真っ黒いわたしの幸福
閉じていた目を開けて、目の前を見つめる。
頬杖を突きながらすっと手を伸ばせば、少しの躊躇いの後、それの手もまた伸びて弱弱しく右手に触れた。壊れ物を扱うかのように優しく、両手で包み込むように覆われて、手の甲が撫でられる。不意に泣きそうに歪んだ顔で、手の甲に頬を寄せるとそれは声もなく唇を震わせる。その様子を粒さに見つめながら、薄く開いた口から吐息の混じった囁きを落とした。
「あんたは、本当に伯爵が憎いのね」
掠れたような小さな囁きに、甲に擦り寄る動きをとめて、それは膝をついたまま何も言わなかった。見える旋毛を見下ろして、開いた左手を伸ばして頭を撫でる。そうすると、ハッと気がついたように目を見開いてそれは面をあげ、くしゃり、と顔を歪めた。
「誰かを犠牲にしてまで、あの人を殺したいのね」
柔らかな黒髪を弄りながら、輪郭をすっと指先で撫でて顎を捉える。くっと指先で抓んで軽く持ち上げれば、抵抗なくすんなりと顎先が持ち上がった。合った視線に確かな脅えと、深い愛憎、そして淀まない思慕を感じ取り、それの手から右手を抜き取る。宙に浮いたままの不自然な手を見咎めて、その手を逆に握り返して膝へと導いてやりながら顎を開放した。そして、再び黒髪を梳る。瞳を細めたそれに、淡々と言葉を繋いだ。
「別に、咎めるつもりはないけれど。好きにすればいい・・・その願いが叶おうが叶うまいが、私には関係のないことよ」
誰が死に、誰が生きようが。一時の悲しみに全てを翻弄されるほど、私は優しくはなれなかった。それは目を閉じて項垂れた。膝をついたままで、ゆっくりと膝の上の手を追いかけるように頭が倒れる。縋りつくようにしなだれかかり、私は頭を撫でる手を止めるとサイドテーブルのチョコレートに手を伸ばした。一つ抓んで、口に放り込む。甘く蕩けるような味が舌の上に広がり、ころころと少しだけ転がして、噛み砕く。こくりと溶けた液体を飲み込んで、薄暗闇の室内を見つめた。
「けれど、覚悟なさい。人の夢は儚いもの。どれだけの布石を敷こうとも、どれだけの年月を費やさそうとも。人の夢を阻むのは、やはり人の夢なのだから」
だからこそ、その夢が隔たられる可能性を覚悟なさい。誰かを犠牲に、貪欲な己の望みを叶えようとするのならば。その犠牲者達によって掬われる足元を、しっかりと見ておくといい。膝の上のそれが声もなく拳を握り締めるのを見て、そのとき初めて、笑みを零した。
「・・一度、あなたが生きているときに会ってみたかったわ」
囁きは、顔をあげたそれの瞳に吸い込まれるように消えていく。指先でそっと頬を撫で、微笑みかければ泣きそうにそれは瞳を歪ませた。戦慄く唇が吐息を零し、姿が朧に霞んでいく。じっとその光景を眺めていれば、それは瞳から大粒の涙を零して、求めるように腕を伸ばしてきた。頬に伸びた手は、けれど触れる間もなく、解けるように消えていく。目の前から、まるで煙が風に掻き消されるように姿をなくしていく、薄闇の虚空を見つめて。
《 》
声のない声に、そっと瞼を伏せた。
「十四番目」
消えたそれの名すらも、私は知りはしない。