ねだれば殺してくれますか



 しくじった、と眉間に皺を寄せ、跳ぶように家々の屋根を走り抜ける。
 よもやAKUMAと会話しているところを、よりにもよってエクソシストに目撃されることになろうとは。油断していたというべきか、運がなかったと嘆くべきか。判断つけかねる、と思いながら後方から聞こえる爆発音に、足止めを試みているだろうAKUMA達に多少申し訳ない気がした。あの音の間隔が短いあたりに、どうやらかなりの実力者と遭遇してしまったらしいな、とコートの裾を広げてちらりと大通りを見下ろした。・・・人ごみに紛れて逃げた方が無難か。私個人としては、別にエクソシストだろうが黒の教団だろうがヴァチカンだろうが、興味はないし特別敵視もしていない。だから戦う理由もないし、戦いたいわけではないけれど相手からしてみればそれは無理な相談なのだろう。なにせAKUMA=敵というわかりやすい図式が働くのだ。そんなのと仲良くしていれば敵だと認定され、攻撃されても可笑しくはない。こちらにその意思がないといって聞くほど、彼らに余裕なんてないだろうから。まいったなぁ、とぼやいて溜息を零し、人ごみに紛れてやりすごそう、と路地裏にふわりと着地する。このまま路地を抜けて大通りに出ればちょっとやそっとじゃ見つからないはずだ。そもそも、人通りが多いところで派手に乱闘騒ぎは・・・多分起こせない、はず?一抹の不安を覚えたが、そこで躊躇していたら何も始まらない。とにかくやりすごせばいいんだやりすごせば、と思いなおして足を動かした刹那、咄嗟に後ろに飛び退いてその場から離れた。
 どんっという地響きにも似た音と共に、金色の鋸のような巨大な剣が、先ほどまで私がいた場所に垂直に突き立っている。その剣の上に、身軽に着地するのはどうにも素早さとは縁遠いような巨体の男。筋肉質な体躯に、顔の鉄仮面が不気味さを演出し、男と剣の向こう側に見える、細い大通りの明かりに逆光になったその姿を眺め、頭を抱えたくなった。
 思ったより、AKUMAは足止めの意味を成してはくれなかったらしい。それはAKUMAを責めるよりも、実力者に遭遇してしまった不運を呪った方が適切だろう。むしろ、そんなものと戦わせてしまったことに若干AKUMA達に同情を禁じえない。ごめん。もちっと周りに気を配ってたらよかった。私は目の前で、至極楽しげな様子で見下ろしてくる男を見上げつつ、どうやって逃げようかと思考を巡らせる。別に、特別困難な話でもないだろうが、そう簡単でもないのは男の漲る気迫でなんとなく察することは可能だ。チリチリと空気を震わせる・・・身に覚えのある、殺気と呼ばれるそれ。隠しもせず獰猛に、爛々と向けられる喉元を撫でていくようなそれに、これはまた、厄介な類と遭遇したものね、と嘆息した。ぎゅっと、袋に入れて持ったままの長刀を握りなおし、場合によっては抜かざるを得ないか、と目を眇める。

「よぉ、お前さんもAKUMAか?」
「残念ながら、あなたと同じ人間よ」

 ひらり、と。男が金の剣から下りて地面に着地する。身のこなしは上々。スピードもありそうね、と推測しながら腰に手を添える。男は相変わらず地面に突き立てた剣の傍らに立ち、それに手をかけながらゆっくりと鉄仮面に手を添えた。

「じゃあ、ノアか」
「残念ながら、それも違うわ」

 肩を竦めると、くつくつと男の喉が震える。正直この問答に意味があるとは思えないが、時間が稼げるのならば如何様にも会話は引き伸ばしておきたい。じりじりと糸が張り詰める中、男の手によって仮面が外される。現れた顔は、まあどう控えめに見ても悪人にしか見えない顔だった。これならノアの一族の方がまだ一般人に見えると思う。明らかにこれ何人か人を殺ってきた人間の顔だろう。血生臭い。それがAKUMAの血なのか、人の血なのか、知りはしないが確実にこの男は聖職者とは程遠いのは明白だ。じろじろと観察し、男の足がじりり、と地面を擦ったのに気がつく。男が、剣を地面からゆっくりと抜いていく。そうして、低い声で・・・問いかけた。

「最後の質問だ。――お前は、強ぇか?」
「そうね・・・少なくとも、あなたがさっき壊したAKUMAよりは強いんじゃないかしら?」
「ハッ・・・上等だッ!」

 一瞬。男が迫り、歯茎をむき出しにしたえげつない笑みが顔中に広がり、真下から金の鋸刃を切り上げてくる。それを顎先すれすれで避け、チッと音をたてて前髪が数ミリ空中を舞った。ばさっと男の服と私のコートが翻り、視線が交差する。男が至極愉しそうに口角を吊り上げ、私は表情を消して、地面を蹴って男から離れ際に、紐を解いて袋の口を緩めると、露になった柄を握り締めて、シャッと鞘走りの音をさせてそれを抜き放った。同時に、ギィン、と鈍い金属のぶつかりあう音が路地裏に響き、金と深紅が十字に重なる。

「イイ色した剣じゃねぇか」
「あら、ありがとう」

 血潮そのものを凝固し形にしたような刀身を、本気で褒めているらしく、それにはこちらも素直に微笑みを浮かべて見せた。私の可愛い血桜を褒められて、嬉しくないはずないでしょう?血桜を見ると、大抵の人間は不気味だなんだというからねぇ。それは勿論血のような色にも関係しているだろうし、血桜が放つ妖気にも関係しているのだろう。けれどあまり褒められた記憶がないのは悲しい。こんなにも美しく、素直で可愛いいい子なのに。たまに嫉妬深くて、そこは難点だけれども。

―――主様

 ギリリ、と鬩ぎあい、一瞬の隙でお互いに一旦離れる。その間に響いた声に、実際に声帯を震わせることなく何?と問いかけた。

―――どうやらあの者たちが気づいたようにございます

 ブォン、風を切り裂くような一撃を避け、逆に血桜で切りつけながらあらそう、と表情に出さずに呟く。ヂッ、と男の頬の薄皮一枚を、血桜の刀身が掠めた。赤い血が、小さな花びらのように散ると、男が僅かに目を見開き、益々獰猛に剣を振るいだす。回転のかかっていた刀身が、更にウゥン、と速さを増すと、ジリジリと空気が熱を帯びた気がした。

―――けれどわたくし、お腹が空いておりますの

 少しだけ悲しそうに、血桜が言う。そういえば、ここしばらくまともに食事をさせてなかったな、と思い出して申し訳ない気持ちになった。かといって無差別殺人をするわけにもいかないし。ここ、一応曲がりなりにも法律の整った時代だからねぇ。戦争しているところに行けばいいだろうけれど、好んで人殺しをしたいわけでもない。手を汚さずに済むのなら私にとってそれが一番だが、血桜にして見れば食事ができなくて悲しいことだろう。まいったなぁ、と思いながら火気を帯びた刀身が迫るのを避け、男を見た。・・・多少、血を貰っても平気そうよね。

「わかったわ、血桜。――食事にしましょう」

―――主様!

 パァ、と稚い幼女の声が、歓喜に震える。それに呼応するかのように震える刀身に、断食はやっぱりきついわよねぇ、と思いながらこれから適当に見繕うべきかしら、と少し考えた。・・・死刑囚でも横流しして貰ったら、まだマシかなぁ。あんまりしたくはないけれど、元々長い間断食をしていた血桜だ。手にしているときぐらい、ある程度食べさせてあげたいとは、これも親心?ていうか本当、どんどん私一般人から遠ざかるー。それに少しげんなりしつつも、燃える男の剣を見、愉しげな男を見、恐らくそろそろ来るだろう彼らを考え、一瞬。
 回転し、熱量を増した業火の剣が、場所も考えずに放たれる。あれは遠隔操作可能なのか、と多少感心しながら、ニィ、と口角を吊り上げた。――手元にあるより、ずっと好都合だ。

「遊技・『紅涙(こうるい)』」

 血桜の刀に指を押し付け、横に引きながら、ふつりと指先を切る。そのまま滑らせて血を塗りつけるように刀身を撫で、下から真上に振り上げる。刹那、ぽたりと真っ赤な水滴が、地面に滴った。

「なっ!?」

 男が目を見開き、息を飲む。まるで血の雨そのもののように、ザァ、と一瞬にして視界を鮮やかな赤が覆いつくすと、周囲を焼き尽くすかと思えた男のイノセンスの炎は、ジュゥ、と肉が焦げるような音をたてて消えていく。そして火の消えた刃は回転がかかったまま私に襲い掛かるが、それは血桜で真上に跳ね上げ、叩きつけるように踵で蹴り落とした。ガンッという大きな音と共に、男のイノセンスは地面に突き刺さる。そこでやっと男が私の意図に気づいたように、初めてしまった、と苦々しい表情を浮かべた。降り注ぐ紅い雨は針のように鋭く、男の全身にも降り注ぐ。一瞬、自分の体を掠めた痛みに気がついたのだろう。苦々しい顔をしていた男がはっと気がついたように雨の降り注ぐ範囲から逃れようと身を引いたが、それを追いかけるように肉薄し、男が防御を固める前に頭を鷲掴み、思いっきり後ろの壁にたたき付けた。ガンッ、と、後頭部をレンガの壁に思いっきり叩けつけられ、男が「がっ」と短く荒い声を零す。この男は丈夫そうだから、この程度じゃさしたるダメージにはならないだろうが、それでも後頭部を強打してすぐにすぐの反応は望めまい。軽い脳震盪ぐらいは起こしているはずである。そう見越し、男が乱暴に私の手首を掴もうとする前に、額と両目を掌で覆いながら、握りなおした血桜をとすり、と男の腹部に突き立てた。

「っ・・・が、・・ハ・・・ッ」

 掌の下で、男の目が見開いたのが瞼の動きを介して伝わる。筋肉質な男の腹部を、さしたる抵抗もなく貫いた血桜はそのまま男と家の壁を繋ぎとめ、とくり、と脈打った。

「テ・・メェ・・・ッ!」

 とくとくとく、と脈打つ血桜に異変を感じ取ったのか、刀を抜こうと刀身に手をかけるでもなく、男が大きな手で私の肩を掴む。ぎり、と力が加えられたが、それもすぐに痺れたように力がなくなった。凄まじい勢いで、血桜が男の血を啜っているのだ。頭に響く嬉しげな血桜の声を聞きながら、抉るようにぐるり、と刀身を回す。反撃は好ましくないからだ。この手のタイプは矜持のためなら何をしでかすかわからないから。抉る痛みに顔を顰め、男の口角から一筋の血が流れる。かふり、と紅く泡だったものが零れると、肩に乗せられた手が震えた。

「ちっ・・・どこが、俺が、壊したア、ク、マよ・り・・強ぇ、だ・・・」
「強いでしょう?嘘は言ってないわ」
「ふざけ・・・んな、よ・・・テメェ、は・・・っ」

 肩に乗っていた手で、刹那乱暴に顎を掴んだ。血は致死量とは言わずとも、血気盛んなこの男にしても貧血になるぐらい吸っているはずだけれど。あぁ、そろそろ抜かないとさすがに死ぬわね、と思いながら、無理矢理上向かされた状態で男を見た。男は、口から血の筋を作りながら酷薄に笑んだ。

「奴らより、遙か高見だ」

 瞳を細め、その言葉を聞き入れると同時にずるりと血桜を抜き取る。勢いよく抜くと血飛沫があがりかねないので、ゆっくりと抜いて筋肉の隙間から刀身を引き抜き、切っ先をつぽりと肉体から放す。そうすると、じんわりと広がっていた血が急激に広がりを見せ、男の足が砕けたように壁伝いに落ちた。

「留めを・・・刺さねぇ・・気、か・・っ」
「もう時間だわ」

 壁にもたれ、腹部の刺し傷を抑えながら、男が不快そうに睨みつけてくる。それを見下ろし、血桜の刀身を懐紙で拭い、袋後と放り捨てた鞘を拾い上げ、その中に収めた。
 まだ物足り気な様子ではあったけれど、あまりがっついていてもしょうがない。我慢、と囁けば大人しくなるので、一撫でして鞘ごと袋に収め、くるくると紐を巻いた。そうして男に背中を向けるとほぼ同時に、チェック柄の両開きの扉が音もなく空間に現れた。曲線を描くそれはまるでハート型にも似ていて、まるでアリスの扉ね、と一人ごちる。箱舟ではなくロードの能力なのだろう。ロードって案外ファンシーなものが好きよねぇ。女の子らしいというか、可愛らしいというか。思いながら発光しながらそこに佇む扉に向かって歩き出す。さて、ちょっと千年公にお願いして、死刑囚でも回してもらおうかしら?考えながら扉の前に立てば、手を出さずとも扉が軋む音なくすんなり開く。輝く光の向こう側ではきっとロードが待ち構えているのだろう。受け止める準備をしておかないとね、と多少汚れた衣服の埃を叩き落とした。

「待て・・・っ」

 一歩中に入ろうとすると、掠れた声で男が呼び止める。足を止め、緩慢に振り向けばぜぃぜぃと肩で息をしている男が、ギリリ、と奥歯を噛み締めて搾り出すように問いかけた。

「女、名は、なんだ・・・」
「人に物を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀というものよ、エクソシストさん」

 嘲笑し、あぁそうそう、と世間話でもするように気軽に口にして、にっこりと微笑んだ。

「早く手当てを受けたほうがいいわよ。一応重度の貧血程度だとは思うけど、下手したら出血多量で死ぬかもしれないから。じゃあね・・・ウィンターズ・ソカロ元帥?」

 くすり、と笑みを零し、ただそれだけを言い残して扉を潜り。男がひゅぅ、と息を飲んだような気配を感じたが、体の全てが扉を潜ると同時に閉まってしまった扉のせいで、それを確認する術はない。そして同時に、潜り抜けた途端目の前に広がるのは長いテーブルのある食堂で、私は案の定、飛びついてきたロードを受け止め、軽い吐息を零した。

「元帥に遭遇するなんて、災難」

 胸の谷間に顔を埋め、「ー!」とぎゅうぎゅうと抱きついてくるロードの頭を撫でながら、千年公に見せられたそれぞれの写真を思い出し、もう一度溜息を零した。
 あぁ、これで私の情報が教団に出回るのも時間の問題なのかしら?それが瑪瑙探しに有利に働けばいいけれど。

「って、こら、ロード。顔を胸に押し付けすぎよ」
「だっての胸、柔らかくって気持ちいーんだもーん」
「それはどうも」

 でもあんまりやると周りが大騒ぎになっちゃうから、そろそろやめなさい。言いながら軽く頭を小突いて、ペロ、と舌を出したロードに肩を竦めた。
 可愛いけれど、確実に確信犯よね、と殺気立つ周りに溜息を一つ。





「名前、知ってんじゃねぇか・・・」

 なのに自分は名乗らないままとは、卑怯なんじゃねぇか、と。
 呟いた声は愉しげに震えていた。