捕虜



 360度、全方位から鋭い切っ先が向けられているようだ。体中の汗が噴出すほどに張り詰め、キリキリと引き絞られる凍えた空気。一歩踏み出せばたちまちあらゆる方向から刃先が突き出され、その身を隙間なく刺していくのではないかと思うほどに、それは凶悪さを保っていた。私でさえそう感じるのだ。向けられている本人にしてみれば、まさに生きた心地もしないことだろう。いい気味だと、鼻で笑ってやる。そんな自分に、あぁ今私よほど余裕がないんだな、と妙に冷静に考えた。生きた心地がしない、そう称した環境であるにも関わらず、表面上は普通を(顔はいささか厳しいけれど)装う男に感心する。
 流石だな、と思いはすれど、助けてやる義理はなかった。むしろもうしばらくそのままぐさぐさ殺意に晒されていればいい、とさえ。けれど、まあ、わざわざ男が危険を犯してまでここに来たのだ。手首に食い込む縄が痛いし、正直女性の扱いがなってないわよ、ってなもんだが、とりあえず、会話をしなければ意味がない。なにせその為に男は来たのだろうし、今現在私としても男と会話することは大切だった。息をすることすら困難な、重く冷たく張り詰めた(そしてそれは別に私にとってはどうということもない、)空気の発生源に、視線を流す。

「秘色」

 淡々と色をこめない声音で名前を呼べば、秘色は無表情をいささか不本意そうな顔にする。手首といわず体、足にも縄でぐるぐる巻きに縛られ、大きくしなやかな翼は、窮屈そうに折りたたまれ、まるで籠の中の鳥のような状態では無理もない、か。あるいは、それは私に対する仕打ちに対しての、つまりは私を思っての、殺気なのか。そう思えば愛しく思えど邪険にできるはずもない。が、かといってこのまま、というのは話しにくいのだ。
 ピリピリとした空気を放つ秘色に、ほんの少し溜息を零すと(びくり、と肩が跳ねていた)微笑む。秘色は唇を引き結び、項垂れるとそっとルヴァイドから視線を外した。
 あのくそ重苦しい空気が薄れる。かといって全くないわけではなく、会話がある程度気楽に出きる程度には改善された、程度の話である。全く器用なものだ、と思いつつやはり殺気を放つ秘色から視線を外して、赤ワイン色の髪をした偉丈夫に向けた。

「さて、わざわざのご足労痛み入るわ。・・・こんな時間に、ね」

 きゅう、と口角を吊り上げ、目を細める。慇懃無礼な言い方に、不快感を覚えたのか、はたまた私の薄ら笑いに嫌悪感を覚えたのか。どちらにしろ良い感情を覚えたわけではないらしく、ルヴァイドだけでなくイオスの柳眉も潜められた。そして、容姿に似合わず激情家らしいイオスは、ルヴァイドよりも一歩前に乗り出して何か言おうとしたが、それもルヴァイドの手によって制された。イオスは一瞬物言いたげにルヴァイドを振りかえり、納得の出来ていない顔で押し黙る。その様子をさして面白くもなく見ている私に、ルヴァイドが視線を向けた。髪と同系色の瞳が、物静かに私を見据える。薄い唇が震えた。

「眠っていないという話しだが」
「あら。気遣ってくれるのかしら。それはそれはどうもありがとう。だけどそこは触れないのが紳士の勤めというものよ?」
「っ貴様!」
「イオス」

 カッとなったのか(挑発に乗りやすいタイプね)イオスが再び前に出てきたが、やはりルヴァイドの低い声で踏みとどまる。ルヴァイドは眉を寄せて私を見、それからイオスに下がるように命じた。その命令は予測外だったのか、ルヴァイド様?!と声をあげたイオスに、けれど当の本人は低い声でもう一度同じ事を告げる。まあ、確かにいちいち私の発言に突っかかるようじゃ邪魔以外の何者でもないだろう。全く、上司が大好きなのはいいけど、場の雰囲気というものをもう少し読めるようになるべきね?でもとりあえず、私としても別に会話にさして必要でもない人間がいてくれても、目障りなだけだからさっさと消えて欲しいと思う。
 いやはや。大体四方八方敵に囲まれた状況で、更にこの狭い天幕の中に主要人物がいるだけでも息詰まる。会話は一人で十分なのよ。情報をくれるのもね。だからさっくりと消えて貰うために、私は薄ら笑いを貼りつけた。

「安心してもいいわよイオス。こんな状態で貴方の大好きなルヴァイド様に手を出せるはずもないし、瑪瑙がそっちにいるのに馬鹿な真似はしないわ」

 私は今現在のこの不利な状況下でどうこうするほど、馬鹿ではないと自負しているんだけど。小首を傾げて微笑み、そして次の瞬間には表情を消す。僅かに瞼を伏せて視線を落とし、瞬きをした。ぱちり、睫毛が肌を打つ音が微かに聞こえる。そうして再び、「下がれ、イオス」というルヴァイドの声が天幕に響くと、イオスは一瞬の沈黙の後、「解りました。くれぐれもお気をつけください」と言い残した。私はその動きを見なかったけれど、衣擦れと足音が遠ざかり、最後にはばさりと入り口の布が持ちあがる音が聞こえたので、あぁとりあえずここから出ては行ったんだなと確信した。まあどうせ、入り口の前にいるだろうけど。
 ・・・ゼルフィルドもいるんだろうな、と思うとなんとなくとても微妙な心境にはなったが。落としていた視線をあげて、前を見る。ルヴァイドが唇を引き結んで私を見ていた。
 座り込んでいる私と、立っているルヴァイドとでは高さに差がありすぎて少々首が痛い。ちらりとルヴァイドが視線を動かすので、つられて動かすと秘色がそっぽを向き、そして更にその向こう側、真っ白な姿を晒す血桜が、物も言わずあった。思わず目を細める。
 ルヴァイドは秘色ではなく血桜を凝視し、脅えと嫌悪感、そして多分に畏れをこめて拳を握り締めていた。内心では何が荒れ狂っているのだろうか。血桜を破壊したい思いで一杯だろうか。それとも得体の知れないそれに脅えているだけだろうか。どちらもあってぐるぐるしているんだろう、と思いつつ、私は脳裏に事の原因を思い浮かべた。全くの不意の出来事。秘色はあまりにも普通だったけれど、私にとっても敵にとっても、なんて予想外な出来事だっただろうか。ルヴァイド達はもう二度と血桜に触れない。そして血桜は、二度と私から離れることはないだろう。その結果が、捕虜の近くに武器があるという、なんとも有り得ない状況だ。それはなんと強固で、血生臭く、怖いぐらいに純粋な劣情。思い浮かべれば、胸が詰まり溜息が重たく零れる。

「死んだのかしら」

 呟くと、気配が動いた。緩慢に首を動かしルヴァイドを視界に入れる。表情こそ動かないものの、ルヴァイドの視線は険しかった。それで理解する。あぁやっぱり助からなかったのだと。それは当たり前に思っていたことで、殊更それに対して何か思うわけでもなく。
 あれで生きていられたら、それはよほど高位の天使を召喚したんだろうなぁ、とか。そんな感心を覚えるだけの話である。内心でご愁傷様、と呟き(口に出せば益々視線が痛くなる)別の言葉を紡ぐ。むしろ私が一番知りたいのはこっちである。

「瑪瑙は、無事なんでしょうね?」

 その時だけ淡々とした、余裕を保っていた声が震えて、不安が表に出る。ゆっくりと瞬きをすると、目が瞼の裏に隠れた。薄暗い。刹那、フラッシュバックするように光景が流れた。ミルク色の視界、赤い道筋、翻る白い服、乱れた蒸し栗の髪、響き渡る銃声、悲鳴、飛び散る赤、自分の咽喉から迸る、絶叫。傾いでいく体と、自分の掌を濡らした赤い液体を浮かべたところで、細かく震えた指先に気づき、悟られない内に拳を握り締めた。けれど声の震えまで隠せるわけではなく、ルヴァイドは血桜に貼りついていた視線を動かし、私に向けた。鋭い眼差しが私を見つめる。

「無事だ」

 簡潔な答えである。低い声でただそうとだけ答えた男に眉宇を動かし、視線を眇めた。沈黙が流れる。どちらも相手の眼差しの中に何か含まれていないかと推し量りつづけ、気力が殺がれていく。ルヴァイドの瞳を凝視し、私はふっと引き結んでいた唇を解いて微笑んだ。

「まあ、無事じゃなかったら意味がないんだから、当然よね」
「峠はこえた。命の心配はないだろう」
「心配があったら私、何をするかわかったものじゃないわよ?」

 にっこりと笑う。ルヴァイドが眉を潜めて不快感を表した。くすくす、声が零れて、そっと口角を吊り上げた。キュゥ、三日月に唇が歪む。目を細めて、冷ややかに。

「瑪瑙に何かあったら、私はあなた達を殺すわ。手段なんて選ばない、どんな手を使ってでも」

 微笑み告げる内容は物騒極まりない。それでいてこの状況にはそぐわない内容だ。手足を縛られ、敵の陣地に囚われて、それでも尚こんな発言をするなど、状況がわかっていない馬鹿のようだと思う。けれど、これをハッタリで済ませるつもりさらさらない。もしも。もしも、だ。今言ったようなことが起これば、私は私の全てをかけて、全力で、こいつらを殺す。無理だとかこちらに不利な状況だとかそんなことは関係ない。私の全力で、成すだけの話だ。
 しかし顔は笑っていても目は決して笑わず、凍えた声で告げたそれにも、ルヴァイドは微動だにしない。秘色が僅かに身じろぎをし、嫉妬を孕んだ忌々しげな気配を漂わせたが。私は意に介さずに、ゆっくりと言葉を繋げた。

「人質は、諸刃の剣と知りなさい」

 瑪瑙が生きているからこそ私は大人しくここに留まっているし、何か危険を犯そうという気はない。また、私達が生きているからこそ、人質という役割が果たされるのだ。
 人質はもっとも有効な手段だと考えている馬鹿に一言言っておきたい。それは、確かに有効であるが、何よりもリスクを負わなければならない手段なのである。それを踏まえずその手段に出れば、全く、愚かも甚だしいことになるだろう。

「まあ、もう言ったことだからちゃんと配慮してくれてるとは思うけど・・・肝に命じておきなさいよ。何分、血桜の一件で益々ここでの雰囲気険悪になるばかりだし、敵同士だからどうせ私達に対する対応なりなんなり、問題が挙がってるんでしょう」

 肩を竦めると、ルヴァイドがなんとも言えない顔をした。私に対して警戒しているような、いっそ呆れているような、余計なお世話だと、怒っているかのような。微妙な表情である。

「・・・言われずとも心得ている。貴様にどうこう言われることではない」
「ふん?まあいいけど。とりあえず私達の安全についてだけは、ちゃんと保証しておきなさいよ。あぁ、瑪瑙についてだけは本当に細心の注意払ってよね。あの子私と違って繊細だし重症人なんだから」
「仲間のことになると、多弁だな」
「大切ですから」

 瑪瑙限定だけど。あとは・・・まあここまで気は使わないと思うなぁ。実際、ここにはいないのだからそんな心配は杞憂である。そういや無事に逃げられたのかしら。
 アメルは無事だろう。それは確実だ。瑪瑙が庇い、私が無理矢理逃がした。他の面子も、恐らく無事だろうと、思う。リューグはアメルを守って、(そして私達に向けて、怒りのような心配のような、悲壮な視線を向けて)逃げていたし。とりあえずバルレルが怒鳴っていたのが鼓膜にこべりついている。それはそれはとても切羽詰った声で、悲しい声で、苦しい声で、恋しい声で、私の名前を呼んでいた。!と叫んだあの声が、今も耳に蘇る。トリスか、マグナか、それともフォルテか。ともかくも、誰かが連れてったことだろうと、そっと息を零して私は肩の力を抜いた。とりあえずも、瑪瑙は無事なのである。
 それだけ解れば十分で、そしてこの男が捕虜を無碍に扱うこともないと、私は知っている。
 感情に左右されるほど、愚かな男でもないだろうし。敵としては厄介。だけれど、人柄だけは買ってやろう。そして旅団内の処遇について、不安でないといえば嘘になるけれども、たぶん大丈夫、と思いたい。そこはルヴァイドの器量によるな。現実問題、私がここで幾ら気を揉もうと、瑪瑙の怪我がよくなるでなし(ここはもう本当に旅団に任せるしかない。何かあったら本当に許さないんだから)現状が打破できるでなし、加えて言うなら何も出来ないし。よってもう、どうでもいい。うん。眠たくなってきたし、瑪瑙以外にここで貰う情報なんてそうはない。今後のこいつらの行動なんてマグナ達の居場所を突き止め、尚且つ私達をどう利用するか、それだけであろう。目的が判ってる分、それ以上探る必要もないのだ。
 背後関係もわかってるし。あれ、本気でもう何もすることないや。そう思えばどっと眠気が襲ってくる。今まで寝なかったのは一重に瑪瑙が心配だった、その一点のみを重視していたからだ。その心配も解消された今、私が睡眠を拒否する必要があるだろうか?いやない。ふわぁ、と緊迫感もなく欠伸を零せば、ルヴァイドはこれみよがしに眉を潜めた。

「余裕だな」
「余裕ができたもの。知りたいことは知れたし、あとは現実を考えるだけでしょう。それとも、まだ何か?」
「いいや。何もないな・・・お前ほど緊張感のない捕虜も初めてだ。怖がらないのもな」
「殺されないと解れば脅える必要なんてどこにあるのかしら」
「扱いがいいとは言えんぞ?あるいは死にたくなるほどのことがあるかもしれん」
「それは怖いわね。でも、そんなことして意味があるとは思えないけど。拷問なり性的虐待なりなんなりしたところで、私が知ってることなんて何一つないわけだし?」

 ていうかまずそんなことになったら秘色が何かしでかしそうですが。まあ、拘束されてる秘色がどこまで出きるか、わかったものではないけれども。あぁそれと、ルヴァイドがそんなことさせるとも思わないし。もしあったら、その時はその時でやるだけだけれども。
 にっこり笑うと、毒気が抜かれたような顔をして、ルヴァイドはふいと顔を逸らした。そうして、もう本当に話すことはなくなった、と背中を向ける。マントを外しているのか、動きにつられてふわりと靡く衣はなかった。

「精々体調には気をつけろ。面倒をかけられたくないのでな」
「どうもありがとう。あぁ、ルヴァイド」

 遠まわしになんか気遣われてるような台詞にお礼を返しつつ、呼びとめる。ルヴァイドが足を止めて、怪訝な顔で振りかえった。そっとそれから視線を外し、入り口をみる。朝日が昇ってきたのか、俄かに明るいそこから薄い陰がゆらゆら、動いていた。

「ゼルフィルドに、食事もってこさせてね」
「・・・」

 答えはなかったが、私が名指ししたことに疑問を覚えたのかルヴァイドは眉を動かし、やはり沈黙したまま天幕から出ていった。重苦しい空気がたちまち消える。ふぅ、と吐息を零し、どさ、と布を敷いただけの簡易的な布団に横たわった。

「我が君、」
「あぁ、平気平気。ちょっと眠いだけだから。そんな心配しなくてもいいわよ」

 横たわった途端、間髪いれず心配そうに声をかけられ、縛られた手をあげてひらひらと振る。首を横に捻ると、秘色がルヴァイドに向けていた殺気などもう消し去り、ただただ心配そうに私を見ていた。相変わらず目は隠されてるんだけど。にこり、と笑いかけると安堵したように吐息が零される。けれど、次の瞬間には顔を曇らせて、秘色は唇を噛み締めた。

「我が君は、あの女を気にしておられるのですね」
「ん?うん。大切だから」

 答えると、秘色の纏う空気が張り詰める。それは嫉妬のような、憎しみのような、焦がれたような、哀しいもののような。複雑に絡み合い、揺れて、秘色の唇が動く。

「あの女さえ、」

掻き消えそうな呟きが聞き取れず、眉を潜めて訝しげに私は秘色を呼んだ。

「秘色?」
「っ、いえ。なんでもありません。不躾なことを尋ねました」
「いや、別にいいけど・・・」
「我が君、お疲れのことで御座いましょう。どうぞ、お眠りくださいませ」
「あぁ、うん?・・・・・・・うん。そうだね。確かに、疲れたし。寝るわ」

 なんとなく、無理矢理話しを変えた感は否めなかったが、秘色的にあまり突っ込んで欲しくはないらしい。微笑んで言われてしまえば、特に反論する内容でもないので、素直に頷くことにした。もぞもぞと毛布に包まり、瞼を閉じる。秘色は、寝る必要はないのか小さく、

「おやすみなさいませ、我が君」

 と、そう、穏やかな、甘い声で囁いた。耳に心地よい低い声に、とろとろと眠りに誘われる。元々本当に疲れきっていたのだ。眠るのに、さしたる時間は必要なかった。
 あぁ、そういや起きたらまず秘色に、「我が君」呼びはやめさせないとなぁ。さすがにそれは恥ずかしいと思うのよ。色んな意味で。思いつつ、私はやっと眠りに落ちた。
 無論その後、秘色が何をしていたかも、何を言ったかも、私に解るはずもないし、そしてそれは一生、知ることもないのだろう。ただ、夢現に聞こえたものが、憎憎しげで、悲しみを帯びていたと、それだけがわかるだけで。内容など、私はついぞ知ることはなかった。