噛み付いた指先
長雨が続く。時折雨足を強くしながら降り続く雨はじっとり空気に湿気を含ませどんよりと周囲を曇らせて、どこか憂鬱な様子を振りまいている。春雨とは言い難い、まるで梅雨時のような雨足だ。戦がないのは良いことだけれど、洗濯物が干せないのは困る。カラリと晴れた青空の下、風に吹かれてたなびく洗濯物が恋しい。溜息を吐いて恨めしげに雨粒に打たれて項垂れる枝葉を眺めると、向かい側の広縁に淡い菜の花色の着物の袖を広げて座る小柄な人影を見つけて思わず足を止めた。灰色に曇った中で、そこにだけまるで花が咲いたようだ。朔はあまり華やかな意匠を着ない―――まあ、それには事情があるのでなんとも言えないが、若い子が着るような華やかな色柄の着物を着る子はこの屋敷には2人しかいない。その中でも、一層小柄で、屋敷ではとんとみないような短めの黒髪の少女は彼女しかいない。何を見ているのだろうか。雨が滴る庭先をぼぅと眺める姿は霞むような光景に溶け込んで、朧に見える。鮮やかな菜の花色とは裏腹な印象にぞわりと首筋の産毛が逆立った。いっそ庭を突っ切ってしまいたい衝動を抑えて、遠回りになる廊下をキシキシと床板を鳴らして進む。心なしか早足になるのは仕方ない。走りださないだけ理性的だと言い訳しながら、回り込んだ広縁で座り込む横顔に息を呑んだ。
「ちゃん」
いくらか上擦ったような覚束なさで呼びかける。その瞬間、呼びかけを掻き消すように俄に雨音が強くなる。叩きつけるような雨粒が地面にぶつかる音が廊下一杯に響いて、五月蝿いぐらいだ。けれど、不意に彼女のまつ毛が震える。パチリと瞬きをして、緩慢な動作で首が動いた。音の先を探るような慎重さで、はた、と視線が合う。瞬間、驚いたように軽く見張った双眸が緩く瞬きを繰り返して、あれ、と口唇を震わせた。
「景時さん?」
「…っ、なにしてるの?こんな所で」
「え?あーさっき、そこに白い蛇がいて」
「白蛇?」
雨に攫われそうだった希薄さが鳴りを潜める。動揺を隠すように笑いながら問いかければ、何かを思い出すように視線を泳がせ、ちゃんはすい、と人差し指を伸ばして植木の影を指さした。ひどい雨が、濃い緑の葉を叩いている。
「白蛇なんて珍しいなーって、眺めてました。神様の遣いですかね?白龍に挨拶にでもきたのかな」
「そっか。確かに珍しいね。何かいいことがあるのかも」
話しながら近寄り、横に腰を下ろす。そうか、蛇がいたのか。それも白い蛇だというのなら、目を奪われるのも仕方ない。ほっと息をつきながらオレも見たかったなぁ、とぼやけばちゃんが破顔する。
「近く見れるかもしれませんよ?案外屋敷に居着いてるかもしれませんし」
「そうだといいな。あ、でももしも本当に神様の遣いなら、白龍に頼んだら会わせて貰えるかも?」
「最強のツテですよね、考えてみれば」
確かに。忘れがちだけれど、彼は神なのだ。それも、京の都においては何より重要な龍神。おいそれと人間ごときが顔を合わせるどころか話しかけることさえ叶わぬ相手に対して随分気安いなとは思うけれど、今更の話だ。人の世に堕ちた龍神。滑稽で、可哀想だ。でも、オレも他人の事など何も言えやしない。罪は、神にも人にも平等だ。
「雨、強くなりましたね」
「ついさっきまで、そんなに降ってなかったんだけど」
「洗濯できなくて、鬱憤溜まってるんじゃないですか?」
「あはは。朔には怒られちゃうんだけどね。でも洗濯関係なく、そろそろ止んで欲しいよ」
「確かに。もう3日も降ってますもんねぇ」
ぼやきながら、彼女が指先を撫でる。何か違和感を覚えているかのように擦り合わせる指先に目を向ければ、視線に気が付いたのか彼女は一度動きを止めて、パッて両手を離した。
「指、どうかした?」
「んー別にどうもしないんですけど、なんか、違和感があって」
「見せて」
言いながら、許可を得る前に左手を掬い取る。柔らかく小さな手に、桜貝のような爪。朔に磨かれたのか、望美ちゃんが磨いたのか。艶々とした爪先から辿るように、5本の指を舐めるように探る。一本一本、丁寧に触れていくと、びくりと指先が動いた。物言いたげな視線が、じっとりと注がれる。一瞬、自分も何をしているのだろうかと正気に返りかけたが、ふと指先に違和感を捉えた。何かに引っかかるような、微細な凹凸。よくよく見れば、2つ、小さな孔があいていて、虫に噛まれたような、いや、もっと大きな動物に噛まれたような。赤味もなく、まるで治りかけのような、そんな傷痕。ざわりと、言い知れぬ不安感にきゅっと唇を噛んだ。
「虫刺されかな?弁慶に薬用意して貰おう」
「えっ。なんか噛まれてます?」
「うん。大したことはなさそうだけど、後から痒くなったり痛むかもしれないし」
「えぇ…いつの間に…いやでも大したことないならわざわざ薬なんていらないですよ」
「だーめ。赤くなるかもしれないよ」
「んー。でも、本当に何も感じないんですけどね」
そういいながら、過保護だなあ、と苦笑する顔に眉尻を下げる。過保護にしたい、理由など言えるはずもない。それに、薬でもなんでも、この痕を消したいのは、過保護だけが理由じゃない。すぅ、と目を細めて彼女の手を柔く握りしめる。
打ちつける雨音が、彼女を攫ってしまいそうで、怖かった。