冷えた瞳
みしり。骨が軋む音が掴んだ手首から聞こえて来る。下卑た笑みを浮かべていた顔色が一瞬にして変わり、血の気を引かせて苦痛の声が不快な音程でまろびでる。
放せ、と泡を吹いてもがく手が、手の甲を引っ掻いた。碌に手入れもされていないだろう長く汚れた爪先が手の甲に赤い筋を作り、不愉快な気持ちが湧いて出る。つい、相手がただ人であることも忘れて一層掴んだ手首に力が篭った。ミシミシ、ビキリ。あぁいけない。聞こえてきた硬いものを砕くような微かな音と感触に目の前が真っ赤になりそうな衝動を抑えて、ゆっくりと固まった指先を解くように一本一本外していく。隙間ができると、ひどく慌てた様子で手首を引き抜き、その拍子に勢い余ってどぅ、と尻餅をついた男が這うように距離を取った。引きつった顔いっぱいに浮かぶ畏れに、しかしなんと感じる気持ちもない。冷ややかな心地で不成者を眺め、低い声を落とす。
「去れ」
一切を削ぎ落としたような声音に、自分でも少し驚いた。こんな声も出せるのかと内心で感心しつつも、高く細い、まるで生娘のような声をあげてだらんと折れた手首を抱えて転げるように逃げていく背中から視線を外す。抱えた腕の中で、瞼を伏せて小さく息をする彼女を見下ろす。ぐったりと体中から力が抜けて、腕にかかる重みに胸が締め付けられる。けれど無事だ。ちゃんと、彼女はこの腕の中にいる。安堵に息を吐いた瞬間、地面に投げ出された彼女の杜若の襲色目の袖から覗く手首に見える、赤紫色に色を変えた肌が目についた。細く、手折れそうなほど華奢なそこに残るにはあまりに痛々しく、眉根を寄せて投げ出された腕をとる。あぁ、もっと早くに来ていれば。くにゃりと力ない様子にきゅっと唇を噛むと、ふと手首の指痕の先に半円に滲む血の痕を見咎めた。食い込み、皮膚を突き破ったのだろう。柔肌に残るには相応しくない傷に、自分の手の甲に走る蚯蚓腫れを思い出す。――あァ。
「…砕けばよかったか」
折るだけでは生易しかったか、とぷらぷら揺れていた手首を思い出してざわりと騒ぐ内に目を閉じる。いけない。引っ張られている。ぞわぞわと這い回るおぞましい感覚に深く呼吸をして、押さえ込む。駄目だ。引き摺られては。この身のおぞましさは、白龍の加護から離れた彼女には毒になる。八葉の護りすらなく、けれどその魂に刻まれた寵愛が故に浄らかな身に、――自分はどれほどの猛毒なのか、と。八葉だから、抑えられるけれど。そうでなければ、きっと触れることも叶わない。痛々しい乱暴の跡が見える手をそっと下し、膝裏に手を差し込んで抱き上げる。ふわりと軽い。かくりと折れる首を少し傾けて、額に鼻先を寄せた。嗅ぎ慣れぬ香の香りは、少し意識を遠ざける。これが原因かと目を細め、顔を離して寝顔に視線を落とし、すやすやと健やかな寝息に目元を和ませる。……無事で、よかった。
「、……神子」
もう、そんな繋がりはないけれど。もう、貴女が知らぬところでしか、呼べないけれど。胸が締め付けられるような痛みと共に、こうでもなければ呼べない名前に、どこか甘やかな痺れが走る。それを振り切るように歩き出す。まずは、弁慶殿の所に行かなければ。手首の手当てをして、他に傷がないかを確認して、人を疑うことを説いて……いや、まずは、景時殿に進言しなくては。
「家人の精査が必要、か」
それは自分の仕事ではないし、家主でもない居候の身では口を挟むわけにも行かないけれど。まさか、梶原の家人がこんな暴挙に出るとは考えても見なかった。妬みか、金か、誰ぞの差し金か。理由は知らないが…よりにもよってこの人を狙うなど。
「景時殿は優しいが…」
それも、時と場合による。ましてや、この人に手を出されたとあっては、その先は自ずと知れるというもの。ましてや今は戦事の真っ最中。哀れにも思うが、助け舟を出す気にはならない。不穏なものを、彼女の近くには置いておけないのだから。嗚呼、貴女は、一体どこに置いておけば、この心は穏やかでいられるだろう。近くにいるべきではないのに、触れるべきではないのに、それでも目の届かぬ内に、またこんなことがあっては…自分がどうなるかわからない。
「離れるべきなのに、離れさせてはくれないのだな、貴女は」
…否。ただ、自分が、離れ難いだけなのか。並べた理由が余りに陳腐で、言い訳がましくて、胸に浮かんだ否定に自嘲を浮かべ睫毛を伏せる。両腕にかかる確かな重みにつくん、と心の臓を震わせて。
この手首に残された痕が、自分のものでないことが、今は―――。