逃亡劇は森の中



 ビーニャは、なんでも上から指示が出て駐屯地から本拠地に戻ることになったらしい。なんてタイミング。わざわざ報告にきた彼女にそう内心で驚きながら、にこやかに別れを告げた。天命は我にあり、なぁんてね。
 明かりも消えた天幕の中はひどく暗い。僅かに外からの光源により周囲が観察できるが、それも知れたもので闇夜に慣れていないものからすればないも同然だろう。ここ最近こんな中で生活していた私にしてみれば、今更なことでもあるが。閉じていた目を開け、むくりと体を起こす。被っていた毛布がその拍子にズレたが、特に物音が立つことはなかったので、さして気に留めなかった。
 体を起こし、しばらくの間そっと息を殺して周囲の気配を辿る。全神経を集中させて外の気配を探れば、欹てた耳に風の音が届いた。ざわざわと葉が擦れあって奏でる音も同様に微かに聞こえたが、それだけだ。
 不自然なまでに、静まり返っている外の様子に口角を持ち上げる。常ならば張り詰めたように人が動く気配、僅かな会話、足音、とにかく身近に動く人の気配というものがあったはずだがそれもない。
 夜、確かに旅団といえど寝入る時間ではあるが、それでも幾人かは起きて、動き、それなりに行動をしている。つまり、「人が動かない」静けさなど有り得るはずがないのだ。
 しかし、それにも関わらず今探る限りで天幕の外では誰一人動く気配が感じられない。念のため、音を立てずに入り口まで近づき、そっと垂れ下がった布を押しのけて外の確認をとれば、入り口の両脇に槍を支えに崩れ落ちるなんとも無様な姿の兵士の姿が見えた。
 隙間から伺っただけだが、いつもは直立不動で警戒線を張り巡らしている相手が座り込んでいるだけで効果のほどは知れたこと。手を伸ばしてちょいちょいと頬も突いてみる。
 ・・・起きる様子はなさそうだ。どうやらうまくやってくれたらしい、と一つ頷き、顔を一旦引っ込めると振り返った。

「秘色、準備はいい?」
「御意に」

 少し声を潜めても、静かな天幕ならば十分に届く。奥でじっとしていた秘色の答えに一つ頷くと、手首を戒める縄に視線を落とした。

「縄抜けって初めてやるわ、私」
「少々お待ちくだされば私が解きますが・・・」
「大丈夫よ、大将に細工して貰ってるから」

 言いながら、ごそごそと手首を動かし、ぐるりと回す。するとあら不思議。ぱらり、ときつく結ばれていたはずの縄が解け、足元に落ちた。落ちた縄を摘み上げ、本当見事なものだな、と軽く揺らす。こういうのには結び方にコツがあるそうだ。手首の返し方や、縄の一部を動かすことによって解く術は様々にあるらしい。
 手品の脱出ショーってこんな感じなのかなぁ、という初体験に妙な高揚感を覚える。だって普通、縄抜けなんて体験しない。しばらくぶりに開放された手首に、やっぱり自由なことって素晴らしいと感嘆符を浮かべた。拘束されているという精神的圧迫もさることながら、手首が動かせないことによる不便も中々なものだ。
 普段意識してないことだが、いざ使えないと本当に不便だものねぇ。そんなことを考えながら、コキコキとしばらく動かせなかった手首を動かし、ぐりぐりと柔らかく解す。
 これから脱出する身としてはできる限り万全にしておきたい。手首の柔軟性は割りと大切だろう。そうして体を地味に動かして調子を整えながら秘色を見れば、私同様に縄が地面に落ちてしまっている。さぞ窮屈であったに違いない。解けて落ちている縄になど目もくれず、暗闇の中浮かび上がる純白の翼を広げた姿は今まさに籠の鳥が外にはばたかんとしているかのよう。
 そんな秘色をしげしげと観察し、実際逃亡を図るのだから籠の鳥も間違いではないなとそう考える。・・・さて、体も解れてきたし、いい加減に行動するべきかな。
 壁に立てかけてある血桜を手に取り(私以外が触るとあぁなるのだから仕方あるまい)、腰に差し込む。ようやくあるべき所に戻ったと、歓喜の声が刀身を震わせたが気づかれてもまずいので軽く柄を叩き嗜める。まぁそう簡単に目覚めるような甘い調合をしているとは思わないが念には念を入れて、というところだ。

「さぁて、行きますか。秘色、監視よろしく」
「お任せを」

 そういって、秘色が神経を張り巡らしたと同時に血桜を鞘から抜き放ち、刃先をピンと張った布に突き刺した。ぶつり、と繊維を貫く音が聞こえて、ビィィィ、と下に刀身を動かすと綺麗に縦に布に切れ込みが入る。裂く音が大きく聞こえてもまずい。できるだけ音が響かないように、ゆっくりと下ろしていく。下まで切り裂くと、ぴんと張られていた名残も虚しく、はたはたと頼りない風情で布の端が揺れた。人一人分ぐらいはこれで抜け出せるだろう。
 ふぅ、と息を吐いて秘色を見れば、口元が仄かな微笑みを浮かべた。誰にもまだ気づかれてはいないようだ。いくら食事に薬を混ぜて眠らせているとはいえ、真っ正直に入り口からでるわけにもいくまい。見張りは縛っておくのがいいかなぁ。

様。先に私が」
「そうね・・・いや、私が先に行くわ」

 一瞬考え、頭を振って秘色の提案を退ける。何故、と問いかけられ、私は横目を向けた。

「外は危のうございます。先に私が行くべきかと存じ上げますが」
「悪いけれど、秘色じゃ目立つわ。こういうのは目立ったらおしまいなんだから」

 闇夜の烏、というには純白の秘色は闇に浮きやすい。その点で言うのならば、特別こういう状況を意識していたわけではないが黒一色の私が先陣を切った方がわかりにくいだろう。
 秘色には悪いが、隠密行動には向いてないのよねぇ。あ、いや、空からの偵察には使えるかもしれないけど。外に出たら真っ先に秘色に掴まって空から広場にいくつもりであるし。だってわざわざ危険冒して駐屯地内を闊歩するだなんてするわけないじゃない。効率良く行動はしなければね。こてりと小首を傾げて言えば、秘色は言葉に詰まったように唇を引き結び、納得したくなさそうではあるが、渋々と頷いた、感情と理性の判別がつく子でつくづくよかった。

「わかりました。確かに、それならば私は後の方がよろしいでしょう」
「ん、良い子。じゃぁ行くわよ。手筈はわかってるわね?」
「御意に」

 細かに確認はとらないが、挑戦的に言えば秘色は薄っすらと笑みを浮かべて頷く。その意気やよし、とばかりに、私は注意深く周囲を伺いながら、切れ込みをいれた天幕からそっと外に出た。冷えた夜風が頬を撫でる。思えばこれだけ自由な状態で外に出るのも久しぶりだ。ちょっとした開放感を味わいつつ、音も無く天幕の影に身を潜めて、まだ中で待機している秘色を、切れ込みから突っ込んだ手で手招いて誘い出す。
 物音も無く、ぬっと隙間から出てきた秘色と一旦目配せを交わすと、声も無く横にしゃがみこんだままの秘色の首に腕を回した。そして同時に、いささか遠慮がちに腰に回される見た目よりもがっしりとした腕。おずおずとしたその動きに、僅かな微苦笑を浮かべるとぐっと秘色の首を引き寄せて耳元で囁いた。

「こんなことで遠慮なんかしている場合じゃないわよ」
「・・・心得ては、おりますが・・・」
「私を落とす気?」
「そのようなこと、たとえ天地が返ろうともありえません」

 やけにきっぱりと言い切った秘色に、ならもう少しちゃんと固定しなさい、と言って体を寄せる。秘色はそれでも一瞬戸惑っていたが、やがて意を決したように唇を引き結び、力強く腰を引き寄せた。そして、背中にある翼を一度ばさり、と大きく広げ、空を一打ちする。と、同時に地面についていたはずの脚から平らな感覚が消え、何もない場所に投げ出されたのを感じた。空中を引っかく足先がなんとも頼りない。
 反射的に秘色の首に回した腕に力込めながら、下を見やれば天幕の天辺が見え、地上が遠く感じる。おぉ、と軽い感嘆の声をあげて、しげしげと呟いた。

「本当に飛んでるー」
様は、空は初めてでございますか」
「飛行機はあるけどさすがにこんな飛び方はしたことないからねぇ」

 スカイダイビングとか体験していたらまた違ったかもしれないが、いや、それでもあれは結局「落ちる」ものだ。飛ぶことはできない、となればこの体験は滅多なことでは味わえないものだろう。異世界にきてから初体験が多くて嬉しいのか悲しいのか。
 内心複雑な気持ちになりながら、空で一旦静止している秘色に地上から視線を戻す。慣れない、といったからか動くのを躊躇っているのだろう。秘色は空を飛べるが私は飛べないし、もしも落ちたら危険だ。まぁ秘色が落とすことは本人も宣言したように滅多にないことだと思いたいが・・・。あまり長く静止しているわけにもいかない。高度はさほど高くないのだ、見つかったら大問題である。・・・まぁ、食事時に薬を混ぜたので、大半の人間は夢の中、の予定ではあるのだが。だから多少何かが起こっても問題はないと思いたいが、世の中どういう不足の事態が起こるかわかったものじゃない。
 ていうかこの状況がそもそも不足の事態っていうか?うん。普通ないよね、こんなこと。念には念を。秘色の上半分は隠された、だが綺麗に整った顔を見つめて指示を出す。

「行って」
「承知致しました」

 密やかな会話は、誰かに届くことも無く、羽ばたいた両翼の音にかき消された。撫でるように秘色が空を動き、離すまいと固定された腕に力強さを感じる。飛んでる飛んでる、と再び思いながら眼下の様子を観察する。
 私達がいた天幕はこの駐屯地から一層奥まった場所であり、何かがあった時のためにもと、ルヴァイドの天幕からも程近い。一際大きく立派なやつがそれだろうと目星をつけつつ、こういう配置だったのね、と記憶していく。
 出歩くことを了承なんてされるはずもない捕虜が、駐屯地の詳しい立地など知る由も無い。中心部分にある開けた広場みたいなところは鍛錬か集会に使う場所なのだろう。
 所々にある松明に火が赤々と眼下を照らし、ちらちらと駐屯地の様子を影に浮かばせる。時折地べたに座り込んでいる兵士も上から見かけ、本当に大将の薬はよく効くわ、と感心の吐息を零した。
 ・・・どうやらこの異変にまだ誰も反応していないことから、ほとんど全員に薬が効いて回ったのだと信じて間違いないらしい。これではぐれにでも襲われたら壊滅よね。
 それならそれで手間も省けるものを、と中々人でなしなことと考えつつ胸を撫で下ろす。

「・・・ルヴァイド達も眠ってるみたいね」
「機械兵士が見当たりませんが」
「ゼルフィルドは寝ないから、駐屯地の周囲を見回ってるはずよ。さすがにいたらこの状態にはならないでしょ」

 恐らく、もっと迅速に行動し、騒ぎが起こってこれほどの余裕は生まれなかったに違いない。真っ先にルヴァイドを起こして、そのルヴァイドが焦り、怒り、だが冷静さは失わずに事態は展開する。
 その後はきっとイオスを中心に私や瑪瑙を探すために行動するはずだ。まったく、機械兵士なんてものがいなければ動くにも楽だというのに、厄介なことこの上ない。もっとも、帰ってきても同じことがいえるのだから急ぐに越したことはないが。
 飛んでいる秘色に急いで、と耳打ちすれば、心得たように頷き、空を滑るスピードが増す。そうして駐屯地からある程度離れた頃、暗い木立が広がる上空に到達すると少し開けた場所が眼下に広がった。下に、と言えば無言で音も無く秘色は降り立ち、足裏にやっと平らな感覚が戻ってくる。頼りない空中から馴染んだ、まさに地に足つく状態に思わずほっとする。所詮、人間なんて地面を這いずってなんぼということだ。

「シオン大将」
「ここにいますよ」

 駐屯地からは離れているから、声を張り上げたところで特に問題は無い。まぁ、大声を出さずともかの人ならば問題はないだろうから、普通ぐらいの声で呼びかければすぐさま返事が返ってきた。そして音も無く茂みから姿を現すのはさすがといった所か。
 ニコニコと相変わらずの糸目で微笑むシオン大将を視界にいれ、その腕の中に視線を落とす。あぁ―――やっと、会えた。

「瑪瑙・・!」
ちゃんっ」

 今は闇夜に黒ずんで見える蒸し栗色の髪、あのときは閉じられ、長い睫が縁取っていた白い瞼はきっちりと開き、大きなアーモンド型の飴色の瞳が僅かに涙に濡れているように見えた。肌の色は月明かりのせいか、まだどこか青白く見える。
 常よりもやつれた頬に痛ましさが際立って見えたが、それでも生きて、動いて、元気にそこにいるとなれば今はそのことにも目を瞑りたい。
 シオン大将に抱えられていた瑪瑙は、空気を読んだのかゆっくりと地面に下ろされて、少しおぼつかない様子で両足で立つ。長いこと寝たままでいたのだ。立つことすらおぼつかないのも仕方ないことだろう。それでも両腕を広げてこちらに駆け寄ろうとする瑪瑙に私が素早く駆け寄り、両腕を伸ばして力強く掻き抱いた。
 くしゃり、と後ろ頭に手を添え、髪を掻き混ぜるように撫でてぐっと引き寄せる。いつもの潤いが無くぱさつく髪が少し寂しかったが、とくとくという少し早い心音と、確かな熱源、何より背中にきつく回された腕がぎゅっと衣服を掴むのに、堪らない安堵を覚えた。
 ああ、本当になんて久しい感覚なのか。最後にみたのは生きているのか死んでいるのか不安になるような儚い姿だった。この瞳が開く様さえ見れずずっといた。

「よかった、瑪瑙、本当によかった・・・!」
ちゃん、ちゃん・・・ちゃんも無事でよかった・・・っ」

 声を聞くのも久しぶりだ。甘くて優しいソプラノが、この子が無事であることの証拠。口を開くと同時に瑪瑙がすん、と少し鼻を啜る音が聞こえた。瑪瑙の髪に顔を埋めるように頬を寄せて、ますます力こめてぎゅっと抱きしめる。抱き潰すか、というぐらい。少し瑪瑙が苦しそうな素振りを見せると力を緩め、体を放した。
 ぷはっと息を吐く姿が、あぁもう本当に、懐かしくて仕方ない。辿るように米神から頬のラインを撫で、目を潤ませる瑪瑙に微笑みを浮かべる。しっかりと瞼を開いて、瞳に写る自分というもの確認すると額をこつりと合わせた。

「心配したんだよ、瑪瑙。無茶ばっかりして」
「ごめんなさい。でも、私だってちゃんが心配だったんだから・・!」
「うん」
「目が覚めたらちゃんがいなくて、怖くて、心配で、不安で・・・っ。怪我してないかとか、危ないことになってないかとか、このまま、会えないんじゃないか、とか・・・!すごく、心配だったんだからぁ」
「うん。私も、起きてる瑪瑙に早く会いたかった」
「うぅ・・ちゃん、ちゃんちゃん・・・会いたかったよぉ・・・っ!」

 大きな目が潤むと、目尻から透明なそれがポロリと零れる。心配の度合いは私のほうが大きかったと思うし、無茶したのも危なかったのも瑪瑙の方だと思うが、泣かれてしまっては勝ち目などあるはずもなかった。僅かな微苦笑を浮かべてよしよし、と頭を抱いて慰めれば、強い視線を感じて胡乱に前を見る。シオン大将が、それはなんとも掴みにくい笑みを浮かべてこちらを凝視していた。なんですか。

「いえ、二人ともとても仲がよろしいんですね」
「えぇ。親友ですから」
「ふふ。まるで恋人同士の抱擁のようですよ?」
「そうですか?」

 まぁ確かに熱烈な抱擁ではあったと思うけど。首を傾げれば瑪瑙はびくりと肩を跳ねさせ、シオン大将の笑みが苦笑に変わる。そうして、でも、と朗らかな調子で続けた。

「仲がよいのはいいことですが、そろそろ逃げないと危ないですよ」
「あぁ、それもそうですね。瑪瑙、シオン大将のところに」
「・・・私、走れるわ」
「ダメだよ、病み上がりなんだから」

 まだ濡れている目尻を親指で優しく拭い取ってやりながら、そっと背中を押すと不服そうに瑪瑙が上目に見てくる。そんな瑪瑙のむくれた頬をちょい、と人差し指で突き嗜めるように言った。

「ある程度回復しているとはいっても、長距離に耐えられるような体力なんてないでしょ。まぁ、さすがに目的地までシオン大将に抱えて、なんてことは言わないけど安全地帯に出るまでは大人しくしてなさい」
「でも、それじゃシオンさんが」
「私なら大丈夫ですよ。ここまで抱えてきましたが瑪瑙さんは軽かったですし、機動力からいっても私が抱えたほうがよいでしょう。・・・そちらの彼にそれは酷でしょうからね」

 そういって、眇めた目で私の後ろを見るシオン大将に、私は苦笑を隠しきれない。
 振り返れば、無表情の中にも瑪瑙へ向ける殺気はただ事ではない様子の秘色がただ静かに佇んでいる。あれほど忌々しげなのに、邪魔をしようとはしないのだから彼の理性も相当だと思う。やはり、バルレルといい秘色といい、どうも彼らと瑪瑙は相性が悪すぎる。
 あれではシオン大将と交代に、という案も出せそうに無い。いえば彼のことだ。嫌でもやるだろうがそれでお互い精神を疲弊させていたら元も子もない。
 微かな吐息を零し、秘色の様子に気づいたのか肩を強張らせる瑪瑙を宥めるように撫で、シオン大将に押し付ける。

「すみません大将」
「いえ。気にしていませんよ。それより、早くここから動かないと」
「えぇ、そうですね。秘色」

 少し時間を取りすぎたかもしれない。表情を引き締めて緊張を一気に張り巡らせるシオン大将に私も空気を一変させ、不安げな瑪瑙を大将の背に乗せる。
 ああまで言えばさすがに反論をしても無駄と悟ったか、あるいは状況が押し問答をしている場合ではないと気づいたか。さして抵抗もみせず、しかしおずおずと背に乗った瑪瑙を確認してシオン大将が立ち上がる。そうして、秘色を呼びながら振り返れば、彼は心得たように頷き―――次の瞬間には私の前へ躍り出るように動いた。
 ガキィン、と鈍い音が静かな森の中に不躾な様相で響き渡る。その音の大きさと、明らかな攻撃に、一瞬にして張り詰めた空気が周囲に満ちた。
 誰が、という問いは愚問でしかない。音こそなかったが、あれは弓などという代物ではない。もう見つかったか、と思うと舌打ちの一つも零したくなるが、狙われたとなるとそうも言ってられずに瑪瑙を背負うシオン大将を後ろにし、ざっと視線を周囲に走らせる。
 そして、見つける。重なる木立の中に隠れ佇む一つの影。月が俄かに周囲を照らすとようやく浮かび上がるその姿に、やはりか、と目を眇めた。

「つくづく私の邪魔をしてくれるわね、ゼルフィルド」
「先ニ逃ゲタノハオ前ダ、

 逃亡を阻止することは当然のことだ、と合成音のカタコトで告げられ最もだと薄ら笑いを浮かべた。油断無くきっちりとこちらに照準が合わせられている銃口に厄介だなぁ、と思いながら血桜に手を伸ばす。
 機械兵士ならば気配というものも極端にないだろうし、銃声音もサイレンサー付きならば問題ない。秘色が先に庇ってくれなければ今度は私が危なかっただろう。殺気を漲らせてゼルフィルドと対峙する秘色の背中を見つめ、柄に手をかけながらシオン大将を庇うように僅かに後ろに下がる。(正確にはその背中の瑪瑙を、なのだが)声を潜め、問いかけた。

「他に誰かの気配はありますか」
「・・・いえ。私が感じられる範囲には。どうやら一人でここまできたようですね」
「時間稼ぎが目的でしょうか・・・そうなると益々長居などしていられませんね」

 シオン大将の薬は強烈なものを仕込んでもらった。薬に耐性があったとしても、そうそう簡単には起きないだろうし、起きたとしてもすぐにすぐの行動はできない、と思いたい。
 だがあのルヴァイドだ。今頃はどう行動していることか。もう少しゼルフィルドの行動に時間がかかると踏んでいたが、甘かったか。苦い顔でしばし逡巡する。
 さて、どうするか。ゼルフィルドを撃破しここから逃げるのは不可能ではない。だが戦っているうちに人が集まれば元の木阿弥だし、かといってゼルフィルドを振り切って逃げるのも中々に骨が折れる。
 加えて、こちらの戦力は瑪瑙と瑪瑙を背負うシオン大将を外して二人。人数的には一対二ではあるが、機械兵士としてあの鉄の装甲を持つ防御力の高さは侮れないだろう。
 攻撃するなら懐に入って間接部位を狙うしかない。だが銃という遠距離攻撃に加えて威力も計り知れないとなれば・・・懐に入るだけで大変ではないか。というか戦闘に関してずぶの素人といっても過言ではない私という足手纏いがいる時点で実質一対一のようなものではなかろうか。ゼルフィルドと秘色の戦闘経験値に勝てるとは思わない。
 こちらは時間との戦いでもあるし、戦闘はなるべく避けたい。さて、そうなるとシオン大将のシノビスキルで何かないものかと思うが・・・瑪瑙を預けている今、動きにくいだろうし。
 あの夜の霧があればなんとかなりそうだが、あれを使うにもそれなりの条件というものが必要だろう。この状況で使えるものなのか、それは私にはわからない。相談するにもこうしている間にリミットは迫っている。単純な目くらましでは、機械兵士であるゼルフィルドには無意味だし、打つ手が限られてきたな・・・ふむ。

「仕方ありませんね」
さん?」

 あまり気乗りはしないが止むを得ない。呟くと同時に表情を改めて引き締め、怪訝なシオン大将に横目を向けてから、私が思考している間ゼルフィルドを牽制していた秘色に呼びかけ・・・いや。「命令」をした。

「秘色、ここでゼルフィルドの足止めをしなさい」
ちゃん!?」

 淡々と「お願い」ではなく「命令」をすれば、瑪瑙が甲高く声をあげる。信じられない、とばかりに注がれる視線と、つぅ、と眇められたシオン大将の眼差しが背中に刺さった。
 だがそれをも無視をして、相変わらずハルバートを構えたままの秘色を見れば、彼は何の抵抗も気負いもなく、やはり当然のように頷いた。

「御意に」

 拒絶もショックも何も感じられない。むしろ微笑みすら浮かべてより悠然とゼルフィルドの前に立ち塞がる姿は威風堂々としていた。私はその背中に一つ頷き、特に名残惜しい様子も見せず踝を返す。その時視界に入った瑪瑙の方がなんだか秘色よりショックを受けているようで、私はなんとなく苦笑を浮かべたくなったが、口元を引き結ぶと声とかけた。

「行きましょう、二人とも」
「・・・いいのですか?」
「私がいったんです。いいんですよ」
「でも、ちゃん、秘色君を残してなんて・・!」
「いいから。時間がないのよ!」

 実際問題、ぐずぐずしている場合ではない。少し語気を強めると瑪瑙はひぅ、と喉を鳴らして口を閉ざし、シオン大将はそれもそうですね、と読めない表情で動き出した。
 人一人抱えているが立つ足音が最小限なのはさすがというべきか。その背中を追えば、私達が動き出したのに気づいて放たれる銃声音。
 しかしそれも立ち塞がる秘色が弾いたので、こちらまで届くことは無い。今度は音がしたのは、ここに私達がいると知らせるためのものだろう。
 最初の一発は不意打ちのための無音であったのだ。そう思うと、優秀だよなぁ、本当、と感心するしかない。そう思考している間にも足を速め、ほとんど走っている状態で、深い闇の森を駆け抜け始めた。瑪瑙を背負うシオン大将の背中が見える。この森の中、地理も無い私が先頭を行くわけには行かない。元々目的地はシオン大将先導の元にだったのだからこの配置で間違いは無いが、どうにも雰囲気が物々しく感じられた、瑪瑙の、ショックを隠しきれない目が脳裏をチラつく。

「・・・一つ、よろしいですか」

 無言でひたすら森の中をかけていると、シオン大将が口を開いた。走っていて、おまけに瑪瑙を背負っているのに余裕だなぁ、と思いつつどうぞ?とこちらは重くならないように軽い調子で答えた。

「どうして彼をあの場に?」
「あの場ではあれが一番有効だと思ったからですが?」
「私の術は策にいれなかったんですか」

 飄々として、特に重苦しさもない問いかけは果たしてそう聞こえさせているのか、それとも内心は憤りで一杯なのか。自分が軽んじられたと思ったのだろうか、彼は。
 それとも、私があっさりと秘色を犠牲にしたことが許せない?・・・きっとマグナたちであればあんな選択はしなかったことだろう。非情といえば非情な、他者を切り捨てる選択肢など。
 私は少し考え、それも考えましたが、と一呼吸いれてから木の根にかからないように足を動かした。

「大将は瑪瑙を抱えています。あまり負担をかけさせるべきではないと思いました」
「確かに、いつもより機動力に欠けるのは否めませんね」
「それに、あの中では一番秘色が動けたでしょう。闇夜で機械兵士と遣り合って、無事でいられる自信が私にはありません」
「そうですね・・・彼には翼もありますからいざという時でも逃げることは可能でしょうし」
「はい。ですから、総合的に考えてあの場はああするのが最も有効的な一手だと判じました。問題があるとすれば、感情論ですか」

 冷静に受け答えをすれば、瑪瑙がシオン大将の肩を掴む手に力をいれたのがわかる。
 瑪瑙を抱えなおしながら、シオン大将は進路を取りつつ、理性的ですね、と少し笑った。

「マグナ君たちでしたら、きっとあんな手段は取れなかったでしょう」
「そうでしょうねぇ。彼らは全員で逃げることに重きを置くでしょうから」

 召喚獣だとしても、優しい、お人好しな彼らならばきっと見捨てないし、置いていかない。私のとった手段は、ああいう人種にとって非難を浴びせられる代物だ。
 そう、結局、考え方と、何に重きを置くかが、決定的に違うのだ。私と、彼らは。私は私と瑪瑙の身の安全とを選んだ。全員の、ではない。たった二人の安全を。
 進路に飛び出ていた枝をシオン大将が、手に持った小さな刃物らしきもので切り落とす。あれはクナイ、というものかな、と思いながら遮るものがなくなったそこを駆け抜けて、草を踏みつけた。がさり、と足音が立つ。

「最後に、もう一つだけよろしいですか」
「なんです?そろそろ私も走りながらはきついですよ」

 さっきからずっと走っているのだ。乱れてきた息で少し面倒そうに答えると、くすりと彼は笑って少し走るスピードを緩めた。今だ追っ手がかかっていないところを見ると、秘色はうまくやっているようだし、この分なら多少休憩を挟んでも平気だろう。私もスピードを抑えると、冷たい夜風が頬を心地よく撫でた。

「彼は、召喚獣だから、残したんですか」
「えぇ、そうですよ」

 ぴたり。足が止まる。休憩をいれるつもりだろうか。まだ森からは抜け出せていないが、休憩が入るのは個人的には嬉しい。足を止め、息を整えながら浮かんだ汗を手の甲で拭う。
 体温があがったな、と一度大きく息をすると、シオン大将はこちらを振り向いて、読めない表情で私を見た。その顔を見返し、何か?とばかりに首を傾げる。瑪瑙が、泣きそうな顔をしていた。

「召喚獣だから、ですか」
「召喚獣だから、ですよ。あぁ、私の護衛獣だからというのも理由に入りますが」

 主人を守るために彼らは召喚された。理不尽な強制力で、自分には関係の無い事柄で。それは召喚した側の傲慢でしかない。私とて誰とも知らない相手にこんな血生臭いことが平然と起こり得る世界に召喚された。その憤りがないとは言わない。相手を見つけたら一つぶん殴ってやりたいと思うぐらいには腹立たしいことだ。そういえば、彼もシルターンから、誰かに召喚されてこのリィンバゥムにやってきたのだろう。特に召喚主が傍にいないところを見ると、どういう経緯かは知らないがはぐれとなってしまった身なのは想像に容易い。
 帰れなくなった世界。彼にも郷愁というものはあるのだろうか。勝手に召喚し、勝手にいなくなり、理不尽にも元の世界に帰れなくした相手を恨んでいるのだろうか。
 そんな彼は、召喚の傲慢さに、召喚師の身勝手さに、怒りを覚えているのだろうか。その、感情を悟らせないポーカーフェイスの下は、私には悟りきれないものではあったが。
 背の高い木々のおかげで、月明かりも乏しい周囲は暗く、相手の顔は見えにくい。見失うほどの暗闇ではなくとも、なんとなく相手の顔が見えにくいのは居心地が悪く感じたが、これも仕方の無いことだと溜息を零して首筋に手を添えた。暗闇に、何故か彼の額の鬼面だけがぼんやり浮かぶ。

「正直彼との付き合いなんてそりゃ微々たるものですよ。でもその中でも状況が状況でしたから、彼が強いことはわかっていますし、彼が異常なまでに私に対して忠実なのも、わかりました」
「ついこの前召喚したのが嘘のように」
「全くです。何が理由か知りませんが、不思議ですね」

 ファナンの方角ってこっちですか?と話の合間に尋ねれば、シオン大将はいえ、こちらです、と片手で瑪瑙を支えながらもう片手で指し示す。そうですか、と答えてどれぐらいの距離かなぁ、と考える。何日かかるだろう。とりあえず捕まらずに辿り付けるといいけどなぁ。

「でもね、大将。彼は召喚獣なんです」
「えぇ。そしてあなたは、召喚主だ」
「はい。何の因果か、私が主人となってしまいました。あまりそういうのは好きではないんですけどね」
「その割りには様になっていましたが」
「嫌味ですか?まぁ、割り切りは得意ですからね。でも、なるべくなら行使はしたくはないですよ」

 そういって微笑み、足を動かす。がさがさと草を踏み分け、ルヴァイドはどう行動しているかと思考を巡らせた。見失ったと諦めたか、それともそう遠くには行ってないとまだ探しているか。
 秘色は捕まえられたのだろうか。そうそうあれが捕まるとは思わないが、私が言ったのはあくまで「足止め」で、それ以上の判断はその場の本人に委ねるしかない。
 ぶつぶつと行動を分析しつつ、どういう日程でマグナ達と合流するか、とベルトに下げたポーチの止め具を外し、口を広げた。中に手を突っ込みつつ、更に歩いてシオン大将の前を行く。

「このまま真っ直ぐ?」
「はい。真っ直ぐ、走れば夜明け前には森を抜けられるでしょう」
「なるほど。やっぱり土地勘は必須ですねぇ。地理の勉強もしておかないと」

 せめて国の位置関係ぐらいは叩き込まないとなぁ。あと主要都市とか。やることが一杯、と疲れた溜息を零して、ポーチから取り出した袋の口を開いて逆さまにする。

「あー、と、そうそう。彼は召喚獣で、私は召喚主です。酷いことに、召喚された側はした側には逆らえない仕組みになっているそうですね」
「制約がありますから。でも、酷いといいますか」
「実際酷いでしょう?権利なんてないも同然です」
「そうですね」
「まぁ、それをどう扱うかは当人たち次第なので一概には言えませんがね。マグナたちは幸せな関係を築いていると思いますよ。微笑ましい」
「彼らは、一般的な召喚師に比べたら特殊に入るのでしょうね」
「一般的にいえば道具でしょうからね、彼らは」

 そういって、少し可笑しくなって喉奥で笑う。逆さまにした袋から取り出したものをコロリと掌に転がし、ぎゅっと握ると腕をぷらりと揺らした。

「ねぇ、でも大将」
「はい」
「それでもね、私はマグナ達みたいに優しい主人にはなれません。そういう性分なんです」

 少し進むと、木々の切れ間ができて、僅かに月明かりが差し込む。思えばこの世界は月が地球より大きいな、と思いながら、上を見上げて隙間の夜空を見つめた。

「だから、私は私なりにちゃんと決めているんですよ」
「何をですか」
「自分のしたことにはちゃんと最後まで責任を持つって。私は他人のしたことには無責任になれますが、自分のしたことぐらいはちゃんと責任を持とうって、それぐらいの常識は持っていますよ」

 振り返り、まじめを装う。私は今月明かりの下にいるから、シオン大将の顔がよく見えたが、彼は私の顔がよく見えないかもしれない。逆光、になってるのだろうか。
 しかし、顔が見えても彼の表情は読みにくい。さすがシノビ。口角を動かし、片手を持ち上げた。

「ねぇ大将」
「はい」
「召喚獣と召喚主ってね、さっきも言ったように制約と誓約で縛られているんです」
「はい」
「それって、きっと切っても切れない仲なんでしょうね」
「そうですね、時に忌まわしいぐらい」
「嫌なことでもお有りで?」
「さぁ、ご想像にお任せします」
「ふふ。意味深ですね。まぁ、とにかく、そう。どういう形であれ、繋がっているものなんです。私と彼は。理不尽でもね?」

 にっこりと、笑う。月が陰る。月に何かがかかったのか、一層闇が濃くなったように感じた。

「さぁ、そろそろ走りましょうか。夜明け前には森を抜けないと」
「そうですね。休憩も十分でしょう。瑪瑙さん、もうしばらく辛抱してくださいね」
「は、はい・・・」
「もうすぐマグナ達とも会えるよ」
「うん」

 こくりとシオン大将の背で頷いた瑪瑙に微笑みかけ、額にかかる前髪をさらりと避ける。
 そして激励のつもりでシオン大将の肩を軽く叩き、踵を返して上を見上げた。
 手を、差し伸べる。

「お疲れ様、秘色。怪我はない?」
「勿体ないお言葉にございます、様。私はどこも」
「そう、ならよかった」

 差し伸べた手が取られることはない。それでもそっと、触れることなく掌が重ねられ、白い翼をはばたかせて秘色は地面に降りたった。そして跪き、頭を垂れる。

「彼奴らはこの闇夜、探す当てもないと諦めたようにございます」
「そう。でも油断はできないわね。走るわよ」
「はい」

 言って、立ち上がる秘色。駆け出せば、後ろに続く気配。振り返りはしない。でも、横に並ぶ気配がしてちらりと横目を向けた。前を向いて、シオン大将が滑るように身軽に走っている。瑪瑙を背負っているのに、本当に身軽なことだ。あぁ、さっさとこんな森から抜けて、まともな寝床で休みたい!


 きらり。手の中で、紫のサモナイト石が輝いた。