人の話を聞きやがれ



 きり丸は思った。
 自分は明らかについていく人物を見誤ったのだと。
 今ならこの人が妖しとか仙人とかそういう類の、霞とかあるいは人間の魂とかそんなものを食べて生きているとしてもきり丸は信じることが出来る確信があった。
 いや、元々出会った当初からそんな気はしていたが、ともかくも、なんて人間らしくない生き物だろうとほとほと困り果てる。まず、食事を取ろうとしない。いや、食べるけど食べようという意識が底辺だ。お腹が空くという概念がないのだろうかこの人は。平気で二、三日の食事を取らぬまま表情を一つたりとて変えない事実にはくらりと眩暈を覚える。
 いや、それは常日頃からそうなのだが、それにしたって瞬き以外の表情筋の一つも動かさないなんて不気味この上ない。食費が浮くとかそういう次元の問題じゃない。
 この人がもしもちゃんとした人間であるのならば、食べないと生きていけないのになんでこんなにも食べようとしないのだろう。
 金銭面を考えるなら確かにそう毎日毎日しっかりと食事を取れるわけもないのだが、それにしたって食べなさ過ぎる。なのに彼ときたら、そんなきり丸の心配も懸念も何一つ頓着せず、ただ茫洋と日々を過ごすばかり。結果的に、きり丸は口を酸っぱくさせて彼を叱りつけるしかなかった。曰く、

「食べれるときぐらいちゃんと食べてくださいよ、さん!」

 今日も今日とて、新しい子守のバイトを受けて背中に赤子を背負いながら帰ってきたきり丸は、用意していたはずの食事に一切箸がつけられていない事実に愕然とした。
 確かに、ほとんどおかずというおかずはないし、野菜くずとかそんなものばかりでお世辞にも栄養分が豊富だとか味がいいとか、そんなことを言える代物ではない。
 だがしかし物を口にいれることができるだけでもマシなわけで、食べれるだけ幸せで、とどのつまり単純に、食べて欲しいだけなのに本人は内職をしていた手を止めることなくきり丸を一瞥するだけだった。彼の長くしなやかな手は形も整って美しく、その手が無駄なく傘の骨に糊をつけ紙を張っていく光景は、自分で押し付けた仕事ながらなんて違和感だろう、ときり丸に眉を寄せさせた。彼が当初着ていた衣服は当の昔に売り払い、今の彼は極々一般的な着物を着ている。
 安物でぼろっちぃのに、何故かそれなりのものに見えるのは一重に着ている人物のおかげだろうか。一切表情の変化の無い無表情人間だが、顔や立ち居振る舞い、纏う空気は常人から逸脱している。別次元の存在に思えてきり丸は仕方なかった。
 やっぱり仙人なんじゃねぇかなぁ、と溜息を零しながらを見つめる。
 仙人って爺さんのイメージだったけど、こんな若い男もいるんだなぁ。姿自体は気にするところはないのに、どうしてこうも違和感が抜けないのか。そんなきり丸の心情など推し量りもせず、淡々と与えられた仕事をこなして、は傘を一本完成させると、開いたまま脇に退けた。糊を乾かさなければならないからだ。
 この男、何もしないかと思えば言われたことは何気にちゃんとこなすし、社交性は皆無だが手先も器用という、本当によくわからない存在である。ともかくも、きり丸はが傘を一本作り終えるのを待って、置いていたすっかり冷め切った食事を引き寄せるとどん、との前に置いた。荒々しい音に食器が軽く浮いたが、きり丸もも気にしない。
 そうしてきりり、と眉を吊り上げてきり丸はむっと唇を尖らせた。

「ほら、今からでもいいから食べてください!片付かないでしょ」

 刺々しい言い方になるのは、これが何度も繰り返された事柄だからだ。それに、どんなにつんけんした態度をとっても、に堪えた様子は一つとして見当たらないのだから態度を改める必要もない。本当に、何をしても何を言っても、変化に乏しいというよりも、変化の無い人だ。は薄い唇を動かすことなく、ただ一度きり丸を見つめて箸を手に取る。
 その仕草も、育ちの良さを伺わせる洗練されたもので、正直きり丸はこの人ほど綺麗な食べ方や箸の持ち方をする人間を見たことが無かった。もそもそと食事を口に運び始めたを見て、やっと肩から力を抜きながらきり丸は背負った子供を下ろして床に広げた布の上に横たえた。ふくふくとした頬に黒目勝ちな瞳は大層愛らしく微笑ましいものだが、この場にはひどく不釣合いだな、と考える。

「ったく。言えば食べるくせになんで言わないと食べないんすか。霞だけで生きていけるなら食事はいらないってはっきり言ってくださいよ」
「霞は食べない。紫仙も霞を食べていたわけではない」
「・・・なら食事ぐらいちゃんと取ってください。いっつもいっつも食べないのはなんでなんすか!」

 一瞬「しせん」ってなんだ、と眉を寄せたが、彼からきり丸が理解できる言葉が飛び出すとは思えない。今までの付き合いから言って、きっと気にすることのほうが無駄なのだろうと容易く想像がつき、きり丸は溜息を零した。つくづく彼の人は不思議な人間である。
 話しかければそれなりに言葉は返してくれるし、全くの無反応でもない人は、だがしかしどうにも上滑りをしているような感覚がしてきり丸は仕方なかった。
 きっとそれは彼の言葉に抑揚というものが欠けており、感情というものが何を介しても見えないからだろう。きり丸の言葉さえ、言葉とは伝わってもそれ以上にはならないに違いない。そう思うときり丸は一瞬瞳を揺らし、誤魔化すように俯いて赤子の頬を撫でた。
 柔らかな弾力に富んだ頬が、やんわりときり丸の指先を押し返す。

「忘れていた」
「目の前にあるでしょ!?」
「傘を作れといったのはお前だ」
「そうっすけど!それとこれとは別、・・・あぁもう!!」

 噛みあわない。何をどうしても噛み合わない。頭を掻き毟って叫んだきり丸には表情一つ変えることなく箸をパチ、と音をたてて置いた。綺麗に中身を平らげ、頭を抱え込んでこの人なんなの!?と身悶えるきり丸を静かに見つめる。それは言葉を模索しているようでもあるし、何も考えていないようでもあるし、とにかくは目の前のきり丸を見つめ一つ瞬いた。やがてひとしきり悶え終えると、きり丸はすっかり疲れきった様子でぐったりと肩を落とし、半眼でを見やる。もまた、相変わらずの光のない双眸できり丸を見つめ返し、ふとその目が今まで真っ直ぐに己の行動を眺めていたのかと思うと途端きり丸は羞恥を覚えた。
 この人が何も思っていないのはわかっている。だがしかし、光こそないものの濁っているとは言い切れない、まるで風の無い湖面のような双眸は何故かきり丸をギクシャクさせた。
 動揺を露にしないからそう思うのか、終ぞ判明しなかったがきり丸は僅かに頬を染め、わざとらしく咳払いをするととにかく!と仕切りなおすように声を張り上げた。

さんも、仕事してくれんのは助かりますけど、用意してあるもんはしっかり食ってください。食べれるだけ幸せなんすよ?勿体無いし」

 これももう何度言ったかわからない台詞だ。本当に、何度いってもこのことに関してはどうにも改善の兆しが見つけられない。言えば食べるのだから全く食べる気がないというわけではないはずなのに、なんで言っても自分から食べようとしないのか。
 数知れない回数浮かべた疑問をまた浮かべながら、きり丸はわかりました?とに言い募る。これではどちらが年上かわかったものではない。唯一この場を目撃できる位置にいる赤子はすやすやと寝ており、その奇妙な光景に首を傾げることもなかった。
 もっとも、起きていたところで赤子にそれが可笑しな光景だなどと判断できるはずもなかったが。はきり丸の子供に言い聞かせるような口調に、特に不愉快な様子も申し訳なさそうな態度も見せず、ただ数度、まるで機械的に瞼を上下させて、吐息を漏らした。

「わかった」
「本当に?本当にわかったんすか?実行しなくちゃ意味ないんすよ?」
「わかった」
「・・・本当にわかってんのかなぁ」

 常の無表情からそれを読み取ることはきり丸には出来ず、半ば諦めに近い気持ちで肩から力を抜いた。はただ淡々としていて、本当に実行するのかも疑わしい。
 また忘れたとかなんとかいう事態になるのなら、いっそ一緒に食事を取って食べてしまった方が楽なのかもしれない、ときり丸は考える。そうすれば一々口うるさく言わなくてすむし、この人が何日も食べない、なんて事態も回避できる。そうした方がいいのかもしれない、そう考えて、きり丸は食器を手にとって立ち上がった。

「・・・なんでこの人についてきちまったんだろうなぁ、俺」

 幾度とない溜息は、すやすやという赤子の寝息に紛れて消えた。