4.言葉なき来訪者
戦場で気を抜くから、こんなことになるのだ。
「ちゃん・・・?」
見下ろした視界に見開かれた飴色が映る。白く透き通った素肌に薔薇色の頬が際立ち、卵形の小作りなフェイスラインを乱れた蒸し栗色の髪が張り付くように縁取っていた。
扇型に開いた長い睫毛がぱちりと音をたてて上下し、食い入るように見つめる双眸に安堵と共に小さく口角を持ち上げる自分が映ると、俄かに飴色が潤みを増してより濃く染まりまるで蜜のよう。できるならば浮かんだ涙を指先で拭い取ってあげたかった。まろい頬に手を這わして、穏やかに名前を呼んであげたかった。伸ばされた右手を握って、抱きしめてその背中を撫でたいと思うのに、不躾なほど負荷のかかる両手が煩わしい。
ついでに背中に当たる熱に火傷しそう、とそう思いながら、目一杯力をこめて背後に血桜を薙ぎ払った。ぶん、と空を裂く音に紛れて血色の刀身が花弁を僅かに散らし、反動に合わせてくるりと体を反転させる。背筋を伸ばし、首筋にまとわりついた髪をばさりと後ろに払うとわなわなと憤りに震える声が太く腹部を震わせた。
「貴様・・・死神!!裏切る気か!!」
ボッボッ、と男の怒気に合わせてぐつぐつと煮え立つような紅蓮色のマグマが噴き上がる。それが地面に落ちるとじゅううう、となんとも言えない熱気とともに蒸気が立ち上った。
いるだけで暑苦しい、とその様子に不快感を出して眉を潜めつつ、私は心外ね、と熱くなる男とは裏腹な冷ややかさで口を開いた。
「先に約定を破ろうとしたのはそちらでしょう?」
「なにぃ?」
顔を歪める男の前に、見せ付けるように指を一本立てる。
「―――一つ。それがどこの所属であろうと、手厚く保護すること」
淡々と口にしながら、訝しく眉を潜めた男の前に人差し指の隣の指を一本増やす。
「二つ。それが傷一つ負うことも、髪の一筋、心の一欠けら、損なうことも許さない」
三本目。綺麗に一列に立ち並んだ指の間からサカズキを見透かしながら、言い含めるように唇を動かした。
「三つ。全くの無傷で、心身ともに健康に扱うこと―――それさえ守ってもらえれば、私は探し人が見つかるまでは、あなたたちに協力する。そういう約定だったはずよ」
「探し・・・?っまさか!」
「いくら目の前に大犯罪者がいて、それに集中していたからって、人の探し人まで手にかけようとするのは明らかに約定違反よ」
ようやく意図がつかめたのか、目を見開いて私と、私の背後に庇われた人物を見比べて男は苦虫を噛み潰したかのように顔を顰めた。
「だが、そいつは海賊を庇った!海賊を庇うことは許されん」
「サカズキ。あんた、ちゃんと私の条件聞いてた?」
子供じゃあるまいに。溜息混じりに馬鹿にするように、あるいは呆れを混ぜて、過ぎるほどの自己主張を鼻で笑い飛ばすと、サカズキの顔が赤黒く変色した。それが顔色なのかマグマの色なのか最早わからないが、それでも私はこの聞き分けのない子供のような男に、再度噛んで含めるように教えてやった。
「一つ。それがどこの所属であろうと、手厚く保護すること。――おわかり?探し人が海軍であろうと、一般人であろうと、海賊であろうと。どこにいようが、どんな立場であろうが、心身ともに傷つけることなく保護しろ、と。それが第一条件なのよ?」
「な、」
「私はちゃんと条件を口にしたし、書にも認めた。それを認めたのは政府であり元帥でありひいては海軍そのものよ。つまり、瑪瑙が例え海賊に身を寄せていて、尚且つあんたの邪魔をしたからといって、あんたが瑪瑙を傷つけて、ましてや殺してもいい理由なんか欠片ともありはしないの」
文句なら条件をちゃんと吟味しなかった上に言いなさいね。簡単な条件だと、大して無理難題でもないと、そういって容易くサインしたのは元帥で、その条件を認めたのは政府なのだから。嫣然と微笑めば、絶句した男がパクパクと口を開閉し、言葉にできないのかぎり、と奥歯を噛み締めた。爛々と光る目が憎悪に暗く燃え立つ。
「・・・所詮、貴様も海賊と変わらんということか」
「どう思われようが結構。交わされた約束に変わりはないもの」
「裏切る、とそういうことか」
吐き捨てるように言われたが、それに傷つくほど、彼らとの間に仲間意識なるものを築いた覚えがなかった。もっと仲良くしていればあるいはもうちょっと動揺も誘えたかもしれないが、いかんせんあまりにもビジネスライクな関係すぎて小指の爪ほどにも関心がわかない。あ、でもおつるさん相手だったらちょっと違ったかもー。そう思いつつ、私はこてんと首を傾げた。
「んーまぁ別に、ここで掌返してもいいんだけど・・・」
喧騒はまだ続いている。背後の瑪瑙と、更にその後ろに庇われている兄弟が固唾を呑んでいる気配を感じながら、くるりと血桜の持ち手を返した。
「まぁでも、私は、海軍とも海賊とも違って、約束は守るタイプよ?」
とすん。
軽い音がして、どくりと血桜が脈打った。どくどくどくどく。心音と同じ鼓動を刻んで、震える刀身が歓喜に悶える。美味しい!と喜ぶ血桜にやっぱ生き様とかによって味も変わるものなのかねぇ、と思いながら、ぐぐぐ、と更に刀身を押し込んだ。
「・・・、ちゃ・・・?」
掠れた声に、後ろを振り返る。瑪瑙の頬のすぐ横を、紅の刀身が真っ直ぐに伸びていた。血色の刃に、呆然とした瑪瑙の横顔が反射して、喧騒がピタリと止んだような気がして、くるりと視界を回せば、なんだか皆馬鹿みたいに目を見開いている。止まった動きに、今こそ攻撃チャンスだろ、と思ったが、まぁ、あえて助言するほどのことでもないので口を噤んで、伸びた刀身の先を見た。
しなやかな筋肉に覆われた背中。人体への刺青故か、いくらかの歪さを見せるジョリー・ロジャーのその中心に。真っ直ぐに突き立つ、深紅の刀身。静まり返る世界で、かふり、と。背中の持ち主のか弱い声を聞いた。
「えー、す?」
あぁ、その向こうまではさすがに長さが足りなかったか。二人分いけたらめっけもんだと思ったんだけど。背中の向こう側。瑪瑙に庇われ、男に庇われ。庇護された弟のたどたどしい呼びかけに、男がゆっくりと動いたのがわかった。
痺れる手で、弟の頬に触れ。落ちた帽子が風に吹かれてふわりと浮かぶ。指先が、まだ鋭角差の乏しい頬を辿ると、ずるりと力をなくした。がくりと、男の膝からも力が抜ける。どさ、と弟にもたれかかる姿はなんともか弱くて。
エース!!と、叫ぶ声だけが、戦場に音をもたらした。