焦燥
埃っぽく、古い書物独特のインクの匂いが鼻の粘膜を刺激する。薄暗く涼しい気温がほどよく肌を撫で、ずらっと天井まで届く背の高い本棚の一角で、脚立に腰掛ながら分厚い本を一冊手に取った。ずっしりと片手にかかる重さに、紙の重さは油断ならないなぁとどうでもいいことを考える。離れたところでは瑪瑙が何冊かの本を抱えて机の上に置き、読み耽っているところだった。その向かい側ではネスティが黙々と、怖い表情で本に齧りついている。マグナとトリスも一応いるにはいるのだが、どうにもネスティが気に掛かるようでちらちらと視線が本から離れてネスティへと向けられていた。もっとも、本人はばさばさと幾分乱暴にページを捲り、目的の物が記されていないと判断するとすぐさま別の本を手に取り、その視線には気づいていなかったが。いや、気づいていても無視しているのかもしれない。その視線の意味に込められているものが、判っているからこそ。
軽く溜息を零し、その居たたまれない光景から視線を外す。膝に置いた本の黄ばんだページを捲ってリィンバゥムのよく判らない、けれど意味だけは理解できるという、なんともいえない自動翻訳機能で本の活字に視線を走らせた。
「ねぇ、ネス」
「なんだ、トリス。無駄口を叩く暇があるならその記録に目を通すんだ」
「うん・・・・」
思いきって、けれど常よりもずっと控えめにかけられた声には、つっけんどんな返事が返される。苛立ちも多分に含まれ、トリスは口を噤んでまた本へと向き直った。マグナの重苦しい溜息が、書庫の静寂をより重たくする。
「やってらんねぇ・・・」
ぼそりと呟き、膝の上に置いていた本を無造作に本棚に押しこむ。分厚い一冊はきちきちにそこに収まり、とんっと脚立を蹴って飛び降りた。床に溜まっていた僅かな埃が着地の際にふわりと舞いあがる。光りを反射してまるでプリズムのように埃が煌いた。
そのまま重苦しい沈黙に苛まれている面々に視線を向けると、丁度タイミングよく書庫の扉が開いて外からの光りが洩れ入る。
「どう、調子は?」
かけられた声にネスティ以外の視線が、光を背にして笑みを浮かべるミモザさんに集まる。マグナが、へにゃんと顔を情けなく崩して肩を落とした。
「ダメです。いくら記録を探してもあの黒い兵士たちに関連するような記述は見当たらなくて」
意気消沈として言ったマグナに、やっと顔をあげたネスティが眉間に深く皺を刻んだ。
「簡単にあきらめるなマグナ。連中の戦いぶりは僕達のような素人と明らかに違っていた。徹底された指揮系統とそれを遵守した動きは組織だった訓練を前提に成立するものだ」
ネスティの台詞に、脳裏に襲撃してきた黒騎士達の姿が蘇る。確かに、あの動きは俄か仕込みのゴロツキ程度が出来るような動きではなかった。ちゃんと上から指示を出されている、組織というものの中に組みこまれたものだ。統率がとれていて、攻め込むにも難しそうだったのが、上から見ていたからこそよく判る。あの時はギブソンさんの強烈な召喚術があったおかげで、相手の中に切れこみをいれられたわけだが・・・そうでなければこちらは満身創痍、一杯一杯な状態だったから最悪、全滅もあったかもしれない。
ふと、記憶に黒い装甲が横切った。思わず、苦虫を噛み潰したような渋い気持ちになる。心なしか顔も歪んでしまったようだ。
「・・・・統率が取れている、とすればなんらかの軍隊、もしくはそれに準じるもの、と考えられるけど、この世界にもそういったものは存在するのかしら?」
ぐしゃりと前髪を鷲掴みにして気を逸らし、歩きながら問いかける。向けられた視線を見返すとミモザさんが緩慢に頷いた。
「えぇ。ゼラムにはトライドラっていう騎士の国があるし、この世界にも戦争っていうものはあるんだから、そういったものは嫌でも存在するのよ」
「そうなんですか・・・じゃあ、あの黒騎士さん達はどこかの国の軍隊なのかしら」
「そうだとしたら、厄介な相手よね」
顔を歪めたミモザさんに深く頷く。軍隊であるだけでも厄介なのに、そこに国が絡むとなればこれはもう私事で済ませられない。下手すれば国家を巻きこんだ、一個人を無視するものになりかねないからだ。・・・なんかどんどんスケール大きくなってきてない?
「とにかく、情報が必要なんだ。これから先のことを考えようにも奴等のことを知らないままでは、身動きのとりようがない」
「それは確かにそうだけどね・・・だからって、ここにある文献の山の中から敵の正体を探り出すのは無茶よ。そもそも、あいつらが正規の軍隊だって保証すらないんだし」
苦い顔で唸るネスティに、トリスが困惑を強めて言い返す。マグナもそうだよ、と同意するように何度も深く頷いた。が、その途端ネスティが眉を吊り上げて激昂した。
「じゃあ、君は他になにかいい方法があるというのか!?」
「っそれは・・・」
「他に方法がないんだ!これ以外にどうやってあいつらの事を調べればいい・・・僕はっ」
「はいはいはーい、二人ともそこまでっ!一生懸命なのはわかるけど、それが空回りをしちゃ意味ないわよ」
ぐいっとトリスに詰め寄ったネスティを押しやり、ミモザさんは腰に手をあてて首を傾げる。
「ですが・・・」
「いいから、ひと息いれなさい。私たちも、ちょうど休憩にするところだから。ね?」
びしっとネスティの目の前に人差し指をたて、にっこりと満面の笑みを浮かべる。そうすると、ネスティは何も言えないのか口を噤むとふいっと顔を逸らして黙り込んだ。
瑪瑙たちが、心配そうにネスティに視線を向ける。・・・ふむ。焦ってるな、ネスティ。拳を握り締めているネスティを見て、軽く肩を竦めるとこちらを見ているミモザさんと視線がぶつかった。そのまま、どちらからともなく苦笑する。面倒な奴だ。
※
ことり、と白磁に小さな花をあしらったティーカップが置かれて、赤褐色の液体が揺れた。芳しい芳香が辺りに広がり、瓶の中に入っている角砂糖と、小さなポットに入っているミルクをその中にいれる。角砂糖はみるみる溶けて、銀のスプーンでかき混ぜるともうほとんど跡形もなくなった。ミルクは最初紅茶の水面を白い斑模様に変えて、同じように銀のスプーンでかき混ぜるとそれが赤褐色と混ざり、やや茶色がかった白い飲み物に変わった。
暖かいそれを口に含むと、舌の上で口当たりがまろやかになった、甘い味が広がっていく。喉を滑り落ちるそれは、否応なしに私にほっとする吐息を零させた。
「やっぱ頭使った後は甘いものよね」
「そうだねぇ・・・美味しい」
ほんわりと微笑んだ瑪瑙が、もう一口私と同じように砂糖とミルク仕立てにした紅茶を含んで飲み下す。そのほのぼのっぷりに少し笑ったギブソンさんが、ソファに座りながら話しを切り出した。
「収穫はあったかい?」
「いえ、全然です」
「そうか・・・まあ、私達の調査も似たようなものだよ」
おどけたように肩を竦めたギブソンさんに、そういやこの人達何調べてたんだろう、と軽く首をひねった。疑問は、何か思い返すように視線をさ迷わせたマグナの一言で解決したが。
「たしか・・・召喚師の連続失踪事件ですよね?」
「うわなにそれ」
「ここ最近、派閥に属する召喚師が相次いで行方不明になっていてね。報告によるとまた一人行方不明者が出たとのことだ」
「尋常じゃないですね、それは・・・」
「本当に何もわからないんですか?その、原因らしいこととか、何も?」
紅茶のカップを両手で包み込み、控えめに問いかける瑪瑙に、ミモザさんが頷く。
「原因が掴めればそれこそ解決できるんでしょうけどね」
「まあ、まだ事件性があるとはっきり確定したわけじゃない。地道に足取りを追って調べていくつもりだよ。焦ってもしかたがないことだからね」
「そうそう、この手の調査を長く続けるコツは、根をつめないことなのよ」
軽い調子でひらひらと手を振りながらお茶を啜るミモザさんからは、確かに切羽詰った様子は伺えない。まあ、気張っていては見えるものも見えない、ということなんだろう。にしても行方不明か・・・穏やかではないな。事件性が確定してないとはいうが、あまり表沙汰にするわけにもいかないから、という方便の可能性が強い。実際は、もっと緊迫しているのではないだろうか。派閥の召喚師の足取りが掴めてないのだ。恐ろしくやばい事態なんじゃないか?
とはいっても、これは派閥のこと。派閥関係者でない上に召喚師ですらない、はぐれには物言う権利などあろうはずもない。ただでさえこっちも立てこんでるんだから、尚の事突っ込む必要もないだろう。ずず、と紅茶を啜ると、一切カップに手をつけていないネスティが、紅茶の表面を見ながら呟いた。
「でも、それも時と場合によるんじゃないでしょうか?」
「ネスティ君?」
「悪戯に時間をかけることで、取り返しのつかない事態を招いたりしたら・・・」
ぎり、と膝に置かれたネスティの拳が握り締められる。握り締めすぎて白くなっていく手に、軽く片眉をあげて目を細めた。
「悲観的な考えはあまり好ましくないよ、ネスティ」
「僕は現実を見据えた話をしているだけです。申し訳ありませんが、時間が惜しいので失礼させてもらいます。それでは」
「ちょっと、ネス。どこ行くのよ!?」
「・・・焦ってるねぇ」
ぱっと立ちあがり、マントを翻して出ていったネスティに思わず立ちあがったトリスが、振り返りもせずに出て行った背中に俯いてぼすんっと音をたててソファに腰を落とす。反動でマグナの体が揺れたけれど、そこには誰も注意を向けなかった。私は、相変わらず甘味の強い紅茶をのんびりと啜る。
「だいぶカリカリしてるみたいね、あの子」
「無理もあるまい。今の状況は彼にとって不本意すぎるものなんだからな」
「昨日ので少し発散できたかと思ってたんですが・・・中々融通きかないですね、ネスティは」
「そういう性格だからね、彼は」
肩を竦めたギブソンさんは、なんともいえない顔をしていた。なんというか、苛立たしいような、歯がゆいような、そんなちょっとらしくない感情の揺れだ。
「不本意・・・ですか?」
「・・・ねえ、マグナ。貴方たちの目的ってなんだったかしら?」
首を傾げたマグナに、ミモザさんがソファに背中を預けた状態で問い返す。その言葉を反芻し、トリスは軽く目を見開いた。
「・・・そういえば」
「彼は生真面目な性格だからな、任務の遅滞に必要以上の責任を感じているんだろう」
「昨日の爆発っぷりもそれが関係してるからね。今まで押さえられてたのは、まあまだなんとか我慢できてたんだろうけど・・・ネスティにとったら不本意極まりない、金の派閥との思いがけない騒動でしょ?」
「今までも、ネスティ君はどこか焦ってたけど・・・ミニスちゃんとのことで箍が外れてしまったのね」
少し悲しげに瑪瑙が微笑み、カップの縁に口付ける。マグナとトリスは大本の原因が自分達であるためか、沈黙して視線を膝に落とした。
「そういうトコって昔の貴方みたいよね、ギブソン?」
「否定はしないよ。だからこそ、彼の心境がわかるんだしな」
「へぇ。ギブソンさんもそんな時があったんですねー」
あぁ、だからか。さっきの歯がゆそうな顔は。昔の自分と、今のネスティを重ねてしまったのだろう。確かに、目の前に昔の自分と重なる他人がいれば、歯がゆくもなるというものだ。昔がそれこそ、納得できていない、後悔するような自分であればあるほどに。
「そりゃもう真面目過ぎてね。融通の利かない頑固者だったのよ」
「今はそんな感じしませんよね。何かきっかけがあったんですか?」
のほほん、と瑪瑙が首を傾げて問いかけると、苦笑を浮かべてギブソンさんが頷く。
「まあね。一年ほど前に色々あったんだ」
「おかげで今はこの通り。・・・だから大丈夫よ、マグナ、トリス。今あの子は少し余裕を忘れてるだけ。しばらくすれば落ちつくわよ」
「・・・・・はい」
鎮痛な面持ちで頷く二人に、ミモザさんは吐息を零すとしょうがなさそうに笑みを浮かべた。
まあ、本人の気の持ちようだな、これは。周りがどうやってそれに気づかせるか、というのも大切ではあるが。最後の一口を飲み干し、私はソーサーにカップを置いた。
※
「ネスが書庫に篭って出てきてくれない!」
「それを私に訴えてどうしようというのかね、君等は」
ばんっと机を叩いて半泣きで叫んだトリスに、ハサハと綾取りをしていた私は半眼でねめつけた。突然の大きな音に、ハサハが吃驚して耳をピンッと大きく立ててしまった。
とりあえず落ちつかせるために、指に絡めていた紐をとって机に置くと、泣きそうな二人に座るように促す。同時に、私とハサハの綾取りを見ていた瑪瑙が立ちあがりぱたぱたとキッチンの方へと歩いていった。お茶でも出すんだろう、きっと。
「だって!あれからもう5時間以上は経ってるのよ?!なのにネスったら一度も休憩しないで、物も食べずに本に齧りついてて・・っ」
「俺達が何を言ってもきいてくれないし、最後には一人にしてくれって、追い出されて・・・どうしよう。このままじゃネスの方が倒れちゃうよ・・・」
感情が高ぶったのか、トリスの目の端に涙が浮かんだ。マグナもマグナで日頃の無駄なまでの元気のよさは何処だ?と問いかけたくなるほどの消沈振りに、眉を跳ねる。
ハサハが、その二人の様子にへにゃんと耳を垂れてそっとマグナの手に手を置いた。マグナは、泣き笑いの顔でハサハの頭に手を置いて髪を梳かす。そうしている間に、お茶を淹れ終えた瑪瑙がお盆に、軽いお茶菓子を共に乗せて持ってくる。私の前から順順にお茶が置かれると、そのお茶を手に取り横に瑪瑙が座った揺れを感じながら一口啜った。
「・・・二人はネスティに休んで欲しいのね?」
「うん・・・でも、あたし達が言ったんじゃネスは絶対言うこときいてくれないし・・・」
現に追い出された後らしいしね。俯いているトリスを尻目にマグナに目を向ける。
「それで私達に?」
「達ならネスもきいてくれるかなって。ほら、だったら口先でネスを言い負かすなんて簡単だろう?」
「あんた私をどういう風に見てるんだ」
思わず半眼で睨みつけると、マグナが頬を引き攣らせて顔をそらした。全く、それが人に物を頼む態度か。まあ、出来ないことはないだろうけど・・・今のネスティは意固地になってるし・・・面倒そうだなぁ。がしがしと頭を掻いて、眉を寄せる。
「今のネスティ君はどういう様子なの?」
「書庫に篭って本ばっかり読んでるよ。その後なんとかネスを宥めようと思ったんだけど・・・結局最後は一人にして欲しいって言われて。顔色も悪いし、元気もないし、休んで欲しいんだけど、この分だとネスは絶対休みそうにないから、なんとかしたいんだ」
「ふぅん・・・これはまた、厄介な」
ネスティよ、今の自分の様子が更なる重荷になってるぞ。心の中でそう呟き、ソファに深く腰かけると背中を背もたれに預ける。ふかっとした弾力で受け止められ、天井を仰いだ。
「・・・ネスはなんでも自分で抱え込むから。あたし達にも頼ってくれないし・・・そんなに、あたし達はネスにとって頼りなく見えるのかな?」
「トリスちゃん・・・」
ぎゅっと膝の上で拳を握り締め唇を噛み締めるトリスに、瑪瑙が何を言うべきなのか模索するようにきゅっと眉を寄せる。ずんっと重たくなった空気に溜息を零し、ぎしりと音をたてて立ちあがった。スプリングの反動で瑪瑙の体が僅かに揺れ動く。
「頼りないわけじゃないわよ。ただ、ネスティにとって頼ってはいけないっていうものに分類されてるだけでしょうね」
「え?」
「難しいのよ、兄弟子ってのは。瑪瑙、マグナ達の面倒みてて。私はネスティの方に行ってくる」
「わかった。ネスティ君をお願いね、ちゃん」
「善処はしてみるわー」
歯切れ良い返事に、ひらひらと手を振りながら外套を翻して書庫へと向かう。背中にチクチクとマグナ達の視線を受け止めながら、ともすれば実力行使も伴わないとなぁ、と思って書庫の扉に手をかけた。がちゃり、とノブを回して扉をあける。
埃っぽい匂いが鼻腔を刺激し、軽く視線を巡らせると薄暗い中で机に肘をついて頭を抱えているネスティが見えた。・・・・・・・うわぁ、なんかあそこだけどえらい負の領域に落ちこんでないか?
ちょっと所でなく近づき難いオーラを纏っているネスティに顔を歪め、けれど言ったからには善処するために書庫内へと体を滑りこませる。ぎしり、と床板が僅かに軋んだ悲鳴をあげ、後ろ手に扉を閉めると俯いて頭を抱えていたネスティが、じろりと目だけを動かした。怖いよ、ネスティ。このしばらくですっかりやつれた顔に眉を顰める。
顔色も青白い通り越して土気色に近くなっているし、ぶっちゃけて生気が薄い。苛々とした焦燥感に満ちた目が私を捕らえると、思いっきりネスティの顔が歪んだ。
「今度は君か・・・」
「あはは。まあいいじゃない。・・・調子は?」
地を這うような暗い声音に、苦笑いを零して問いかける。ネスティは俯いていた顔をあげて、がっくりと椅子の背もたれに体重をかけると、前髪をかきあげて溜息交じりに答えた。
「良いように見えるのか?」
「いや全然。話しに聞いてた以上の憔悴っぷりね」
即答しながら歩み寄り、ぐったりとしているネスティの額の髪をどかして手を乗せる。うーん・・・これは遅かれ早かれそのうち倒れるだろうな。もういっそ放っておいて倒れるの待ったほうが早いかもしれない。
「君もマグナ達のように止めにきたのか?」
「一応ね。泣きつかれちゃったわけだし」
「に泣きつくとはな・・・言っておくが、僕は止める気はないぞ。判らなければ判らないだけこちらが不利になるんだからな」
キッと疲れきっている目で睨みつけてきたネスティに軽く肩を竦め、机に腰掛けながら山積みになっている本の一冊を手に取る。深緑の表紙の、厚さはゆうに3センチ近くはありそうな本を片手に、薄っすらと口端を吊り上げて笑みを浮かべた。
「そう。なら、こっちはこっちで実力行使も厭わないけど?」
「実力行使?・・・・何をする気だ」
「別に大したことじゃないわよ。ただちょっと本の角で頭をこう、ね」
にこやかに笑いながらデモンストレーションのように、手に持った本を上下に振って殴る様子を表してみる。すると、一瞬ぽかんと口をあけて呆けた後、ネスティはもともと悪い顔色から更に血の気を引かして仰け反った。
「き、ききききき君は僕を殺す気か?!」
「あぁ、そうか。流石に本の角で強打したら、休むどころか永眠することになるわね」
呟きながら、にっこりと笑って本を山に戻す。益々青褪めたネスティにくすくすと喉の奥で笑いながら、顎に指先をあてて空中に視線を泳がせた。
「あとは・・・睡眠薬とか?ミモザさんたちに召喚術でも強引にかけさせるとか?でも召喚術だと下手したら永眠よねぇ。まあその辺の加減は判ってるだろうけどさ」
「召喚術の種類が攻撃系なのはなんでなんだ!?もっと穏便な方法があるだろう?特殊効果があるものとか他に!!実は殺す気満々だろう!」
「やだなぁネスティ。さすがにそんな足のつきやすそうな犯罪は起こさないから。やるからには徹底的にするし。ね?」
「ね?じゃない。ね?じゃ!!」
けたけたと笑い声をあげて否定すると、ネスティは頬を引き攣らせて机に突っ伏した。それを机に軽く腰掛けたまま見下ろすと、うつ伏せになってくぐもった声が聞こえてきた。
「君は、冗談なのか本気なのか判り難い・・・というか最後の台詞は本気だろう」
「一応全部本気のつもりだけど」
「尚悪い!!なんだ君は?!僕を止めにきたんじゃないのか?それとも僕の息の根を止めにきたのかっ」
「うーん、僅差で前者」
「僅差!?」
がばっと顔をあげて叫んだネスティが、口をぱくぱくと開閉させて、しまいには本気でぐったりと突っ伏した。そのままぶつぶつと何やら呟き始めたのでそろそろ末期かな?と目を細める。幻覚が見え始めたら本気で危ないシグナルなので、皆さんは根を詰め過ぎないようにしましょう。まあからかうのはここまでにして。
「真面目な話、それぐらいされても何も言えないぐらいあんたがやばいってことよ」
「・・・・だからといって殺すのは違うだろう・・・・」
「冗談だから。マジにとらない」
べしべしとネスティの頭を叩きながら言うと、深く溜息を吐いて、ネスティは頬を机に押しつけたまま私の方を向いた。うぅむ・・・これは本気でネスティが危ない。まさかこんな態勢になってしまうとは。
「・・・・・・・判ってるんだ。休息をとらなければならないことぐらい。ただ、」
「何も判らないまま、日々を過ごすことが不安で仕方がない。任務の達成の目処も立たず、余計な厄介事ばかりが振りかかって先も見えず、二人が心配だ。だけど二人には頼れない、自分がするしかないんだ・・・みたいな事でしょ、要するに」
「・・・・・・・・敵わないな、には」
「判りやすいのよ。どうせその辺りのことは・・二人が心配って所は言ってないとして、最初ぐらいは伝えてあるんでしょう?」
苦笑したネスティに肩を竦めて天井を見上げると、しばらく沈黙したあと肯定の返事が返ってきた。疲れのせいで妙に素直になったな。いつもこうなら可愛いのに。
そんなことを考えながら、横目で見ればネスティはなんともいえない顔で虚ろに目を向けていた。
「マグナ達には任務がある・・・本当ならこんな所で足止めを食っている場合じゃないんだ」
「昨日も同じことで暴走してたわよね」
「らしくはないと思っている。トリス達にも言われた。でも、じゃあどうすればいい?こうするしか、方法がないじゃないか・・・」
「それと無理をすることは繋がらないわ。ネスティ、確かに私はどうするべきか考えるのも一つの手だとは言ったけれど、それで体を壊したら元も子もないってことぐらい、理解できるでしょ?」
さっきのハイテンションぶりが嘘のように静まった書庫内で、問いかける私の声が吸い込まれていく。ネスティは答えない。ただ沈黙が私とネスティの間に落ちた。
けれど、答えないことはここでは限りない肯定の意味を示している。ふぅ、と吐息を零すと、口元を微かに緩めて私は本のぎっしり詰まった棚を見上げた。
「兄弟子だものね。トリス達には頼れないってところも判るわ。判るけど、頼られない分、二人が本気で心配してるってことも判ってあげないと」
「・・・」
「心配させてどうするの?ネスティが守りたいのは、アメルじゃなくてあの二人でしょ。なら、今のあの子たちのこと、考えてあげるべきじゃない?」
「・・・判ってる」
呟いたネスティに両手を肩の竦めて首をふる。それから、そっとネスティの目許を手で覆った。
「休息を取ることが二人の心配を取り除く方法だってのは、判るわね?」
「あぁ」
「それが出来ないのは、あの黒騎士の正体がわからず、調べていないと不安でしょうがないから、ということなんでしょう?」
「あぁ」
「でも、ここにあるとは限らない。時間は確かに惜しいけど、それで倒れたらそれこそ本末転倒というものよ」
「あぁ・・・・そうだな」
目許に手を置かれた状態で、ネスティが深く息をした。理解はできても、納得はできない。
焦燥感に急かされて、どうしようもなく焦る。手に取るようにネスティの感情がわかった。
「ネスティ、私言ったわよね?捌け口作らないと、潰れるだけだって。後は私がやっといてあげるから、あんたは寝なさい」
「しかし、」
「まだ言うか。少なくともトリスやマグナよりも集中力は持続できるし、こういう事には向いてると思うわよ。それにここの本漁ってたらリィンバゥムのことよく判りそうだし。私としても利益があるのよ。ネスティは休みたい、私はリィンバゥムのことを知りたい。立派に相互利益は成り立ってるでしょ」
「君まで倒れたら、」
「んなヘマするか。あんたじゃあるまいし。自分の限度くらい弁えてるわ」
全く、他人の心配なんぞしている余裕があるのか、この馬鹿は。私の辛辣ともいえる台詞に、むっとしたのか眉を寄せたネスティに呆れて目を半眼にし、溜息を零す。
本当に人の言うことをきかない・・・責任感があるのはいいが、それで身を滅ぼすのは愚の骨頂であるといえよう。自分の体調管理もできん人間に心配されたくはないなぁ。
そのままネスティの目を手で覆ったまましばらく思考を巡らし、にやりと口角を吊り上げた。そっと、腰を曲げてネスティの耳元に唇を寄せる。耳に息がかかったのか、びくりと動いたネスティに吐息を含めて囁いた。
「言うこときかないと、本気で本の角で強制睡眠させるわよ?」
「~~~~~~~~~っ!!!!!!」
がばぁっと起きあがったネスティが、顔を赤やら青やらに変えて、耳を押さえて唇を戦慄かせる。その様子にくつくつと喉で笑いながら、ひらひらと手を振った。
「ほれ、さっさと出ていきなさい。でないと実行するわよー」
「き、君、はっ!な、なにを、考え・・・っ!」
「今はネスティ君を休ませることしか考えてません。ていうかそれが頼まれたことだし。いいから行け。そして泥のように眠りなさい。必要なのはそれだけよ」
しっしっと犬を追い払うようにしながら目はもう本へと向けている。一冊の本を手に取りながらぱらぱらと捲っていくと、慌てていたネスティの雰囲気が何故だか静まったのでちろりと横目を向けた。見れば、ネスティは顔を顰めてなんともいえない顔をしている。犬みたいに扱われたのが気に食わなかったか?
「君は、頼まれたから、僕に休めというのか?」
「・・・はあ?何いってんの、あんた」
どことなく不機嫌そうな様子で言ったネスティに、思わず首を向けなおして、盛大に顔を顰めた。ネスティは、仏頂面で私を睨みつけている。これはこれでどこぞのラブコメみたいなノリだな。だからこういうのは私より瑪瑙の方が似合うんだってば。
「・・・頼まれたからって、どうでもいい相手にわざわざ声をかけにはいかないわね、私の場合。面倒だし。少なくとも、好意があるからやってるのよ」
でなけりゃ動くわけない。あと、こんなことで戦力削るの嫌だし。向けていた視線を本に向けなおしてさらりと言いきると、ネスティはしばらく沈黙したあと、体を引きずって入り口の方へと歩いていった。ぎしぎしと床板を軋ませて入り口の前まで歩いたネスティに、意識を向けながら本のページをめくる。やがて足音が止まり、がちゃりとノブを回す音が書庫内に響いた。ギィィ、と蝶番が軋み、細く外の光りが筋を作って差しこんでくる。気配に気を配りながらまたページを捲ると、不意にネスティがぼそりと呟いた。
「・・・・・・・ありがとう」
そのまま、人の返事も聞かずネスティは扉を閉めると、足音をたてて遠ざかっていった。
しばらくしてから、再び書庫の扉が開く。本から顔をあげると、そこにはマグナとトリス、それに瑪瑙が立っていた。
「ネスティは寝た?」
「うん。ふらふらな足で二階に行ったよ」
頷いたマグナが、扉を閉める。そのままぞろぞろと寄ってくるので、本を閉じて首を傾げた。
なんか、マグナもトリスも、不機嫌そうというか・・・拗ねているというか。目的であるネスティに休息を取らせる、という任務は遂行したはずだけど、どこか不備でもあったのか?
疑問に思いつつ視線をトリス達の後ろにいる瑪瑙に向けると、瑪瑙は困ったように笑って首を振った。わけがわからなくて眉を顰めると、ぽつりとした呟きを耳が拾う。
「ずるい・・・」
「は?」
「なんで、の言うことは聞いてくれるんだろう・・・」
トリスが、辛そうな顔で呟く。一瞬何を指しているのかわからず、瞬きを繰り返して戸惑ったように視線を投げた。受け止めたのはマグナで、マグナもまた自嘲するような笑みを浮かべていた。
「ネスは、俺達が何を言っても休んでくれなかったのに、が言ったら休むんだなぁ、って思ったら、なんだか悔しくて」
「あたし達の方が付き合い長いのに、ネスはあたし達よりもの言うことを聞くんだもん・・・あたし達、ネスのなんなんだろう」
ぽとん、と落とされた呟くは重く、切なさを帯びていた。頼りにされないから、悲しい。頼りにされたいのに、本人は頼ってくれなくて寂しい。自分達よりも、他人の方が、近しいはずの人を救えて、悔しい。そんな感情を混ぜ込んで、泣きそうな二人に思わず天を仰いだ。
私はこんな所までフォローせにゃならんのかい。ていうか自分達で私をネスの説得にあてたくせになんで落ちこんでるんだ。私にどうしろっていうんだ、ちくしょうめ。
「そんなこと、一番あんた等が判らなくちゃ駄目なことでしょー?もう・・・瑪瑙、パス」
「はいはい。あのね、マグナ君、トリスちゃん。二人だからこそ、ネスティ君は言うことをきけなかったんだと思うよ?」
「え?」
「どういう、こと?」
説明するのもだるくなって、私は椅子を引寄せて座りこむとひらひらと手を振った。瑪瑙は、仕方ないな、とでもいうように微笑んでそれからマグナ達に向かって口を開く。昨日から皆落ちこみすぎ。なんでこんなにフォローに奔走しなくちゃいけないんだ、私は。
溜息を吐きながら、本の山から一冊抜きだすその間に、瑪瑙はやんわりと微笑みながら言葉を紡いだ。
「あのね、ネスティ君にとって二人は守る対象なんだと思う。大切で、守りたいものだから、逆に頼れなかったんだと思うの」
「・・ネスの、守りたい、もの?」
「俺達が?」
「うん。でなかったら、あんなに思い詰めるはずがないもの。それに、ネスティ君って二人の兄弟子さんなんでしょう?兄弟子が、弟や妹弟子に頼るわけにはいかないっていう、一種のプライドみたいなものもあったんじゃないかな」
呆然としたように呟いた二人に頷き、瑪瑙はゆっくりと語り聞かせるように話す。その語りを聞きながら、ページを捲ると口を開いた。
「これは、一番あんた達が自覚しとかないと駄目なことだと思うわよ」
「ちゃんったら・・・でも、私もそう思う。ネスティ君が二人をとても大切に思ってるってこと、ちゃんと判ってないと。それを踏まえて話せば、きっと二人でもネスティ君は休んでくれたと思うよ?」
一瞬苦笑を零した瑪瑙は、けれど次には慈愛の篭った瞳を細めて首をかしげた。背中でふわふわと触れる蒸し栗色の髪が、白い服に映えている。言い聞かせるように、柔らかな声音で話す瑪瑙は、まるで女神のように愛情深かった。
「マグナ君もトリスちゃんも、大切な人には迷惑かけたくないよね?きっと、ネスティ君もそんな心境だったんだと思う。今回は、ちょっと行きすぎてこんなことになっちゃったけど」
「傍迷惑な話しよねぇ」
「ちゃん。そういうこと言わないのっ」
ぽつりとぼやくと、少しだけ眉を上げて瑪瑙が言った。それに、軽く肩を竦める。事実だと思うけどなぁ。ちら、と二人を見ると、何か考えるように視線を足元に落としていた。
瑪瑙も気づいたのか、私から外して二人に視線を向けると、マグナの両頬を掌で包んで上向かせた。マグナが、驚いたように目を見開いている。
「だから、ね。ネスティ君の気持ち、マグナ君とトリスちゃんが一番知ってなくちゃいけない。二人が一番ネスティ君と近いところにいるから、二人が支えてあげなくちゃ。これは、ネスティ君の一番大切な人である、二人にしか出来ないことだよ?」
「俺達が、支える・・・」
「そう。マグナ君と、トリスちゃんの、二人で。大切な人なんでしょう?」
「うん・・・だって、ネスはあたし達の兄弟子で、勉強とかもみてくれて、あたし達の面倒とかもみてくれてて・・・・ずっと、ずっと一緒にいてくれて・・・」
「俺、ネスのこと、すごく大切だよ」
「あたしも。あたしも、ネスのこと、すごくすごく、大切・・・・」
呟くように言った二人に、瑪瑙は満足気に微笑み、マグナの頬を包んでいた手を放した。
そして、今度はトリスを抱きしめる。トリスもまた、驚いたように体を強張らせてから、瑪瑙の肩に額を押しつけた。
「大切な人の、支えになりたいよね・・・なって、あげて。ネスティ君の、支えに」
「うん・・・」
やたらと実感の篭った物言いで、囁いた瑪瑙にトリスは肩口に顔を埋めたまま頷いた。
とりあえず、これで事態は収拾がついたかな。一段落したと判ったら、瑪瑙はトリスから体をはなして、二人の正面に立つとにっこりと笑った。二人も、つられて笑顔を浮かべる。
「あたし、ネスに言ってくる。あたしもネスが大切だから、一人で抱え込まないでって!」
「俺も、言うよ。ネスの支えになりたいんだって。ネスが俺達の支えになってくれたように、俺達もネスの支えになりたいって・・・ありがとう、メノウ。も、八つ辺りなんかしてごめん」
「別にいいけどね。・・・ま、頑張りなさい?」
「うんっ。じゃあね、、メノウっ」
「いってくるっ」
「頑張って、二人共」
そういって、ぱっと顔を明るくさせた二人はどたばたと足音をたてて書庫から出ていった。
騒がしいその後ろ姿を見送り、はんなりと吐息を零す。乱暴に明けられたドアは、頼りなく揺れ動いて入り口を塞ぐことなく開きっぱなしのままだ。瑪瑙がそのドアに近づき扉を閉めると、外の明かりが消えて薄暗い書庫の明かりしかなくなる。
「なんというか、・・・あいつら折角寝ついたネスティを叩き起こす気だろうか」
「うーん・・・たぶん。でも、きっとネスティ君怒れないよね」
「寝起きにあんな告白紛いなこと言われりゃ、怒ろうにも怒れないでしょ。でも・・・確実に照れ隠しの怒声は響くな」
「君達は馬鹿かー!って?ふふ。いいんじゃないかな。それって、きっととっても幸せなことだと思うよ」
くすくすと笑みを零し、瑪瑙はスカートの裾を広げて私に駆け寄ると、背中から首に腕を回して抱き着いてきた。顔の横に瑪瑙の長い髪が滑り落ちきて、くすぐったさに少しだけ身をよじる。
「ネスティ君の気持ちも、マグナ君とトリスちゃんの気持ちも、どっちもとても素敵な気持ちだもの」
「まあ、思いやる気持ちは大切だけど」
「うん・・・それに、すごくよく判るの。私も、ちゃんには迷惑かけたくないし、支えになりたいわ。だから、二人にはネスティ君の支えになって欲しいの。ネスティ君は、とても不安定な気がするから」
ぽつりと、後ろで言った瑪瑙に、瞳を眇めて視線を前に向ける。さすが、と言っておこうか。瑪瑙も、あの不安定さには気づいていたのか。まあ・・・判りやすいっちゃ判りやすいんだが。
「呑みこまれなければいい・・・昔の私みたいに。私は、ちゃんがいたから、大丈夫だったけど」
「なら平気でしょ。マグナとトリスがいるし、私達も気にかけてる。そうやすやすと潰れさせないわよ」
首に回されている腕を軽く叩きながら、思い返す。昔、瑪瑙の指す昔は、私がいなかった頃・・高校に入る前、小学生ぐらいの時の話しだ。その時の瑪瑙がどうだったのか、実は私はよく知らない。その頃の私達は、別々の学校で、住む場所も大分違ったから。
「それはそうと瑪瑙、調べるの手伝ってくれない?一人は流石に辛いのよね」
「あ、はぁい。じゃあ私はこっちの本の山を調べてみるね」
「ん。よろしく」
ぱっと私を解放して、本の山に向かう瑪瑙を目で追いかけてから、再び本に視線を落とした。さて、どれだけのことがわかるのか。余談だが、ギブソン・ミモザ邸にネスティの怒声が響き渡ったのは、それからすぐのことだった。