暗闇に足を踏み入れる
あれは口やかましいが、それを大層好いていることはわかっていた。
素直に表に出すことなどないが、下手に口に出すよりも判りやすいだろう。やたらと名前を連呼し慕っているようだから、どんなものかと思っただけだった。あれが気に入るのだからそれ相応ではあるだろうが、どうでもいいといえばどうでもいい。ただ気紛れに、顔を見てやろうかと、思っただけだというのに。
あれは、なんだ。
闇が煌く。
夜色の双眸、朔のたゆたいが細まり笑む。
暗闇の水底、光のない沈黙が翻る。
あれは、何者だ。
本能で知る。理屈を見通す前に、心が警鐘を鳴らす。
それがなんなのか、わからないまま、人間であるはずなのに。
生きてそこにいる。ただの人間。有能であろうとなんであろうと、自分にとってなんの意味もなさないはずの、人間。だというのに、どうして、震える。扇子を持つ手にきつく力を込めながら、口元を隠して睨みつける。
睨んだ相手は、くつりと喉奥を鳴らし、口角を引き上げた。
「これは、紅尚書。いかがなされました?」
闇が、胎動する。