セタスチウムは喜びに震える
飴色の瞳が覗く事のない閉じられた瞼。縁取る睫毛は長く、目許に濃く影を落とした。ふっくらと肉厚で小さい、まるで花びらのように可憐な唇も震えることはなく、そしてまた、色もあまり思わしくはなかった。薔薇色の頬もなりを潜め、白く青褪めて顔色はすこぶるよくない。いつもの瑪瑙は、白いとはいってももっと透明感があってしなやかで命の活動溢れる、健康的な美白肌だったのだ。つまり、こんな病的な肌の白さではなかった。
ていうかこれは白いを通り越して青白いである。けれど、僅かに上下する胸とか、頬に触れた時に感じた体温とか。そろりと頬に触れた指先を動かして首を抑えれば、とくりと脈打つ確かな頚動脈の動きを感じ取れた。堪らない安堵感が胸に押し寄せ、ともすれば緩みそうになる涙腺をぐっとこらえる。ゆっくりと名残惜しげに瑪瑙の頬の辺りを指先がさ迷い、そっと引っ込めると枕元に流れる蒸し栗色の髪に手を伸ばした。緩く波打つ髪を撫でつけて。
眠る姿は、まるでお姫様。死んだように稀薄なその存在感に、白雪姫や、オーロラ姫はこんな感じだったのだろうかと思った。眠っているだけで華がある。華があるのに、目を引かれてやまないのに。どうして、こんなにも儚く存在が稀薄なのか、そう思うと胸が苦しかった。
「瑪瑙・・・」
名前を呼んでも反応はない。当然だ。深い眠りに今は意識を置いているのだから。今は掛け布に隠れて見えないが、腹部には痛々しい傷跡もあることだろう。体に傷が残らなければいい、そう思って、そっと吐息を零した。指先に絡めた髪を解く。最後に一撫でして、微笑んで呟いた。
「ごめん、ね」
僅かに揺れ動いた気配は、瑪瑙なのかそれとも後ろにいるルヴァイドなのか。どちらでもいい、けれど出きるなら瑪瑙であって。願いは無意味で、私はゆっくりと瑪瑙から手を遠ざけると、地面に手をついて立ちあがった。きりり、と手首を拘束する縄の擦れる音がする。きつく戒められたそれは正直痛かったけれども、瑪瑙に会えた安堵感に比べればどうということでもない。立ちあがり、遠ざかった瑪瑙に微笑んで、唇だけで紡ぐ「よかった」という言葉に、安心したのは他ならぬ私だ。そうして目に焼き付けるように、今はただ安穏と深く眠る瑪瑙を見つめて、くるりと踵を返した。視界には、入り口近くに立っているルヴァイドの姿が入る。入り口の外にはゼルフィルドもいるだろう。なんともいえない、しいて言うならば無表情のルヴァイドは、淡々と薄い唇を動かした。
「もういいのか」
「えぇ。もう十分よ」
気遣う響きなんぞ欠片もない、ただ儀式的に尋ねられて、私はそれに満面の笑みで答える。ルヴァイドは眉を動かし、ゆっくりと顔を逸らした。私は、なるべく靴音が響かないように注意しながらルヴァイドの元まで歩み寄り、首を逸らす。あげた視界に私よりも頭一つは余裕で高いルヴァイドの丹精な顔を映し、口角をつりあげた。近くにきた私に視線を向けたルヴァイドは、その笑みに器用にも片眉を動かした。
「連れてきてくれてありがとう。瑪瑙の顔をみたら安心したわ」
「あれだけ笑顔で圧力をかけておいて、今更それを言うか」
「いやねぇ。必死だっただけの話よ」
だってほら。いくら無事だとか言われても、やっぱりこの目で見るのとは別問題だし?さすがに明け方に突入するのも、私もルヴァイドも疲れてたから遠慮して、朝一で朝食持ってきてくれたゼルフィルドにお願いして呼んだんだから。明け方も早朝も変わらんわ、というだろうが、違う、違うのだ!ほんの少し睡眠とるだけで頭の中は結構すっきりするものなのよ!出きるならば落ちついた気持ちで瑪瑙に会いたかったし。もしも瑪瑙が目覚めていたら、やっぱり出きる限り安心させてやりたいのだから。だから、落ちつきたかった。
驚いたのはまさか本当にゼルフィルドが持ってきてくれた、ということだが、少し考えれば妥当な人選かもしれない、と思ったものだ。ほら、私の立場って絶対旅団内で最悪だし、もしかしたら血迷った団員にやられるかもしれないし、イオスとはぶっちゃけ険悪である。
いや、一つ弁明させていただくならば、あれは一方的なものであって、私は別にイオスにはさしたる感情など何一つ持ってない。そう、言うならばイオスに対する私の印象感情諸々は、なんか意味もなく突っかかる犬、もとい挑発に乗りやすい(からかいやすい)男、というほら全然悪感情なんてないわけじゃない?なのに、イオスは・・・まあ、ファーストインパクトがあれだったし(二階からの攻防)セカンドインパクトもあれで(湿原での説教)サードインパクトは顎を遠慮なく蹴り飛ばしたし(顎に張っていたFエイドって私のやった痕よねぇ?)しょうがないのか、な。いやでもあんなの敵同士だったら当然よね?私だって腕に傷つけられたわけだし(花の乙女に!)どっこいどっこいだろう。つまり、纏めればイオスは心が狭い、ということだ。もう少しおおらかな心構えがなければいけないと思うのよ。
さておき、そんなこんなでイオスとは険悪、団員は下手すればもっとも危険、ルヴァイドは総司令官で捕虜なんぞの為に食事持ってくるなんてできるわけがなし。
さて、残ったのは感情に左右されずいつだって冷静、淡々と仕事をこなせてさして険悪になるわけでもない、ゼルフィルドだけというわけなのだ。まあそれはこちらとしては好都合だからいいけど、気になるのはゼルフィーが微妙にぎこちなかったってことなのよねぇ。
空気が悪くなるわけではないが、微妙な不協和音を奏でる雰囲気だったのだ。まあそれもまた仕方ないことなので、私としては軽く流していたが。ていうか常々思うが、なんか捕まってる私よりも周りの方が緊張してるよね。・・・え、なにこれは私が図太いとか周りが繊細とかそういうことなわけ?うーん。それか言うのならば、温度差、というものだろう。
まあどうでもいいか。話が脱線した。戻せばすなわち、自分の目で見るまで本当に安心なんざできるわけねぇだろうがアァン?ということである。
「でもまあ、もう顔もみたし、本当に無事だってわかったし。これでのんびりできるわ」
「捕まってる身でのんびりも何もないだろう・・・」
「なにもできないんだからのんびりするしかないでしょう」
両腕拘束されてるしねぇ。大人しくしてる以外に何ができるというのか。ケラケラと笑いながら言う私に、ルヴァィドは眉間に深く皺を刻んで、どことなく疲れたような顔をした。
なんていうかもはや突っ込むのも面倒だといわんばかりである。面白味のない、と思いながら無言で外に出るルヴァイドに続き、外に出る。一回だけ後ろを振り向き、静かに寝ているだけの瑪瑙を一瞥してから、顔を前に戻した。ふとこちらをみるルヴァイドと視線が噛み合ったので、首を傾げるとルヴァイドは溜息を零すように、
「本当に、貴様はあの少女が大切なのだな」
と呟かれ、それはどこか羨望のような、意外そうなというか、ともかくもそんな感じの響きが篭められており、私はぱちりと瞬きをした。ルヴァイドは、特に答えを求めていたわけではないらしく、それだけ言い残すと踵を返し歩き始める。その方向は私の、今は残している秘色がいる天幕の方向とは別方向で、なんとはなしにその背中を見送ってから、沈黙したままのゼルフィルドを振りかえった。あれか。ゼルフィルドがいるから私をわざわざ送る必要はないってか。まあルヴァイドがいても気まずいだけだから、別にいいんだけど。
「戻ルゾ」
「あァ、うん」
声をかけてきたゼルフィルドに生返事を返し、動き出したそれに合わせてその後ろについていく。なるべく人の少ない道を通っているのか、人影はまばらだけれども、会う人皆それはそれはもう複雑そうな視線、中には明らかな敵意すら向ける人もいて、やっぱり物騒極まりないと思った。ぐるぐる回る、負の感情。居心地は最低だと思いつつも、仕方のないそれに溜息を零す。それに気づいたのか、振り向いたゼルフィルドは赤いサーチライトを泳がせた。その、感情など読めるはずもないゼルフィルドの鉄の顔を見つめて、ふ、と微笑む。
「ゼルフィルド、出きるならでいいけどもう一つお願いしてもいいかしら」
「何ダ」
「食事のメニューはあれでいいけど、せめてもう少しまともな味つけにして欲しいわ。あれコンソメスープじゃなくてただの水よ水。次回はもう少しまともなものにしてね」
人間の基本は食なのよ。生命維持には必要なのよ。本能に基づく欲求がろくろく満たされないと、人間正常な判断なんて中々できないんだから!心持ち切実な問題に(だって本当にあれ水に近いんだもの!スープとパンだけというメニューはどうでもいいとして、味は頂けないわ)真剣な顔で言うと、一瞬沈黙してゼルフィルドは頷いた。
「我ガ将ニ、進言シテオコウ。・・・ダガ期待ハスルナ」
「ありがと。やっぱゼルフィルドは良い子ねぇ」
「・・・・良イ子?」
「うん。良い子。今のこともそうだけど、瑪瑙のことも、気にしてくれてるんでしょう?」
「何ヲ言ッテイル?自分ハイツモ通リダ」
立ち止まり、ゼルフィルドは心底不可解そうに首を傾げた。向けられる視線、声色に変化などなくとも、そして周りから見れば本当に感情など何一つ篭ってないと、わかっていても。
淡々と零される合成音は、けれど私の耳にはどこか戸惑いを含んだものに聞こえた。目を細めて、微笑む。顔色なんて変わるはずもない、鋼鉄の体。本来はきっと、感情なんてないのだろうと、思うけれど。
「無自覚?それもいいわね。ゼルフィルドらしくて」
「」
くすくすと笑うと、益々ゼルフィルドは沈黙した。わからないのだろう、全てが。私に向けられる視線は疑問に答えろと訴えかけてきており、くすりと笑いながら首をふって前髪を流す。
「だからね、気にする必要はないの。戦いの最中であれは当然のことだし、私は別に撃ったことについてどうということもないわ。瑪瑙は生きてるんだし、大切なのはそれだけだから。過程なんて、結果の前には時には無意味なものよ」
「・・・・疑問ニ答エテイナイゾ、ソレデハ」
「これ以上ない回答だと思うけど?つまり、ゼルフィルドは優しいのねってこと」
ぎこちなかったのはきっと、気にしていたのだろう。ゼルフィルドはアメルを狙っていた、というのもあるだろうし、あるいはそれに動揺した私を気遣っていたのかもしれないし、巻き込まれた(まあ自分でアメルを庇ったんだけど)瑪瑙を思ったのかもしれないし、どちらにしろ、優しくなければ感じることのない負い目である。微笑みかける私に、ゼルフィルドは沈黙してしまい、小さく起動音を鳴らした。
「オ前ハ、不思議ナコトヲイウ」
「ゼルフィルドにはそうかもね。まあいいわ。さ、戻りましょう」
いつまでもこんな所に立ち止まっていられないし。促すと、今だ納得していないながらも、ゼルフィルドは頷きまた歩を進めた。その後ろをついていきながら、視線を落とす。優しい人が多いんだな、と思うのは、なんとも微妙な話ではあるが。けれどどのみち。
「躊躇わないでしょうね」
呟きは、意味のないものだったけれど。どれだけゼルフィルドが優しかろうと、気に入っていようと、敵である限りはそれまでの話しなのだと、割りきれる自分が少しばかり、哀しいような気もした。まあ、けれど、それが私が私である部分なのだというのも事実であり。辿りついた天幕で、ゼルフィルドにじゃあね、と声をかけてから中に入る。と、秘色が真っ先に心配するように声をかけてきた。
「我が君っ。何もありませんでしたか?」
「なにもないって。そんな心配しなくても大丈夫よ」
「ですが、ここは敵地にございます。御身に何かあってからでは遅いのです」
至極真剣な顔で、大真面目にそういう秘色に、まあわからんでもないけれど、と思いつつ苦笑する。心配し過ぎだ、と一蹴するのは容易いけれども、真剣すぎる秘色に言うのもなんだかなぁ、と思うので、とりあえず笑って誤魔化すことにした。ゼルフィルドもいたし、滅多なことは起こらないと思うんだけどなぁ。そして、秘色を宥めつつ椅子に腰掛ける。
組み立て式の椅子だからか、どこかちょっと不安定な気もするけれど、ぎしりと響いた軋み音に紛れて呟きを零した。
「さて、対策練らないとなぁ」
今の状況じゃ色々無理だが、とりあえず逃げる算段だけでも複数、考えておかないと。秘色がいそいそと近づいてくる(しかし影も踏まない位置で止まる)のを見つめつつ、戒められている腕で頬杖をついて、ゆっくりと瞼を閉じた。なんにせよ、瑪瑙が目覚めない限りは、何もできはしないのだけれど。あぁそうだ。その前に。
「秘色」
「はい」
「ちょっと話しがあるんだけど」
「なんでございましょう」
一定の距離で控えている(もう本当に控える、と言う言葉がピッタリである)秘色を振りかえりつつ呼ぶと、頭を垂れてから秘色は首を傾げた。なんとなく、椅子から降りて私は地べたに正座する。そしてその行動を見守っている秘色に、そこに座って、と促すと少々戸惑いながらも秘色は正面に座った。なんだか居心地が悪そうだが(正面、というのになれてないのかもしれない)とりあえず私と同じように正座した。ふわり、と秘色の細い髪が動きにつれて揺れる。大きな純白の羽は伸ばすこともままならないので、相変わらず折りたたまれたままだ。外に出して羽を広げさせてやりたいなぁ。(文字通りの意味だ)元々背の高い秘色である。座っても差が埋まるわけではなし、少し首を反りつつ目の前で口を閉ざして私がしゃべるのを待っている秘色を見つめた。
「簡潔に言うけど、我が君呼びやめてくれない?」
口にすると、秘色は戸惑ったように唇を震わせた。目が見えないのがあれだが、見えていたらきっと揺れている事だろう。細い筆で描かれたような柳眉が下げられ、いささか困ったように秘色は言った。
「ですが、我が君は我が君で御座いますし・・・ご不満でしたでしょうか」
「いや、不満っていうよりむしろ居た堪れないのよね」
むず痒いというか、普通の一般人だった私にさすがにその敬称はあれである。そもそも、我が君だなんてそんな高貴そうな言い方されてもね!あと他から聞いても「おいおい」ってなもんだろう。苦笑すると、秘色は一瞬考え込み、少しの沈黙の後口を開いた。
「では、どのようにお呼びすれば」
「とりあえず我が君はやめて。まあ・・・普通にって、名前で呼んでくれれば」
遠慮がちに尋ねる秘色に無難に提案すれば、黙り込んでしまった。そんな考え込むことでもないだろう、と思いつつ。とりあえず我が君とかご主人様とか、その類じゃなければ呼び捨てだろうとなんだろうと構わないのである。むしろフレンドリーにいってくれたほうが気が楽といえば楽なんだが。無理だろうなあ、と思いつつ、考え込んだ秘色は顔をあげて、薄い口唇を震わせた。
「では、様と」
「・・・・・・・妥当な線か。ん。それでいいわ」
「ありがとうございます」
礼を言うのはむしろこっちの方な気もするんだが、心底嬉しそうに微笑む秘色に、そんなこといえるはずもない。むしろ、礼を言った瞬間に青褪めて滅相もない!!と言われそうな勢いである。嬉しそうに口元を綻ばせている秘色に吐息を零しつつ、私は肩を竦めた。
「全く、秘色は本当に・・・。なんでそこまで私を敬ってくれるのかしら?」
「我が君ですから」
清清しい笑顔で言いきりやがった!なんかもうそれ以上にどんな理由が?と逆に問い返してくる勢いで、輝くばかりの微笑と、あまりにも当然のことと胸を張って言うので、私は閉口するしかない。秘色は、もう本当に、それが当たり前で自然で世界の常識なのだといい知らしめるように微笑んだ。
「様は、様でありますから。それ以上の理由などございません」
微笑みは、柔らかく。本当に、幸福そうに、艶やかな色を纏って。口元だけで形作られる微笑みなのに、驚くほど自信満々に笑いかけてくるものだから。
「・・・・・・・・・・・だから、それが意味不明なのよ・・・」
溜息交じりに、言い返すことしか私にはできなかった。秘色は、やっぱり不思議そうに、そして困ったように、でも様ですから、としか言わないので、私はもう一度溜息を零すことになる。つまり、彼にとってそれ以外の理由なんて、必要ないということ、なんだろうか。
全くもって、理解不能である。この素晴らしいまでの下僕根性は、一体どこから培われてきたのだろうか。疑問に思いつつ、秘色自身、不満なんぞあるようではないので(むしろ誇らしげである)私はこの問題はないものとして扱うことにした。どうせ、言った所でこの召喚獣は、聞くことなんてないのだろうから。まあそれに、別に私に不都合があるわけでなし。
そんなものなんだと、割りきる以外に、私にできることなどない。はあ、と溜息を零している内に、外が騒がしくなっていたことなんて、私は気づきもせずに。