夢孕む水底
水底から響くような、その声は。
※
冷たい。
頬を撫でるそれを意識した瞬間、まどろむような意識が冴え渡り、瞼が震えた。
ゆっくりと、瞼が持ちあがっていく。徐々にあきらかになっていく視界は一瞬朧げで、そこに何かがあるとは思えなかった。視界に、光りはない。暗い暗い、闇夜のような光景に、今はまだ夜中だったのだろうかと考えて、そうではないと頭を振った。こぷりと、気泡が足元から立って上に昇って行く。その昇って行く小さな白い泡を見つめ、はっとした。ここは、水の中だ。
『なんで・・・』
不思議と、自分の口から声らしき声は聞こえず、ただ波紋を描くように、水が震えたのが判った。見送った気泡は、どこにあるとも知れない水面へと向かったのだろうか。
見上げても、そこにそれらしきものは見えず、ただ、ただ、夜闇のような漆黒の世界が広がっていた。
冷たく、憂鬱として・・・寒い。光りさえ届かぬ水底なのか。こぷり、とまた口から泡を吐き出しながら、不意にそんなはずはないと目を見張った。
私は、間違い無くベッドの上で寝ていたはずだ。こんな所に来れるはずがない。そもそも本当に水の中であれば、呼吸なんて出来るはずがないだろう。
『・・・・夢、か?』
再び口を開くが、やはり声とはなり得なかった。ただ、その代わりとでもいうように水が、震えていく。
現実味を伴わない曖昧さ。自分の指先に水を纏わりつかせるように、ついっと手を伸ばす。冷たく、身も心も凍えさせるような温度はいやにリアルだが、それ以外に感じられるものは全て夢独特の曖昧さと、神秘的ともいえる不可視さで統一されていた。
暗い、水底。光りのない闇。凍えるような、水の冷たさ。―――そして紛れ込む、虚無。
知らず、自身を抱きかかえるように胸の前で両手を交差させ、肩を抱きしめた。
こぷり、こぷり――
一つ、また一つ。白い気泡が昇って行く。辿りつけるかも判らない、あるいは存在さえしないかもしれない水面へと、踊りながら昇って行く。
『・・・・何処、ここ』
畏いとは思わなかった。恐ろしいとは感じなかった。ただ、・・・・悲しいと思った。
心の奥底に、容赦無く入りこむ大きな感情。それが自分が感じていることなのか、それとも別の誰かの感情なのか。判断がつかないほどに、深く、深く混ざり合っていく。自分の心に容赦無く入り込んでは埋め尽くしていく、それは――虚無の、絶望。光さえ差さない。希望さえ打ち砕かれた。望みも、潰える。それは、魂が死に絶えてしまうほどの、深く悲しい、絶望という名の感情。まるでこの私の周りにたゆたう水そのものが、その感情であるかのように。包み込んでいく。侵していく。私に、訴えてくる。
心が、震えた。
不意に、水が蠢いた。私は口を開いていないのに、波紋を描くように、広がっていく。
俯けていた顔をあげて、見えないけれど辺りに目を走らせた。
『だれ』
私ではない誰か。私ではない声。か細く消える、言葉とさえならない、それは、けれど確かに、波紋を描く、細い呼び声だった。
―――――
また、震えた。声さえ届かない、声とならないこの水底で。
細く儚く、消え入るように。波紋を起こす、それは声。
『だれ。だれを、呼んでるの?』
問いかける。水が震える。波紋が広がる。問いかけに、返る。
―――――
ぴくりと耳が動き、身を翻す。水を掻くことをしなくても、思うだけで体は滑る様に動いた。―――足元に広がる、遥かな闇の底へと、誘われるように。
―――――
広がる。震える。声が響く度、感じる絶望がより鮮烈さを帯びて私に訴える。
悲しい、寂しい、怖い、憎い――――消えたい。苦しくなるほど切実な声。痛みを帯びた、願い。何故。
『だれ』
問いかけて、描く。教えて。ねぇ、誰ですか?
―――――ま
進んでいく。いや、沈んでいく?底へ、底へ。底などないように思えるのに、底へと沈んでいく。声が聞こえるほうへ、進まなければ。
―――さ―ま。
不意に、声の発音が明瞭に聞こえ始めた。この表現は可笑しいかもしれない。ここは水の中であるのだから、声は声とならず波紋となって私に響く。
けれど、それはちゃんと声として、波紋を描きながら私に届いた。より沈んでいく。声の主に近づいたのか、それとも・・・私自身がこの存在と同調し始めたからか。聞こえる。届く。響いて。
――さ―――ま。
あぁ。
ぬ――さ――ま。
そうか。
―し――――さま。
この声は。
――――ちゃん。
光りが、全てを覆い尽くした。
※
「・・・・・・・・・・瑪瑙?」
寝起きで掠れた声で、眼前に広がる人形のように整った顔を見つめる。瞬きを繰り返すと、柔らかな笑みを湛えた瑪瑙の顔がよりはっきりと映った。
「おはよう、ちゃん。珍しいね、ちゃんが私よりも遅いなんて」
ころころと笑いながら、近かった瑪瑙の顔が急速に遠のいていく。視界の端に、蒸し栗色の髪が尾を引いて流れていった。その途端、目が焼かれるかと思うほどの光りが飛びこんできて、思わず強く目を閉じた。闇に慣れていた目に、光りの存在は痛い。しばらくそのまま目を閉じて、今度はゆっくりと持ち上げていく。今だチカチカしているものの、さっきよりもよほどまともに目は天井を映し出した。
「・・・あー・・・・・・・夢、か」
なんだか、声帯の震えすら違和感を感じる。喉元に手を添えて、震えを直に感じながら大きく息を吐き出した。体を撫でる空気は柔らかく、暖かい。背中に感じるスプリングも、上に掛かっている布団の生地も。現実的なものだった。
「ちゃん?どうしたの」
「・・・・いや。なんでもないよ。今、何時?」
不思議そうな声に、軽く返事を返しながらベッドを軋ませて上半身を起き上がらせて、目許を手で覆った。
「えーと、いつもより遅くて、7時ちょっと過ぎ、かな。大丈夫。皆やっと頭が動き出したぐらいの時間だから。トリスちゃん達なんかはまだ寝てるんじゃないかなぁ?」
「そう・・・確かに、いつもより遅いわね」
「よく寝てたから、ちゃん。もう少し寝かせてた方がよかった?」
「ううん。起こしてくれて構わないよ」
気遣うように眉を下げて小首を傾げた瑪瑙に小さく笑いながら、ゆっくりとベッドの上から降りる。足裏に感じた冷たい感覚に、一瞬鼓動が跳ねた。けれどそれも一瞬で、軽く頭を振ると勢いよく立ち上がる。
「ご飯まだでしょ?先に行ってていいよ、着替えたらすぐ行くから」
「そう?ちゃん、大丈夫?なんだかぼんやりしてるみたいだけど」
気遣わしげに見やる瑪瑙に、少しだけ瞬いてから口角を持ち上げた。束ねていない髪が、さらりと視界の端で揺れる。
「寝起きだからね。ぼんやりもするよ。変な夢も見たし」
「どんな?」
「なんとも言えないね、あれは。真っ暗な水の底で、誰かの声が聞こえるの。ただそれだけで、後は代わり映えのしない変な夢よ」
自分の服に手をかけて脱ぎながら話すと、ふぅん、瑪瑙は曖昧に相槌を打って首を傾げた。蒸し栗色が、光りを透かして煌くような光を放ち、思わず目を細める。
「不思議な夢ね」
「全くよ。おかげでなんか変な感じ」
軽く言いながら服の袖に手を通す。そう、変な感じだった。暗い、暗い水の底で、声が響いて。その声に向かって、ただ沈んでいって。そして。
「―――そし、て?」
何か、判ったような気がした。