口裂け女



 その日の依頼はペットの犬探しだった。飼い犬がいなくなったと泣く子供にグランとルリアが声をかけ、結果的に団員総出で犬探しに奔走したのである。
 けれど結果は思わしくなく、夕暮れ時になっても一向に飼い犬が見つかる様子はない。子供も泣き腫らした目で諦めの色を浮かべたが、グランとルリアの励ましもあって気を取り直し、ともかくも完全に暮れるまでは、と再び街中へと奔走した。
 そんな折である。まだ日が暮れきるには早く、かといって明るいとも言い難い昼と夜の狭間のような時間。街中を歩き回って、時には動物が潜むような狭い場所を探り、時に街のいざこざに巻き込まれ、時に似た犬がいたと聞けば西へ東へ奔走し、へとへとに疲れて一服でも、と目についたベンチに腰かけた時のことである。煌々と佇む街灯がスポットライトのようにベンチを浮かび上がらせ、誘われるように重たい足を引きずり、腰を下ろすと背もたれにどっしりと背中を預けた。ぎし、と小さな軋みを聞きながら、ラカムは懐を探ると煙草を取り出して口に咥え、火をつけた。ジリジリと先に火のついた煙草は紫煙を細く立ち上らせ、吸い込めば肺の中が満たされたような心地になる。
 吐き出した息は白く濁り、疲れさえもじんわりと取っていくような安堵感にぷかぷかと煙草の煙を纏わせながらどうしたものか、とラカムの眉間に皺が寄った。
 まだ日は暮れてはいないが、それも時間の問題だ。あと一時間も経たない内に太陽は地平線の向こうへと消え、街には夜の時間が訪れるだろう。子供は勿論家に帰すべきだし、夜中では犬探しも難航する。それでもグランとルリアであれば見つかるまで探す、と言い出しそうではあったが、効率の面からいっても明日に回した方が賢明であろう。
 刻一刻と深くなる闇にそう落としどころを見つけ、ならば未だ奔走しているだろうまだ若い団長のストッパーになるべく集合するべきかと、短くなった煙草を携帯灰皿にぐりぐりと押し付けた。さて、しかしお人好しで意外に頑固なところもある団長だ。子供の意気消沈とした姿をみてもう少し、あとちょっと、と粘らないとも言いきれない。
 それでも言ってわからない子供ではないのだが、スムーズに進めるためにはまずその団長の妹と話をつけるが先だろうか。子供らしくなく理性的な面を見せる我が騎空団の料理長である。なんだかんだと兄のサポートを見事にこなし、騎空団としてはひよっこもいいところである自分達を上手く操作し遣り繰りする我が団自慢の団員ではあるが、その手腕に疑問を覚えなくもない。同じ出身地の兄と大分知識量、いやあれは経験値であろうか。そう言ったものが違うようだが、話を聞くに2人ともずっと故郷の島にいたそうなので、一体全体どういうことなのか。疑問はあれども、悪い人間でもなし。頭の良い子供なのだろう、と結論づけてラカムが立ち上がろうと前かがみになった瞬間、横に誰かが座る気配を感じて動きを止めた。
 前かがみになった背筋を伸ばし横をみると、長い黒髪を顔の横にだらりと垂らし、白い顔に赤い口紅の目立つ女が座っていた。
 すっと通った鼻筋に長い睫毛がやや伏し目がちに視点を固定し、横顔だけで見るに中々の美人である。白く細い首筋から下を見れば口紅に負けない真っ赤なワンピースに真っ赤なパンプスを履いていて、憂い顔の割に随分と派手な恰好の女だな、と目を細めた。
 白い、ともすれば青白い顔に纏わりつく黒髪を払うでもなくじっと前を見つめる女にラカムの眉が寄る。微動だにしない女に薄気味悪さを覚えるも、関わることもないだろう、と再び立ち上がろうと頭を下げた。そして、その瞬間を見計らっていたように、女の声がラカムを呼び止めた。

「お兄さん」
「あ?」
「私、綺麗ですか?」
「・・・は?」

 突拍子もない問いかけに、ついついラカムの動きも止まる。相変わらず正面を向いて、横顔しか見せない女は口角を薄く持ち上げて再び問いかけた。

「私を、綺麗だと思いますか?」
「は?いや、・・・そうだなぁ、綺麗、じゃねぇか?」

 美醜で言えば、横顔だけだが綺麗な方になるのではないだろうか。何か毒気を抜かれたように、思わず問いかけに答えながらしげしげと女の横顔を眺めて首を傾げる。なんか変なのに捕まっちまったな、と思うも、こんな時間に見知らぬ男の横にわざわざ座って、声をかけてきたのだ。もしかしたら何か事情があるのかもしれない、と改めて腰を据える。
 下手な奴が相手だと自分の身も危険になるというのにこんな質問をしてきたということは、男にでも振られてよっぽど消沈しているのか。あまりそういった色恋に関して的確なことが言えるような人間でもないのだが、傷ついている女を1人放置するのも気が引けた。自暴自棄になって危険な目に飛び込まれても寝覚めが悪い。忠告でもしてやるつもりで、がしがしと頭を掻いて、言葉を探すように視線を泳がせた。

「あーなんだ。よく事情は知らねぇが、あんたは美人な方だと思うぞ?こんなところで1人でいちゃ危ない程度にはな」
「本当?」

 前を向いたまま、女の確認するような声に軽く頷く。だから、美人は危ない目に遭わない内に早く帰れ、と、言うつもりで口を開いた瞬間、ヒュゥ、と器官が狭まった。
 女が、ゆっくりと顔を動かしたのだ。体は微動だにしまいまま、首だけがギギギ、と動く。その女のやけに赤い口元に、目が吸い寄せられるように外せない。しかし、女の口角がきゅぅと吊り上り、白い歯が覗いた瞬間、ラカムは反射的に体を動かした。逃げなくては、と脳裏を占めた思考にベンチから慌ただしく立ち上がりかけた刹那、女が見た目にそぐわぬ俊敏さでラカムの顔を鷲掴み、固定した。
 長い爪が頬に食い込むほどに両脇をがっしりと固定され、否応なく目が女の顔を映す。振りほどこうにも、どうしたことか。ぴくりとも動かない手にぞっと背中に冷や汗が浮かぶ。知らぬ間に乾いた口内でねっとりと唾が絡みつき、ひくりと喉仏が震えた。
 ラカムの目は、最早女に、いや、女の顔に釘付けだった。逸らすことを許されないかのように、固定された顔が正面の女の顔を見せつけてくる。口元をはくはくと戦慄かせるラカムの鼻先に顔を近づけ、女はにぃ、と目を細めた。睫毛に縁取られた目の瞳孔がくっと開いて、赤い舌先がちらちらと覗く。


「  こ  れ  で  も   ?  」

 
 口を動かすたびに、女の片頬から赤い鮮血が噴き出す。びしゃびしゃと飛び跳ねながら女の首筋を辿り衣服に滴り落ちる様に、ラカムの顔が引き攣った。
 女の赤い口紅が塗りたくられた口元は、片側だけが異様に大きく裂けていた。大きく裂けた口角は耳まで届き、肉の断面がぬめりを帯びて光っている。まるでナイフで頬を裂いたかのように生々しく真新しい傷口から、ぞろりと生え揃った歯はやけに鋭く覗いていた。
 そこに先ほどまでの憂いの湛えた女の顔はなく、狂気の滲んだ化け物の顔がラカムの網膜に焼き付く。はっと詰めていた息を吐き出すように短い吐息を漏らすと、女は頬を鷲掴みにする手に更に力を込めた。


「これでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでもこれでも綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗?」


 びしゃ、びしゃびしゃ、ぴちゃっ。


 女が口を開くたび、真新しい鮮血が吹きだしラカムの頬に飛び散る。生臭い臭いと女の醜悪な顔に眉を潜めた瞬間、頬を鋭い痛みが襲った。
 女の爪が、ラカムの頬の肉を突き破ったのだ。ぐりぐりと抉るように動く爪に苦悶に眉が寄る。女は鼻先まで顔を近づけると、裂けた口元を見せつけるように、さらににぃ、と笑みを浮かべた。









「  う  そ  つ  き  」









































ワン!!!









































「ラカムさん、こんなところで何してるんですか?」

 唐突に聞き慣れた声がしたかと思ったら顔を覗き込まれ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。視界に映るのは先ほどまでの異様な女の顔ではなく、見慣れた少女の顔で、不思議そうに瞬くその様子にポカンと開いた口が閉まらない。

「・・・・・・?」
「はい。私ですけど」

 何の気なしに呟いた名前に返事をするように頷き、少女は怪訝な顔でラカムの額に手を添えた。冷や汗で張り付く髪を退かすように、そっと温かな指先が額を撫でる。少女が触れる度、すっと身が軽くなるような、詰まっていた息がしやすくなったかのような清涼感にふるりと体が震えた。

「どうしたんですか?なんかすっごい汗掻いてますけど。体調でも悪いんですか?」
「あ、あぁ・・いや、・・・あぁ・・・」
「どっちですか」

 まるで夢から唐突に目が覚めたようにおぼつかない思考で、少女の問いに口ごもると、彼女は肩を竦めて両手で何かを支えるような動きをした。そこで初めて、ラカムは少女が1人ではないことに気が付いた。ぱちぱち、と瞬きをして、少女の腕の中を見つめる。

「お前、その犬・・・」
「あぁ、そうそう。やっっっと見つけたんですよ、このわんこ!今から飼い主のところに行くんですけど、ラカムさんがベンチでぼんやりしてるから何してるのかと思って。体調悪いならグランサイファーに先に帰ってます?」

 そういって、今日一日の成果である抱き抱えた犬の頭を撫でながら少女は気遣うように首を傾げた。その声を半分聞き流しながら、茫然と周囲を見渡し一寸前まで異様な空間に包まれていたとはとても思えないほどに静かな周囲に、どっと言い知れぬ安堵感が押し寄せてきた。
 すっかりと陽も落ち、暗い周囲に頭上の街灯がラカムと少女を照らし出す。隣にいた女の姿はなく、ましてや女から滴り落ちた血の跡もなく、何事もなかったかのようにぽっかりと空いた空間だけがラカムの横に広がり思わずベンチに背を預け、ぐったりと全身から脱力して溜息を吐き出した。あぁ、なんだったってんだ、今の出来事は!

「ラカムさん?大丈夫ですか?」
「あー・・いや、なんでもねぇよ・・・。俺もついてく」
「そうですか?」

 ぐっしょりと冷や汗を掻いて濡れた服が背中に張り付くことに顔を顰めつつ、緊張感から解放された反動か、嫌に力の抜けた体を奮い起こして立ち上がる。
 どうにも、今から1人になる気にならない。一睡の夢でも見ていたのか・・・それにしては嫌に気持ちの悪い、恐ろしい内容だった。なんだってあんなものを、と愚痴を零したところで、くるりと少女が振り返った。

「ラカムさん、後でほっぺた手当しましょうね」
「あ?」
「木の枝にでも引っ掛けたんでしょう?ここ、筋になってますよ」

 そういって、とんとん、と少女が指し示した頬に、ぞっと背筋に悪寒が走った。
 そこは、女が爪を立てた位置と、同じ場所だった。