微笑みの疑心暗鬼
この人、顔だけはいいものなぁ。
ちらり、と若い町娘から夕飯のお裾分けだろうか、器に盛られた煮物を手渡されるを見上げて、きり丸は内心で呟いた。当の本人は頬を染めて恥じ入る娘を前ににこりともせずただ言われるがままに器を受け取っているだけで、何を考えているかはとんとわからない。
それなりに可愛い娘であった。美しいというわけではないが、大きな目はくりくりと愛嬌があって和むし、笑顔はパッと野花が咲くようにほっと人を安心させる。純朴そうな外見は目立たなくとも十分好意を寄せられるものだろう。きっとそれなりにいい家庭を持ってそれなりに幸せな日々をつかめるだけの器量もありそうだ。だからこそ、なんて救いの無い、ときり丸は冷めた目を向ける。
伏し目がちに手元の器を見つめるに、うっとりとした表情を浮かべながらいそいそと娘が去る。しどろもどろに何か言っていたが、は聞いているだけで特に深く考察はしなかったであろう。あんなにわかりやすく好意を示しているのに、可哀想に。きり丸は小走りに駆けていく娘の背中を見送りながら哀れんだ。
可哀想に。どれだけ好意を寄せたって、この人がその欠片とも拾ってくれるはずが無いのに。
「これで夕食一品浮きましたね」
きり丸自身、特にそれ以上、可哀想に、という感情以上のものを持つことなく、頭の後ろで腕を組みを見上げる。背の高い彼を見上げると、ちらりと横目が動いては器をきり丸に差し出した。何も言われずとも意図を汲み、器を受け取ってきり丸は中を覗き込む。
ほんのりと掌にまだ温かさを伝える器に出来たてを持ってきたのだろうか、と思いながらきり丸は落とさないように器を両手で包むように持つと、が動き出すのに会わせて歩を進めた。ざり、と砂利を踏む音に混じって商売人の客寄せの声が二人の横を滑っていく。
「あの人、さんが好きなんでしょうね」
隠すことはしない。あれだけわかりやすいのだ、堂々と言ったところで構いやしないだろう。
特に皮肉ることなかったが、淡々と口を開くとはそうか、と小さく低い声を漏らしてそれきりだ。そうか、で終わらせられることなのだ、彼女の好意というものは。
別に、きり丸にしてもそれは至極どうでも良いことであった。あの娘の思いが実ろうが実るまいが、お金になるわけでもなし、重要なことではない。関係がない、とまでは言わないが、だが限りなく関係などないだろう。色恋といったものに、年のせいもあるかもしれないが重きを置けないのできり丸にとって他人の恋路など気にかけるものではなかった。
そんな金にも腹の足しにもならないものよりも、明日の食事やバイトの心配のほうが遥かに大事だ。何より彼が相手では心配することの方が馬鹿らしい。
の横に並びながら、その秀麗な横顔を見つめてきり丸は吐息を零す。
「さん顔だけはいいっすもんねぇ。それでにこっと笑えば文句ないのに」
惜しむべきは彼の全くの無表情か。ぼぅ、としてどこを見ているかわからない顔つきは整っているだけになんとも勿体無い話だ。それでも騙される人間は後を絶たないのだから、案外世界というのは隙間だらけなのかもしれない。無論に騙しているつもりもないし、あくどい事に利用しているわけでもない。むしろ本人は何もしていないのだ。
けれど面白いぐらい女が引っかかるので、騙しているといっても可笑しくはないだろう。
「この調子ならさんがにこって笑えば食費も浮きそうなんですけど、ちょっと試しに笑って見てくださいよ」
娘さん達には悪いが生きるためには多少の罪悪感には目を瞑る。食費が浮くなら願ったり叶ったり、と頭の中でパチパチパチ、とそろばんを弾きながら多少の期待を載せて上目にきり丸は見上げた。は長屋の戸板の前で立ち止まり、パチリと瞬く。それから笑う、と反復すると何かを思い出すように目を細めた。その様子にきり丸はほんのりと溜息を零す。
やはりこの人に笑えという要望が無謀であったか。きり丸自身が笑うとは露ほどにも思っておらず、ただ言ってみただけの戯言でしかない。ふぅ、と溜息を零すときり丸は目の前に見えた長屋に暗くなる前に火をつけないと、とよりも大またを踏んで前に乗り出した。器の中身を零さないように気をつけながらも戸板に手をかけ、すっと横に引いた。
そして後ろを振り返りを見上げると、釣り目勝ちの大きな目を、目玉が飛び出るのではないかと危惧するほどに大きく見開いて、ぱかりと口をあけた。その顔はなんとも滑稽で、笑い出さずにはいられないほどに面白い顔だったのだが同時に繕うこともできないほど驚いた証でもあった。驚愕。その一点に尽きる。
「、さん、」
ひどく掠れた声できり丸が名前を呼ぶと、はぱちり、とまた瞬いて視線を落とす。
その瞬間きり丸はひ、と酸素が肺の中に巡るのを感じてもしかして今自分は呼吸を止めていたのだろうかと危ぶんだ。いや、しかしそれも無理はない。開いた戸から中に無言で入っていくの背中を見つめてきり丸は自分の心臓が凄い勢いで早鐘を打っているのに胸部の服を握り締め、目を見開いたまま呆然とその背中を凝視した。
今自分は夢を見ていたのだろうか。そう思ってきり丸はそうに違いない、と頷いた。
でなければ、あんなもの、見れるはずがない。すとん、とつかえていたものが落ちるように納得すると、一つ深呼吸をして暴れる心臓を宥める。ありえない、ありえない。
言い聞かせて気を落ち着け、きり丸は顔をあげて長屋の中へと入る。片手で戸を閉め、ぴしゃりと音をたてると中は一層暗くなった。急いで煮物の入った器を囲炉裏の傍に置き、火打ち石を使って墨に火をつける。燻る火にふぅふぅと息を吹きかけながら、ちらりときり丸はを盗み見た。どこを見ているのか、ぼんやりと一点を凝視するその表情はいつもと同じ無表情。何を考えているかわからない、瞬き以外の筋肉の動きなど使わない鉄面皮。
そうだ、これが彼だ。やっと火のついた囲炉裏にほっとしながら、赤々と燃え立つその色を見つめて、きり丸はありえないよな、と呟いた。幸いにもその声が彼に聞きとがめられることも無く(聞こえていても特に反応は貰えなかっただろうが)、きり丸はじっと橙色に照らされる彼の顔を見つめた。
「・・・笑うなんて、ありえないよな」
あの一瞬、確かに彼の口角が持ち上がっていたようにも思うが、きっとあれは夢であったのだ、ときり丸は信じて疑わなかった。