侵略の意思は多分無い
三日連続で各地に回ってオシゴトをしてきて、へとへとでやっと帰ってきたが、その姿を視界にいれた瞬間に丸くなっていた背筋をピン、と伸ばして慌しく駆け寄った。あまりにも急ぎすぎて足元がもつれそうになったが、さすがにあの方の目の前で無様な姿は晒したくない。あぁけれど優雅に歩いて、などできるほど心情に余裕があるわけでもなく、むしろ視界にいれた瞬間地球を三周するぐらいの心臓の跳ね具合に、息が苦しいぐらいだ。もしかして、自分に心臓を握りこまれた人間はいつもこんな感覚を味わっていたのだろうか、そう思うぐらい激しく。引き絞られるような痺れるような痛みに眩暈を覚えながら、蕩けるように綻んだ口元で、誰にも聞かせたことのないほどの甘い声が零れる。むしろ、これほどの声で誰かを呼ぶことなど、彼女以外には決して有り得ないだろう。
「」
「ん?あ、ティキ。お帰りなさい」
呼びかけ、振り向いて微笑に、鼓膜を震わせる声に、息が詰まる。あぁ、あぁ。だ。三日、三日も会えなかった。聞けなかった声。そこにいて、笑って、呼びかけてくれて。会いたかった、会いたかった、会いたかった・・・・声が、聞きたかった。ずっと、ずっと。本当は仕事なんか行きたくなかった。確かにデリートは楽しいけれども、本当に、血が沸き立つほどに心地はよかったのだけれど。だけど、それもこの存在がこの世界に降り立つまでのこと。あまりの幸福に言葉もなくなりそうになりながら、膝を折りたくなる衝動を堪えて、そっとその手を取った。触れる刹那の震えには、気づかれただろうか。上目遣いに窺えば、彼女は薄く笑みを浮かべるばかりで知っていながら見逃しているのだと気づいた。けれどそれも当然かもしれない。最初の頃は、手に取ることすらできなかったのだから。あまりにも、幸福すぎて。触れれば消える泡沫のように思えて。けれど触れられた瞬間、爆ぜた泡は恐らく自分の理性にも近いだろう。箍が外れたように溢れた涙を、周りは一度は経験している。俺はそのまま、震える唇をその手の甲に寄せた。羽のように軽く。熱源さえも届かせないような、雪が融けるほどの一瞬。の肌と触れ合った唇が、焼け付くような熱を帯びた気がした。
「あらあら・・・私は貴族のご令嬢じゃないんだけど?」
「当たり前だ、貴族の令嬢如きと一緒なわけないだろ?」
けれども、これ以上の礼儀を知らないのだ。所詮学なしオレ、というよりも、傅くことはあまり好まないから、必然的にそうなるだけのこと。跪き、その靴に唇を寄せても構わないのに、それをすれば確実には嫌がるから、こういう方法を取る。無論どちらの方法でもオレとしては全然構わないしどちらも嬉しいのだけれども、肌に直接触れることができる手の甲への口付けは、いつだって緊張を伴う。けれど、むしろこれはオレへの褒美のようなものだ。口付けを許される、触れ合うことができる。それだけで、いつだって死んでもいいのだと、きっとお前はわかってないんだろうな。するり、と口付けを終えれば容易く離れていく手に締め付けられるような切なさを感じなながら、気づかれないように口元に笑みを刷く。曲げていた腰を戻し、頭一つほど下がった顔を見下ろすとは軽く小首を傾げてみせた。さらりと滑る黒髪の柔らかさにくらっとしたが、ぐっと堪えてこちらも自然が笑みを浮かべる。無理なく浮かぶ微笑。それがどれだけ甘ったるいかなんて、客観的になど見たことないから知らないが。
「三日ぶりよね。お疲れ様」
「あぁ、本当に会えなくて、地獄みたいな三日間だったよ」
「大袈裟ね、たかが三日でしょ」
苦笑して肩を竦めるに、笑いながら内心で言い返す。三日も、会えなかったんだ、と。
確かにエクソシスト狩りは楽しい。イーズにやる銀の釦が集められるから、それも嬉しい。
けれども、それはお前がここに現れるまでのこと。会えるのなら一日だって、一瞬だって逃したくない。影でさえも視界に納めたいのだと、このもどかしいまでの思いはどうしたって伝わらないのだろう。口に出すことすら叶わず、オレは笑いながら焦がれるように目を細めた。
「でも、そうね。三日か・・・疲れたでしょう。千年公も手加減してくれたらいいのにね?」
「もそう思う?オレもホント辛いんだよね。さすがに休みなしで世界中動きまくるのはきつくてさぁ」
「そうよねぇ。帰ってきたばっかりだし・・・休みたいでしょ」
「まあ、そう思わないでもないけど、といられるならどうでもいい」
傍にいられれば、それだけで疲れなど吹っ飛ぶのだ。むしろこの時間を確保するためなら血反吐を吐こうが心臓を抜き取られようが、根性でもなんでも使って確保するに決まってる。笑みの中に確かな本気を混ぜてみたが、の様子にあまり変化はなく、微笑と共に軽く胸板を小突かれた。どきん、と跳ねた心臓には気づかれただろうか。
「馬鹿ね、休めるときには休むものよ。・・・しょうがないわね」
「へ?」
「千年公に言っておいてあげるわ。三日って言ってるけど、実際には一週間はほとんど休みなかったでしょ。過労で倒れられてもあれだしねぇ」
言いながらくすり、と赤い唇を吊り上げる様子は様になりすぎるほどになっている。思わずうっとりと見惚れていると、はそのまま踵を返すので咄嗟に瞬きをして意識を戻し、慌ててその背中に駆け寄った。
「ちょ、マジで千年公に言うつもり?」
「私が言えば考えるでしょ。なぁに、それともまた飛ばされたいの、ティキは」
「いや、そういうわけじゃねぇけど・・・」
むしろ休みがもらえるならこの上もなく嬉しい。しかもがオレのことを考えて、ということならその嬉しさも一塩だ。それに、の一言ならば確実に千年公は二つ返事で了承するだろう。その姿も簡単に想像ができて、喜びを噛み締めるように、ぐっと拳を握って恍惚に微笑みかければ、はちらり、と視線を向けてふわりと髪を揺らした。
「まあ、疲れた体でもゆっくり休めることね」
「そうする。・・そういえばはなんでホールにいたんだ?どこかに行くつもりだった?」
「ん?あぁ・・・」
帰ってきた途端会えた、ということはつまり玄関ホールでばったりとでくわした、ということだ。オレは千年公に会う前にに会いに行くつもりではあったけれども、まさか玄関ホールで会えるとは思わなかった。そう、本当に疲れも吹っ飛ぶ瞬間って奴だ、あれは。ちら、ともしかしてオレを出迎えにきてくれたのかな、と思ったけれども、あっさりとは頷いた。
「ティキの気配がしたからね、話があって行ったんだけど」
「え、ほんとに?オ、オレを出迎えてくれたのっ?」
「似たようなものね。というか動揺しすぎだって」
いや、だってそれはお前、不意打ちすぎるだろ?思わず手で口元を覆いながら、穴という穴から色んなものが出てきそうな感覚に陥ってまずいかも、とちら、と頭の片隅で考えた。どうしても引き締めることのできない口元を隠しながら、目の奥がじんわりと熱くなって仕方ない。どうしよう、マジで嬉しい。まさか、まさか本当に出迎えてもらえるなんて!!こんな幸せがあるだろうか。いや、それは勿論とこうしていられるだけでそれは最上の幸せでも間違いではないのだけれど。あぁもう本当に、・・・どうしようもなくなるほど、心も体も囚われるような錯覚に陥る。・・・いや、元々、囚われているのか。最早震えを隠せない声で、話って?と情けなくあまりの歓喜に細くなった声で尋ねると、は一瞬逡巡するように視線を巡らし、それからそうねぇ、と呟いた。
「町に行くって行ったら、千年公が誰か護衛に!って言うものだからさぁ。でもロードは学校だし、ルルやスキンたちもちょっとお仕事にでかけてるし?アクマを護衛に連れ歩くのもどうかと思うし。それで丁度タイミングよくティキが帰ってくる気配がしたから行ってみたんだけど・・・さすがにお疲れの相手を連れまわす趣味はないからね」
むしろ護衛すら必要じゃないんだけど、もしもがあったらどうするって言われちゃねぇ。言いながら、からりと笑ってはさくさくと廊下に足音を響かせる。その言葉を聞きながら、ナイスタイミングで帰ったオレ!と内心でガッツポーズを決める。どうしよオレこんなに幸運でいいのかなマジで!
「、オレなら全然平気だから、気にしなくてもいいぜ?」
「いやいや、疲れてるでしょ。いいわよ、一人で行くから」
「ダメだって。千年公も言ってたっしょ?一人でなんかあったらどうすんの。いや、が強いのは知ってるけど、オレがいれば無駄ないざこざもささーっと回避できるし。どうせ仕事なんて移動以外に疲れるようなことしてねぇし、平気だからさ。・・・連れてって?」
もう本当に、お願いします。土下座するほどの心積もりで、歩く足を速めての前に回りこみ、小首を傾げて懇願する。は足を止めて、少しだけ迷うように目を細めた。の護衛は最優先事項でオレの中に決まってるのに、ただでさえその仕事、というよりも最早自分にとってはご褒美にも近いものだが、それは他の面子にしても同じで、もうとにかく、とんでもなく激しく競争率が高いのだ。千年公がとりあえずオレにの護衛っていう役目を任せてくれたけど、その瞬間のあの周りの殺気は正直生きた心地がしなかった。その内オレ家族のはずなのに寝首掻かれるんじゃないかと心底思ったね、あれは。というかむしろ今現在真っ最中でデッドオアアライブだ。まさかエクソシストとの戦い以外でそんな目に合うとは思ってなかった。だがしかし、それでもオレはこの役目だけは奪われたくなくて必死こいて死守している。どんなにいびられようとしばかれようと、耐えて耐えて耐え忍んできたんだ。だってと二人で町に出かけられるなんて、こんな美味しい役目はないだろ?誰が譲るかってんだ。だからこそ、このチャンスだけは逃したくなくて必死でお願いすれば、は胡乱気な目をしながらも、最終的には吐息を零してしょうがないわね、と呟いた。
「折角休ませようと思ったのに、物好きね」
「と出かけられるなら物好きでもなんでもなるさ。・・・な?だから、オレを連れてってよ」
これを逃せばまた邪魔が入るかもしれない。誰も居ない今がチャンス、とばかりに売り込めば、はやがてしょうがないわね、と嘆息した。
「ならせいぜいこき使ってあげるわ。覚悟なさい?」
「仰せのままに、マイマスター」
片目を閉じて、肩を竦めたに思わず満面の笑みを向けながら、うやうやしく胸に手をあてて腰を折る。はくすり、と笑いながら、さっと踵を返して元着た道を戻り始めるので、オレは折った腰を戻して、ゆっくりとその後ろについて歩いた。あぁ・・・その影すらも踏まない、立派な下僕をこなしてみせるさ。・・・あなたが褒める、あなたの下僕のそれよりも!
「ティキ、チョコとバニラとストロベリーならどれが好き?」
「ん?あー・・・バニラ?」
「そう。おじさん、バニラとチョコレートをちょうだい」
そういって、こちらが止める前にさっさと差し出されたアイスクリームに、ちょっと待って、これオレがする側じゃないの?!と突っ込みそうになったのは、別に悪くはないんじゃなかろうか。
あぁ・・・アイスを舐める舌が、あまりにも艶かしいです、さま。