喚ぶ声が聞こえる



『――――』


 それは祈りのようにか細く。


『――――』


 それは願いのように力強く。


『――――』


 それは喚び声のように、遠く消えて行った。





「・・・え?」

 小さく小さく、呟いた。
 思わず振り返った先にあるのは変わらないグランド風景であり、カキィン、とバットがボールを打ち返す打球音が乾いた空気に響き渡る。あ、御柳の方に飛んでった。
 某学校の某お猿君ではないので取り損ねる、なんていうことはないが、物凄くだるそうなのが御柳らしい。上手い癖に真面目にやらないのがあいつの問題点である。まぁ、練習には参加するのだから、全くの不真面目というわけでもないのだろうが。
 ぶん、と投球し、ファーストのミットへと飛ばす姿を見届けながら、くるりと視線を動かして周囲を確認し、眉を僅かに顰める。・・・声が聞こえた気がしたけれど、誰かが私に声をかけたわけでもないらしい。
 部員は全て練習中だし、声をかけられる範囲内に人はいない。じっと屑桐先輩が投げる姿を見つめ、再び視線を腕の中の書類に落とした。誰もいないのならば、きっと空耳だったのだろう。気にするほどでもない、と書類を見やりながら溜息を吐いた。

「しっかし監督もなんでこんなギリギリに合宿の書類渡すかなぁ・・・」

 がしがしと頭をかいて顔を顰める。悪態をつきながら脳裏に「ホホホホホ」と笑う時代錯誤仮面を思い出し余計に気が滅入った。うわ・・・なんか今著しくやる気が殺がれたよ。がっくりと肩を落としながら首を振る。

「脱力してもしょうがないか・・・とりあえずパンフレットまとめて・・・」

 部室に前年度のパンフレットがしまってあるだろうから、まずは部室、か。まずやるべき作業の段取りをつけて、くるりと踵を返した。あぁ、瑪瑙は・・・洗濯物取り込んでるっけ。
 今回は手伝いにいけそうにないなぁ・・まあどうせその内部員の内の誰かが手伝いにいくだろう。(そして屑桐先輩達によって排除されるだろう)グランドを横切り、横で声をあげながら練習する部員を視界の端におさめながら部室へと向かう。頭の上で沈むように地平線に近づく太陽が、少しばかり茜色へとその色を変えていった。太陽の浮かぶ空が高い。


『――――――』


 はっとして駆け足だった足を止める。振り向いたところでそこに誰かがいるわけでもなかったが、なんとはなしに空を見上げると、少し白い雲に茜がかった色が映っていた。

「なに・・?」

 呟いたところで、返答があるわけでもなく。ぐるりと見回してみるが、やはり近くに人影はなかった。違和感に首を傾げながらも、それを突き止めるほどの時間はなく、とりあえず部室への道を急ぐ。ただ、耳の奥で、先ほどの声が残っているような気がしてどくりと胸が騒いだ。
 ・・・別に、大声だったわけじゃない。大きかったのならもっとはっきり聞こえるだろうし、空耳などと思いもしないだろう。気になってしまうのは、その声が普通の声よりも遥かに小さく儚げだったからだ。吹けば消えそうに儚いのに、それでも、その声に含まれた何かが、とても、耳に、残って。

「あぁもう!空耳空耳っ」

 気付けば声――声といっていいのかもひどく曖昧だが――のことばかり考えている。
 それを頭を振って追い払いながら、けれど、と一人ごちる。多分、また考えてしまうのだろうなぁ、と。

「なんなんだか・・全く」

 ふぅ、と自嘲めいた吐息を零して、部室のドアを開けた。少し熱の篭った空気が動いて、外に流れるのを感じながら薄暗い一室に足を進める。ロッカーの奥の棚を漁って、めぼしいものを取り出して適当に目を走らせた。

「えっと、ココとココとココは高いし却下。としたらここから・・・うん」

 費用をぶつぶつと計算しながら、金額面で却下を出したものをまた棚に戻し、とりあえず費用をクリアしたものだけを抱えて部室を出る。例年通りの合宿所にするか、それとも今回はまた別の合宿所にするか。
 楽なのはやっぱり例年通りにやってしまうことだが、あえてあの監督が指示を飛ばさずこっちに投げたことを考えると、今回は例年とか異なる合宿内容を考えているのかもしれない。ある程度無茶が利くことを前提に選び直さなくては。
 そうなると、次の目的地はコンピュータ室になる。くるりと校舎に進路を取りながら、ふと足を止めた。あぁそうだ。まず瑪瑙に声をかけてから行こう。そう思い立つと、部兼用の干し場に足を向けた。洗濯物はどうなったかなぁ。そういえば私物も時々混じってることがあるんだよね。ったく、洗濯物増やすなんて!マネージャーの仕事を舐めてるのか。 そもそも私と瑪瑙だけってどうなのよ。いくらミーハー根性の女子が多いといってもこれは疲れるのよね。洗濯物については後々制裁を加えるとして、マネについては監督と屑桐先輩に相談しよう。ミーハーじゃなくて瑪瑙に反感も持ってなくて(私にもってたところで無視するし)仕事の出来るあっさりめの女の子。まあこの際多少ミーハーであっても仕事さえしてくれれば言うことは・・うるさかったらあるかもだけど無し!今後の事情も踏まえながら眉間に皺を寄せると、視界にさっと、白いタオルが翻る。同様に、白いタオルに重なるように蒸し栗色の髪を風に靡かせた、小柄な後ろ姿を視界に収め微笑んだ。

「瑪瑙」

 洗濯物を取り込んでいた動きをとめて、くるりと勢いよく瑪瑙が振り返る。
 柔らかな髪が動きにつられて大きく広がりながら、まるでフランス人形のように整った可憐な顔が喜色満面に彩られた。硝子玉のような飴色の瞳が夕陽を取り込んでキラキラと光り、まるで宝石のよう。柔和に細められた眼差しは、思わず眼を見張り赤面してしまいそうなほどに綺麗な微笑みへと変わり、その花の顔を色鮮やかに象った。

ちゃん」

 桜色に濡れた唇が動いて、鈴を転がすような声が響く。それににっこりと笑いかえしながら、相変わらずの美少女っぷりだなぁと自分のことでもないのに誇らしく思いながら近寄った。

「どう?洗濯物は」
「うん。半分は取り込めたから、後半分よ。ちゃんはどうしたの?」

 腕に白くなった洗濯物を抱えて、にこにこ笑いながら瑪瑙が首を傾げる。
 手の中のパンフレットと書類を顔の辺りまで持ち上げながら、肩を竦めて眉を寄せてみた。

「監督から合宿について検討しといてくれって言われてさ。今からコンピュータ室に行くところ」

 面倒ったらないわーと、愚痴を零したらくすくすと瑪瑙が控えめに笑う。
 おっとりと飴色の眼差しが細められ、淡い唇が控え目に弧を描く様は、たったそれだけで何かの絵画のように嵌っていた。

「ふふ。しょうがないわ。それが私達のお仕事なんだか・・・」

 微笑んで言った瑪瑙の言葉尻が途切れ、2人して勢いよく振り向く。その方向に、やはり人はいなかったのだけれど。ただ茜がかった空と一緒に校舎が見えるだけで、何一つとして、変わらない。グランドからは野球部のみならず運動部の声が響き、校舎は夕陽を映して茜色に染まる。並ぶ窓からちらほらと生徒の影が見えて、吹奏楽部が顔を覗かせながら楽器を吹く。そんな、何も変わらない学校の風景だった。何も、何も変わらない、はずなのに。


『――――――』


 透明な声が、鈴の音を転がすように細く聞こえた気がした。何を言っているのか聞き取れないけれど、確かにそれは声として届いた。弱々しくも、強く。ひたすら、強く。
 最早、空耳などと言えはしない。あまりにもその声に込められたモノが強くて、切実で。まるで思いそのものとしか言えないような、そんな声で。

「・・・・・また、この声・・・」

 瑪瑙が、呟く。それに勢いよく振り返り、眼を見開いた。

「・・・・・・瑪瑙?」

 掠れた声で名前を呼ぶと、瑪瑙はきょとんとした顔で私を見つめた。
 え、ん?あ、もしかして・・・・うん。つまり。

「瑪瑙にも聞こえてたの・・・?」
ちゃん、もなの・・・?え、えぇ?!空耳じゃないのっ?」

 2人して指を指しあいながら驚愕に眼を瞬いた。絶句し、まるで頭痛がするような思いで頭を抱える。まさか、2人で同じ声を?そんな、と眉間に皺を寄せる。空耳じゃ、ないとでもいうのか。この声のようなものが。一人ならばまだ誤魔化しもできるだろうに、二人で聞こえていたとなると、これは最早ホラー現象に近くはないだろうか?

「なんなの・・・一体」
「判らないわ・・・でも、でもね、ちゃん」
「ぅん?」

 額に手をあてて掌の間から眼を動かし瑪瑙をみる。あぁ・・・なんか頭痛しそう。軽く心霊現象染みた事を体験するなど、私たち、思ったより疲労がたまっているのかも?
 疲れてるのは確かにそうだと思うけど、しかし幻聴が聞こえたとなればかなり深刻な問題だ。病院に行った方がいいかなぁ、と額を辿り頬に手を添えると、瑪瑙は飴色の瞳を揺らめかして戸惑ったように言葉を濁した。
 ふわりと、生暖かい微風が頬を撫でて過ぎていく。奇妙に交じり合った慣れない空気に、ぞくりと肌が粟立った。

「どうしてかしら・・・あの声、とても、必死なの。とても・・まるで何か大切なものに必死に手を伸ばしてるみたいに」
「大切な、もの・・・」

 ポツリと瑪瑙の言葉を反芻し、チリリと脳内で何かが火花をあげた。

 切望する声。

 それはまるで祈りのようにか細い癖に、まるで何かを願うかのように途方もなく強くて。あぁ・・そうだ。強いのだ。それは。まるで誰かに喚ばれているみたいに強くて、切実で。何故何を言ってるのか判らないくせに、それを「声」だと判断したのか。その理由は、つまりそういうことだ。喚ばれているのだ。その声に、思いの丈を込めて。

「・・・誰なの?」

 眉根を寄せて呟くように問い掛ける。
 声の持ち主に、その、何かを求めているかのような声に。
 小さく小さく、風に呑まれて消えてしまうような、か細い声で。そして、それに応えるかのように。


『―――た――わ・・・・・・・っ』


 声が、声として・・・言葉として。断片的だけれど、聞こえた。この耳に、何かを強く求める呼び声が、確かに。
 それに、勢いよく空を仰ぎ見る。何もない、平坦な空を。その、刹那。

「え?」
「あっ」

 間の抜けた声が私と瑪瑙から零れる。何故なら瞬きをした瞬間、がくりと唐突に下に引っ張られる感覚が全身を襲ったからだ。
 ――重力ってきっとこんな時に感じるのね。遠ざかっていく空とは対照的に、どんどん唸りを上げ始める風を全身に感じながらそんなことを茫然と考えた。
 足場もなく、空中に自分の体があるのが解る。自身の体を支える確かなものは何もなく、伸ばした腕は空を掻く。意表をつくにも程があるだろう。空を見上げたのに、いきなり地面に穴があくなんて。予想外もいいところだ。こっちにも心の準備というものがあるというのに、なんたる仕打ちなのかと誰かに喧々と非難を浴びせたかったが、そんなことをしている時間も余裕もなかった。だって、現在進行形で私たちは。

「なんでええええ!!!???」
「いやああぁぁぁ!!!!!!」

 ただひたすらに、ぽっかりと口をあけた闇の中へと、吸い込まれるように落ちているのだから!疑問やら恐怖やら怒りやら、ともかくも複雑に絡み合った渾身の叫びに、瑪瑙の悲鳴が重なり尾を引いて流れていく。
 そのまま私達は為す術もなく、また事態を理解することもできずに、真っ暗な闇の中へと、真っ逆さまに落ちていった。