しらじらしいさようなら
バレなければいい、と思った。
バレなければいいのだと、思ってしまった。
エクソシストを殺すのも、人間を殺すのも、それは全て主人のため。予定調和、ノアの宿命であり、本能だから。・・だから、殺しても咎められることはない。あのお方もそれを理解していた。それが性質であり私達の使命であり宿命だと理解していた。だからこそ何も言わなかった。血に濡れても肉片を撒き散らしても誰の悲鳴を聞こうとも。何も言わず、認め、受け入れ、そして静観する。干渉などしなかった。何一つ。
自分がすることは何もないと、あの人は理解し、弁えていた。それは薄汚い人間からすれば非難の声を浴びせられる酷い行為であったのだろう。無論、そんな存在がいれば私達は総力を持ってしてそれを排除にかかるけれども、あのお方の行いは世に出ることはない。何故ならあのお方は傍観者。異世界からの絶対者。だからこそ、流れに干渉など、しなかった。しなか、った。
――故に、バレなければいいのだと、見誤った。
「ルル・ベル」
静かな声が、常と変わらぬトーンで鼓膜を刺激する。名前を呼ばれた瞬間は、いつもならば心臓が壊れるほどに熱く高鳴る。幸福に、泣きそうになる。けれど、今はどうだろう。
顔があげられない。跪き、声をかけられたのに顔をあげることができない。その声に含められた意図に気づいているのに、上げることが出来ない。
震えて冷たくなった指先を、ぎゅっと握り締めた。じっと、爪先を見つめて唇を震わせる。恐ろしかった。恐ろしかった。怖かった。全身から血の気が引いたように体中が冷たく感じる。
心臓が竦みあがり、呼吸が荒れる。怖い、怖い、怖い、怖い。頭の中で様々な言葉が巡り、けれど形にならず、終いには何も考えられなくなる。
真っ白になった瞬間に、動いた空気に敏感に反応して咄嗟に口が動いた。
「申し訳ございません・・・っ」
「ルル、」
「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません、さま・・・さま、申し訳、」
唇から吐いて出た震える謝罪は、けれど静かな静かな一声で掻き消された。
「もういいわ」
静か過ぎる、声だった。俯いたまま、目を見開く。呼吸が止まり、時が進むのを止めたかのよう。
その瞬間は、あまりにも長かったように思えたし、ほんの瞬きにも満たない刹那であったかのようにも思えた。ただ次に気がついたときには、カツン、というヒールが床を叩く音が聞こえたのみで。それが、徐々に遠ざかる。小さくなる。足音が、離れていく。恐ろしくなって、思わず顔をあげれば、見えたのは華奢な背中だった。
目の前が、真っ暗になりそうだった。思考が活動を止める。遠ざかる背中しか見えない。遠ざかる足音しか聞こえない。離れていく。あのお方が。側から、近くから、―――私から?
「っさまぁ!」
わかっている。いけないのは私。私が悪い子だったのだ。だから怒らせた。だから見限られた。
だから嫌われた。わかっている、私がいけないのだ。私が、自分の欲で、あなたの願いを、邪魔したから。
涙が溢れる。ボロボロと幼子のように涙が次から次へと溢れては止まらない。
うぇっと嗚咽が零れ、その場から動くことも出来ずに這いずるように小さく手を動かした。
泣いてどうにかなるわけではない。こんな涙で引きとめられるわけがないとわかっていながら、それでも流してしまうのは愚かの極みといえた。
今の私は世界で一番醜いだろう。世界で一番汚い涙を流しているだろう。けれど溢れて止まらなかった。止める術が見つからない。涙で視界がぼやけてしまう。遠ざかる背中、暗闇の君臨者。ああ、行ってしまう!!
「さま、さま、さまぁ・・・ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、―――さま、ごめんなさい・・・おねが、おねがいですっ。・・・きらわないで・・・っ」
捨てないでください。嫌わないでください。あなたに拒絶されたら、私は生きてなどいけない。
生きてなどいけない。生きる理由がわからなくなる。世界が――音をたてて、崩れていく。
「、さ、ま・・・・」
だけどあなたは遠ざかる。足音を響かせて遠ざかる。どんなに呼んでも、声を嗄らしても、涙を落としても、手を伸ばしても、縋っても。あなたは私を、拒絶する。私はもうあなたの側にいられないのですか。もうあなたの視界に入ることすら許してはもらえないのですか。その影を見つめることも、声を聞くことも、何も?―――もう、何、も。
「ぁ・・・」
何も。
「ぁあ・・・」
もう、何も。
「ああぁ・・・っ」
あなたという全てを。
「あぁぁあぁぁ・・・っ」
諦め、生きていかなくては、ならない、と?
「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああぁぁ・・・・・・・っ!!!!!!!」
世界が、崩れる。
「ルル・ベル」
もう一度受け入れられるのならば、私は。