さらさら、指を滑っていく



 本当は、疑問に思っていた。事務のお姉さんに、悪いことをしたから嫌われた先輩のこと。お姉さんが最近物がなくなっていることを悩んでいたことは知っていたし、怖いって、先輩方に相談していたのも知っていた。ぼくもお姉さんのことは好きだったから、最初はそんなことをしたあの先輩が嫌いだと思ったし、悪い人だと思っていた。
 皆もそう言っていたし、先輩方もきり丸達も皆、先輩を怒っていたから。正しいことなのだと思っていた、けれど。

 一人になった先輩。誰もあの人に目を向けない。
 俯いた先輩。掛けられる言葉は罵りばかり。
 怪我をした先輩。伊作先輩すら、手当てしようとしない。

 日に日に怪我をしている箇所が増えていく先輩に、怒りや嫌悪よりも心配が勝った。
 だって、あんなに一杯。小さなものから、最近はちょっと怪我の度合いも大きくなってきているような気がする。俯いて悪口雑言に震える先輩は、あまりにも悲しかった。
 保健室にきた形跡はない。ぼくがいない時に来ているのかと思ったけど、でも利用者名簿にあの先輩の名前はなかった。怪我をしているのは見過ごせない。どんなに悪い人だって、怪我をするということは痛いことだから。こんなのだから忍者に向かないとい組の安藤先生にもいわれるのだと知っていたけれど、だけど怪我を治すことを悪いことだなんて思いたくない。
 人を助けることは保健委員の仕事だからと、伊作先輩もおっしゃっていた。
 なのに。

「嵐山先輩の手当て、しなくてもいいんですか?」
「・・・嵐山、ね・・・」

 そういって、名前を聞くのも不愉快だと言わんばかりに眉を潜めた先輩に、なんだかよくわからないけどショックを覚えた。これで彼女も反省すればいいんだ、とそういって見向きもしない様子に、何故だろう、不快感が募る。言葉も無く立ち尽くすぼくに、伊作先輩はいつものように微笑んでくださったけれど、だけどどうしてか。ぼくはその微笑みに頷きを返せなかった。だって、怪我をしている人を助けるのは保健委員の仕事で、戦の中でだって、敵にだって、手当てをするのは伊作先輩で。誰にでも分け隔てなく、そりゃ先輩にも好き嫌いはあるだろうけれど、だけど誰にだって、その手を差し伸べていたのに。


 優しくて、忍びには不向きといわれて、それでも差し伸べる手が、大好きだった、のに。


 思えばそれは失望、というものだったのかもしれない。こうであるべきだろうと思っていた理想像から外れたからこその、衝撃。他の人には今までどおりだったから、特に事務のお姉さんには優しいから、その優しさを受けられない相手がいることが、無性に、悲しかった。
 保健委員は怪我をしている相手に分け隔てなく接するべき。命は尊いもの。傷ついた存在を見捨ててはならない。保健委員会の教えは、あの先輩には当てはまらないのですか?あんなに怪我をしているのに、あんなに傷ついているのに、あんなに苦しんでいるのに。あんなに、あんなに。
 喉まででかかった言葉を出せなかったのは弱さ。言ったら嫌われるかもしれないと思ったからいえなかった。だってそれでもぼくは伊作先輩が好きで、不運でも保健委員会が好きで、友達が好きで、先輩が好きだったから。仲間はずれになるのが、怖かったのだ。
 だから気になっていたけど何もできなかった。怪我をした先輩を見るたび、治療道具をもって駆けつけたい衝動を抑えた。それをしたらぼくはどうなるの?わからないけれど、もしもきり丸達に嫌な目で見られたら?先輩達に怒られたら?・・・怖くて、とてもじゃないけど先輩の手当て、できなかった。だけど、日に日に、胸に重たいものが積み重なっていくようにすっきりしない。ずしんと重たくなって、もやもやして、すごく、息苦しい。
 先輩が保健室にきてくれたらいいのに。保健室に来れば、しょうがないって手当てできるのに。先輩が助けを求めてくれたら。先輩が、先輩が。

 だけど、それは所詮我が身可愛さなのだと、思い知った。

 偶々見つけた。上級生(それはさして仲の良くない先輩だったけど)に、地面に引き倒されたあの先輩。明らかな暴行現場を見たのは初めてで、恐ろしくて恐ろしくて何もできなかった。同時に、あぁこうしてあの先輩は傷ついてきたのだと思うと、泣きたくて仕方なかった。
 こんな目にあって。こんなことになって。確かに事務のお姉さんに悪いことをした先輩は嫌い。あんなに優しい人に、どうして意地悪をしたのかわからない。だけど、だけど。

「ふ、ぅ・・・っ」

 だけど、あんなに怪我をしていい気味だ、なんて笑うのは、何故だかすごく抵抗があって。だけど助けに入ることも止めることも、そしてやっぱり、手当ての手を差し伸べることもしないだろう自分が、その時無性に嫌になって。上級生が去って、先輩が泣いて、ぼくは小さくなって。そんな、時に。

「先輩」

 まるでこの息詰まった世界を切り裂くような、そんな錯覚を覚えるような、声が聞こえたのだ。この現場に不似合いな慈愛の声。驚いて見れば、一人のくのたまの先輩が、地面に蹲って泣いている先輩の近くまで寄っていた。何をする気なのだろう。追い討ちをかけるつもりなのか。びくびくしながら様子を見ていると、その人は、ぼろぼろの先輩の横に膝をついて、そっとその乱れた髪に触れた。
 それは、先輩を傷つける意図なんてなくて。ただ、労わっているかのような、ゆっくりとした動きで―――今まで、先輩には差し出されなかった、優しい、手で。
 まるで雷に打たれたような衝撃が全身に走り、息が止まりそうになった。

「先輩、大丈夫ですよ。私、先輩のこと嫌いじゃないです。好きですよ。だからそんなに怯えないでください」

 誰もに嫌われた先輩にかけられる声。好きだという言葉。この学園の現状を、その人も知っているだろうに。

「お話しましょう、先輩。先輩がどうしてあの人を虐めたのか、どうしてそうしようと思ったのか、全部話して下さい。それから考えましょう。周りにどうしたら許してもらえるか。大丈夫です、どんな荒唐無稽なことだって信じます。だってあの人は「未来」からきた人でしょう?そんなこと信じる人がいるぐらいです。先輩のことだって、信じますよ、私は」

 誰も、先輩の言葉なんて聞こうとしなかったのに。誰も、誰も、誰も!
 何故だかその瞬間、先輩がその人に抱きついたその瞬間。ぼくは、どうしようもない羞恥と、胸の奥が震えるような衝動を感じた。
 その覚えた衝撃のまま立ちすくんでいれば、気づかれてしまってぼくは慌ててしまったけれど、その人は特に慌てることなくぼくに救急道具を持ってくるように言ってくれて。
 抗う気も起きなくてその指示に従って、ぼくはふと胸の重みがなくなったことに気がついた。
 そのことに気がついたら、また鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。
 本当は、傷ついている人を見捨てるようなことをしたくなかった。
 本当は、怪我をしているあの人に、手を貸してあげたかった。
 だけどできなかったのは、自分が弱くて情けない臆病者だったからだ。強ければ、きっと差し伸べる手なんていくつも持っていたのに。あの先輩だって、あんなに泣くこともなかったのに。


先輩」


 誰もしなかったことをした先輩。ぼくがしたかったことをして見せた先輩。先輩にどんな思惑があったのかは知らない。それが純粋な好意だけで出来上がったものなのかはわからない。
 それでも、あの人が差し出した手は本物で、あの人がかけた言葉は確かにあの先輩を救っていて。
 先輩が差し伸べた手は、ぼくの理想の手だったのだと、ずるりと鼻を啜り上げた。