今、君を思う。



 どうか、この祈りがあなたに届きますように。





 マグナの拳が控え目にドアを叩く。こんこん、と遠慮がちに響く音に、応える声はない。
 しばらく待ってみても、許しも拒絶もないただの静寂に、恐る恐るマグナはノブに手をかけた。体をドアに寄り添わせながら、なるべく音をたてないように静かにあける。
 僅かに開いたドアの隙間から、伺うように中を覗き込めば、ベッドに腰掛け食い入るように窓をみる後ろ姿が見えた。窓の向こう側に広がる町並みや、その更に向こうにある青い色彩は見事といっていいほどなのに、少女の纏う空気は沈鬱として晴れやかな外の風景とは正反対だ。
 亜麻色の髪を揺らし、微動だにしない少女の後ろ姿を見つめながら、マグナは意を決したようにドアを大きく開け放った。

「アメル」

 声は静まりかえっていた室内に、大きく響く。呼びかけに反応したように、ゆっくりと振り向いたアメルの顔に、マグナの顔が悲痛に歪んだ。血の気をなくした顔に覇気はなく、目の下の隈が、彼女が碌な睡眠を取っていないことを示していた。けれどもアメルは、マグナの姿を認めればその口元に力なく笑みを浮かべて見せる。ぎこちなく歪んでしまった笑顔は、あの見る人をほっと安堵させるかのような明るい笑みとは雲泥の差だ。その痛々しさに眉を寄せて、けれどマグナはそれを振り払うようにアメルの傍まで近づき顔を覗きこんで身を屈めた。

「アメル、ご飯、食べに行こうよ。ここににきてから、碌に食べてないだろ?」
「・・・ごめんなさい。食欲が、湧かなくて・・・」

 ぽつり、と返される声はか細い。マグナから逃げるように視線を外し、俯いて膝の上でアメルは拳を作った。ぎゅ、と握られた拳がわなわなと震える。その様子を見ながら、けれどマグナも引かないように決然とアメルに声をかけ続ける。

「駄目だよ、アメル。このままじゃ、君が倒れてしまう」
「・・・マグナさん・・・。でも、あたし、」
「アメル・・・メノウ達が心配なのはわかるよ。でも、アメルが倒れたら元も子もないんだ」

 ファナンに辿りついてから、彼女はずっとこのままだ。最低限のものしか口にしないし、睡眠も取らない。ただ何かにとり憑かれたように、窓の外を眺めるだけだ。このままでは、最悪な事態にもなりかねない。それほどまでに、アメルは憔悴していた。なまじ、そうなる理由もならざるを得ない事実もわかっているだけに、マグナも悲痛さを隠せない。
 けれど、だからといってこのままではいられないのだと、マグナは唇を引き結んだ。このままではいられない。そんなことをしていて何になる。心配しているのは彼女だけではない。不安にかられているのも、悲しいのも。決して彼女だけではないのだ。
 無論、心痛の度合いはきっとアメルの方が大きいのだろう、とは察せられるが。――メノウは、彼女を庇って敵の手に落ちてしまったから。そして、それを守る為にも残ったから。あの場に、彼等を逃がして、彼女達は残った。正確に言えば、彼女は、というべきなのかもしれない。月明かりの元、凛として・・・凝る闇のような少女は、彼らを突き放した。その時のアメルの悲鳴は今も耳に残っている。
 誰もが、彼女達を残していくことに傷つかなかったはずがない。皆、嫌だった。できることなら全員で逃げたかった。けれど、それはできなかったのだ。あの状況では、無理だったのだ。躊躇いを覚えたのは当たり前。止まりそうだった足を、けれど進ませたのは他ならぬ彼女だった。傷つき、血を流して地に倒れ伏したメノウを抱えて、アメルを突き飛ばし、告げたのは彼女だった。


―――行きなさい!!


 強く、大きく、響いた声。覇気の篭った鋭い命令は、たったそれだけなのに止まりかけた足を動かす強制力を秘めていた。アメルの肩に置いたマグナの手に力が篭る。
 それに気づいたのか、アメルが緩慢に顔をあげた。マグナは、ぐ、と顔を引き締めてアメルの双眸を見つめる。

も、メノウも、アメルをこんな風にする為に庇ったわけでも、残ったわけでもないよ」

 声は、驚くほど静かだった。その声に目を見張り、アメルの唇が戦慄く。もしかしたら、自分はひどいことを言っているのかもしれない。ちらりとそう思ったが、けれどマグナは言葉を止めようとはしなかった。これは必要なことなのだと、彼は学んだからだ。

「アメル。酷な事を言うようだけど、でも、アメルがこうしていても二人がここに戻ってくるわけじゃない」
「――っそんなの!・・・そんなの、わかって、ます・・・でもっメノウさんは、あたしを庇って・・・!!」

 くしゃり、と顔を歪めて、アメルが両手で顔を覆う。亜麻色の髪を振り乱し、泣き伏すように身を震わせるアメルの両の肩に手を置いた。そうしてしっかりと肩を掴んで、マグナはアメルの激情に引きずられないように、意識して殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「・・・確かに、メノウはアメルを庇った。は、そんなメノウを守る為に残った。でも、それは、二人が自分で決めてやったことだ。アメルのせいじゃない、なんて言えないけど、でも、これだけは言えるよ。あれは、アメルだけのせいじゃない。あの時、あの場所にいた全員の責任なんだ。それに、無闇に自分を責めて体調を崩すなんて、それこそ二人は望んでいないよ」

 ゆっくり、ゆっくりと。言い聞かせるように紡がれる言葉は静かだ。宥めるような、それともただ事実を述べているだけのような、どこか時間から切り離されるような声音に、アメルの嗚咽が重なる。

「だって、は俺達に行けって、逃げろって、言ったから。それがするべきことだったから、俺達が、やらなくちゃいけないことだったから。――はきっと、今出きることをしなさいって、いうんじゃないかな?メノウもきっと、そう思ってる」

 彼女は驚くぐらい現実主義者だ。他の誰が取り乱していても、冷静に物事を把握して、そして行うべきことを考えている。それは、とても非情なことに思えるかもしれない。冷たい人間だと、思われるかもしれない。
 でもそれは、生き残るのに必要なことなのだ。彼女の行動は、必然的に皆のためになっている。だからこそ、自分達は彼女の期待に応えなくてはならないと、マグナは思った。それは、ここにきて、時間を置いてゆっくりと考えたからに他ならないけれど。ファナンに着いた当初は、やはりアメルと同じように、二人を置き去りにしてしまった事実に落ち込んでしまった。助けられなかったことが、重く胸に押しかかって。
 だけど、フォルテや、ネスティ、それに、モーリンが教えてくれた。彼女達が何の為にそうしたのか、今彼女達が望むことはなんなのか――自分達に何ができるのか。

「今の俺達にできることは、二人を待つことだよ。それしかできない。歯がゆいけど、でも、それしかないんだ。だから、俺達は無事に、元気でいるようにしなくちゃ。だって、折角帰ってきた二人にこんな姿見せたら、心配させちゃうじゃないか。ね?」
「・・・」
「アメル。みんな、二人が心配なんだ。だけど、だからってずっとこうしてなんかいられない。大丈夫!二人ともきっと無事だから。なんたって、がいるんだし」

 最後は明るく、弾むような笑顔と共に言ったマグナに、俯いていたアメルの顔がおずおずと上がる。赤くなった目許に、マグナはにっこりと笑ってそっと指先で涙を拭い取った。

「大丈夫だよ、絶対。二人は無事だって、俺は信じてるし、そう祈ってる。それに、なんだかって本当になんとかしそうだと思わないか?」

 思い浮かべた彼女は、不敵に笑いながら本当にどうにかしてしまいそうなイメージなのだ。だから、実を言えば、そんなに不安ではない。心配ではあるけれど、不安はなかった。
 きっとなんとかなる。というよりも、なんとかする、といった方がイメージ的には正しいだろう。おどけたように言うと、アメルは瞬きをして、それからくすりと小さく笑みを零した。
 それはあの憔悴した笑みではなく、何かを吹っ切ったような、明るさを秘めたもので。

「そう、ですね・・・。確かに、さんだと、なんとかしてしまいそうな気がします」
「だよね。なんていうか、その内ひょっこり顔出して、ただいま、って言いそうな」
「あは。言いそう!何事もなかったみたいに、笑って・・・ふふ。どうしてかしら。さんなら、絶対大丈夫って気が、してきます・・・メノウさんも、大丈夫だろうって」

 そういって、アメルは瞼を閉じる。何かを思うように、胸に手をあてて、ひっそりと息をするアメルを、マグナは黙って見つめた。そうして、少しの間沈黙が落ちると、やがてアメルはぱっちりと目をあけて、にこりと微笑んだ。それは、まだ影は残るものの、それでもどこか雲が途切れて、晴れ間が覗いたような笑顔だった。

「マグナさん、あたし、祈ろうと思います」
「え?」
さん達の無事を、祈って、それで、元気な姿で二人を出迎えようと思います」
「アメル!」
「ごめんなさい、心配かけて。でも、大丈夫・・・あたしができることは、ここで落ち込んでることじゃありませんものね。こんなことずっとしてたら、さんに怒られちゃいます」

 メノウさんにも心配かけちゃいますし、と。笑って言ったアメルに、マグナはほっと胸を撫で下ろした。きっとまだまだ不安は胸を占めている。それでも、アメルの瞳は何かを吹っ切ったように輝きを取り戻していた。なら大丈夫だと、マグナは思った。正直、自分にのようにアメルを立ち直らせることができるかどうかは不安だったが、それでもアメルは立ち直ってくれた。それだけで、マグナは胸がぐっと熱くなる思いで、アメルを見つめる。そうして、アメルの手を握ると引っ張り上げた。

「じゃあ、ご飯食べに行こうよ!トリス達も下で待ってるだろうからさ」
「はいっ。・・・・・マグナさん」
「ん?なに、アメル」
「ありがとうございます。・・・皆さんにも、お礼と謝罪をしなくっちゃ」
「うん・・・大丈夫だよ、絶対。二人は、きっと戻ってくるから」
「はい」

 満面の笑顔で、アメルは大きく頷いた。マグナも、口に出せば本当にそうなるような気がしていた。だから、彼もまた笑顔で頷く。きっと大丈夫。メノウもも、きっと無事に戻ってくる。それは、確証などないただの希望ではあったけれど、それが事実になるような、そんな気が、二人の胸に過ぎっていた。