闇夜に潜む
「貴様さえ、いなければ・・・!」
※
だってそれは、知らなかったことだから。それは、言い訳にはなるのだろう。まだ出会って日も浅い。知るにも、理解するにも、時間はいささか足りなかった。
時間的余裕すらないまま、こんなことになって。唯一知り得たことなんて、雀の涙程度の・・・つまりは、必要最低限のことしか、知ることが出来なかったのだ。だから、あんなことになるだなんて、思いも寄らなかった。
吹き飛ぶ腕の残像が見えたのは気のせい?
肩口から切り落とされるようにですらなく、触れた指先から、弾け飛び噴水のように赤い飛沫をあげて、引き千切れ破裂した腕の残骸。
喉元から、獣の吼え声のような絶叫が迸ったのは、空耳?
空気をあまねく震わせて、苦痛というよりもただ反射のように、本能から吐き出されたようなあの驚愕の悲鳴。それは鼓膜を震わせた声よりも音と呼ぶに相応しい。
視界を、あの夜のような紅が埋め尽くしたのは、錯覚?
噴き出す血飛沫、赤い水溜りが広がって、近くにいた人の顔にまで飛び散って。天幕の壁も、勿論地面も。冴え渡るような、赤で埋め尽くされた。足元に、腕から絶え間無く流れ続ける血が忍び寄ってきたことに、愕然とした。肉の破片がそこらに広がると、きつい、醜悪な臭いが、くんと鼻腔を突き刺した。爪先に、肌色をした棒状の何かがこつりと当たった事に、喉を震わせる。それがなんなのか、認識すれば容易く想像ができる。
目を見開いたまま、呆然と、その光景を眺めることしかできないのは、あまりにも現実離れしすぎていたからだろうか。周りが騒ぎ出す。悲鳴、喧騒。有り得てはならない、その悲劇。
蹲り痙攣する人を囲む人間の傍に、血溜まりの中悠々と転がるのは、白い白い、その姿。脳裏に響くは、鈴を転がすような愛らしい・・・・・・その、声音。
※
流れる小川の冷たい水に、手袋を外した手を浸す。眉間に皺を寄せてから、軽く頭を振ると両の手でお椀型にした掌に水を目一杯掬い取り、ぱしゃり、と顔を濡らした。
夜の帳が落ちかける夕闇に、よく冷えた川の水が熱のある頬を冷やしていく。何度かそうして顔に水をかけて、最後に掬い取った水に口をつけるとごくりと喉を鳴らした。
喉を滑り落ちる冷たいものに、内側からすっきりしたような気がする。ただの小川の水が飲めるだなんて、この世界の自然は豊かなのだな、とさらさらという流水の音に耳を傾けて川面を眺めた。きらきら、とは言えない。ただ落ちかけている闇のせいで、深く濃い色になっている川底を、時折何かが流れていくのが見えた。その様子を見つめながら、カクンと首を逸らして空を見上げる。茜よりも紫色が強くなった空に、もうすぐ夜がくる、と思いながらふっと吐息を零した。
「なーんだかなー・・・」
疲れたように投げやりに呟き、星が瞬き始めたのをぼんやりと焦点を合わせず見つめた。
ここにきてから、どんどん自分の立場がわからなくなっていく。かろうじて拘束されたままの手首を睨んで、眉間にぐっと皺を寄せた。
「ビーニャ、・・・一体、なんなのかしら」
呟く名は数日前に出会った少女の名だ。もっとも、人ではなく悪魔らしいが。秘色曰く、あれは悪魔でしかもそこそこ高位らしい。・・そんなのを使役するとは、旅団側の召喚師も侮れないんだなぁ。騎士っぽいのが多いから、召喚師はそうでもないのかと思っていたのだが・・・。いやでも、なんか態度を見る限り、イオス達が使役しているという感じはしなかった。むしろ逆というか・・・よほど召喚した人間が高位の人間なのだろうか?
まぁ、基本的に悪魔にとってニンゲンなんてどうでもいい存在なのではあるだろうけれど。そうでない悪魔もいるとしても、秘色の話振りからして大抵はそんなのが多いはず。偏見だが、私の持っている悪魔のイメージからなら、頷けるというものだ。しかし、だというのなら益々私に対して、何故あんな態度を示したのか理由がつかない。秘色はまだわかる。あれは私が召喚した、私の護衛獣というものなのだから、ああいう態度も頷けるというものだ。それは、まあマグナやトリスの護衛獣とはやっぱりどこか違っているみたいだが、そこはそれぞれの個性というものなのかもしれないし、突っ込むところではない。しかし、ビーニャについては可笑しい、という他ない。それ以外の批評ができない。彼女は旅団側の存在であるはずだ。
何故そんな人物が、ただの捕虜である私に対して、そして人間に対して傅く必要がある?いや、必要だとかそんな話ではない。傅くはずがないのだ。もっとぞんざいに、それこそ物のように扱うことはあろうとも、間違ってもあのように敬う態度は有り得ない。
有り得てはならない。そんなこと、起こりうるはずがないのに。なのに。
「わけがわからないわ・・・」
ビーニャのあの、歓喜に打ち震える姿。さながら出会った時の秘色のように、見つめたバルレルのように、目が合ったレイムのように。そうそれは、名も知らなかった、赤の他人に向けられるいわれのない、熱情。私に、あのように甘く熱を帯びたものを向けられる理由を見つけられない。何故それが敵から向けられるのかも、わからない。否。一息に敵といってしまってよいのか、それすらも判断に戸惑うほどに、ビーニャは私に対して無垢過ぎた。
疑問は尽きない。初対面であるはずだ。私は知らない。彼女を、彼等を。けれど、彼女は私を知っているかのように扱う。何故、何故。許されるのならば、この拘束する縄すらも外そうとしただろう。しなかったのは、かろうじて残る「敵対者」という立場からか、はたまたもっと別の理由があるのか、計り知れないけれど。ただ、私に触れることなく(触れられ、なかったのか)縄を見つめ、悲痛な顔をしたビーニャの震える謝罪は、今だ耳にこびりついて離れない。
(申し訳ありません、申し訳ありません、様、様・・・申し訳ありません)
どうして謝るの、問いかけたとしても彼女は益々泣きそうになるだけだった。
ただ震える声で、聞いているこちらが胸が痛くなるほどの悲愴さで。膝をつき、俯いて、ただ繰り返される謝罪を――許しなど求めていない謝罪を、何度も何度も口にした。
どうしようもない、匙を投げたくなったのは仕方ないだろう。もういいから、言えば彼女の肩が震えた。その時の表情はわからない。俯いていたから。そして出ていった彼女を、見送り、そして項垂れる。――私には預かり知らないところで、一体何が起こっているのか。
・・・これ以上ややこしいことなど抱えたくないというのに、そうはさせてもらえない現状は、果たして誰に愚痴を零せばいいのか。あーあ、と溜息を零して、ぐしゃりと前髪をかきあげた。
「秘色に聞いても要領を得なかったしなぁ・・・」
尋ねてみた。ビーニャと知り合いのようでもあったから、何かわかるかと思って。尋ねてみれば、返ってきたのはいまいちよくわからない言葉の羅列。
(我等にとって貴女は闇、貴女は全て、貴女は世界。我等にとっての存在理由―――ただ、それだけのことなのです。)
それ以上などない。あるとすればそれはやはり私だけなのだと、そうさらりと告げた秘色に、それらを疑問視する様子など欠片とてありはしなかった。盲目性をただ単純に突き付けられただけのような気がする・・・。まあ、わかったことといえば。
「召喚獣の一部にとって私はなんかすごい奴ってことかしらねぇ・・・」
なんていうか「すごい」じゃ括りきれない何かっぽいけれど、そんなものを理解しろと言われても困る。(彼の言葉を借りるなら全てであり世界ということか)結局なにも分からない、とだけ言う事が出きるという、なんの解決にも繋がらないことばかりだ。あぁ、頭が痛い。
頭の奥に疼痛を覚え、こめかみに触れようとして、縛られていることに気づき溜息を深く零した。いつか私に理解できる日がくるのだろうか、秘色の語った意味を。
まあしかし、今はその辺の事情よりも目の前のこと・・・これからどうするか、ということを第一に考えなくてはならないのよね。でもそうしたいのに、次から次へと色んなことが起こり過ぎて、ゆっくりと考える暇もない。心配事は瑪瑙だけでいい、というか瑪瑙以外の心配事なんて抱えるつもりもないのに。傷は恐らくもう癒えているはずだ。ていうか目が醒めたっていうのに(ゼルフィルドに聞いた)会わせないってどういうことなのかしら。
普通ここは会わせるものでしょう?!監視付きだろうと縄で雁字搦めだろうとどうだっていいから、瑪瑙に会いたい。会って本当にもう大丈夫なのかとか確認したいし、というか声だって聞きたいし、私が無事だってことも伝えないとあの子今頃すっごく心配してるだろうし、とにかくも不都合(個人的な)がありすぎる。己ルヴァイド・・・どういうつもりなの・・・!
きり、と唇を噛み締めて、前を睨みつける。すっかり日も落ちて明かりなどないそこは暗闇で、川の流れる音だけが耳を打つ。しばしそうしていたが、そろそろ帰らないとまた不評を買う、とゆるく瞬きをした。たたでさえ旅団側に対する私への印象は地の底にあるのだ。
それを差し引いても捕虜が出歩いていいはずもない。捕虜は捕虜らしく、黙ってテントにいろというのが普通だろう。出歩くのが許されるのは少しの時間が最低限。
本当なら・・・きっと許されないことでもあるだろうし。それが許されたのは・・・ビーニャのおかげ、なのだろうか。ともかく、これでゼルフィルドが監視であったのならいいとして、そうでないただの人間なのだから、あまりここにいるわけにもいかない。溜息を零して、よいしょ、と立ちあがる。気だるげに振り返り、ふと眉を潜めた。太陽や炎といった明かりはないとはいえ、月も星もある。開けた小川の周りだけを見るのならさして問題のないそこで、佇む人影に軽く息を飲んだ。監視役の人間が、帰りが遅いからわざわざ様子を見にきたか?そう思って目を凝らすが、ただの監視とも言い難い緊張感が、肌を刺す。ただならぬ様子に、警戒して顎を引くと、人影がゆらりと動いた。
※
ランプの明かりが天幕の中を照らしだし、人影を揺らめかせる。踊る人影は二つ。
小柄なものと大柄なもので、更に一つ付け加えるのなら人の形状を為していない影が、小柄な影の足元に蹲っている。ゆらりとランプの炎が揺れる度に影も揺れ、言葉の交わされない沈黙の空間を彩っていた。その沈黙を破るように愁眉をきつく寄せ、眉間に深い皺を刻みながらルヴァイドの低い声が空気を震わせた。
「どういうことだ、ビーニャ」
鋭い刃物を連想させる声音は、震えあがるような凄みを帯びる。問われれば答えずにはいられない、従わなくてはならないと思わせるようなそれを、しかし名を呼ばれた当人は涼しい顔で・・・否。むしろ気にも留めた様子はなく、笑いながら足元で伏せる獣を・・・魔獣をつま先で蹴りつけた。
「なにがァ?ルヴァイドちゃん」
「っ誤魔化すな!あの女に対して、お前は何か知っているのかっ?」
カッと激昂するように、いつもの冷静さを若干欠いた様子でルヴァイドが目許をきつくした。
溢れるような激情が天幕内に波紋を呼び、空気をピリピリとしたものに変える。反射的にでもびくりと肩を震わせそうな気迫を、しかしビーニャはピクリとも眉を動かさず、ゆらりと幽鬼のように振り向いた。見上げる眼差しに、不穏なものを潜ませ、不快なのだと、冷えた眼差しが射抜く。その感情の篭らない眼差しに、ぞくりとルヴァイドは肌を粟立たせた。ビーニャが、いつも浮かべる笑みを掻き消して、ただの無表情で半音低く、言葉を紡ぐ。
「―――様に対して、無礼な呼び方をしないでくれる?」
「・・・っ」
「様はねぇ、特別なの。この世の何ものにも代えられない、唯一のお方なの。だから、あんまり度を越したことするようなら、―――消しちゃうよォ?」
がらりと雰囲気を変え、にんまりと目を細めてビーニャが甘く媚びるようにそういった。粘着質なそれに、息を呑んでルヴァイドが不快そうに顔を歪める。それがさも可笑しい、と、キャハハと甲高く笑ったビーニャは、クスクスと声を潜めて可愛らしく小首を傾げた。
「・・・デグレアと、何か関係があるのか」
「さァ?」
猫のように目を細めはぐらかすそれに、カッと腹の底が熱く燃え滾るような感覚を覚えたが、ぐっと押え低くルヴァイドは尋ねた。それすら小馬鹿にするように、にまにまと嗤うビーニャは吐息を零す。キュゥ、と口角がつりあげた幼い顔に、ぞっとするような艶と狂喜を浮かべ、アンバランスさとは裏腹に中身とだけは不気味なほど合っているその異質さに、ルヴァイドは本能的に足を一歩下げた。元よりあまりよくない顔色が、ランプの明かりに照らされて奇妙な陰影を作った。
「ルヴァイドちゃんはまだまだやることがあるんだから、余計なことに首を突っ込まないほうがいいよォ?やりたいこと、あるんでしょォ?」
冷たいナイフを心臓に突きつけられたように。容赦のない猫なで声に、ルヴァイドの顔が苦悶に歪んだ。ギリ、と唇を噛み締め、睨みつける先のビーニャに変化はない。
「っあいつの、差し金か」
「さァ?・・・どちらにしろ、ルヴァイドちゃんには関係ないって。無駄なこと話しててもアタシつまんなぁい。ルヴァイドちゃん達は、黙って大人しく任務のことだけ考えてればいいよ」
それ以外は考えるなと、言葉にせずとも伝わる内容に、歯噛みしながらルヴァイドはビーニャから顔を逸らした。拳をきつく握り締め、血管を浮かせながら背中を向ける。
その背中を、面白い見世物をみるかのように、ビーニャがニタニタと不気味な笑顔で見つめる。その薄気味悪い不愉快な視線を受けながら、一つ深呼吸をして、ルヴァイドはばさりとマントを翻させた。からかうように、ビーニャが柔らかく問いかける。
「あっれぇ?どこいくの、ルヴァイドちゃん」
「お前と話すことはもうない。・・・お前が俺達に何も聞くなというのなら、お前も俺達のすることに口を挟むな」
「口を挟まなくてもいいようにしてくれるんならね?」
あからさまな嘲りを、一瞥を向けてルヴァイドは黙殺する。その様子を鼻を鳴らしてつまらなさそうに見つめ、不意にビーニャはぽつりと呟いた。
「そういえば、もう一人。捕まえたオンナ」
その声に今までのような愉快そうな響きも嘲りも、陶酔するかのような甘ったるさもない。
ただ淡々と聞かせるだけのような無機質な声に、入り口に手をかけていたルヴァイドは鬱陶しく振りかえった。そして、息を飲む。ルヴァイドを見ず虚ろを見つめる少女の眼差しに光はなく、ただ氷のような冷たい瞳に、ランプの炎が映っていた。一瞬前までの軽快なそれとは間逆の、凍えた、眼差し。天幕に満ちる空気が、刹那がらりと様相を変えた。
心臓を握りこまれたかのような、根本からの恐怖に体が震える。彼女の足元で、魔獣がその体毛を震わせた。
「あれ、様に会わせてないよ、ねぇ?」
「・・・あぁ」
「んー。ならいいよォ。引き止めちゃってごめんねぇ?バイバーイ」
ニコリ、と笑い軽く手を振ったビーニャに一瞬前までの薄暗いものはない。
いつも通りに、どこか癇に障るふざけた調子に戻ったビーニャに、大きく息を吐き出しながらもルヴァイドは愁眉を潜めた。
「ビーニャ、」
「なぁに?」
ことりと首を傾げたビーニャに、ルヴァイドは何かを言おうと唇を震わせ、しかし何も紡がずに軽く首を振った。なんでもない、と小さく言い残して今度こそ背中を向けて天幕から出る。
その様子を見つめながら、ビーニャは唇に手を這わせ、赤い舌をチロリと覗かせた。
「・・・殺しちゃおうかなァ」
今ならバレないだろうしぃ、と呟き、うっそりと目を細める。爛々と輝く眼差しを、ただ一匹、彼女の足元で蹲る魔獣だけが見つめている。それを気にした風もなく、くつりとビーニャは喉を震わせた。
「殺しちゃっても、いいよねェ・・・なんであのオンナ、生きてるんだか・・・」
こつこつと指先がテーブルを叩く。かつん、と一際高く音をたてて指の動きを止めて、ビーニャの瞳に暗い光が宿った。昏く、燃え盛る憎悪の炎に、ピシリとランプのガラスが罅割れる。それすら気にする事もなく、視線を向けることもなく、ビーニャの眉間に皺が寄る。
「―――忌々しい、オンナ。今でさえ、様の傍に浅ましくいるだなんて・・・」
殺してやりたい。魂の一欠けらさえ、あの方の傍にいられないように、その存在全てを、消し去ってしまいたい。暗い願望を、狂気すら滲む言の葉を、容姿に似合わない低い声で呟き、ビーニャはちらりと足元に視線を落とす。蹲る魔獣を、蔑むように見下ろし、その頭に足を乗せる。ギャゥン、という甲高い悲鳴など、聞こえないように。ぐっと足に力をこめて、憎憎しげに歯軋りをした。
「その寵愛を、受けているなんて・・・忌々しい!!!」
ぐしゃりと。何かの潰れる音がし、少女の青白い頬に赤い飛沫が飛ぶ。つぅ、とそれが頬を伝い落ちる頃には、その足元にいたはずの獣の姿はなく、変わりに不自然なまでの大量の赤い血が、地面に、壁にと飛び散っている。足元を朱に染め替えて、荒い息と、ジジ、と炎の揺れる音だけが天幕内に響くのを聞きながら、少女は肩を震わせた。にぃ、と口角を大きく吊り上げ、瞳を爛々と輝かせ。
「キャハ、キャハハ、キャハハハハハハハハハ!!!!!!!!!」
狂ったように、甲高い笑い声が天幕の中に木霊する。途切れることなく、夜の間を駆け回るように。ゆらりと、ランプの炎が揺れ動いた。同じく揺れる影に、人の形は、伴わない。