反撃開始
見つめる眼差しは、憎悪の翳り。
※
呼吸が、できない。極端に気道が狭まり、息が詰まる。肺にまで満足な酸素が行き渡らず、喘ぐように口を開いた。懸命に酸素を取り入れようとしても、首を締めつける手の存在がそれを許さない。脳に行く酸素が急激に低下した影響か、朦朧とする意識で顔を歪めて、自分に覆い被さる男を見上げた。したたかに打ちつけた背中が痛みを伴うが、それ以上に酸素不足で目がチカチカする。草が頬を掠め、眉間に皺を寄せて首にかかる手に手をかけた。
縄で縛られる手が、擦れて痛いうえに、思うように動かせない。それでもガリ、と爪が男の皮膚を引っ掻くが、それに気を向けることもなく、カッと見開き、ギラギラと獰猛な輝きを灯す瞳が私を見下ろしている。歯茎を剥き出しにして、男が低く唸った。
「貴様さえ・・貴様さえ、いなければ・・・あいつはっ!!」
「、っ」
ぐ、とより力が篭められ、苦悶に顔が歪む。少しでも気道を確保しようと、喘ぐように口を開き首を締める男の手に手をかけて引き離そうとするが、生憎女の力では上に乗る男の力を跳ね除けることは難しい。苦しい、と目尻に涙が浮かぶ。頭が朦朧とし、目の前が僅かに霞んだ。
これは非常にヤバイ、と強く瞬きをして腕に力をこめる。霞む視界は、憎しみに悪鬼のごとき形相で首を締める男で占められた。憎しみに囚われた男の、憤怒と、悲愴の顔。
「なんで貴様が生きている?!どうしてルヴァイド様はお前を生かすんだ!!」
んなもん作戦に必要だからに決まってる、と言い返したくともできるはずがない。かわりに引き攣れた苦悶の声が零れ、ハッと酸素が肺から出ていく。締めつける手に抵抗する為の力が、徐々に弱くなっていくのがわかった。指先が痺れてきたようにも、思える。
さらさらという小川の音すら聞こえず、変わりに血の駆け巡る忙しない音が耳の奥から響き、目の前が真っ赤になりそうだった。男が、爛々と輝く瞳を不意に悲痛に歪ませて、唇を噛み締めた。苦しさに細めた視界に、男のひどく傷ついた顔が歪んで見える。
苦しいのは私なのに、男の方がもっとずっと、苦しそうだった。・・・それは、きっと。
「あいつを返せ・・・返せええぇ!!!!!」
泣いている。涙は落ちてはこないけれど、そう思った。あぁ、心が泣いている。叫んだ男がギリギリと首を締めるから、息が出来なくて頭が真っ白になって、だからこそか、妙に冷静な思考がある。目を細めて唇を小さく戦慄かせ、抵抗するのもままならなくなった手を、ゆっくりと持ち上げた。瞳孔を見開き、歯を剥き出しにして唸る男の頬に、指先が触れる。さ迷うように揺れた指先がひたりと頬に触れると、驚いたように男の手が一瞬緩んだ。ひゅっとその一瞬解放された気道に空気が入り込む。あまりに急で咽そうになったが、憎しみに泣きそうな瞳が、刹那正気を取り戻したように私を見つめると目を細めた。
交差する。細めた瞳と、見開いた瞳が、沈黙の中で交じり合う。私は唇を引き締め、苦しさを隠して震える指先で、僅かに撫でるように頬を辿り。
「・・・ぁっ、」
男の唇が、細かく戦慄いた。震え、脅えたように狼狽し、食い入るように見開かれた眼差しを見つめ返せば、強張った指先から唐突に力が抜けた。げほ、と、息を零す間も無く、ぐらりと男の体が傾ぎ、視界を隠すかのように上に落ちてくる。どさりと容赦なく男の全体重が体にかかるが、広がった気道に入ってくる酸素に対応する為に、それはそのままにしてげほげほと大きく咽込んだ。肺に酸素が一気に行き渡り、満たされていく感覚に少々頭がくらりとする。
眉を潜めながら、上に覆い被さった男を乱暴にどけて、脇に追いやりながら上体を起こした。喉に手を添え、懸命に呼吸をし、酸素の美味しさを噛み締める。あー・・・やっぱ肺呼吸する生き物にとって、酸素って大事。いつもは気にしないのに、やたらと有り難味が身に染みて、喉を撫でてしみじみと感じ入った。・・・喉、絶対痕が残っただろうなぁ・・・。
首元まで覆う服だからいいとして、そうでなかったら誤魔化しが効かなかっただろう。そう思い、ふぅと大きく息を零して、じろりと眼球を動かした。
「ていうか、助けるのが遅いです」
「すみません。言われた通りメノウさんの傍にいましたから、気づくのが後れました」
そういって申し訳なさそうに眉を下げる、糸目の男。格好はさながら闇に溶けそうな暗色の着物・・・いわゆる忍び装束といったものか。動きやすそうにすっきりと纏められ、額にあるのは何を模しているのか・・・たぶん鬼の面をつけて、音もなく横に膝をついた。けほり、と小さく咳を零してちらりと脇に倒れている男に視線を向ける。
「まぁ、シオン大将にそう頼んだのは私ですから、強くは言えませんが」
そう呟き、微苦笑を浮かべる。結果論だが助かったのだから、文句を言うものではないだろう。捕まっている天幕で彼の存在に気づいたとき、最低限の遣り取りだけはすませておいてよかったというべきか。私がこんな目に合ったのだ。それこそ抵抗などできるはずもない瑪瑙に危険が忍び寄っていたら、後悔どころの話ではない。一応入り口に見張りがついているとはいえ、・・・この男のように復讐心に駆られないとも限らないのだ。
共犯者など、いくらでも作れる。それにここはあくまで敵地。絶対の安全など保障できるはずがない。ルヴァイド達を信用しないわけではないけれど、穴なんていくらでも見つけられるだろう。生きている限り、「死角」というものはどこにでも存在するのだ。
「瑪瑙の方は、大丈夫なんですか?」
「えぇ。意識ははっきりしているようでしたし、傷の具合も良好でしたよ。見張りにはあの機械兵士がついていましたから、よほどのことがない限りはあなたのような目に合うこともないでしょう」
「それは嫌味ですか、シオン大将?」
「いえいえまさか。ただ、あなたがこんな目に合ったと知れば、彼が黙ってないだろうなぁ、と思っただけですよ。本当に、間に合ってよかった」
にっこりと笑みを深くしたシオン大将に、思わず半眼になってねめつける。遠まわしに危険な真似しないでください、と怒られたようなものだろうこれは。
まあ、自分も命の危機だったのは確かだから、強く反論できるはずもないのだが。それに、実際私が死にかけたと知れば暴走しそうなのが約一名いるのは確かだ。
そう思えばあえて反論せずに、黙って視線を逸らす。あぁやっぱり、同じタイプの人間っていうのはどうにも扱いに困るなぁ。
「まぁ、荒療治でしたがこうでもしなければまともな会話もできなかったでしょうし、仕方ないのかもしれませんね」
「・・・理解していて嫌味を言うのは、趣味が悪いですよ」
「性分です」
「まったく。食えない人ですね」
嘆息して肩から力を抜き、片膝を立ててそこに手を置く。年の功と言ってしまえばいいのか、それとも立場上からなのかは知らないが、なんとも食えない男だ。
にこりと柔和な笑みを浮かべるくせに、腹の底でどういう算段を巡らしているのか・・・まあ、私に不利益になるようなことではないだろうから、別段気にすることでもないか。
ぐしゃりと前髪をかきあげ目を眇めれば、彼は元々細い目を更に細めて笑んだ。本当に。
「あなたが味方で心強いですよ」
「光栄ですね。・・・それはそうと、わざわざこんな目に合ってまで一人になったんです。時間もあまりないでしょうから、手短に」
「そうですね。無駄話は止めにしましょう。・・・そろそろ、ここから出ようと思いまして」
軽く首を傾げ、にこりと微笑むとシオン大将はピクリと眉を動かし、鋭い瞳になって私を見た。
「突然、・・・でもないですね。その為に私をメノウさんにつけたのですか」
「それもありますけど、元々シオン大将と話した時には逃げる算段はつけていました。本当に、あなたがこちらについてきてくださって助かりましたよ」
逃げる計画がぐっと確実性を増したのだから、本当に彼がいてくれてよかった。でなければ、旅団がアメル達に接触するまで逃げることは叶わなかったかもしれない。ふ、と口元を緩めて、一層声を潜める。
「瑪瑙も目が醒めましたし、そろそろ本気で行動に移します」
「算段は」
「皆が寝静まる頃合に。・・・一番の難関はゼルフィルドなんですけど、まあ、秘色もいますし、それに瑪瑙についてはシオン大将に任せます。人を一人ぐらい抱えて行動できますよね」
怪我の治りが良好とはいっても、体力も落ちているだろうし、逃げるのだからできるだけ迅速且遠くに逃げなければならない。それに、逃げる場所は無論マグナ達のいるところだ。
生憎ファナンの方向なんて知らないのだから、シオン大将には先行してもらわないと困る。忍びなのだからそれぐらいできるだろう、と思うが・・・ちらり、と細身の体躯に目を向けると、彼はふ、と息を零して頷いた。
「メノウさんぐらいなら支障はありません。勿論、さんでも平気ですが」
「ならいいです。あと、は。・・・シオン大将は、薬とか得意な方ですか?」
「本業の一つですよ。なるほど。・・・確かに、私がいた方が何かと便利なようですね」
そういって苦笑するシオン大将に、こくりと頷く。うん。予想以上に巧くいけそうだ。
本業の一つ、というのが若干気になるが、シオン大将だし。色んな顔を持っていても不思議ではない。薬の扱いに長けているだろう、というのは忍びなのだから当然といえば当然か。
この世界の定義がどうなっているかは知らないが・・・まあおおよそ同じとみて間違いはない。ならば薬について、忍びがどうこうできないはずがないというもの。くすり、と口角を持ちあげ視線を落とす。
「なら、時間の調節もできますね。なるべく寝静まっても不審ではない時間・・・でも、ゼルフィルド、イオス、ルヴァイドはそれぞれ離れていると望ましいです。私達の天幕にはいない時間に、効き始めるようにしてください。その後は・・・あの開けた場所。あそこで落ち合い、ファナンまで先導をお願いします。実行は、そうですね。明日の夜。今はもう食事の時間も始まってしまいましたから」
顔を指示した方向に向けて言うと、得心がいったようにシオン大将が頷く。この辺りで開けた場所といえば、ゼルフィルドが日光浴をしていた場所だ。特別目印になるようなところが正直ない。だからわかりやすいところといえば、そこぐらいしかないのだ。幸いにもキャンプ地からはいささか離れているし、落ち合う場所には申し分ないだろう。心配は、いつ、どこで、ゼルフィルドに遭遇するか、ということだ。
食事をしないゼルフィルドには、薬は効かない。離れているとはいっても、駐屯地全体が静まりかえれば不審に思うはずだ。相手は機械兵士。気づかれたら、すぐさま追いかけてくるだろう。更に言うなら、不可解な点が多すぎるビーニャも気になるところだが、多少のリスクは承知の上。危険を侵さず脱走などできるはずもない。
「了解しました」
「では、これについては瑪瑙にも伝えておいてください。どうも、私は会わせて貰えないようですから」
警戒されているからか、目覚めたと聞いても一向に会わせてもらえる気配がないことを歯がゆく爪を噛む。溜息混じりにそういうと、シオン大将は目を細めて、ポツリと呟いた。
「そういえば、さん」
「なんですか」
「どうして、抵抗しなかったんです?」
「・・・なんのことですか」
ピクリ、と眉を動かし訝しげに見ると、シオン大将は薄っすらと微笑みながらちらり、と視線を横にずらした。追いかけずとも、視線の先など理解している。沈黙すると、さらさらという小川の流れる音があたりに響いた。
「あれほど冷静さを失っていたのですから、あなたなら不意をつくぐらいできそうですが」
「買被りですよ。手も縛られたままですし、あの時は頭も混乱してましたから」
「あなたが?・・・何を思ったかは知りませんが、あまり、危ない橋は渡らないように。私が間に合わなければ危なかったことをお忘れなく」
「肝に銘じておきます」
言いきれば、シオン大将は一つ微笑んで、そして現れた唐突さと同じように音もなく目の前から姿を消した。追いかけることもできない素早さに感嘆を零し、意味もなく森に視線を向ける。月影に異様なシルエットを浮かべる木々を見つめながら、ちらりと今だ目覚める様子のない男を見下ろした。
(別に、死ぬつもりなんてなかったのに)
・・・よほど巧く決めたのか、それとも何か薬でも使ったのか、判別はつかないが、全く目覚める様子のない男に、ふぅ、と息を吐いて腰をあげる。ぐっと背中を伸ばして、そういえば打った背中の痛みも引いたな、とこきりと首を鳴らした。放置することに罪悪感など沸かないが(殺されかけたのだ)、なんとなくごめんねーと言い残してさっさと歩き出した。
草を踏みつけながら、ぼぅと木々の合間から見える月を見上げる。別に、大将が言うほど危ない橋ではなかったのだ。あの人が助けにくるだろうことはわかっていたし、それに確実に意識を失わせる必要があった。それには私では少々役不足だったし、命を捨てるつもりなどなかった。ただ、まあ、少しぐらい捌け口になってやってもいいか、とは思ったけれど。
「・・・返せ、か」
ぽつりと呟く。万感の思いが篭められた訴えは、嫌でもあのことを思い出させる。滑稽にも、思えるが。返せ、など。そんなの、アメル達こそが声高に叫びたいことだろう。
自分のしたことを差し置いて何を、と嘲笑してもよかったが、所詮人は人。・・・感情をある程度コントロールすることは可能でも、完全には無理なのだ。
あのまま囚われていれば、彼はどうなっていたことか。別に私が気にすることでもないけれど、それによって瑪瑙に被害が飛んでも困る。いざとなればシオン大将がついてるんだから、滅多なことにはならないとしても、出る杭は打つべきだ。そう思いながら、片隅で彼について考えてみる。きっと友人だったのだろうな。それもかなり親しい部類の。
許せなかったんだろう。憎かったんだろう。かといって私に今更どうこうできるはずもない。あの時でさえも、何も出来なかったのだから。自嘲する。知っていれば防げたかといえば、可能性は多分に低い。実証されなければ、到底信じてなど貰えないだろうことだったから。
―――主様以外がわたくしに触れるでないわ、汚らわしい!!
瞼を閉じ、響くのは甲高い、侮蔑の声。怒りに声を震わせ、高らかに吐き捨てたそれを、聞いたのは私だけ。瞬きをして吐息を零す。別段深いといえるほどの後悔などではないけれど、後味は悪かった。血桜の性質を把握していなかったというのは、使い手として反省するべき点だ。まあ、まさかあそこまで苛烈な子だとは思っていなかったが。呆然としている私や周りとは裏腹に、何もかも承知していたのだろう秘色は、遅すぎる忠告を零した物だ。
もっと早く言ってやれ、と思ったがあれが一種の意趣返しであったことは想像に難くない。
(それは、主人以外の存在が触れることすら厭う傲慢な奴だ。結果は、見ての通りだがな)
見ての通り。微笑みこそなかったが、淡々と感情もなく言い捨てた秘色の言葉に、周りが絶句したのは記憶に新しい。かくいう私も絶句ものだった。それほどまで、と。
思えば血桜のあまやかな声が蘇る。よほど貞操観念が強いらしい。刀に貞操も何も、とは思うがそれ以外に言い表しようがない。かといって、あんな守り方もどうなのだろうか。
そこが苛烈だと称する所以である。何も。
「腕ごとふっとばす必要、ないでしょうに」
そんなに触れられたことが我慢ならなかったのか。我慢を覚えさせるべきか・・・触れた瞬間の鮮やかな桜吹雪は、いっそ見事といってしまってもよかった。鮮血の桜吹雪。
同時に、まるで風船が針で突つかれ破裂するように、肉片になった片腕。その場でショック死しなかったのが奇跡、というものか。結局彼は、死んでしまったそうだが。サプレスの天使でも追いつかなかったのだろうか、治癒が。それとも出血が酷かったのか。まあ、あの天幕はたぶんに使い物にならなくなっただろうと思うぐらいには、ひどい有り様だったけれど。咽かえるような血の臭いを思い出して眉を潜め、がさりと森を抜ける。
監視役は小川で眠っているし・・・ま、さくっと天幕に戻ろうか。戻っていれば何も言われないだろう。そう結論付けて、あまり人目につかないようにテントを擦りぬけて自身の捕まっているところまで歩く。その際チラリ、と瑪瑙がいるだろう天幕の方向を見つめたが、様子がわかるはずもなかった。はあ、と溜息を零して、それでも明日、会えるのだと思えばいくらか気分も上昇する。失敗は許されない。緊張を帯びて、天幕に足を踏み入れる。
膝をついて顔をあげた秘色に、軽く微笑んでそういえばこの首のこと、この子には隠しとおさないとな、と。笑顔の裏でそう思った。まあまず何より、作戦について話しておかないと。勝負の時は、近づいた。