2.ありふれた世界の崩壊
深緋が閃く。闇夜が舞う。
踊り狂うのは深紅の花弁で、踏みつけた足の先には決して屈しない双眸と驚愕の眼差しがあり、その眼は好ましかったけれども現状、それを慈しむ時間は存在し得なかった。
「後はそっちの仕事よ」
言い捨てて、魚人の掌を地面に縫い付けていた血桜を抜き放ち、呆然と周りに佇む海兵に構うことなく背を向ける。向けられる好奇が一身に集まってくるのを自覚はしていたが、殊更に気にかけるわけでもなく、けれども多少の不快感に僅かに眉を潜める。
ひょろいと長い(いや、この世界2メートル近い背丈の人間はうようよいるのだけど)男の横を通り抜けるとき、お~、と間延びした声がかけられた。
「おっそろしいお嬢さんだねぇ~。あのジンベエを止めるなんて、とんでもないことだよぉ~?」
「海軍大将に褒めて貰えるなんて、光栄なことね。でも、これはあんたの仕事じゃないかしら?」
目に痛い金と黒のストライプの嫌に派手なスーツの上に、白いコートが大きく風に揺れる。驚愕に沈黙していた周囲が俄かに魚人の確保にざわめき出す背景で、薄いサングラスの下から笑みと共に見つめる瞳はどこか冷たかった。警戒を混ぜて、けれど柔和な笑みに押し隠そうとする姿勢は上に立つものとしての教養か。食わせ物か、と思いながらこちらも負けじと笑みを浮かべ、こてりと小首を傾げた。
「お~動こうとしたんだけどねぇ~。その前に君がおっぱじめちゃうから、見物する羽目になったんだよ~」
「それはそれは、もっと早く行動するべきだったわね。迅速な行動は軍人として不可欠なスキルよ」
「耳に痛いね~」
そういって肩を竦める男は、どうせ少しも堪えていないに違いない。チクリとした嫌味もなんなく流す姿に、風に押される暖簾を思い出していると、そういえば、となんとも暢気な様子で男はへにょん、と眉を下げた。笑みは温和なのに、うっさんくさいなぁ、としか思えないのはやっぱり雰囲気の問題だろうか。
「お嬢さん、何者だい?」
「センゴク元帥のお客様、よ。大将ぐらいには伝達がいってるかと思ったんだけど」
「お~お~・・・・君が、『死神』かい~?」
「何時の間にそんな物騒な呼び名がついたのかは知らないけど、元帥がそう言ってるんならそうなんじゃない?」
てかなにそれ。厨二かよ。恥ずかしい。あまり好ましいとは思わない呼び名に眉を潜めると、こりゃまた、と男は顎鬚を撫でてマジマジと私を見下ろした。・・・そういや、基本仕事請けるときは電話か手紙の要請だったし、情報交換も間接的なものばかりで、本部にきたのはセンゴク元帥と契約したあの時だけだった気がする。噂は聞いていても実物を見るのはこれが初めてなのだろう。写真も情報もオフレコで通してきたし。海賊ではないのだから手配書なんてものが出回るわけもなく、大将といえど私を知ることはなかったと思われる。
だからといって観察されるように凝視されて良い気分になれるはずもなく、ひらりと片手を動かして男の視界を遮るように掌を向けた。
「じろじろ見るのはマナー違反よ」
「お~ごめんよ~。まっさか死神がこんな若い女の子だったとは思わなくてねぇ~」
「まぁ、情報は流さないように言ってたから仕方ないわね。さぁ、あんたはそこの魚人の連行についていかなくていいの?多少怪我をしているとはいえ、あの様子じゃまた暴れるわよ」
「ん~それはぁ、困るねぇ~。でもねぇ、あっしの仕事はあんたの迎えでもあるんだがねぇ」
「私は別に構わないわ。元帥の部屋に行くだけなら道はわかるし、客とは言ったけど実際はそんな上等なもんでもないしね。案内だけなら優先事項はあっちに偏ると思うけど」
「それもそうだね。じゃ、お言葉に甘えさせて頂こうかね~。悪いねぇ、お嬢さん」
割とあっさりと同意をした男に、私は気にするな、の意味を篭めて口角を持ち上げ、派手なスーツがすっと横を通るのを横目で追いかけた。背中にでかでかと書かれた正義の文字が、歩く際に起こる風に煽られて歪みを帯びる。
彼の行く先には、海兵に手錠をかけられる魚人がいて、そういえば、と首をかしげた。
「戦力ダウンね。どうするつもりかしら」
きっと執務室で頭を抱えているだろう苦労人を思い浮かべてひっそりと同情する。海侠のジンベエは、どうやら白髭と戦うことはお気に召さなかったらしいし。今後落ち着かせて話をしたとしても、あの目をみる限り、聞く耳は持たないでしょうねぇ。
ということは、彼はあのままどこぞに収容されるのだろう。下手に白髭の戦力が上がっても困るわけだから、こちらの戦力が削れるにしてもそれが妥当な処置と言える。
ふぅむ。それにしても、戦う前からハプニング続きね。王下七武海の一角がまたしても崩れたということは、それだけ別の均衡も崩れたということだ。すでに一人、アラバスタで事を起こそうとして捕まったばかりだというのに、またしても目まぐるしく世界は動きを変えていく。
かろうじて保たれているバランスは、何時、その動きを大きく傾かせるかわからない。もっとも。
「もう傾いてたかもね」
少なくとも、見せしめが行われるその時に、世界が揺れることは間違いないだろう。
それがどちらに向かって揺れるのか、そんなことはその時までわかりはしないけれど。