夢魔
「絳攸、」
男の割りにふっくらと赤味の強い唇で、やはり男の割りに高めの声を少し低めて名前を呼ばれ、ぞくりと背筋にナニかが走る。くい、と指先で頤を捕まれ固定されると、合った瞳の深さに吸い込まれそうな予感がした。
真っ黒な瞳、明かりのない深淵の底の瞳が外の光を反射して輝くと、ぽつりと夜空に一番星が輝いているかのよう。その眼差しに映る自分が陶然とした表情を浮かべていることに気づき、思わずカッと目を見開いて頤を捕らえる手を振り払おうとしたのに、それさえも読んだかのように笑んだ眼差しに、ピクリと指先が動いただけに留まった。
まるで何かに囚われたように動かす事が出来ず、再び赤い唇が動く様を、粒さに見つめた。
「絳攸・・・」
吐息混じりに、囁かれる。今まで聞いた事もない色艶の含んだ情の深い声音に、顔に熱が集まった。ぐん、と上昇した体温に、どうしようもないほどに熱い熱を持て余す。ばくばくと急速に動き始める心臓を、服の上から握り締めてただ眼前で微笑む闇色の人を、見つめた。
「、」
乾いた咥内に舌が張りつき、掠れた声で名前を呼ぶ。彼はそれにほんの少し、どうしようもないほどの色香を纏わせていた瞳を和ませて、唐突に絳攸の唇を塞いだ。驚くほどに柔らかい。
突然唇を覆った別の熱とくらりとするほど柔らかなそれに、驚きに目を見開く。啄ばむように唇を食まれると、背筋に痺れるような甘い疼きが走った。その疼きに息を詰めると、あまりの甘美さに目の前が潤む。
「ん、ふぅ・・・っ」
鼻から漏れた息が掠れ、いやに媚びたように聞こえ、それが羞恥心を煽り思わず彼の胸元に手を置いて押した。いや、押そうとしたのに軽く歯を立てられて噛まれると再び頭のてっぺんから爪先まで痺れたように動けなくなり、咄嗟に押すはずの手で相手の服を握り締めた。
まるで縋りつくかのよう、とはさすがに考えが及ばなかったが。抵抗したくともできない。いや、もはやしたくないのかすらわからぬまま、与えられる熱と甘美さに酔いしれた。
お互いの唾液を交換するように、吐息すら混ざり合ってわからなくなるように、舌が絡み合ういやらしくも情熱的な口付けに翻弄され、縋りつく。払いのけたいのならできるのに。彼に比べれば体格のいい自分ならば、それができるのに。できないまましないまま、最後に名残惜しむように舌を吸われて唇が解放されると、肺に目一杯空気を送り込み、痺れる舌先に生理的に浮かんだ涙を目尻に溜めて、酩酊したように名前を呼んだ。
「・・、・・・」
「絳攸・・・可愛い」
ともすれば侮辱とも取られかねない、いつもならば憤慨し怒鳴り散らすこと間違いなしのその言葉にさえ、頬に熱が行くばかりで言葉にならない。
うっとりと微笑み、さらりとやはり惑うほど黒い髪を滑らせて、がそっと絳攸の肩を押す。たやすく傾ぐと尻の下に柔らかいものを感じ、視線を落とせば寝台が見える。
座り込まされ、そして更に肩を押されると支えもない、また口付けで力をなくした体はどさり、と音をたてて寝台に横たわった。下から覆い被さる人を見上げると、少々逆光になりつつも薄い笑みを浮かべて、が囁く。
何度も何度も、それしか語彙がないように、絳攸、と名前を呼んで。降りてきた顔に、我知らず目を閉じた。
―――と、いうのが今日の李侍郎の見た夢の概要である。
目覚めて状況を把握した後の彼の顔は赤いのやら青いのやら残念なのやら嬉しいのやら後ろめたいのやら恥ずかしいのやら、ともかくも色んな物がごちゃ混ぜになって般若の形相となり、そして邸に絹を裂くよりも凄まじい絶叫が轟いたのは・・・まあ、余談である。ついでにいうのならばやかましい、と某養い親に扇子を投げつけられたのも、至極どうでもいい話しではあるのだ。
その結果、1日中仕事はするが尚書なみに近づき難い雰囲気を纏わせ、件の友人と会えば顔を赤から青に変えたり青から赤に変えたりなどして、叫びながら逃げ惑う李侍郎は数日続いたという。
俗にいう、吏部侍郎ご乱心事件である。