放棄しきれない命名権
「ぅん・・・・・ん?」
寝返りをうって、薄く開いた視界に飛び込む黒い物体にくっと眉間に皺を寄せる。視界を遮る前髪をかきあげ、寝ぼけ眼で、まだしっかりとした覚醒のないままそれを凝視してから体を動かして黒い物体の前に回りこんだ。
「・・・デビット?」
なんでこんなところで寝てるのこの子。黒いのはどうやらデビットの頭だったようで、覗き込んだ顔にぼやけていた思考をクリアにし、腹ばいになって首を傾げた。なんでまたベッドの上に上がりもせずに、横に座り込んで頭だけ乗せてるのかしらこの子。頭だけ、というか上半身だけというべきか迷うが、うつ伏せになってすよすよと寝ている顔はあどけない。一応私は大体同じぐらいの年齢のはずなのだが、ずっと稚く見えるのは性格からだろうか。ベッドの縁にのせて頬をシーツに押し付けているデビットの顔を眺めて、ていうか、とぼそりと呟く。
「なんで泣いてんの・・・?」
問いかけても、寝ている相手が答えることはないのだが。胸中の疑問は思わず口から外に出ていて、どろどろに化粧が崩れて汚れまくっている顔に首を傾げるしかない。美形なのにもったいない。化粧崩れるってわかってるんだから泣かなければいいのに・・・それとも寝ながら泣いてたのだろうか。無意識?考えながら、指先を伸ばして睫に残った雫をそっと掬い取る。・・・涙で落ちた化粧が、シーツにも染み込んで汚れてしまっているのがあれだが・・・これ綺麗に落ちるのかな。とりあえずあんまりにも顔がひどい有様なので、仕方なく体を起こして室内を見渡す。・・・手近にハンカチもタオルもないので、仕方なく溜息を零してシーツを引き寄せてそれで顔を拭った。いや、探しに動くのがちょっと面倒で。ダメね、転寝の後は動くのが億劫になる。そうして、本格的にどろどろに汚れたシーツに後で洗濯物に出さないと、と考えながらこれを起こすべきか否か、と頬杖をついた。そういえばなんとなく誰かが部屋に入って近づいてきた気がしていたけれど、特に何をされるわけでもないから放置してたのよね。その間に何かあったのだろうか。考えていると、不意にデビットが身じろいだ。お、と思って頬杖をついたまま覚醒の瞬間を粒さに観察した。最初に睫がピクリと痙攣し、ふるりと濡れた睫が震える。まだ少し残っていた雫がその拍子にほろりと零れると灰褐色の肌を滑り落ち、薄っすらと瞼が持ち上がる。覗いた瞳はまだどこか移ろいでいて、はっきりと周りを捉えていないのがよくわかる。顔の横にあった手で動くと、軽く握り拳を作って目元を擦った。
「ぅ・・・んん・・・」
寝ている間使っていなかった声帯が、掠れたような乾いた声を零してくずるようにシーツに顔を押しつけ、それからデビットはゆっくりと顔を起こす。まだ半分ほど落ちた瞼のまま、持ち上がった顔と視線が合って、頬杖をついた状態で熟睡だったのね、と内心で考えてにこり、と微笑みを浮かべて見せた。
「おはよう、デビット」
「え・・・?」
声をかければ、ぼんやりとしていたデビットの焦点がはっきりと私に合わさり、ひどく間の抜けた顔になった。鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな顔である。見開いた瞳の中に映る自分の顔を一度目に留めて、デビット?と少しわざとらしく声をかけてみる。そうすると、デビットは数度の瞬きを繰り返し、カッと頬に熱を集めて悲鳴をあげてどすんっと尻餅をついた。
「な、な、、おま、起きて・・・っ!?」
「ついさっきね。それにしてもその反応傷つくなぁ。私はお化けか何か?」
「ち、ちがっ!これは、その、・・お前が、近かった、から・・・っ」
傷つくなぁ、と言った瞬間、デビットの方がとても困ったような泣きそうな顔になり、顔を真っ赤にしながらおろおろと視線を泳がせて顔を隠すように口元を手で覆う。ぼそぼそっと言われた言葉に、確かに近かったがそんなに大袈裟な反応しなくても、と思う私は感覚がズレているのだろうか。
「まあ別にいいんだけど・・・なんでまたここで寝てたの、あんた」
「あ、や、それ、は、その。部屋にきたら、お前が寝てた、から・・・その、」
「起こさないでいてくれたの?」
ていうかいい加減立てばいいのに。今だ尻餅をついたままのデビットを、ベッドの上に腹ばい状態で見下ろしてやりながら問いかければ、彼はひどく罰が悪そうな顔をしてどんどんと俯いていった。耳まで赤いんですけど、デビット君?
「それとも人の寝顔でも見てたのかな、デビット君は」
からかうように目を細め、小さい子供に向けて尋ねるように甘く声を出せば、デビットは声も出ないように唇を噛み締めて、またしてもちょっと泣きそうになっていた。真っ赤になって泣かれると、ちょっと苛めたくなってしまうんだが。そんな自分の思考回路にさすがにそれはまずいよな、と考え直してくすり、と声を零すと、泣きそうになっていたデビットは、慌てた様子で目元を再び擦りながらむくれたように頬を膨らませた。
「、お前わかってやってんだろ・・・っ」
「いや、サッパリよ。寝て起きたらあんたが寝てただけだし・・・それに」
言いながらよっと、と声を出してベッドの縁から身を乗り出し、伸ばした腕で灰褐色の頬を目元から包むようにして触れる。大きく見開いた目と、呆けたような口にやっぱり間抜け面、と思いながら赤くなった目元を親指が軽く撫でた。
「なんで泣いてたのか、わからないわ。怖い夢でも見た?」
「・・・っ!」
心配そう、というよりもただ疑問をぶつけるように問いかければ、デビットの唇が小さく戦慄く。そして、きゅっと唇を引き結ぶと縋るように頬に触れた手に擦り寄り、恐る恐る手を重ねた。柔らかく、躊躇うように上に重なる手を引き抜かずにそのままにしておくと、デビットの熱の篭った吐息が震えた唇から零れ出る。
「・・・」
「ん?」
「・・・・」
うっとりと、蕩けるような声。名前を呼ぶ、ただそれだけの行為に込められたあらゆる感情を、全て把握できるほど私はすごい人間ではない。ただそれでも、無心に、一途に向けられる好意の存在だけは理解できていて、メイクの施されていないまっさらな顔で掌に擦り寄るデビットに、小さく笑みを浮かべた。
「・・・もう少し、寝ようか。デビット」
そういって、目の前に差し出した甘いお菓子を選ぶように誘い込み、何も考えられないようにする。誘いかければ拒否権など彼にありはしないこと、それ以外考えられなくなること、計算し尽して、思考を奪い取ることなど造作もなかった。頬を包む手を離し、ベッドの上に座り込んで手招きをする。母が子を呼ぶように、恋人が恋人を呼ぶように、姉が弟を呼ぶように。名前を呼んで、手招きをして、唇に笑みを乗せる。見開いた目、歓喜に紅潮する頬、けれど傍によることを躊躇う遠慮、畏縮して揺れる瞳。わかっている。だから。
「おいで、デビット」
あなたに拒否権なんか、最初からないこともわかってたでしょう?
誘い込めば、光に誘われる羽虫のごとく、縋るように膝に顔を押しつけ、腰に回された腕に小さく声を押し殺した。
「なあ」
「なぁに、デビット」
「今度出るときは、学無しじゃなくて俺をつれてけよ」
「そうね。考えておくわ」
そう、今はその可愛い嫉妬だけで十分よ。