月下飛行 2
夜の風は冷たい。頬をその冷たい夜気という手で撫でられ、髪を弄ばれると外套までも引っ張って過ぎていく。ばさり、と僅かな衣擦れの音をたてる外套は漆黒に溶けこみ、たぶん今私が1番見え難いんだろうなぁ、などと思ってしまう。だって全身黒尽くめ。
夜に溶けこむかのような井出達そのままに、月光だけが燦燦と降り注ぐ。太陽ほど強い光ではないのに、やたらと大きな月はまるで昼間のように明るく道を照らし出す。
この月の大きさだけを見るに、やはり別の世界なんだなぁと考えてしまう。綺麗な綺麗な金色の月は、ギブソンさんが言っていたように満月だ。欠けたところなど何一つない、ふっくらとパンケーキのような円を描き、ぽっかりと夜空に穴をあけている。翳ることも期待できそうにないのか、見事なまでに晴れ渡った空は月見をするのには絶好だが、夜逃げするにはなんと悪条件なのか。なんか、不吉だなぁと溜息を零し、視線を月から地面に視線を落とす。月光が私達を照らしだし、作り出した陰の形の多種多様なこと。その月影は、さながら平安の百鬼夜行のようではないか。特に護衛獣達とか。物凄く面白いことになってる。
影に色はなく、またその表情もなく、まさしく形だけを作り出す姿は面白い。ハサハの耳に尻尾、レシィの角に、バルレルの羽、レオルドの大きな身体が伸びた影が動きに合わせてゆらゆら動く。影絵のようだと、不意に思った。
「で?どの道行くか決まった?」
輪になって話し合っていた面々の外側から声をかけると、一斉に視線が向けられる。
その視線を一つ一つ受けとめ、最後にマグナとトリスに向けると、二人は神妙な顔で頷いた。
「うん。街道沿いに迂回してみようと思うんだ」
「でも・・・それじゃあ、すぐに見つかってしまわないかしら・・・」
瑪瑙が不安そうに眉を寄せて、胸の前で手を組む。アメルとしても同意見なのか、顔を曇らせてマグナを見上げた。私としては、まあどちらでもよかったり。そう思いながらも、軽く首を傾げて笑みを浮かべた。明るい月の下では、些細な表情さえも容易く判別できる。
やはり、この月光は綺麗な分邪魔だな、と思いつつ、続きを促した。何故その道を選ぶのか、自分なりの考えを言ってもらわなければ。考えを述べるということは、とても大切なことだから。それが伝わったのかどうかは知らないが、トリスが真剣な顔で拳を握り締めた。
「でも、黒騎士には騒ぎを大きく出来ない弱みがあるでしょ?国境を越えて侵入したなんてばれたら、外交問題にもなるもの。だから、あえて街道を行った方が比較的安全なんじゃないかって、思うんだけど・・・」
「・・・ふむ。まあ、二人にしては中々の回答ね」
安全な道などないわけだが、まあしかし、言うことは最もである。確かに派手な大立ち回りなど出来るような道ではないのは確かだ。頷くと、アカラサマにほっと安堵されて、私ってそんなに怖いか?と瞬きをした。あるいは頼られているのかもしれない。うーん・・・それは物凄く面倒なんだが。しかし、街道沿いとは待ち伏せされる可能性が一番高いところでもある。
一応一番想像し易いところだしな。うーむ・・・まあそんなこといったら山沿いも草原もどれも危ないことには違いない。逃げる私達に、安全な道など何一つとしてなく、そしてあの男。あの男を相手にするに、実はその弱みはなんら意味がないかもしれない、と思ったり。手段、選んでいられないかもしれないしな・・・結構追い詰められてそうだ。
「はそれでいい?」
「構わないわよ。別に」
考えれば考えるだけ、どれを選んでも確実に危険が待ってそうだという結論に至ったわけで、ならば二人の考えを尊重しようと思う。まあギブソンさん達のフォローあるし!きっとなんとかなるさ。なんとかならなくてもするしかないが。死にたくないし。頷くと、ぐっと二人は拳を握って、控えめに行くぞー!と腕を突き出した。アメルとミニスもマグナ達と同じように腕を突き出し、ネスティは眉間に皺を刻んでいる。それをほのぼのと見守る他の面々を更に見ながら、なんていうか、緊張感あるのかないのか!と思わず項垂れた。しかしながら、事態は思っていたよりも遥かに深刻だった。
※
何も言わずに瑪瑙を背後に庇う。じゃり、と小石を踏む音が空気に溶け、前方を見た。後ろにやられた瑪瑙は、息を呑んで杖をきつく両手で握りしめた。張り詰めた空気の中、光に照らされ金の髪に光の輪を作りながら、そいつは嘲笑した。
「まさか堂々と街道を通ってやってくるとはね・・・呆れたものだよ。もっとも、おかげで汚名返上ができそうだ」
まるで女かと見紛うばかりの繊細な顔立ちに、皮肉な色を乗せて、そいつは告げる。白い肌は青白い光に尚映え、赤い瞳は柔らかく笑んで。蟲惑的に歪んだ口元も、やたら赤く見えた。その形は、今宵の月とは裏腹な細い三日月になっている。場所が場所、立場が立場ならば見惚れてる女もいるのだろうかと頭の片隅で思った。もっとも、場所は真夜中の街道で、立場なんてそれこそ敵同士という、色気もなにもあったものじゃない最悪の状況だ。細い肢体に紫がかった黒い服を纏い、身の丈以上の槍を小脇に挟み、彼は見下すように顎を反る。マグナが、その姿を見て取って、顔を歪めながら確認するように名を叫んだ。
「イオスか?!」
「君に呼び捨てにされる筋合いはないが、まあ、許してやるよ。どうせ今宵限りで君たちの命運は尽きるんだからね」
ていうかこんな状況でイオスさん、とか敬称つけられてもそれはそれで反応に困ると思われ。などというツッコミはさておき、バルレルが私の横で犬歯を見せて笑った。
「ハッ!わざわざお出迎えたァ、ご苦労なこった」
「全くだね。わざわざ出迎えたんだ。大人しく従ってくれたら僕としても楽なんだが?」
「勝手なこと抜かしやがってっ!」
拳を握り締めて今にも斬りかかりそうなリューグに、イオスは余裕の態度で肩を竦める。先日の様子からは想像もつかない鷹揚な態度だなこいつ。その様子に目を細め、前衛が会話をしている間にゆっくりと気づかれない程度に視線を巡らした。イオスの後ろに数人の部下、けれどこの余裕から見るに確実にまだまだいるのだろう。
もっとも、この程度の人数でどうにかなるほど私達を舐めてもいないだろうし、それほどまでの油断は最早ないといっても過言ではない。三回。それだけの数の失敗をした。たかが三回と、そういうだろうか?
答えは、否。彼等がアメル捕獲に、絶対の自信を持っていたことは想像に容易い。あれだけ洗練されている動きと、統率力、個々の能力の高さを見るに、三回の失敗はプライドの崩壊と共に予想外のことであったはずだ。油断、慢心、それらがあったからこそ出来た逃亡と撃破、そしてイレギュラーの参戦。今回、そのどちらもないといってもいいだろう。三回の失敗は、それだけ彼らに起こり得るイレギュラーの経験を積ませたということなのだから。
・・・まあ、多少の不意打ちで動揺ぐらいは誘えるだろうけど。問題はそれがどのタイミングで来るかということである。タイミングを外せば益々不利になるし。現にイオスは、私達を舐めているようでその実その目は鋭く私達を窺っている。軍人として、張り詰めた空気の中確かに私達を見定めている。今まで彼らが重ねた失敗は、彼等に私達が侮れないのだという意識を持たせるに十分な代物であったはずだ。だから―――囲まれているのだろう、と、そう私は判断する。
「無駄話はここまでにしよう・・・伝令、急げ!ルヴァイド様に報告をするんだっ。【小鳥は初出の網にかかった】と!」
後ろに控えている部下の一人に、イオスが鋭くそう命令する。同時に槍を構えて、どこかゆったりとした雰囲気を放り捨て、一気に刺すような殺気がイオスの周りに張り詰めた。その切り換えっぷりに感嘆しつつ、走り去っていく伝令の姿に舌打ちを零す。
「まずい!敵はここで僕たちを足止めして別動隊で完全に包囲する気だぞ!?」
ネスティが焦ったように拳を握る。んなこたぁ判ってる、と内心で吐き捨て徐々に小さくなっていく背中に目を細めた。追いかけようかと思ったが、イオスが命令を下した瞬間に周りの敵が一斉に陣形を組むものだから動けやしない。ベルトに挟んである血桜を撫で、柄に手をやり握り締める。震える身を感じ、吐息を零すときゅっと唇を引き結んだ。
「みんな、逃げろ!」
「ははは、どこへ逃げても同じことだよ。覚悟するがいい!」
言うと同時に、イオスは合図を送るように腕をあげる。そうしたら、出てくるわ出てくるわ。何処に潜んでいたのかと問いかけたい敵の姿が!わらわらと出てきた敵は、ぐるりと円を描くように私達を取り囲む。前方、背後から、左右に至るまで、冷たい漆黒が月下の元に晒される。抜き放たれた白刃が、冴え冴えと光を跳ね返し、それがぬめりを帯びれば白刃は残虐性を増すことだろう。否応なく張り詰める空気に、息が詰まる。顔を蒼白にし、背中で震える瑪瑙の手を握る。はっとして見つめてくる瑪瑙に、笑いかけることは流石に出来なかったけれど。それでも、ちらりと横目を向けて、握る手の力を強めた。
「アメルと、瑪瑙を中心に置いて、トリスとミニス、ネスティとケイナ・・・ハサハとレシィも、アメル達の傍よ」
油断なくイオスを睨みながら、握っていた瑪瑙の手を放すとアメルの方に顎をしゃくる。瑪瑙は、不安を隠せない顔で、唇を噛み締めて頷くと、じりじりとすり足でアメルの傍まで近づいた。振り向いてくるネスティにも、真顔で頷いて。こくりと、頷き返したネスティはトリスの腕を掴むと、やはりイオスから目を離さないでじりじりと後退した。ぴくり、と黒騎士の一部の剣の切っ先が揺れたが、張り詰めた空気は両者が動く事を是としない。踏みこめないように、フォルテ達で気を回しているからだ。息を細く細く吐き出しながら、血桜の柄を撫でて、握りこむ。待ちきれないように、刀身が震えて。徐々に狭まる包囲網と、それにつられて後退する彼等の背中を視界に納め、バルレルの赤い視線に頷いた。
「後は、死なないように暴れなさい」
瞬間、爆発するように殺気が膨れ上がり、影が、動き出す。弾かれたように、襲い掛かる剣を、リューグの斧が弾き返した。ギィン、と響く鈍い音が、夜気を切り裂く。静かな夜が、戦闘という喧騒に蝕まれる。乱戦さながらにアチコチで聞こえてくる音に肌を粟立たせながら、目の前に立った男に思わず苦い顔をした。
「あの時の屈辱、ここで晴らさせて貰おう」
「随分と、根に持つことで」
無理矢理余裕の笑みを張りつけて、背筋を冷や汗がたらりと伝い落ちた。眩い金が、月下に映える。赤い瞳は鋭く細められ、白い肌に蒼い影が落ちる。足を開いて腰を落とし、構えられた槍の切っ先は、寸分の狂いもなく私に向けられ。鈍く細い光を反射する刃先に、ごくりと生唾を飲み込んだ。女のような、綺麗な面にみなぎる殺気が、凶悪だと思う。
「行くぞ」
「来るな」
間髪いれず返した言葉は、踏みこむ音にかき消されたか。迫る切っ先が、空を裂く。