血桜



「もうすぐ来るわ。――あなたの主が」





 顔をあげる。キィ――・・・ン、と鼓膜を震わせる甲高い耳鳴りに眉を顰めた。
 風が吹き、外套が膨らんでばさりと靡く。見上げた空に、声の主はいない。それでも、確かに今、呼ばれたのがわかった。
 気にしなければいい。そうすればきっとただの空耳で済ませられる。それでも、それをするには、あまりにもその声は強すぎた。

「・・・あの声は」

 囁き、口を閉ざす。逃げてきた屋敷を振り返り、今頃探してるんだろうなァ瑪瑙達、と思いながら、しかし戻れば確実に泣かれるし説教されるとわかっている。それが煩わしくて、逃げてきたのだから。ていうか説教されるのは別にいいとして、瑪瑙に泣かれるのが辛い。

「そりゃまあ、ルヴァイド相手に結構危険なことしたけどさ」

 結果論を言えば、無事だったんだからいいじゃないかと言いたいのだが、相手にしてみればそうもいかないらしい。
 バルレルと瑪瑙に問い詰められて白状したけれど、その時の二人の形相というかはそりゃもうすごかった。しかもそれが周りにも知られてしっちゃかめっちゃかになるし。
 ネスティの君は馬鹿かは耳にきたなぁあっはっはっ。空笑いを零して、息を吐く。前髪を鬱陶しげに払いのけ、行くか、と背中を向けた。
 声が聞こえた。呼び声が聞こえた。それは、無視なんてできないほどに、私を望む声だった。
 だから、いい加減応えてやろうと思った。度々聞こえていたその声は、頭痛を伴って、とても鬱陶しくて。そして、それは間違いなく私の力になると、何故か知っていた。わかっていた、でもなくて、知っていた、と思う自分が、時折気味が悪く感じるけれど。けれどそれは、無駄になるものじゃない。だったら、声が求めるままに、探してやろうと思う。

「どこにいる?」

 虚空に問いかけると、頭痛が生じた。痛みに眉を顰めるが、呼びかけたのは自分だ。我慢して、眉間に皺を寄せたまま、段々と増してくる痛みが誘うままに歩き始める。
 喧騒が包む町並みをするすると人込みを縫って進んでいく。逆流しているようだ。度々ぶつかる肩に軽くすみません、と言いながら歩を進めていくと、不意に人並みが途切れた。痛みは、益々ひどくなっていく。頭痛、というよりも自己主張の激しいハウリングのようだ。まだ、声は確実な言葉として捉え切れてはいないけれど、でも、私を呼んでると、ただそれだけはわかって、痛みに低く唸りながらひっそりと佇む店に眉を跳ねた。
 意外な場所に立ち止まる。ざわざわとした喧騒を背中に、怪訝に眉を顰めた。その店を後ろに、その人はまるで私を待ち構えていたかのように佇んでいる。
 リィンバゥムにはいっそ似合わない格好で、私には見知ったその人の深紅のチャイナドレスが、微かな風に煽られていた。耳の上で纏められている髪につけられた飾りが、チャリリと涼しげな音をたてて。眼鏡の奥の瞳は、あの飲んだくれとは思えないほど真剣に、笑みを浮かべていた。

「メイメイ?」
「いらっしゃい、。待ってたわよ~」
「待ってた?」
「そ。待ってたの」

 にっこりと掴み所のない笑みを口端に浮かべたメイメイに、語尾をあげると彼女は頷いた。いつもとどこか違う、なんだかいつも以上に捕らえ所のない店主の様子に、瞳を眇めて。
 何もかも知っている、そう言わんばかりだ。事実、知っているのだろう。待っていた、と言ったのだから。私がここに来ることを知っていた。占いでなのか、それとも別の何かがそう知らせたのか、それは知らないけれど。彼女については、一つ知っても一つまた謎が増えるだけのような気がする。けれど、私もまた判っていた。彼女が、この呼び主と私を引き合わせてくれるのだろう、と。彼女は、この声の張本人を知っているのだろう・・・きっと。
 だから、無意識にここに足を運んだのかもしれない。この、人ではない、不思議な店主の元に。笑みを湛える店主を見つめ、軽く嘆息すると顎を引く。

「会わせてくれる?」
「勿論。その為に待ってたんだからぁ~」

 ひっじょーに軽い調子で、いっそ飛び跳ねそうなほどウキウキとメイメイは答える。なんだかなぁ、と思いつつ、くるりと踵を返した背中を見つめてその後ろに続いた。
 相変わらず酒気の匂いが強い店内は薄暗い。雰囲気を出すためなのかは知らないが、これってよくよく考えてものすっごい怪しいよなぁと頬を引き攣らせた。占いの館っていうか、なんていうか。客来てるのか?ここ。まあ、メイメイはお酒さえあればよさそうだけれど。
 つらつらと考えながら、鼻歌混じりに店内へと入ったメイメイがカウンターを越えて、店の奥へと躊躇いなく進むのに少々戸惑った。

「なにしてるのよ~。早くいらっしゃい」

 くるり、と振り向いて何でもないことのように手招きをされ、ここに呼び出すんじゃないんだ、と目を瞬く。あれ、私この店の奥にいっていいの?なんかここ、立ち入り禁止~みたいなイメージがあったんですけど。ていうかむしろこの店の奥って未知の空間、カオス、ミステリーワールド構成、みたいな物凄い不安があるんですけれども。僅かに逡巡し、私は唇を真一文字に引き結んで密かに拳を握った。えぇい、なるようになれ。きっと、たぶん、大丈夫!
 ファイト、私!とエールを送って(ていうかさっきから頭痛がひどい、)意を決して私はメイメイが消えていった店の奥へと踏みこんだ。うわーなんだろう、このドキドキ感。
 お化け屋敷に足を踏み入れたような、職員室に入るときのような、そんな奇妙な緊張感を帯びて、一層闇が深い通路を歩いていく。暗い割りに、メイメイの姿だけははっきりと見えて、なんだか不思議な感じがした。しばらく、てくてくと無言でメイメイの後ろをついていくが、さっきから感じる違和感に、堪らず私は口を開いた。

「ねぇ、メイメイ」
「んー?」
「なんか、店の大きさに比べて、歩く距離というか、やけに中が広いというか、そんな感じが、するんだけど」
「そう?」

 いやお前、そう?って。意外そうに答えられて、私が可笑しいのか!?と逆にうろたえた。いやでも、確実に変だろう。店の大きさから考えて、もうすでに店の最深部についていても、可笑しくはない。ていうか出口はおろか壁すら見えないのは可笑しいの一言に尽きる。
 普通すぐに見えるもんでしょう、壁や出口なんて。なのに、今だ延々と暗い通路を歩いているとはこれ如何に?やっぱりカオスだったか。変に納得しながら、溜息を零した。
 飄々と歩いていくメイメイの背中をねめつけて、進む度に痛みの増す頭に眉間を解す。メイメイは、計り知れない。最初のイメージそのまんまの、謎の人物だ。敵ではないと、断言できるけど。ていうかいい加減歩きつづけるのにも飽きてくる。何時まで歩けばいいんだろう。もうすでに、諦めというか悟り?に入ったところで、考えるのを放棄する。
 ここは異世界。ここはリィンバゥム。何があってもそれが常識。うん。異世界って言葉は便利だなぁ。(それを人は現実逃避という)そうして歩くことまたしばらく、ピタリ、とメイメイの歩みが止まり、自然と私の歩みも止まる。やっと着いたか、と安堵の息を吐き、立ち止まったメイメイを見た。

「ここから先は、あたしはいけないわ」

 振り向いたメイメイは、先ほどまでの軽さを消して、真剣な目をしていた。そのギャップに目を見張りつつ、怪訝に眉を顰める。一層激しさを増す声と痛みに、喉を鳴らして。

「ここから先は、。あなたしか踏み入ることは許されない」
「どういうこと」
「そのままよ。あなた以外の存在は認められないだけ」

 淡々と話すメイメイに、顔を引き締める。どうも、私を呼ぶ声は大分特殊な人物らしい。

「安心して。確かに、あなた以外には危険極まりない、むしろ命すらない場所だけど」
「ぅおい」

 思わずツッコミをいれる。なんだその物騒極まりない場所は!ていうかあの店内になんでそんな場所があるんだ!!いっそここは別の場所なのか?と疑問を浮かべてたところで、実にその考えに納得した。なるほど。その考えは的を射てるかもしれない。
 そう思うと、長すぎる道も頷ける。・・・一体何者なんだ、この人。胡散臭そうに見やると、メイメイは気にした風もなく、そっと後ろの――何時の間にあったのか、扉に手を触れた。

「だけど、あなたに害を及ぼすことは有り得ない場所よ」
「え?」

 目を見開くと、メイメイはふっと口元を緩めて微笑んだ。ひどく、寂しそうな目だった。

「さぁ。声を聞きなさい。そうすれば、あなたの望むものが手に入るわ」

 そういって、メイメイは扉を撫でてから、離れる。視線で、開けなさい、と促され、少しの不安と疑い、そして大部分を占めるやっと、というわけのわからない感情に、ほとんど意識無く手を伸ばした。触れると、冷たい感触が掌に伝わる。不思議と、恐ろしいと思う気持ちはなくなっていた。頭に響いていた声が、鎮まっていく。この先に、間違い無くいるのだと、否応無く知れた。ぐ、と手に力をこめる。あっさりと扉が、蝶番の音を響かせて、開いた。
 さして力もいれてなかったのに、まるで扉自体に意思があるかのように大きく動いて、招くように、暗闇が眼前に広がった。底無し沼のように、目の前に深淵とも取れる深い深い闇が口をあけている。畏怖を覚える前に、息を呑んだ。

「ここは」



――こぷり、・・・・―



 口から、白い気泡が立って、上へと昇っていく。目を見開いて、光などない闇を見つめた。


こぷり、こぷり。


 肌を突き刺す冷たい温度に、これは夢の続きだろうかと、水面を目指す泡の行方を追いかけた。