月がとてもきれいですね



 仏心を出すんじゃなかったなぁ、と思いながら目の前で不敵に微笑む男にやんわりと笑みを浮かべて見せた。それに気を良くしたように、男はワイングラスの中身を揺らして、そっと目の前に掲げて見せる。

「酒は飲めるほうか、レディ?」
「嗜む程度ですわ、ミスター」
「あぁ、十分だ。今日の出会いと、美しい月に乾杯と洒落込もうじゃないか」

 月光に怪しく光を跳ね返す仮面を半面に被せて、男の口元がシニカルな笑みを刻む。
 庭園とは反対側のテラスの入り口から零れるダンスホールの灯りに、燃えるような赤毛の色彩が目を焼くと、私は男に差し出されたワイングラスを受け取って軽くチン、と縁を触れ合わせた。ガラスのぶつかる澄んだ音色が小さくテラスに響くと、男の薄い唇の奥へと、赤い液体は流れ込んだ。その様子を一瞥してから、私もチェリーの入ったそれに口をつける。
 口の中に広がるのはどちらかというと果実酒のような甘みとまろやかな口通り。なるほど、一応気遣ってはみたわけか、この男・・・クロス・マリアンは。とはいっても、この現状は困りものよね、と零れそうな溜息はふっと小さな吐息に混ぜて外へと零した。注がれる視線がなんだか痛いなぁ・・・。そんなに凝視されるほど美形ではないのだけれど。確かに常に無いほど完璧に化粧を施されて、今の私は普段よりも華やかな顔立ちにはなっているだろう。化粧とは得てして自分をよく見せるためのものであるし。口をつけたことでついたグラスの縁の口紅を、そっと手袋を嵌めた指先で拭い取りながらかといってそこまでじっと見られるようなものでもない、と愚痴を零す。剥きだしの肩や胸元を隠すように薄いショールを掻き寄せ、どうやってこの男から逃げたものかなぁ、と注がれる視線に目を合わせ、目を細めた。

「まあ、ミスター。そんなに見つめられては顔に穴が開いてしまいそうですわ」
「これは失礼。レディがあんまりにも美しすぎて、目が離せなかった」
「お上手ね」

 あははー。自分なにやってんだ。うふふ、なんて普段滅多にしない笑い方で、口元を隠しながら控えめに笑うという方法を駆使しながら、やっぱり社交界は肌に合わないな、とワイングラスの細い足を弄った。ロードやティキたちがドレス姿がみたいーだなんてあんまり五月蝿く言うから、仕方なくシェリル主催のパーティに参加はしてみたものの・・・元帥まで参加してるとは聞いてないっての、全く。というかいいのかノア。元帥が普通に紛れ込んでることはいいのか。まあ知らない、ということもあるだろうし・・・そもそもなんでこの男が貴族のパーティに参加できているのか。あぁ、いや、別にそんなことはどうでもいい。窮屈なドレスも、愛想笑いを振りまかなければならない貴族の相手も、適当にやり過ごせばいいだけだから別にパーティに参加自体は好みはしなくとも構わなかったんだ。今後一切出ようとは思わないけれど、要するにこんなややこしい人物と遭遇したくなかった、ということで。なんでこんなところにいるのかねぇ、クロス元帥とやらは。

「ミスターはどうしてこのパーティに?」
「あぁ・・・連れがどうしてもと言うんでな。あまり気は進まなかったんだが、レディのような相手に会えるのならパーティも悪くない」
「私なんかよりも素敵なご婦人方はたくさんいらっしゃってよ?・・・ほら。今もご婦人方の視線はあなたに釘付け。独り占めしている私が申し訳ないぐらいですわ」

 要するに私に構うぐらいならあっち構ってやれよ、と言外に含めてみた。別に、嘘ではないし。言いながら、ついっと流し目を送る要領でホールに目を向けると、扇を広げて口元を隠したり、うっとりと手を組んでこの横の男を見つめる妙齢のご婦人から年若い令嬢まで、幅広い女性達が男に視線を注いでいた。これでティキがいたらそちらにも視線は向かっていただろうから、このダンスホールの視線を二分にするぐらいの派閥ができていたかもしれないわねぇ。私の視線と言葉に、男もつい、と長い前髪の間から見える鷹のように鋭い目をホールに向けると、きゃあ、とばかりに女性達の間で歓声が上がった。・・まあ、顔とか立ち居振る舞いとか、確かに人を惹きつけるものが男にはある。ホールの女性が旦那やパートナーそっちのけでこの男に目を奪われるのもわからないではないが、個人的に興味は一切ないのでどうでもいい。・・・この男を振り切ったらさっさとこの場をお暇させていただこう。でなければ更に厄介なことになりそうである。ていうかクロス・マリアンと接触したという事実だけであいつ等が騒ぎ立てそうだ。まあその場合、あんた達が我侭言うからよ、と一蹴するつもりではあるが。

「あちらの女性達も魅力的ではあるが・・・・レディには敵わないな」
「そんなことを言って。そういって他の女性にもそうおっしゃるんでしょう?」
「そんなことはない、と言っても・・・信用はしてもらえないんだろうな」
「ふふ、女性の扱いを心得ている方の言葉なんて信用できませんわ」
「手厳しい言葉だ」

 半ば本音を混ぜ込みつつ、くすくすと笑いながらワイングラスを傾ける。その横で、肩を竦めた男は面白そうに口角を歪めて、手摺に片手を置いて一歩間合いを詰めてきた。おっと、なんか琴線に触れてしまったか?ありふれた言葉遊びのつもりだったんだけど。それでもその場から動かず、手摺に両肘を置くようにもたれかかりながら、小首を傾げて笑みを浮かべた。あー、顔の筋肉が引き攣りそうだよ、作り笑いばっかりしてるとさ。男は詰めた間合いから私を見下ろし、低い声で、艶を含めながら囁いた。

「今宵はお前だけだ、という言葉も・・・レディには信用できない言葉でしかないか」

 おぉ、腰にくる声ね。並の女なら腰砕けになりそうな低音と囁きに、本気でこいつ遊びなれてやがるな、と思いながら私は少しだけ瞼を伏せてみた。・・・つーかこの雰囲気危ないよねぇ?なんというかこう、本格的に仕掛けてきた、という感じだ。十代程度の小娘にこんなに本気で迫られても困るんだが、クロス元帥。あんた何歳よ。まあ中身が小娘とは言い難いにしても、困りものなのは困りものである。伏目がちになりながら、そっとワイングラスを月に透かし、その淡い光と色彩を楽しんでから、視線をあげて男を見返した。じっと見つめてくる男は夜の駆け引きを楽しむ大人の男の目もしていたが、同時に獲物を捕食するような、雄の眼光も垣間見えた。え、なんかターゲットロックオン?  うーん。存外本気で口説かれているんだね、マジデ。まあ・・それに捕食されるほど柔な女でもないけど。そろそろ失礼させていただきましょうか、ミスタークロス?クッと口紅を引いた口角を吊り上げ、瞳を細めるとゆっくりと手摺に預けていた体重を戻していく。一瞬、男が驚いたように目を見開いたのを視界に納め、手摺の上にチェリーを残したグラスを置いた。

「光栄なお言葉ですけれど、そうですわね。ミスターのお言葉は信用なりませんわ。それに」

 さらりと、前に落ちてきた髪を耳にかけるように動かし、手を伸ばして男の薄い唇に手袋越しに指を微かに触れ合わせる。その時だけ、男の声を、言葉を封じるように。

「私、食べられるよりも食べるほうが好きなんですの」

 にっこりと無邪気な笑みを浮かべて見せて、いささか呆気に取られているような男にクッと喉奥で笑みを零すと、唇に触れた手を離して、ショールを引き寄せながらスカートの裾を翻す。背中を向けて、肩越しに振り返るとこちらを振り向いた男に口元だけで笑みを見せつけた。

「今宵は本当に、月が綺麗ですわね」

 それだけを言い残し、向けた視線の先は夜空の月。あぁ、本当に雲一つ無い、満月だこと。
 黙っている男をこれ幸いとばかりにテラスから抜け出せば、一斉に刺さるご婦人達からの視線。嫉妬混じりの視線を煩わしく思いながらも、さっさとその人垣を抜けてずんずんとホールを突っ切っていく。後ろの方がざわざわと女性達の声が聞こえるところから、どうやら早速クロス・マリアンのところに足を向けた婦人もいるらしい。まあ、追いかけてくることは恐らくないとは思いたいが、念のためにもさっさとこの場からの暇乞いをしたい。きょろり、と周囲を見渡し、誰か・・多分政界の人間かそこらの男性と話している目的の人物を見つけ、私はかつん、とヒールの音を響かせてその背後に近づいた。瞬間、パッと振り向いた顔の満面の喜色にこの場でする顔でもないだろう、と思いながら私は吐息を零した。

「シェリル」
、どうしたんだい?」
「えぇ、そろそろお暇させていただこうかと思って。馬車の準備はすぐにできるかしら」
「それは勿論、の願いとあれば。だけどもう行ってしまうのかい?ロードが寂しがるよ」

 こんなに美しいのに、と本当に残念そうに、名残惜しげな視線を向けてくるシェリルにいい年した男が、と思いながら肩を竦めた。
 ちらり、と視線を会話を中断させられた男に向けると、自分から視線が外されたのが嫌だったのか、シェリルと僅かに顔を顰め、それでも外向き用の笑顔を貼り付けながら後ろを振り向いた。そして二言三言、言葉を交わし(私について尋ねられたようだが、シェリルに詳しく説明する気は毛頭ないらしい)紳士をその場から外させると、晴れ晴れとした顔で再び私に向き直った。うっとりと浮かべられた笑みに苦笑を返し、疲れたように吐息を零す。実際、今日はもう疲れた。

「元々こういう場には慣れないのよ。今回出席しただけで我慢なさい」
「それは、そうだけれど。あぁでも本当に綺麗だよ、。君のその姿を納めた人間の目、全てを抉り出したいぐらいだ」
「あんたも大概過激よね・・・。というか、そんなに不愉快になるぐらいなら私を出席させようなんて思わなければいいでしょう」

 多分後半、冗談でもなんでもなく本気で思っているのだろう。瞳の奥の狂気に気づけないほど鈍くは無く、またそれほど彼らの性質を理解していないわけでもない。呆れた眼差しで矛盾している、と言えばシェリルはでもそうでもしないとこうも着飾ってはくれないだろう?とまるで子供のように唇を尖らせた。お前も何歳だ、全く。そんな、極々普通に会話している私達に注がれる視線もいささか鬱陶しく、周りを気づかれない程度に見回して眉間に皺を寄せた。私は物見パンダじゃないのよ、全く。・・・まあ、話している相手が世間的には非常に優秀な外務大臣として政界にも社交界にも名を轟かせているシェリル・キャメロットとなれば、視線を集めるのも仕方ないとは思うが。しかし目立ちたいわけではなく、これはもう本当にさっさとここから出て行きたい、とシェリルに視線を向けた。そうすると、シェリルは落ち込んだように肩落とし、眉を下げた情けない顔でそっと手を伸ばしてきた。それは決して頬に触れることは無かったけれど、私は無言でシェリルを見返す。

「すぐに手配するよ。休憩室に行くかい?」
「個室はお願いできる?さすがにもうこの手の空気は飽き飽きしたわ」
「わかった。そちらもすぐに用意させるよ。・・・君が帰るとなれば、ロードもすぐに帰るというだろうね」
「ロードは必要?」
「いや、私も帰りたいぐらいだ。・・・出来ないのが口惜しいよ」
「外面がある人は大変ね」

 くすり、と笑みを零して、触れなかったシェリルの変わりに褒めるように頬を撫でる。そうすると、うっとりと白い頬を赤く染めて、恍惚の吐息をシェリルは零した。蕩けたような眼差しは奥さんにでも向けなさいよ。傍から見たら勘違いされそうな図、と思いながら頬を撫でた手を離し、ひどく寂しげな顔をしたシェリルに背中を向ける。

「ロードのところにいるわ。なるべく早くお願いね」

 傍から聞けば、あの女は外交官になんて言葉を、と思われているのかもしれない。だがしかし、私達の間ではこれが普通なだけに、意に介することでもなかった。そもそも、金輪際こんなところに出るつもりのない私にしてみれば、他者の評価など塵芥にも満たないものだ。ホールに足音を響かせて、ドレスを翻しながら颯爽と後にすると、背中にシェリルの恭しくも蕩けた声音が、確かに耳に届いた。

「仰せのままに、我が君」

 それはクラシックに掻き消され、小さくホールの中で消えていった。誰に拾われることもなく。
 あぁ、そういえば。

「クロス・マリアンがいるって伝えておくべきだったかしら」

 ふと、今回もっともこの場から去りたい理由№1の男を思い出し呟いたが、まあ、余計な波紋を広げるものでもなし、別にいいか。と白いゴシックドレスに身を包んだロードに飛びつかれながら、私は二階から下のダンスホールを見下ろした。あぁ。

「あんなところにいたわね」

 ホールの真ん中で踊る赤毛を見つけて、見つからないようにそっと身を潜ませた。
 もう本当に、金輪際こんな場所に出てなんかやるもんか。





「え、ちょ、もう帰ったってマジっ?」
「残念だったね、ティキ。数十分前にロードと一緒に帰ってしまったよ」
「オレ今回のドレス姿だけが楽しみで即行で仕事終わらせてきたのにっ!」

 愕然とした顔で、ふるふると肩を震わせるティキを、シェリルは可哀想に見ながら肩を竦めた。
 あぁ、これは一曲も踊るつもりなくトンボ返りだろうなぁ、と。