いてあぁ、と悟ったように頷いた。
「俺が女体だからかな?さすがに、人の身だと気になるかい?」
「お前が山姥切であることは変わるまい。ただ、人の常識に合わせればあまり好ましいことでもないのだろう?」
特にこの本丸の審神者は女で、本丸唯一の刀剣女士である山姥切を猫可愛がりしている。そのせいで顕現当初は出陣関連で一悶着あったと聞くぐらいなのだから、バレればやはり問題が起こるだろう。こうしてほぼ裸と遜色ない頼りなさげな下着一枚で相対していることも、知られれば相応に騒がれそうだ。付喪神の感覚でいえば、女体も男体も大きな違いはない。形とはそこまで重要ではなく、見極めるのはその魂だ。まあ、見目の重要性は理解しているし大事だが付喪神にとっての見目とは本体ーー刀に起因するもので、人の子程肉体による美に左右されることは少ないのだが。何よりまだ顕現して日の浅い日光にとって、肉体を伴う男女の差異を人間の感覚で真に感じるにはいささか難しかった。まだ刀寄り、ということだろう。あくまで聞き及ぶ人の常識に照らし合わせた返答だったが、山姥切はくしゃりと嬉しげに相好を崩した。
「ふふ。そうだよ、俺は山姥切だ。男でも女でも、俺の切れ味と美しさは変わらない。別に間違いが起こるでもなし、共に汗を流すぐらい問題はないと思うけどね」
ようは知られなければ咎められるわけでもなし。そもそも悪いことをしているわけではないのだから、と言われてしまえばそういうものだろうか?と顕現歴1週間の日光に判断は難しかった。なにせ、彼にとって山姥切は山姥切だったので。長い月日で変化した部分があろうと、その性質も魂も、彼が知る山姥切である事に間違いはなかったので。再三述べるが、付喪神にとって男体や女体であることは人間…より正確に言えば生き物ほど重要性を伴わない。なにせ、刀に子を残さねばならないという種の保存使命はないからだ。より自分を相応しく、あるいは表すために男女の姿を取れど、あくまで表現方法の一種なので性別という概念は人の子が思う以上に乏しかった。ここに情緒が育った古参の刀がいたならばいやいや待ってそういう問題じゃないよ!とストップをかけただろうが、いかんせんその場にいるのは人の心がわかれどまだ人に寄り切れない人間初心者と心まで化け物になったと揶揄される殺意高い刀…おまけに元監査官であり元刀剣男士という顕現経歴がやや特殊な、いって見れば男思考に寄りがちな刀しかいない。垣根が低ければ乗り越えるのも容易いもので、未だじっとりじわじわと湿気と暑気で汗が浮かぶ肉体。人間初心者に耐えろというには実に酷で問答の間にさっさと汗を流してしまった方が良いのではないかーー合理的な部分が囁けば、日光が山姥切の提案に頷くのもさして時間はかからなかった。本刀がいいならいいのだろう。見た目にそぐわずあっさりと頷いた日光に山姥切も満足気に口角をあげ、乳房を支えていた下着…所謂ナイトブラを脱ぎ捨て、脱衣場の籠に丁寧に仕舞い込む。隠すものも支えるものもなくなった乳房はぷるんと重力に従ってやや重たげに揺れて、その先端が思う以上に淡く可憐な色味をしていてーー早まったかもしれない、と日光が思ったかどうかは、更に下の下着も脱ぎ捨てた山姥切の知る所ではなかった。