空ろに理など無いと、
「生きてください。死なないでください。そして、できることならば、どうか、 」
たったそれだけの願いを残して、風の狼は死んだ。
※
「それは逝ったか」
若い男の声がした。溌剌として明朗、且つ耳に心地の良い美声は青年の後ろから聞こえ、静かに佇む青年は緩慢に振り向いた。
腰ほどもある長い髪がうねり、揺れ、時折吹き抜ける風に靡く。
長い袖や裾も風に誘われるようにはためき、半分ほど伏せられた瞳は無機質だった。
綺麗に澄んでいるのに、光を灯さないからまるで濁っているかのように見える。清濁を併せ持っているかのような不可思議な瞳は、まるで熱を灯さない硝子細工のように冷ややかでぬくもりはなかった。声をかけた男はその亡羊といえる瞳に眉間に皺寄せ、整った秀麗な造作を歪めると薄く形良い唇を皮肉気に歪めた。
「お前は何も変わらないのだな」
嘲笑を込めた囁きを、青年はただ聞き届ける。ともすれば不快感や怒りに囚われるだろう嘲笑も、青年にはそよ風にも満たないかのように表情を動かす要因とはならない。あまりにも顔に、口元に、瞳に。感情が浮かばないからそれは精巧な等身大の人形なのではないかと不意に疑ってしまう。ただ唯一、眼球が乾かないようにという瞼の生理的行動がそれが息吹ある人間なのだと思わせたが、しかしあまりに乏しい気配に、これは生きた人なのかという疑念は完全にはなくならない。空恐ろしい。男は目の前の青年にそんな薄気味悪さを覚えた。
「それは私の命を捨て、自らの命を捨て、そうしてまでお前を生かしたというのに、それでもお前は何も変わらないのだな」
それ、とは青年の近くに横たわる人影のことだろう。黒い装束に身を包み、血に塗れて事切れた人。血は今尚流れ、地面に染みを作り、周囲の空気にその臭いを撒き散らしていた。
睥睨する男の瞳にその人影を悲しむ色はなかったが、逆に哀れみの色はあった。いや、それは呆れの色だったかもしれない。死んだ人間を見つめ、男は溜息を吐いた。
「お前のような欠けた人を、何故生かす道を選んだのか・・・全く、馬鹿の極みだ」
ともすれば激昂する言葉であっただろう。死者を貶す言葉。男が言うように、死者が青年を守った結果死んだというのなら、怒りに打ち震え、その侮辱に顔を赤くしたかもしれない。あるいは、冷ややかな氷山のごとき双眸を向けたかもしれない。
だが、やはり青年の瞳にはどちらの変化も色も浮かばず、艶やかな唇から反論も謗りも零れなかった。ただ、青年は男を見つめていた。何も浮かばぬ硝子の瞳で。
「それで、お前はどうする」
これといって反応を返さない青年に、やがて諦めたように男は肩を落とすと問いかけた。
青年は瞬きを一つこなし、ゆっくりと顔の位置を正面に戻す。それは完全に男に背を向ける形となっていたが、気にするそぶりは両者互いに無かった。
「このまま地位を捨て市井に流れ埋もれるか、返り咲くために力を蓄えるのか、それとも、今、ここで、果てるか・・・私としてはこのままお前を葬ったほうが余計な手間が減り楽なのだが?」
揶揄するように薄く笑みを含めた言葉に確かな本気を混ぜて男は更に問いかける。
どの道を選ぶのか、この世界に感情を移さない空ろの青年の道を男は考えた。きっと流れに任せるままなのだろう。もしも余計な一派がこの青年を捕まえでもしたら、またしても血で血を洗う戦禍が訪れる。男はきっと肯定も拒否もせず、ただ任せるままの傀儡になることは想像に容易い。だが裏を返せば誰も何も言わなければこれが何かを起こすことは無いのだ。
自分がどこで野垂れ死のうとも、今ここで果てようとも。青年にはさしてなんの変わりもないことであったから。
自分が死んでも生きても。この青年は、そこに重きを見出せない。いや、世界の全て、人の心、動物の本能、自然の美しさ、全て。青年を留める理由になどなりはしない。あぁ、ならばいっそ余計な憂いを断ち切るためにその命、ここで奪ってしまおうか。青年に尋ねながら己の考えを押し付けようと片手を動かしかけた刹那、低くも通る声が静寂を打ち破った。
「死ぬことはできない」
「・・・ほう?」
声もまた青年に似てどこか定まらず亡羊としていたが、それでもかの青年にしては珍しい意思表示の言葉だった。果たしてこの青年がこんな言葉を吐いたことがいままであっただろうか。否、在り得なかったことだ。僅かに驚きに目を見張りながら、男は笑んだ。
「どういった風の吹き回しだ?お前が生に執着を見出すなど」
「これが、生きて欲しいと言っていた」
そういい、見下ろす先の人影。闇夜に埋もれる命無き人。青年はそれに触れることもなく。
ただ、願ったから。
「生きろといわれたから生きるのか」
「そうだ」
「その者の意思を汲むのか、お前が!」
笑いを含んで高らかに言えば、青年は口を閉ざす。そうして再び、男を振り返ると硝子の双眸は相も変わらず淡々としていた。
「さぁ、わからぬ。ただ、生きろというから生きるだけ」
それが意思を汲むということならばそうなのだろう、紫霄。
そういい、青年は瞼を閉じると歩き出した。男・・・彩八仙の内が一人をその場に残して。
闇に溶け込むようにして去っていく儚く消え入りそうな存在をいささか呆然と見送りながら、紫霄はふと苦虫を噛み潰したかのように表情をゆがめた。馬鹿が、小さな悪態を吐く。
「それは意思を汲むなどと言わぬわ、紫」
あぁ、なんて浮かばれぬ死者の願いか。人ならざる私でさえ、その意思も気持ちも汲み取れるというのに。
消える姿に吐息を零し、紫霄は初めて強い哀れみの視線を向けた。それは青年に向けてだったのか、それとも死者に向けてだったのか、それは紫霄にもわからない。
ただ憐れだと、呟いた。
だってお前は、生きろと言われても、生き抜くことなど考えてはいまい。そこにどんな思いがあったか、理解などしていまい。きっとお前は。
「生きた先で死のうとも、なんの未練も残さぬだろう?」
人は死ぬとき、未練を残すものなのに。