吐息ひとつで世界が震える
・・・よもや、初対面の女性に押し倒されるとは思わなかったなぁ。
受身は取ったものの、強かに打ちつけた背中はやはりそれなりに痛い。
この場に彼らがいなくてよかったと思いながらも、人の上に圧し掛かり、身動き一つせずに硬直している女性に下から見上げるようにちら、と視線を向けた。黒髪をひっつめて頭の上で纏め上げ、青白くこけた頬は女性的なラインがいささか乏しい。何より目を引くのは一体どれだけ睡眠不足なのだろう、というぐらい濃くはっきりと浮かんでいる目の周りの隈だ。いっそ化粧じゃないのかそれ、と疑う程度にはそれは存在感を表しており、黒いドレスを着た女性は、見事なまでに華やかさだとか愛らしさだとか、そういったものからかけ離れているように見えた。大抵地味といわれる女性でも、ここまで圧倒的な陰気な雰囲気は出せないものである。地味に行こうとしすぎて逆に悪目立ちをしている風貌だが、中々どうして。
顔立ちそのものは悪くない。もう少し頬に肉をつけて、目の隈や顔つきに溌剌としたものを含めれば十分美人でも通じそうなものを。勿体無いなぁ、と思いながら状況が把握できていないのか、それとも自分のしでかしたことに頭が考えることを放棄しているのが、目に見えて固まっている女性に軽い溜息を零し、上に乗せたままおーい、と軽く声をかけた。
「レディ、失礼ですがそろそろ上から退いていただけませんか?」
ひらひらと瞬きもなく固まっている女性の目の前で掌をふり、微笑みを浮かべながら声をかけると、彼女ははっと擬音がするような反応で目を瞬き、それから私の顔を黙ってじっと見つめてきた。どうやらまだうまく事態が把握できていないらしい。まあ確かに、こんなこと普通ないものねぇ。人が周りにいないことが運が良かったというべきか。路地裏で女同士が重なり合っている姿はなにかこう、滑稽なものを覚えるが・・・まあ、このやたらと華奢な人が下にならなかっただけマシだろう、と言い訳をしながらしばらく女性が正気に戻るのを待っていると、やがて女性はザァ、と面白いくらい元々白かった顔から血の気を引かせて、唇を戦慄かせた。あ、これはくるな。なんとなく次の状況について想像がつくと、女性の体を支えるために添えていた手を自分の両耳にあて、一拍。
「キィヤアァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!」
あぁ、絹を裂くような叫びってこういうことをいうのかしら?間近で聞こえた甲高い悲鳴に、どこからこんなに高い音が出るのだろう、と思いながら青い空を見上げる。
この悲鳴どこまで届いたかなぁ。人がきたらどうしよう。それはそれで大変面倒な話である。
そう思いながらも、わたわたと人の上で暴れながら上から降りた女性にようやく半身を起き上がらせることが可能になった。
あー・・・さすがに華奢な人でも人一人分の体重は重いな。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいわた、私なんてことを・・・!こ、この度はこの指ひっつめてえぇぇぇぇ!!!!」
「いや、私極道じゃないんで指貰っても困ります」
ていうかここドイツだよね?なんで指詰め文化があるの?そう思いながら思いっきり・・・それはもうなんというか、女性として人としてその顔はいかがなものかというぐらい、脂汗を浮かべて地面に額を擦り付けて土下座する女性に、苦笑を零しながらさっと肩に手をおいた。ていうか土下座ってここにもあるんだね。女性は大袈裟にびくっと肩を揺らし、ますます地面に額をこすりつける。なんというか・・・どうやら陰気な見た目通り、大分ネガティブ思考に走ってしまう人のようだ。ひたすらごめんなさいを繰り返すその人に、困ったなぁ、と思いながらできるだけ優しい声音になるように気をつけながら、そっと囁いた。
「顔をあげてください、レディ。私は気になどしていませんから」
「でで、できませえぇんんんん・・・だってわた、私人様を下敷きにしてあぁぁぁ生きててごめんなさいこんなところにいてごめんなさい私なんかの下に敷いてごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!!」
うん。すごいネガティブ。いっそ人の話聞いてないだろう、というぐらい縮こまりながらひたすら謝罪をぶつぶつと繰り返す様は不気味なぐらいである。終いには生きていることについても何故か懺悔のごとく謝罪を始めてしまうので、何気に困った人だなぁ、と思いながら気づかれない程度に吐息を零し、すっかり俯いて後ろ頭ぐらいしか見えない女性に向かって手を伸ばした。そっと、やや骨ばった頬に両手を添えると、ひぃっ?!という悲鳴が聞こえる。うんごめんね。でもさ、いつまでもこうしていたら話し進まないし・・・多少強引だが我慢して欲しい。内心でそう断りをいれながら、いささか乱暴にぐいっと力をこめて無理矢理女性の顔を上に上げさせた。涙を浮かべて、いや、最早泣いている状態で顔を真っ青にしながら唇を震わせている女性にひたりと視線を合わせると、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「レディ、私は気にしてないといったのですよ。だというのに顔を見せてくださらないのは悲しいです」
「え、あ・・・!」
「お怪我はございませんか?派手にこけていたようですが・・・足など挫いては?」
「う、あ、だ、だい、だいじょうぶ、で・・・いたっ!」
頬を両手で包みながら、至近距離なのでやや囁くように問いかけると、女性は青ざめていた顔を真っ赤にしながら答えようとして・・・動揺しすぎていたのが、ガチッと舌を噛んでしまったらしい。先ほどの時とは別の意味で目尻に涙を浮かべて口を覆う女性に、なんというかこう、要領が悪い人なんだな、と思いながらさっと指先で涙を拭った。
「落ち着いて、レディ。私は逃げも責めもしません。あなたのペースでいいんですよ」
「あ、わた、私・・・!ごめんなさ・・・っ」
あーまた謝罪か。それはもう聞き飽きた。そう思い、再び出てきた言葉を止めるようにすっと人差し指を伸ばして女性の唇に軽く押し付ける。本当に軽くなのだが、そうすれば大抵の人間は口を閉ざすので割りと便利だ。女性も例外なく、目を見開きながら唇を閉ざしたので、私は人差し指で女性の柔らかな唇を押さえつけながら小さく首を傾げた。
「レディ。謝罪は確かに大切ではありますが、私には不要ですよ」
「・・・っ!!」
「別にあなたがそこまで謝るようなことでもありませんし、こうなったのはお互いの不注意の問題です。謝るのなら私も謝らなくてはいけませんね。申し訳ありませんでした、レディ」
「そ、そんな、私が悪いのに・・・!」
そっと押さえつけていた指を離して軽く頭をさげると、狼狽したように女性はおろおろと視線を泳がせる。心底困ったように、眉を下げながらぎゅっとスカートを握りしめる女性に顔をあげてなら、と口を開いた。
「お互いが悪く、お互いが悪くないということで今回は終わりにしてしまいましょう。もう、謝罪の言葉は結構ですよ」
「で、でも・・・!」
「レディ」
吐息混じりに、更に言い募ろうとする女性を遮る。ぴくっと肩を揺らすさまに、私はにっこりと笑いかけながら顔を近づけてさっと触れるか触れないか、という程度に頬に掌を寄せた。
瞬間、カッと恥ずかしげに瞼を伏せる女性を下から覗き込むようにして顎を掬い上げる。うん。仕草がプレイボーイかお前、という突っ込みは置いておいて。なんだか最近この手の仕草が板についてきちゃってさぁ。周りが乙女なせいかしらね?誰にともなく言い訳をしながら、固まっている女性に視線を合わせる。
「終わり、です。それに、どうせなら謝罪よりも「ありがとう」の方が、私は嬉しいですよ」
「ありが、とう・・・?」
「えぇ。こちらの方がレディも気持ちがいいでしょう?感謝の言葉はいいものですよ、ほらレディ。笑って、言ってみてください」
いやーやっぱりねぇ。何度も謝られるよりは一言のお礼の方が嬉しいのは真理でしょ?
しかも笑顔でっていうのはポイント高いのよ。元々素材はいいんだから、この人も笑えればいいと思うんだけどねぇ。そんな気持ちで言ってみたわけだが、女性は頬を赤くしながら、カチーン、と固まってしまった。・・・少しハードルが高かったというか、この体勢やっぱりダメだったかな。ティキとかにやるとうっとりしてくれるんだけどなぁ。やっぱり一般女性じゃダメか。まあ一般人だからな、仕方ない。そう思いながら、そっと顎にかけていた手を外して髪をかきあげるとよいしょ、と立ち上がる。呆然とその動きを目で追いかける女性をふと見下ろし、ほつれている髪に気がついて少し考えると、そっと手を伸ばして髪を解いた。いや、中途半端になっていると逆に見苦しいし。ふわりと、女性の肩に落ちた細く柔らかな癖毛が、頬を縁取る。うん。下ろしたほうがいいんじゃないかな。こっちの方が美人だ。そう思いながら、ぱちり、と瞬きをした女性に向けて屈みこんで視線を合わせた。
「では、レディ。今度会うときまでの宿題にしておきましょう」
「え?」
「あなたが笑顔で「ありがとう」をいう宿題、ですよ。何がそんなにあなたを駆り立てるかはわかりませんが、あなたはあなたです。今は自信が持てないかもしれませんが、人生には転機などいくらでもやってきますよ。あなたはそれを見落とさないようにすればいいのです。どんなことであれ、いつかはあなたも笑顔で「ありがとう」が言える・・そんな素敵な女性になれますよ」
「あ、あの・・・!」
「あぁ、好き勝手言ってしまいましたね。・・・忘れるも覚えるもあなたの自由です。では、またいつかどこかで」
そろそろ戻らないと痺れを切らしたロードがやってくるかもしれない。現場を見られたら五月蝿そう、というか女性が酷い目にあいかねない。言えばやらないだろうが、不穏な芽は摘むのが吉といったところだろう。不審者よろしく、言いたいことだけ言い残してさっとコートの裾を翻すと、踵を返して歩き始める。そうしていくらか遠ざかると、ふと大きな声が響き、振り返った。
「あの・・・!あな、あなたのお名前は・・・っ!」
顔を真っ赤にしながら、相変わらず座り込んだまま女性が必死の形相で声を振り絞る姿は健気だ。その姿を視界にいれて、一瞬の逡巡のあと、ふ、と口角を持ち上げて視線を路地の壁の上の方へと向けた。建物の隙間から青空が僅かに垣間見えると、吐息を零して微笑んだ。
「それから数ヶ月ぐらい後よ、アレン君たちに会ったのは」
「へぇ・・・なんていうか、すごく紳士的な女性だったんですね、その人」
「えぇ。とってもカッコイイ人だったわ。私うっかりときめいちゃって・・・や、やだ。ないしょよ、アレン君」
「わかってますよ、ミランダさん。それで、その女性にはそれから会えたんですか?」
「ううん。それが会えていないの。まだ自分に自信はもてなかったし、い、今でも自信があるわけじゃないんだけど、わ、私あの人に会う資格あるのかしらっ?」
「大丈夫ですよ、ミランダさんは素敵な女性ですから。そういえば、その人の名前は聞いたんですか?」
「え?えぇ。その人の名前は――」
「って、いうのよ」