特別な声で呼ばれた名前



「伊賀崎」

 声をかけられて耳がぴくり、と動く。振り返れば障子戸の前にがいて、よぉ、と白い歯を見せて笑いかけてくる。それに嬉しくなって緩みそうになる頬を懸命に堪えて、動揺する心臓を宥めるようにジュンコの首を撫でた。ひんやりとしたじゅんこの肌が、熱を冷ましていくようだ。

「なんだ?
「昨日の課題。出来てたら早めに出してくれると嬉しい」
「あぁ、わかった。できてるよ。・・・でもあれは明後日までじゃなかったか?」

 昨日出された兵法の課題だったか。後に残すよりさっさと終わらせたほうが楽だから昨日の内にすませてしまったが、提出するにはまだ日がある。急ぐ理由でもあるんだろうかと首を捻れば、は先生がなぁ、と少し困った顔をして頭を掻いた。

「丁度明後日、出張されることに突然決まったそうなんだ。だから課題を早めに集めてもらいたいって言われてな」
「そうなのか。じゃぁ提出は繰り上げ?」
「いんや。あれ結構難しいだろ?だから締め切りは先生が帰ってくるまでなんだけどな。あんまり日が経つと忘れる奴もいるだろー?」

 あぁ、なるほど。しているいないに関わらず、忘れる人間というのはいるものだ。していないのなら自業自得だが、していて忘れるのはやっているだけに色々とやるせない。
 ならばさっさと提出してしまった方が憂いもなくなるというものだ。納得してちょっと待っていてくれ、と言うと急いで文机の上を漁って目的のプリントを取り出した。
 確かに今回の課題はちょっと難しかったな、と黒々とした墨で認められたプリントを、言われたとおりに待っているに向かって差し出す。それを笑顔で受け取りながら、はほぅ、と感心したように吐息を零した。

「さすがだなー。ほぼ全部埋まってやんの」
は、まだ?」
「半分はできてんだけどな、もう半分。まぁ明日までにはやって出すさ」
「・・・よければこれ見てくれてもいいぞ?」

 律儀に名簿の回収した人間の名前の横に丸をつけてチェックを入れているに、こくりと息を飲んでおずおずと言ってみる。シュー、とじゅんこが舌を鳴らす音が耳のすぐ横で聞こえて、名簿に視線を落としていたが顔をあげる動作をひどくゆっくりとした心地で見つめていた。

「マジで?」
「よ、よければ、だけど」
「それは助かる、あー・・・でもなぁ」

 きらり、と嬉しげに光った瞳に、こちらもほっとしてぎこちなく微笑みかけたが、次に言葉を濁すように眉を潜めた仕草にざっと背筋が冷えた。迷惑だったのだろうか。馴れ馴れしかった?まだ友達になって日も浅いのにですぎた真似だったとか?!
 引き攣りそうになる顔を懸命に隠しながら、小さく唇を震わせる。嫌なら、そう嫌なら仕方ない。まだ早かっただけの話だ。そう思って、無理矢理に口角を持ち上げると、悩むように唸っていたが、まるで見透かしたようにパっと顔をあげて私を見た。どきっと心臓が跳ねる。

「写すだけじゃわけわかんねぇから、伊賀崎教えてくんね?」
「え?」
「嫌じゃなければだけどさ、よかったら教えてくれると助かるんだけど」
「わ、私が?」

 突然教えてといわれても!まだ心の準備がっ。目を白黒させていると、やっぱダメ?とが首を傾げる。写せば簡単なのに、教えを請うなんて。・・・あぁ、でもそうだ。はそういう奴だった。楽するところは楽するけれど、わからないところをそのままにしておくような奴じゃない。ぎゅっと拳を握り締めて、今度こそ隠せもせずににこりと満面の笑みを浮かべて、私は大きく頷いた。

「私でよければ!」
「やったっ。じゃぁちょっと待っててくれ、他の奴のところ回ってくるから」
「わかった」

 嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい。頼られることが嬉しい。彼が頼ってくれたことが嬉しい。
 以前ならこんなこと絶対になかった。会話だってこんなにすることはなかったはずだ。そうだ、友達、友達になったから。首に巻きつくじゅんこが身をくねらせて、小走りに去っていったを首をもたげて見送るのを、同じようにして見ながら堪えきれず緩んだ口元を隠すように手で覆った。

「一緒に、勉強できるんだ・・・!」

 噛み締めるように呟くと、じゅんこを撫でて、急いで部屋に戻って教科書を広げた。
 さぁ、どこを教えてあげようか。うきうきと、彼がプリントを抱えて戻ってくるまで教科書と睨めっこをしていたなんて、じゅんこしか知りはしなかった。