欲しいものを手に入れたいだけ



 それの瞳に己が映ったとき、きり丸はそれの視界に自分がいる心地がしなかった。
 それはきり丸を見ているようで、その実きり丸など見てはいないような気がしたのだ。
 何故かはわからないが、そう感じた。薄く儚く、美しくも希薄なそれは真っ赤に染まった見るも耐えない剣を、あろうことか己の衣服で拭い取って仕舞い込んだ。
 足元に、かつて生きていた人が血まみれで横たわっていようと、まるでそこらの焼け落ちて炭となった木材と同じものであるかのように、一瞥すら向けない。澄んだ双眸は、ぞっとするほど無機質で、悪質な輝きがない代わりに、生気という明るい光もなかった。
 きり丸は息を呑む。焼けた己の家の柱に身を寄せて、静かに、静かに佇む男を見つめて瞳を揺らす。戦に巻き込まれて一夜の間に燃え落ちた村。あまりにあっという間で、瞬きも惜しむほどの時間ですべてはなくなってしまった。きり丸の全ては、消えてしまった。
 あの一瞬。永遠にも等しい時間であったはずのに、終わってみればなんて呆気ない。
 全てが灰になり、生きている人などきり丸を残して他にはいなくなってしまったような寂々の世界に、荒々しい残党が押し入ってきたのだ。焼け落ちた家の中、倒れる人の衣服の中、全てをまさぐり荒らし、金品を奪っていく。墓場荒らしにも等しい戦後の村荒らし。
 咎めるものもいないから、これはもう通過儀礼のように当たり前の光景になっていた。
 きり丸の家も例外ではなかった。溜め込んでいた金品は残らず男達の掌中に行き、下卑た笑い声と残酷な言葉を聞きながら襲われぬことの無いように息を殺して身を潜める。
 そうして過ぎ去るはずだった、空風の吹く恐ろしい時間に、音も無く滑り込んだそれはきり丸の網膜に焼き付いて仕方の無い緋色を散らせて、背を向けた。
 鮮やかだった。突然現れたと思ったら、きり丸の見ている前で、一太刀、二太刀。見たことも無い形の刀を振り回して、それは切り丸の目には本当に振り回しているようにしか見えなかったのに、あっという間に男達を自分の父母と同じものにしてしまった。
 恐ろしい赤を散らせて、憎憎しくも恐ろしい男達を屠り、しかしそれは瞬き以外の運動など知らぬように淡々とそこにいた。ふとあれは人ではなくて、妖しなのではないかときり丸は思った。
 美しい、けれど現実味のない存在感。地から浮いているような空虚さは人のそれというより幻想に生きる妖しのそれを彷彿とさせ、唇から吐息が零れる。見たことも無い、ひらひらと風に揺れる長い袖や裾の奇妙な格好も、彼を生きた人だと思わせなかった要因かもしれない。 いっそ殺されるなら、あんな現実味の無い綺麗な生き物に殺されたい。ふとそんな後ろ暗いことを考えたのに、それはきり丸に声をかけるどころか存在すらなかったもののように背を向けてしまった。
 あ、と声を飲み込む。希薄な存在はどこまでも希薄で、まるで今の静かな空気に溶け込むように背が遠ざかる。このまま見送れば、本当に消えてしまうのではないかと思った。
 それは遠くに行って姿が見えなくなるという意味ではなく、本当に、パッと。霧が晴れるように、霞が薄く消えてしまうように。存在が、残らなくなるのではないか、と。思うときり丸は煤けた柱から体を離して、駆けていた。
 それは、きり丸の中の無様なまでの本能だったのかもしれない。生きたいという、死にたくないという、今無残にも死体となった男達のように、燃えてしまった村のようになりたくないという、いじましいまでの生き物の本能であったのかもしれない。
 脱げかけた草履に態勢を崩しかけ、散乱する瓦礫につまづきそうになりながら、煤け、細かい傷をこさえた小さな汚れた手を伸ばす。例えば一人で生きていくことは可能かもしれない。乞食なり泥棒なり、手段を選ばなければ生きてはいけるのかもしれない。
 一人でも生きていける。だけど子供が一人で生きるのは想像する以上に過酷だ。
 今だ十にも満たないひ弱で小さな体では、どこまで生きぬけるか、未来は暗く足元もおぼつかない恐怖があった。誰もいない。頼れる人はもういない。頼るべき人ももういない。
 きり丸のちっぽけな手の中にあったささやかな力も幸せも暖かさも、紅蓮と血と残酷な現実に奪われてしまった。
 だから生きるために、きり丸は何かに縋りたかったのかもしれない。頼れる人がいないから、目の前にいた、きっと自分を殺しはしないだろう儚い人に希望を見出したのかもしれない。いや、もっと単純に。
 この何も無くなった村で、一人孤独を抱えるのは嫌だったから、手を伸ばしたのかもしれなかった。たとえ目の前で裾を掴んだ人が妖しでも化け物でも、その時のきり丸にとってはどうでもよかった。掴み、歩みを止めたこと、それが全てだった。触れることが出来て、希薄な呼吸が聞こえて、瞬きをしたことが、きり丸にとっての全てだった。
 緩慢に振り向いた顔は相も変わらずきり丸が見た中で一等美しく生気が乏しくて、薄い色をした双眸はぞっとするほど無機質で、きり丸を湖面のように映しはしても見てはくれなくて。
 それでも構わない。きり丸は思った。生きたいと思った。死にたくないと思った。この存在が切り捨てた男達のようになりたくなかったし、その男達が切った父母のようになりたくなかったし、なくなってしまった村のような存在になど、決してなりたくはなかった。
 何より、これから、一人ぼっちになんて、なりたくなかった。その為なら、化け物だって構わないと本気で思ったのだ。この人はきっと己を殺しはしないだろう。綺麗に澄んで、だけど味気ない双眸は何者も見てはいなかったから。だからきり丸は望んだ。袖を掴んで引き止めて、男の瞳を正面から見据えて、亡羊とした眼差しを受けて、必死の声で、請うた。


「俺も一緒に連れてって!」


 生きられるならなんでもいい。一人じゃないなら誰でもいい。
 そうじゃなくて、この人の傍がいいと、この人に見てもらいたいと願うようになるなんて、その時のきり丸に想像できるはずもなかったけれど。