血桜
肌を突き刺す、凍えるような水の温度に、覚えがある。
※
ふと気がついて背後を振り向くが、そこに私が入ってきただろう扉はない。ただ、同じような濃密な闇が広がるばかりで、心許ない足元に吐息を吐いた。
こぷり、と光もないのに白く輝く気泡が上へ上へと昇っていく。あるのかもわからない、水面を目指す気泡を意味もなく目で追いかけ、ゆっくりと瞼を閉じた。
「夢の続き、かしら・・・」
呟き、手を伸ばす。纏わりつく冷たく重い水の感触。息苦しくはない。ただひどく寒い。心の隙間に否応無く入りこみ、幅を利かせていく、それは絶望という虚無。
なんて暗く寂しく、悲しい場所なんだろう。絶望、そこに希望など入りこむ隙もなく。ただ一面の、闇がそこに広がるばかりだ。光の存在すら否定する、何者をも拒絶する絶望。
しばらく、浮いているかのような心許なさでじっと佇んでいたが、閉じていた目をあけて前をみる。もっとも、前など意味をなさないほどにそこはただの闇でしかなかったのだけれど。しかし、これが夢の続きなのだとするならば。
「・・・行きますか」
思うだけで、体は滑る様に水底へと沈んでいった。あの時と、同じ。思うだけで、全てが為される。手を動かす必要はなかった。足で蹴る必要もなかった。意思一つで、思うが侭にそれは私を招き入れる。深い深い、自らの内へと、両手を広げるように。
緩やかな落下だった。そして穏やかな悲鳴を聞いた。波紋を描いて体に、頭に、耳に、届く身を切り裂くような呟き。あの時はわからなかった。声を求めてただ迷走していた。
けれど、今ならわかる。
「今行くから、少し静かにしてなさい」
この底。この先。私が落ちる先に、それはいる。波紋はまるでハウリングのようだ。不自然に膨らんで訴える。宥めるように言葉を紡ぐが、同じように広がった波紋は果たしてこの声の主に届いたのか。頭痛こそないけれど、それでも押し潰されそうなほど切実な訴えは重たい。底など見えない、闇しかないのだから。底があるのかもわからない、闇しか見えないのだから。それでも、声はひっきりなしに訴えてくる。
寂しい、辛い、苦しい、悲しい、嫌だ、――置いていかないで。
甲高い悲鳴を、感じてしまうのだ。拒否もできずにこの身に全て受けてしまうのだ。纏わりつく水はどんどんとその冷たさを増していく。その度、闇が深くなるのがわかる。
本当に、光なんてないのだ。沈む先に眼を細める。声が、ようやく言葉となって纏まり始めたことに気づく。そうか。もうすぐなのか。声が言葉になるほど、君に近づいたのか。強すぎる感情の波紋が、ようやく、言葉になって私に伝わってくる。薄っすらと口元に笑みを刷く。
――――――主様
「はいはい」
―――――主様
「聞こえてるよ」
――――主様
「もうすぐだから」
くすくすと笑いながら、その笑い声が波紋を描きながら。聞こえてくる声に言葉を返す。
届いてるかな?届いてないかな?まあ、どちらでもいい。どうせ、そこに行けば否応無くそれに声は届くのだから。そう。私は、知っている。この声の主を知っている。私を求める、悲しいまでに強い感情の持ち主を、知っている。
夢にして夢にあらず。夢であったあの時は知らなかった。だから問い掛けた。だれ?と。だから答えは得られなかった。だけど、今の私は知っている。判っている。この声が誰なのか、呼び声は誰なのか、知っている。夢の最後に、判っていたのに。何故かなど、そんな疑問はここでは無用の長物だ。理屈などない。わかっている、知っている。それを私は、知っていた。
例え、身に覚えの無い何かであったのだとしても。だって私は、
「ここにいる」
だから、いい加減泣きやんで?
――――――主様!!!!!
赫い、花弁が目の前で舞い散った。こつん、と爪先が地面と思わしき場所に触れ、安定感が宿る。それでも、体中を包む感覚はなんとも朧げな、曖昧なものだけれど。
それも仕方ない。だってここは、まさしくあの子が絶望の中で夢見る場所なのだから。絶望の中の夢。哀しみが生み出した場所。それは、嘆きの海。俯いていた顔をあげる。思わず零れた笑みは、何を意味していたのだろうか。
「やっと、来れた」
囁き、波紋が広がる。目の前で広がる、闇の中に浮かぶなんと鮮やかな赫い花の枝に目を細める。赫い花弁。いっそ不自然なまでに毒々しく美しい、薄紅にはなれない真っ赤な真っ赤な――桜の花。ふわふわと舞い散る踊るような花弁は、闇に吸いこまれるように消えていく。決して、地面に落ちて醜い姿を晒すことはなく。樹から散った花弁は、醜悪な姿を晒すことは耐えられないとでも言うように、闇に溶けていく。
見事な枝振りだった。大きく両腕を広げる深紅の桜は、闇の中にぽつんと浮かび上がり、空恐ろしい妖しさを醸し出して。その雄大な、見るものを惑わせる艶めかしく妖しい姿に、はんなりと微笑んだ。
視線を、大樹の下に落とす。花弁の積もらない、闇色の大地に築かれた社がぽつんとある。躊躇いなく、その小さな社に近づいた。音も吸いこまれて、足音など聞こえないその道筋を歩み、花弁が舞う下に進み出て。社の前で、立ち止まる。無表情に見下ろし、吐息を零した。
「やっと、ね」
キィン、とそれは答える。周りが震える。狂ったように咲き乱れる花弁の舞いが、雨のように降り注ぐ。
「姿を見るのは初めてね」
社の中に鎮座しているそれに、笑いかけて。長くすらりとした刀身。真っ白な、雪を思わせる鞘が、その刀身を包み。同じく白い柄は、深紅の飾り紐が巻かれて乱れていた。
金細工は繊細で、鍔は花弁を模したように華やかだった。そっと、手を伸ばす。ずっと、ずっと、泣きたくなるほどに切実に。苦しくなるほど叫んで。壊れるほどに望んでいた呼び声は、この刀が発していたもの。私をずっと呼んでいた声の持ち主は、この刀。
「お待たせ、といった方がいいのかしら」
不思議な気持ちでそう呟き、伸ばした指先は拒まれることなく、触れる。白い鞘に触れて、慈しむように指先でなぞり、震える刀身を柔らかく包んだ。そうしてようやく、私はこれの名を、誰に聞いたわけでもない、なのに何故か知っているそれの名を、口にするのだ。
「――血桜」
恋人に再会したときのように甘く。吐息を交えて紡いだ名前は甘美に響く。
持ち上げて、眼前にその白い姿を晒して。うっとりと見つめて、口角を緩める。
「お帰り、私の可愛い子」
大気を震わす、歓喜の絶叫に、闇が四散した。
主様
「はいはい」
主、様
「聞こえてるよ」
ぬしさまぁ
「待たせたね」
甘えるように甲高く。縋るように必死に。狂ったように咲き乱れていた桜は、急速にその花を散らし始めた。歓喜に震える声に、最早絶望などなかった。呼び声に応えるように、刀身が震える。歓喜の悲鳴が、大気を揺るがせて。全身を包む、その痛いまでの歓びの声は、なんて。
――――ずっとお待ち申しておりました。我が唯一の主。