行きたくない帰りたくない



 ゆっくりと広がる血溜りに、僅か靴の先を浸して人だったものの中に「それ」が入り込む歪な光景を見つめる。ゆっくりと、着実に。皮を被る「それ」が、びちゃびちゃと血を撒き散らす音が、静寂の室内に響いていく。被ったところで人になれるはずもないのに、人の皮を被る滑稽さに口角を吊り上げると、やがて「それ」は全てその中に納まり亡羊とした視線を辺りにさ迷わせた。生気のない濁った双眸。奥底でぎらつくのは深い深い悲しみと憎しみ、そして歪な本能だけだ。「それ」が人を求めるのは、一重に自分がなくしてしまったものを求める本能のようなものなのかもしれない。人ではなくなってしまったから、人の血肉が恋しいのかもしれない。なんて哀れで、愚かで、滑稽な、存在。そしてなんていとおしい、人の欲望の形。人は、あまりに弱く、そして刹那的だ。一時の激情で、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。それは、そう、人の性なのだろう。それに逆らえるだけの強さを持つ人間もいれば、あまりにも容易く堕ちてしまう人間もいる。それは仕方の無いことなのだろう。どうしようもないことなのだろう。人であればこそ、甘い誘惑に乗ってしまうのだから。たとえそれがどんな夢物語でも、その甘美さに誘われ、手を出してしまう。まるで蛇に唆され、禁断の木の実を口にしてしまった最初の女のように。その集大成のような存在だと、目の前の機械と皮と、魂で織り成された人形を眺めて微笑んだ。

「醜悪ね」
「お気に召しませんカ?」
「好きではないわね。とても醜くて、愚かで、汚らわしい存在だわ」

 けれど、親しみは覚えるかもしれない。人であるからこそ生み出す偶像は、人そのものといっても可笑しくなどないのかもしれないな。嘲笑うかのように口角を持ち上げながら、慈しむように眼差しを細めた。刹那、震えるようにそれが動き、ゆっくりと膝を折っていく。あまりにもぎこちない動作ではあったけれども、膝をつき、項垂れる首を上から見下ろして、生まれたばかりなのになんて律儀なんだろう、と少々の感嘆を零した。

「そう言いながら、あなたは止めないのですネ❤」

 くるりと、跪くそれの横に立っていた伯爵が傘を回して小首を傾げた。窓から入る冷めた月光が室内を明るく照らし出すと、浮かんだ笑みがありありと視認できる。何処か可愛らしい、夢見心地のような光景に応えるようにふ、と吐息を零して床に広がる血を踏みつける。

「私は、この世界に関与する気は一切ないから。この世界はあなた達のもの。来訪者には関係のないものよ」
「・・・やはり、去ってしまわれるのですカ?」

 静かに告げれば、伯爵はとても悲しそうに呟いた。僅かに震えた声が動揺の程を窺わせる様で、それに微笑みを向けてそんな顔をしないの、と困ったように眉を下げた。ぴしゃりと、水音をたてて血溜りの中を歩き、跪くそれの頭を一撫でして通り過ぎながら、伯爵の頬に手の甲を寄せる。

「まだ先の話よ・・・いつかは確かに訪れるけれど、それはまだ今ではない。それで我慢してちょうだい?」
「それでも、我輩たちは、あなたという永遠を望みまス❤」
「永遠なんて、存在しないわ」

 「千年伯爵」が語るには、あまりにも陳腐な台詞だ。静かに、静かに、思いが詰まりすぎて逆に平坦になってしまったように、とても静かな声で零される願いを、私は冷たく切り捨てる。触れた頬を手の甲で緩く撫で上げて、その横をコートの裾を翻しながらすり抜けた。伯爵は動けなくなったようにその場に留まり、私はこつりと靴音を響かせて近寄った窓を開け放つ。ふわりと、冷たい夜風が室内に入り込むと充満していた血臭が霧散していき、さらさらと髪を揺らした。

「それは、あなたが一番よくわかっているでしょう?千年伯爵」

 ギシリと、開け放った窓から白いベランダへと出て、欄干に手を置いて寝静まる街を見下ろした。そして吐息に混ぜるように背中で問いかければ、ピクリと強張った気配を感じる。その様子に薄く笑みを刷き、きしりと木の床を軋ませた。ふと足元を見れば、靴裏についた血の掠れた足跡が転々と残っている。その様子に目を眇め、真っ暗な闇夜の月を見上げた。

「世界を愛して。愛して愛して愛して、愛しすぎて。憎んでしまったあなたが、この世界で一番「永遠」の無意味さを理解しているでしょうに」
「我輩は、世界を終焉に導く者。穢れた神の創ったこんな愚かな世界など愛してませんヨ❤」

 こてん、と伯爵は首を傾げて明るい声でそう返す。その言葉に、くつりと喉の奥を震わせて、嘲笑うように唇を歪めた。


「うそつき」


 とん、と欄干を乗り越えて、その上に立つ。一際高い位置に立てば、受ける風も強くなり、コートの裾が膨らんだ。そうして立ちながら、ゆっくりと後ろを振り向く。背を向け合っていたはずなのに、振り向いたその瞬間には彼はこちらをじっと見つめていて、そのガラスの奥の瞳にそっと瞼を落とした。

「血の跡の、後始末をしないとね」
「・・・・
「今の私の帰る場所はあそこよ。私が私の目的を果たして、帰るそのときまで、あなた達が求める限りは―――」

 言いながら、ゆっくりと欄干から足を動かす。体重が前へ移動するごとに、体がゆっくりと傾いでいくのを感じる。斜めにずれていく視界。そこに映る世界も人も、流れるように傾いでいく。

「傍に、いてあげるわ」

 伸ばされた腕に微笑みかけて、それが一番残酷なのだろう、と頭上に瞬く夜空に吐息を零した。





「相変わらず、酷い人ですネ❤」

 彼の君の姿の消えたベランダの欄干を見やり、ぽっかりと浮かんだ歪な月を見上げる。
 姿がなくなった途端、覚えた空虚に胸を詰まらせながら、シルクハットの鍔を抓んで目深に被りなおした。

「どうして、あなたの物に、してくださらないのですカ・・・・❤」

 どんなに甘く絡め取るような言葉を紡いでも、あなたはいつだって抜け道を用意している。
 甘やかしておきながら、いつだって、最後は容易くその手をそっと振り解くのだ。
 あぁ・・・どうしてあなたは、この世界に生れ落ちてはくださらなかったのだろう。


 だからこそ、あなたを引き止めることすらできない我が身とこの世界を、どうして愛したあの頃に戻れようか。