始まりの赤い夜



 夜空が、赤く、赤く燃えていた。





 炎が蠢く。
 舐めるように揺らめく烈火は、音をたてて目の前の家を包んだ。赤い炎に照らされて、影が大きく剣を振り上げる。落とされた所から悲鳴と同時に血が飛び散り、どさりと地面に倒れる音がした。漂ってきた焦げくさい臭いと、血臭の交じり合ったどうしようもなく不快な臭いが鼻孔を突き刺す。キィン、と甲高い金属音と再び聞こえた悲鳴に喉が引き攣った。鼓膜を震わせる悲鳴と、肉を切り裂く音と、どくどくと加速する自分の心臓の音、そしてゴクリと鳴った喉だけが、その世界の音の全て。

これは、何だ。

 疑問が脳内を走ったが、それをゆっくり考察する暇などない。本能が告げた。

走れ。

 強ばっていた体の筋肉が脳の電気信号に従って動き出す。目の前で呆然としていた親友の腕を掴んで・・・力加減なんて考えてられない、掴んで、引き寄せて、叫んだ。

「瑪瑙!!」
「っ!」

 虚ろだった飴色の瞳が大きく見開く。本当はもっと優しく、安心させるように名前を呼んでやりたい。けれど、それをするにはあまりにも現状が殺伐とし過ぎていた。
 ふと、燃える家の炎に照らされるただの影かと思っていたが、実は黒い鎧を着込んでいた男がこちらに向かってくるのが見えた。ちっと舌打ちをして、瑪瑙の腕を掴んだまま走り出す。男の手に握られた・・・今だ現実味のない剣が炎を反射して鈍く光っていた。それがてらてらと濡れたような艶を持つのは・・・その剣で斬った「人間」の血のせいか。転がっている死体の横をすり抜けて走ると、上擦った声が背後から聞こえた。

ちゃ・・・!ここは・・・・何!?」
「判らないっ。でも、立ち止まってる暇はないってことだけは確かね!」

 引き攣った声に答えると、チラリと背後を見やった。一体全体、なんのホラー映画だ、これは。殺人鬼に追い回されてる、そんな冷や汗の流れる心境を噛み締めて顔を顰める。
 冗談じゃない。映画ならまだしも、現実にそんな目にあって堪るかっ。そう思いながら懸命に瑪瑙の腕を引いて走るものの、目に映る全てが見覚えのないものばかりで、焦燥ばかりが募っていく。一体全体、ここは何処なんだ。こんな全く見当もつかない場所では、逃げようにもどう逃げたらいいのかわからずに、ひたすら道なりに走り続けるしかない。視界に入る全てのものが、今の私たちにとっては恐怖対象でしかなく、走っているだけではない心臓の速さに、きゅっと唇を噛んだ。
 当たり前のことだが、ついさっきまで、私達がいたのは学校のグランドだったし、しかも夕方だった。こんな家が密集しているところでも、夜中でも、ましてや火事や殺人現場でもなかったというのに!!適当に走り回っては燃える家にぶち辺り、方向転換すれば地面に倒れ伏す死体がある。吐き気がくるほど、とんでもない場所だ。

「きゃぁっ」
「瑪瑙っ?」

 小さな悲鳴と一緒にがくんっと掴んでいた腕が引っ張られる。必然的に立ち止まり後ろを振り向けば、地面に倒れている瑪瑙が視界に映った。何処か怪我でもしたのか、顰められた柳眉。制服でなくてよかった、と何処か的外れなことを考えながら腕を伸ばした。
 幸い、といっていいものか、部活中であったおかげで私達が着ているのはジャージだ。長ズボンをはいているから、そう大きな怪我はないだろう。安堵とともに慌てて起き上がらせようと伸ばす腕が、ピクリと止まる。途中で止まってしまった腕に、瑪瑙が怪訝な視線を向けてくる。その物問いたげな視線をいなして、険しい顔で前方を睨んだ。

「・・・ここまでだな」

 くぐもった低い声が落とされる。ガチャン、と金属のこすれる音と、地面を踏みしめる重い音がした。その瞬間、状況を思い出したかのように、瑪瑙の体が強ばり、恐怖と困惑を色濃く表した顔で後ろを向く。肩から背中にかけて緩く波打った髪がふわりと靡いた。頬を撫でる、炎によって暖められた空気が、血臭を運ぶ。不意に、それがあまり気にならなくなっていたことに、軽く驚愕した。
 麻痺した嗅覚と、いつしか周りの光景すらあまり反応していない事実。慣れてしまっていたのか、それとも、感覚があまりの事態に拒絶と麻痺を起こしたのか。
 けれど、その非現実への悲観に暮れている場合ではない。ちらり、と視線を下に落とすと、抵抗の跡だったのだろうか。脇に初老の男性と、足元に長い柄の農具が無造作に転がっているのを見つけた。それについ、と目を細めて、座り込んで震える瑪瑙の頭にぽんと手をおいた。はっとして見上げてきた瑪瑙の涙の滲む目をみて、にこりと笑いかける。引き攣った笑顔だったかもしれないが、できる限り大丈夫、という意味を篭めたつもりだ。伝わったかは定かではない。不安そうに揺れる飴色の瞳から視線を外すと、瞬間、足元に転がっていた農具の柄を思いっきり踏みつけた。ぐぁん、と勢いよく起き上がったそれをつかむと、無造作に鍬の先を相手に向ける。ぴたりと正面で止めて、口角をつり上げた。チロリと乾いた唇を舐めて、口を開く。

「見逃してくれる気は?」
「ない」

 簡潔過ぎるお答えどうもありがとう。内心でこの野郎、と舌打ちしつつ、表面上は堂々とした態度で瑪瑙の前に進み出る。
 持っている武器が農具というのが格好がつかないが、まあそこはそれ。無事生き延びさせてくれれば格好なんてどうだっていい。むしろジャージと農具って案外ピッタリかも、なんて、震えそうになる手を誤魔化すかのように脳内で軽口を叩いて、細く息を吐き出した。
 しかし・・・鎧と剣か。なんという現代社会に不釣り合いな恰好なのか。もっとも、ここが「現代社会」なのかすらも怪しいところではあるのだが・・・それは今考えることではないだろう。一度は考えることを放棄していた問題が再び頭を横切るが、軽く首を振って追い払う。後で考えればいいことだ。今は・・・そう。今すべきことはただ一つ。

「悪いが、死んでもらうっ」
「お断りだね!」

 生き延びることだっ。深く踏み込んできた相手の一撃が軌跡を描く。燃える炎を映した赤い残光が、頬を掠めて過ぎ去った。雫が、闇に散る。

「っちゃん!」

 瑪瑙の悲鳴が辺りに響く。一瞬息を呑み、奥歯を食いしばった。――――まじで本物か!切り込んだ相手が、間を開けずに手首を返して再び横薙ぎに、物騒極まりない獲物を振るおうとする。木でできたしかも年代物の農具の柄じゃ、その斬撃を止めることは出来ない。一緒にぶった切られるのがオチである。それなら、と考えるよりもまず体が動いた。思考よりも早く足が一歩を刻む。突然相手の懐までに肉薄した私に、ぎょっとしたように相手の動き止まった。その隙をついて、ギリ、と農具を握る手に力をこめて、奥歯を食いしばり渾身の力で農具をまるで野球のバッドのように思いっきり振り切る。
 がつん、と鎧越しのしびれるような衝撃が両手に走り、これも本物か!と思いながら僅かによろけた相手に向けて、間髪入れず腹部を蹴りつけた。鎧の上から蹴りを叩き込む、というよりも、押しのけるような形で男の体を後ろに倒す。ダメージなど考えていない。攻撃というよりも少しでも相手を怯ませる為のものだからだ。
 僅かに体勢を崩したところで更に追い打ちのように蹴りつけられて、蹈鞴を踏んで鎧の男が後ろによろける。そして握り直した農具の柄に、にやりと極悪に笑みを浮かべた。腕を振り上げ、大きく振りかぶる。


バキャッ


 痛々しい音が辺りに響いた。伝わってきた衝撃に腕が痺れ、顔を顰めるが目線は変わらず相手へと。ゆっくりと脳天を殴られた男が後ろの倒れ、どさっと音をたてて地面に仰向けに転がった。農具を振り切った体勢のまま、ハア、ハア、と荒い息が耳につく。肩で息をしながら、思いっきり殴りつけたせいで半ば折れかかった農具を構えたまま、じっと倒れた男を睨みつけた。
 倒れた男は、一向に起きだす気配がない。ピクリとも動かないことを確かめて、私はごくりと口腔に溜まった唾を嚥下し、はああぁ、と大きく息を吐き出した。
 張りつめた緊張の糸が切れたかのように、詰めていた息を思いっきり吐き出して、強く握りしめたせいでいささか固まってしまった手指をぎこちなく動かした。
 殴りつけたところから折れて曲がってしまっている農具に、これはもう使えないなぁ、と思いながら、足元にそれを放り捨てる。

ちゃぁんっ!!!」
「うわっ」

 安堵したところからいきなり背中に衝撃が走り、思わず前につんのめってこけそうになった。それを根性で堪えると、首を逸らして後ろを見る。瑪瑙が何度か瞬きをすれば零れてしまいそうなほど潤んだ目で私を見上げていた。

ちゃん、ちゃん・・・っよかった・・・よかったよぉ・・・っ」
「あー・・瑪瑙。うん。大丈夫だから。泣かないで?ね?」

 ひくっと鳴咽を零しながら、限界を越えたようにボロボロと透明な雫が頬を伝い落ちていく。うわーちょっと今泣かれると激しく困るんですけど!慌てて涙を指先で拭って掌で頬を包み、微笑みかけた。

「瑪瑙、今はまだ危ないから・・・とにかく早くここから離れよう?さっきみたいなことがあったら今度はマジでやばいし」
「う、うん・・・。そうだね。ごめんね、ちゃん」
「いいって。心配させた私も私だしね」

 今だ涙は頬を伝うが、それでも瑪瑙の顔に笑みが浮かんでほっと息をつく。涙をジャージの袖で吸い取り、少し赤くなった目元に指先を這わせて頭を撫でる。
 すんすんと鼻を鳴らし、しっかりと服の袖を握りながらもきゅっと顔を引き締めた瑪瑙に、落ち着いたかな、と吐息を零した。・・・さて。しかし何処に行けばいいんだろうか。とりあえず、この男が復活する前にここから離れるのが先か。そう簡単に目が覚めることはまずないだろうけど・・・危険は事前に回避しなければ。
 瑪瑙の腕を今度は優しくつかんで早足でその場から離れる。うあー怖かった。チラチラと後ろを見つつ、誰も追いかけてきている様子がないことにどくどくと跳ねる心臓を抑えて、胸を撫で下ろした。
 まあ、しばらくは大丈夫かな?少し余裕が出てきたところで改めて周りを観察する。しかし、最初穴に落とされて出てきたところとそう違いはなかった。
 元居たところではまず考えられないような木製の家が、炎に巻かれて燃え落ちていく。・・・まるで、町というよりも村という形容が相応しいそれに、眉間に皺を寄せた。倒れている死体は視界に入れず、黙々と歩きながら考えを巡らせる。しかし、どう考えても判らないものは判らない。情報が無さ過ぎる。声が聞こえたと思ったら穴に落とされ、気がつけば目の前は炎と血の惨劇である。
 こんなにも検討のつかない事態は初めてだ。溜息を吐きながら当てもなく歩いていき、見たくはないが、きょろりと辺りを見回した。それにしても・・・なんでこんな村で虐殺がされてるわけ?
 目を細めて、あえて逸らしていた視線を事切れている村人に向ける。見た目は至って普通の成人男性そのものだ。ただ、多少衣服が不思議なものではあったけれど、それ以外取りたてて不自然なところはない。もっとも、見た目だけで悪人善人を見分けるのは中々無理というものだが。いや・・・そうではなく、問題は何故村で、虐殺が行われているか、だ。今の日本で、そんなことは普通行われはしないだろう。よしんば、あまりにも閉鎖的且、人里離れた・・・言わば陸の孤島のような村があったとしても。虐殺など、まず有り得ない――連続殺人ならばミステリーとして、どこぞの小説やドラマにもたくさんあるけれど、これは最早連続殺人などという枠には収まりきらないしなぁ。つまりは、現実味が薄いのだ。有り得ないことであるという常識、けれど実際夢とも思い難いリアルな体験が、お互いに反発しあい、答えを消していく。
 舐めるような熱波にチリチリと焼かれる肌、視界に入る焼け崩れる家に、地面に無造作に横たわる数多の死体。恐る恐るしゃがみ込み、そっと足元の死体に手を伸ばす。
 瑪瑙が止めようと袖を引っ張ったけれど、それを振りきって、瞳孔の見開かれた男性の遺体を、ごろりと仰向けにする。背中にぱっくりとあった、袈裟懸けといわれる傷痕は隠れ、仰向けになった男性の首筋の頚動脈と、手首の動脈を押えた。まだじんわりと暖かい。妙にまたそれがリアル過ぎて、人形ではないだろうかという疑念を揺るがす。これは何かの撮影で、全部演技で、私達はただ紛れ込んでしまったのではないか――という、希望を。
 もっとも、部活中にいきなりこんなところに出た、という点では限りなくその可能性は薄かったのだけれど。だって、それもまず有り得ないことでしょう?しかし、こんなにも簡単に人が殺される。家が燃える。村が荒らされている。そんな現実が、目の前にあるだなんて・・・そうそう、信じられる物ではない。だから望みをかける。この人は実は生きていて、あるいは人形で、これは何かの撮影なのではないかと。――――けれど。

「・・・脈はなし、か」

 指先に一つもどくりと動く血液の流れを感じない。眉を潜め、今度は泥だらけの胸元に耳を寄せた。しばらくそうして周りの音を排除し、耳元に意識を集中させる。聞き漏らさないように細心の注意を払っても、内側から胸を叩く鼓動が聞こえることはなくて。
 人形であればいい、けれど見れば見るほど人形には見えない。触れればまだどこか暖かく、肌は人のそれそのもので、眼球も偽物らしさなどない。ただただ、あくまでも普通の人間のようなのだ。生きていた人間が、死んでいる。認めたくなくて、まだ疑っていたくて、偽者ではないのかと、髪を触っても、肌を撫でても・・・伝える感触は人のものなのだ。
 混乱しているから、そう錯覚しているのだろうか。何度も自問する。肩を掴む瑪瑙の痛いほどの力を感じながら、唇を噛んだ。―――これは、人を模した物ではなく、人そのもの、なのだろう。重く息を零す。何度も何度も否定し、推測して、可能性を見つけて、消して、繰り返して・・・認めるほか、ない。

「本物、なのね・・・」
「・・・・っ!!」

 言葉にならず、震える瑪瑙の唇。私の手も震えている。ぎゅっと震えを誤魔化すように手を握り締め、細く長く息を吐くと、唇を引き結んだ。ならば考えろ。どうしてこうなったか、何がどうなっているのか、自分達はどうすればいいのかを。 ―――生き残るには、どうすればいい?

「理不尽よね・・・」
ちゃん?・・・あっ」
「ん?どうしたの、瑪瑙」

 地面に膝をついたまま瑪瑙を怪訝に見上げれば、震える指先で前方が示される。眉を顰めつつ指の先を追えば、眉を思わず跳ね上げた。

「・・・・・・・鎧の男?」

 地面に倒れているのは、私達を襲ってきた男と同じような武装の数人で。そして、更にその向こう側に数人の人影が見えた。
 警戒するような、倒れている奴等と同じような鎧は着込んでいない。しかし。

「・・・ファーンタジー」
ちゃん・・・」

 あまりの出で立ちに、思わず指で眉間を押さえてうな垂れた。
 一体全体、何がどうなってるのよ。