捕虜



 明かりの灯る天幕から出ると、涼しげな風がルヴァイドの頬を撫でていった。夜気を含む、透き通るような風の匂いに嗅ぎなれた血臭が流れていくのを感じる。
 空を見上げれば今だ闇は色濃く残るものの、空の端がほんのりと明るくなっていた。夜明けが始まる。散りばめられた星屑の輝きが、チラチラとその日最後の主張を続ける。
 けれど、夜の空を飾る貴婦人だけはただのんびりと、しとやかに月光を大地に注いでは微笑んでいた。やがてあの輝く満月も、太陽という熱を孕む光りにその身を儚くするのだろう。その光景を想像しながら、零した吐息は思いの外重苦しかった。不意に、足音が聞こえてルヴァイドは緩慢に振り返る。気配だけでわかる、確認のために向けた視線の先では、薄明かりで金糸に光の輪を作り、険しい顔をしている部下が立っていた。暗色の赤い瞳が、瞬きに一瞬隠れる。

「ルヴァイド様、容態はどうなのですか?」
「イオスか・・・問題ない。峠は越えた」
「そうですか・・・」

 至極、複雑そうな顔でイオスは視線を落とした。無理もない、とルヴァイドは思考を巡らせる。事態は至極単純な作りだけれど、渦巻く心境というものは複雑なのだ。
 なにせ今天幕にいるのは仲間ではなく、敵である。思うところがあるのか、それっきり口を噤み俯いたイオスの目の前を、さらさらと金糸が揺れた。女性味を帯びる顔立ちに、夜明けの斜光を受ける様は文句なく綺麗だ。しかしその美麗な顔立ちにはいささか不似合いな、Fエイドがすんなりとした顎に貼られている。不恰好、というわけではないけれど傍目からみては痛々しい有り様で、それを為しただろう人物を思い描いて、目を伏せた。
 漆黒が翻る。否、闇よりもよほど深い闇が、ルヴァイドの目の前を過ぎった。

「あれはどうしている?」
「天幕で大人しくしています。ゼルフィルドも見張りについていますし、そうそう滅多なことはしないでしょう・・・もっとも、一睡もしていないようでしたが」
「そうか」

 イオスが、やや顔を顰めつつ報告をするのを聞きながら、頷き吐息を零した。疲れているだろうに、無事とも言い難いであろうに、眠りすら拒絶する。それほどまでに心配なのだろう、あの時の必死な・・・あまりにも必死過ぎる双眸を思い描いて、ルヴァイドは目の前をちらつく前髪を鬱陶しげにかきあげた。露わになった額を、冷たい空気が掠めていく。開けた視界に、天幕の並びが映ると、思わずルヴァイドの目が眇められた。
 視線を向けたところで、問題の天幕は他の数ある天幕に遮られて見えはしない。例え見えたとしても、その中にいる人物まで見えるものでもないのだ。けれど、ただその方向に目を向けて、ルヴァイドは背後を振り返った。今しがた出てきたばかりの天幕の入り口から、かすかな明かりが洩れ出ている。

「部下の間から何故助けるのだと、非難が出ていましたがどうしますか」
「聖女捕獲に必要な人質になる、と説明しておけ。聖女というぐらいだ。人質を出せばおのずと向こうからやってくるだろう」

 イオスがやや強張った、難しい顔で進言してくるそれを、ルヴァイドは一つ眉をひそめるだけで留める。予想していた事態である。焦る必要も慌てる必要もない、許容範囲内の事柄だ。敵だった者を甲斐甲斐しく世話をしているのだ。そう思うのも当然だろう、と。
 そしてそれは、理屈ではないのだということも。痛いほどに理解できるだけに、だからこそルヴァイドは淡々とした正論を告げた。感情に感情で返すわけにはいかないのだ。
 理由ならばちゃんとあるのだから、臆する必要はない。もっとも、それだけではないのだが。と、それは言わずに視線を前に戻した。イオスは納得したように頷き、それを伝え、手だししないようにと触れ回らなければならない事後処理に肩を落とした。そう、怪我をした相手だけでなく、天幕で縛られているだろう相手に対しても。それを思うと、知らずイオスの眉間に皺が寄った。

「どうした」
「いえ、・・・ジキルのことなのですが」
「・・・、どう、なった」

 ぽつりと、零された言葉にルヴァイドのきゅ、と寄せられた眉間に皺が増した。深くなったそれは秀麗な顔に影を落とし、憂いを湛える。イオスは顰めた顔で、視線を泳がせながら、最終的には傍の天幕へと落ちつけた。今そこで安穏に眠っているのだろう存在を思えば、苦々しいような、忌々しいような、そんな気持ちを覚えて噛み締める。
 無論それは、逆恨みのようなものも含まれている、正当な感情の働きではあったのだが。噛み締めた歯の間から、掠れるような声が低く落とされた。

「・・・・死にました」
「―――・・・そう、か」
「治癒も間に合わず、・・・最善を、尽くしたのですが・・・あまりにも出血が酷く、それに、即死していなかっただけ奇跡だった、と」

 その光景を思い出したのか、ぐ、と競りあがってきたものにイオスは奥歯を噛み締めて飲み込んだ。イオスこそ、数多の戦場を駆け抜けてきた。ちょっとやそっとではどうということもない。拷問にも立会い、腕が飛び首が飛び肉が裂かれ血が吹き出す地獄のようなそれも体験している。けれど、あれはあまりにも不意の出来事だった。覚悟などしていない。予期など、できるはずもない、全くの不意の惨劇。
 突然の出来事にはあまりにも刺激の強すぎる、酔うような生臭い瞬間だった。身体の横で拳を握り、イオスは脳裏にかけた鮮血に息を詰めた。鮮やかな紅が、哄笑を浮かべているかのような、幻さえ。

「ルヴァイド様・・・あんなものが、あってよいのでしょうか?」
「それは俺にもわからん。だが、現実はそこにある、ただそれだけだ」

 愁眉を潜め、吐息交じりに答えながらルヴァイドは瞼を伏せた。イオスの苦痛そうな顔すらも視界から排除し、ゆっくりと二度、瞬きをする。赤の向こう側から、見開いた闇色の双眸が見えた気がした。まるでそれは、彼女本人すら予想外のことであったと、言わんばかりに。
 実際そうなのかもしれない。そういえば、自分の失態で召喚を許してしまった護衛獣は、嘲笑交じりに言っていた。「無駄なことを」と。そうして一人の部下が、予期せぬ事態で喪われた。重苦しい沈黙、だからこそ余計に他の者は何故、と問いかけるのだろう。
 仲間が殺されて心穏やかでいられるほどに、ここの人間は無情ではなかった。非道ではあっても。

「しかしどうであろうと、あれらが聖女一行に有効であることには違いないのだ。ならば、最善を尽くすしかあるまい?」
「・・・判っています。あれを、捕虜の傍に置いておくことは、不安なのですが・・・」
「そうだな・・・油断できん女だ。だからこそ、くれぐれも捕虜の監視を怠るな。それと、血迷う者が出ないようにも。・・・・あれの言葉ではないが、生きてこそ価値があるのだからな」

 死んだものに価値などない。ルヴァイドはそう思う。死んでしまえばそこで終わりなのだ。
 そこで価値などというものをつけられるはずがない。ましてや人質である。それこそ、生きていなければ意味など何一つとしてありはしないのだ。死んだその瞬間、人質は人質という意味を為さなくなり、それは作戦の失敗ばかりか、もう一人の反乱をも招く事態に陥りかねない。
 ぶるりと、ルヴァイドの背筋が震えた。淡々とした、無感情な声が耳の奥で木霊する。冷ややかな、声。激情すらも押し込めた、無へと浸るかのような。しかし、やがてその凪の海のような声音は、薄ら笑いを唇に浮かべた瞬間に毒を孕んだのだ。
 微笑み、愉しげに。心臓に針を刺されたような恐怖を思い浮かべて、ルヴァイドは首を振るとゆっくりと足を踏み出した。

「ルヴァイド様?どこに」
「あれのところだ」
「では、僕もお供させていただきます」

 怪訝に問いかけたイオスに固く告げると、イオスは一瞬逡巡しルヴァイドの後ろにぴたりとついた。その様子を見届けて、止めていた足を動かすと視界に広がる、夜明け前の夜の空。滲むような光りが、徐々に世界を目覚めさせるその眩しさに目を細め、かぶりを振ると再び前を向いた。ざくざくと踏みしめる砂の音が辺りに響く。
 並び立つ天幕を迷いなく抜けていき進んでいくと、やや奥まった場所にそれは泰然と佇んでいた。一つだけ、普通の一角から外れてぽつんと建っている。それは本来ならば物置として使用されていた、即席の牢屋のようなものだ。その入り口に、見なれた漆黒のフォルムを持つ機械兵士の姿を見つけると、それもまたルヴァイド達を見つけて首を動かした。ウィン、と小さな稼動音が空気に溶けた。

「我ガ将ヨ、ドウサレマシタカ」
「あぁ。ご苦労だなゼルフィルド」
「イエ・・・」

 遠慮がちにそう答えるゼルフィルドに、ルヴァイドは頷いて天幕の入り口に視線をやった。
 それに気づいたゼルフィルドが、ややぎこちなく動いて、ルヴァイドを見る。天幕の向こう側から感じる気配は息を潜めており、けれど確かにそこにいるということを知らしめている。
 馬鹿ではない。むしろ頭が回りすぎるほどに回る女だ。自分の立場を十二分に理解し、それでいて、自分達の価値も冷静に見極めている。故に、どうこうすることはないとは判っていながら、それでもいくばくかの安堵を覚えつつルヴァイドはゼルフィルドに視線を戻した。

「寝ていない、とのことだが」
「ハイ。怪我人ヲ案ジテイルノカ一睡モ」

 頷くと、ゼルフィルドは躊躇いがちに天幕へと視線を向けた。まるでその様子は、居た堪れないことでもあったかのようにぎこちなく。黒い装甲が朝日にきらりと輝きを帯びた。
 聞こえた声は、常と変わらぬ合成音であるのに、ルヴァイドは思わずその愁眉を潜めた。過ぎる違和感、差異ともいうべきそれ。合成音は変わらない。淡々として、事実を語るそれのはず。だというのに、と思わずルヴァイドは胸中で一人ごちた。――だというのに、今目の前で天幕を・・・否、天幕の中にいるだろう人物を遠く見るゼルフィルドの声は、多分に心配が含まれていた。それと、ほんの僅かの、怯えも。正直、味方でもない(端的に言うのならば敵だ)相手に対してゼルフィルドがこんな声を出すことはない。そもそも、彼はルヴァイドを軸に置いており、その行動は全てルヴァイドを基準にされている。考えも軍人気質であり、確かに優しい機械兵士だが(そしてそれを本人は否定、もしくはわかっていないのだが)捕虜、敵に対してここまで人に悟らせるような反応を含ませることは、ない。
 機械兵士だからともいうが、感情などそうそうないのだ。もっともルヴァイドはゼルフィルドがただの機械であると見ているわけではないし、人を気遣うことを知る、――自分達の上司にあたる顧問召喚師よりもよほど、人らしいとすら思っている。けれど、こんなにも不安定なのは見た事がない。こんなにも、敵に気を向けるゼルフィルドを、ルヴァイドは知らなかった。もっとも、それは長年付き合ってきたルヴァイドだからこそわかる程度の、微々たるものなのだが・・・。ルヴァイドにとってみれは、ゼルフィルドの行動は「大きな違い」であったらしい。驚きと意外に瞬きをしつつ、ルヴァイドは今だ天幕を見つめるゼルフィルドの背中に声をかける。

「心配なのか」
「・・・・重要ナ捕虜ノ体調ヲ気遣ウノハ当然ノコトト思イマスガ・・・?」
「あぁ、・・・そうだな。なんでもない」
「ルヴァイド様」

 不思議そうに問い返すゼルフィルドにゆるく濁しつつ、背後からかけらたれイオスの声にここにきた目的を思い出す。僅かに苦笑し、ルヴァイドは頷いた。ゼルフィルドの予想外の反応に、気を取られすぎていたな・・・・。

「入るが、いいか?」
「・・・・ドウゾ。デスガ、オ気ヲツケ下サイ。さぷれすノ天使モオリマス」
「わかっている」

 僅かの躊躇いのあと、ゼルフィルドは横に退く。巨体が動くと、入り口が現れて、その中からチラチラと松明が揺れているのが見えた。サプレスの天使、それは己の油断が招いた存在だった。それを思えば忌々しくも思ったが、全ては己の怠惰故の所業である。
 責められるはずもないし、ルヴァイドは正直天使をどうこうということはなかった。それよりもよほど厄介な存在がいるのだから、溜息も出る。気になる存在、気にしてはいけない存在。ただの敵。それだけの、あの闇が凝ったかのような、女。艶やかに微笑み、何もかも見透かしていそうだった女は、今自分の手中にいる。いつ、寝首をかかれるともわからない不穏さで。一つ、息を吸いながら、ルヴァイドはゆっくりと垂れ幕に手をかけた。