間違えた夜



 紫は焼け落ちた村に佇んでいた。
 所々まだ火が燻っているのか、火が鎮火して間もないのか、家屋が焼け落ちた臭いと混じって血臭も漂う。焼けてすっかりと炭化し、建っていた名残だけを残す家屋を亡羊とした瞳に映して彼は歩んだ。長い裳裾を煤けた地面の上で滑らせながら、煙が僅かにくゆる中を歩いていく。
 焼けて崩れた家屋の中には、焼け残った家財、そして時折人の形をしたものが残されて風に晒されていた。天に向かって伸ばされる手、地面に這い蹲る足、そして焼け落ちた中ではなく、家の外には黒く変色した血をこびりつかせた死体がそこここに転がっていた。
 その中を、ピクリとも表情を変えずには進んでいく。まるで周りの凄惨な光景など視界にすら入っていないかのように、するすると洗練された物腰で通り抜けていくのだ。
 第三者がその光景を見れば、あまりに希薄な気配と感情が一切削げ落ちた丹精な顔立ちに、妖しの類か黄泉の使いかと恐れ戦いたかもしれない。いっそ黒く焦げ落ちた村の中にあって異質でありながら溶け込むその不可思議さに、人は夢を見たのだというのかもしれない。
 そんな風評もそれを目撃する人間がいればこそだが、生憎と村はぞっとするような静けさが示すように、それを噂する人影などなかった。は進む。目的があるのか、目標があるのか、その何も浮かばない瞳では推し量ることなどできはしなかったが、ただ血染みのある地面を歩き、黒く炭になった柱の横を通り抜け、横たわる人を乗り越え、そして真っ直ぐに歩んだ。
やがて迷うという選択肢もないかのように動くだけだった足が止まった。
 こつんと沓が小石を蹴り、睫が条件反射のように上下にパチリと動く。しかし、それだけだ。
 瞬きしか行わない顔の上で、硝子のように透明で、死んだ魚のように生気のない瞳が前を写し取る。赤茶けた胸当て、笠のような帽子、腰回りについた防具、ギラギラとした剣。
 格好も刀の形状もとんと身に覚えの無いそれであったが、にそれを深く追求する思考はなかった。ただそういうものがそこにある、怠惰といえるお粗末な思考でそうとだけ思い、そして終わった。たったそれだけのことしか思わなかった。例えばその剣を持つ、きっと雑兵だろう男達が動揺したことも、目配せをして彼の周囲を囲んだことも、曇った切っ先を向けたことも、血に酔った気違えた笑みを浮かべたことも。彼は頓着しなかったし、肌を刺すというよりも嘗めるじっとりとした殺気が満ちたことに警戒する様子もなかった。ただ、やはり亡羊として、そこにいるのかいないのかわからないような儚さで佇むだけだ。あぁ、けれど、とふとは思考する。

 あれは、生きろと言っていたな。

 そう思い当たると、は腰に帯びていた剣を抜き、切りかかってきた男を一刀の元に切り捨てた。なんの躊躇いも予備動作もなかった。ただ腰の剣を・・・それはにとっては一般的な形状ではあったが、男達が持っている剣とは様相の違うそれを抜いて振り抜いただけだ。
 しかし両刃の剣の切っ先は吸い込まれるように男の喉へと切れ込みをいれ、まるで石榴が弾けるかのように真っ赤な血潮を男の喉から外へと噴出させた。
 悲鳴が零れたようだが、の顔に変化は現れない。絹を裂くような悲鳴は顔を顰めるほどの大絶叫であったはずだが、それでもの耳はか細い少女の声も同然のように聞き流す。
 そうして一人、地面に倒れるとはだらりと剣を握った手を体の横に揺らした。
 続けざま切りかかることも無く佇むを周囲はいささか引き攣った顔で訝しく見やり、やがて本当に動く気配がないのだと判じるとにたりと口角を持ち上げた。
 きっとあれはまぐれだったのだ、ただ反射的に振り抜いた刀が偶々喉を切り裂いたに過ぎない。
 そう思えば恐れる必要などどこにあるだろうか。ほらみろ、現にあの男、まるで隙だらけではないか。さぁどうしてやろうか。男達はにたにたと口角を吊り上げ、鈍色の刀を向けて考えた。
 まずあの顔が気に食わない。やけに整った顔立ち。女受けしそうな儚ささえ感じさせる透明な美貌は、醜悪とは言わないが造作の整わない相手にしてみれば大層癪に障るものだ。
 まずはあの顔を二目と見れない顔にしてやろう。戦の後で高揚する荒ぶる衝動のままそう決める。
 次にあの衣服。全く見たことも無い様相ではあるがここらでは見られない独特の光沢に決め細やかな刺繍までされたそれは大層金になるに違いない。彼が持つ珍しい刀も、収集家や刀鍛冶、いや自分の国のお殿様に献上でもすれば取り立ててくれさえもするかもしれない。
 欲望は留まることを知らず膨れ上がり、男の口内に唾液が溢れてじゅるりと啜る音がした。
 爛々と欲に眩んだ澱んだ眼光で彼を見つめ、にたにたと殺しきれない笑みで男は刀を振りかぶる。

「あ゛?」

 しかし、男が血に塗れる彼の姿を見ることは無かった。丸く眼球が飛び出るほど目を見開き、ごぷりと口の端から赤いものが溢れて滴る。幾筋も描いたと思ったらそれはやがて大きな筋を描いて男の尖った顎先からぼたぼたと滴り落ち、地面に吸い込まれると赤黒く色を変えた。
 そして勢い良く、男の腹を貫いた刃は引き抜かれ、びくんと体が電流が走ったように跳ねるとどう、と音をたてて仰向けに倒れた。握ったままの刀が倒れた拍子に地面に転がり落ちる。
 そうしては、一太刀、二太刀、剣を振りかぶってはまるで雑草を刈り取るように切り捨てていった。
 剣を振りかぶる度に、面白いほど簡単に切っ先は男たちの喉、腹、胸、急所となるところばかりに吸い込まれていく。一見無造作でただ剣を振り回しているだけのように見えるのに、その実その剣筋は洗練されていた。 男達の中にもっと腕に覚えがあるものがいたならば、あるいは最初の一太刀で全てを悟り、命を永らえることができたかもしれない。 だがしかし、哀れなことに男達は農民上がりの足軽で、ただ人を殺す道具を持ってしまっただけに奢ってしまったただの人だった。だから、の太刀筋が何より鋭かったこと、それに躊躇いも思慮もなかったこと、無慈悲な力であったことを、見抜けなかった。そして何より、手さえ出さなければ彼が動かなかったことを見抜けなかった。よって、今や誰一人、彼の周囲で呼吸をすることは叶わなかったのだ。ぽたりと男達を無言で切り捨てた剣の先から血が流れ落ちる。ぽた、ぽた。体の横で揺れる剣先は地面に近く、滴る血痕も大人しい円を描いた。はその血に濡れた剣を一瞥し、躊躇い無く己の長い袖で血を拭き取った。きゅっと、血と脂に塗れた剣を拭き取って、べったりと袖に赤いものがこびりつく。常ならば懐紙がなければ殺した男の衣服になすりつけるなりして取るものを、何故己の衣服で行うのか。淡々とした動作にきっと意味は無く、ただそこに横たわるものよりも自分の方が近かった、そんな気軽さで行ったに過ぎない。
 しかし血で真っ赤に染まったそれを気にするそぶりも無く剣を仕舞いこむと、緩慢に前を向いた。そして硝子細工の双眸はそれを映す。ただ写し取る。焼け落ちた家屋の柱に隠れ、目を見開いて息も絶え絶えなそれを、色のない瞳で映した。
 煤のついた黒く汚れた頬に幾筋もの涙の跡。釣り目がちの双眸は赤く腫れ、恐怖と絶望に瞳孔を小さくさせて揺れ、青褪めた唇は戦慄き震えている。粗末な衣服から覗く手足はいくつもの切り傷擦り傷をこさえ、水ぶくれを起こしている様子に火傷もしたのだろう、と容易く想像がついた。
 そんな痛ましい様子で、呼吸を荒くさせてすっかりと黒くなった柱に更に汚れるのも構わないかのように体を寄せて、それは言葉も無くを見つめていた。
 も、その目にそれを映し、やがて、数度の瞬きの後逸らした。それが呼吸を詰めた音がした。しかし、にそれを反応するほどの何かはなかった。ゆっくりと、止めていた足を再び動かしだす。どこに行くかもわからない。どこに行きたいのかもわからない。此処が何処なのかさえ、わからない。しかしそれでも、それは彼の足を止める要因には成り得なかった。
 ただ。



 僅かに彼の裾を掴んだ汚れた小さな手だけが、彼の動きを止めるそれに成り得たのだった。