浮かぶ骨、辿る指
くっきりと浮かんだ鎖骨の窪みに溜まりきらなかった水が、筋を描いて思うよりも肉厚の胸板をつぅ、と音もなく滑り落ちる。透明な水滴がいくつも重なって太い筋を描き、偶に枝分かれをして細く腰に流れると、袴に吸い取られて消えた。
尾骨にかかるほど長く伸びた髪はしっとりと濡れた肌に絡みつき、日に焼けない素肌は夕日を受けてキラキラしく光っていた。物憂げに落とされた瞼の縁にある睫の影が、ふるりと揺れる。彼の体は、その頼りなく線の細さを見せる風貌からは想像もつかないほどに引き締まっていた。ガリガリに痩せて貧相な子供の体であるきり丸のそれとは比べ物にならないぐらい、太くは無いが肉厚で張りのあるそれに、しばしきり丸は見蕩れ空になった桶を手に取ったまま食い入るように眺めた。隆起した胸板、割れた腹の筋肉に、しなやかに動く腕の形。そこかしこにきっちりと筋肉はついていたが、しかしそれを暑苦しいだとか太いだとか、まるで力を誇示するような無駄なものなどなく、いっそ芸術の域に届く美しさだ。
腰回りなど、女のように滑らかなくびれこそないが、しかし緩やかに僅かな曲線を描く腰部はいっそそこらの女より細く艶かしい。無論、幼子たるきり丸に「艶かしい」などという言葉が思い浮かぶはずもなく、ただ細いな、を思うぐらいであったが。上半身を夕日に晒したは、自身の体を伝う水滴を乾いた手拭いで無造作に拭いていく。
動くたびに浮かぶ筋肉の動き、浮き上がった背中の肩甲骨に、ふときり丸は引かれて手を伸ばした。背中は長い髪に覆われていたが、ちらちらと見える動きに誘われてしまったのか。小さな手が僅かに硬い骨に触れると、は動きを止めて首を回した。目線を下に落とせば、片手に桶を抱えて腕を伸ばし、肩甲骨に触れているきり丸と視線が合う。
刹那、まるで悪戯が見つかった子供のように、きり丸は肩を跳ねさせてつり目勝ちな目を大きく見開いた。
「っあ、いや!これは・・・っ」
「・・・・」
慌てて手を引っ込めると、は数度瞬いてまた何事もなかったかのように体を拭く作業に戻った。そのきり丸の行動に疑問すら湧いていないかのような一連の作業に、ほっと安堵を零しながらの骨に触れていた手を見下ろした。薄い皮膚の下で動いていた筋肉と、浮き上がった硬い骨の形。辿ればきっとそれがどのように続いていたかわかっただろう。数度手の握り締めを繰り返し、きり丸はぐっと強く握り締めた。
「・・・さんって、鍛えてるんすね」
ほんのりと指先に残った水滴。暖かな熱は生きている人のそれ。あぁこの人も確かに熱を持った人なのだと思うと、何かきり丸の中をくすぐったいものが駆けた。
「鍛えろと、言われたからな」
「へぇ。そういえば見たことない刀持ってましたもんね、さん」
通常きり丸が目にする刀とは違う、反りのない真っ直ぐな両刃の剣を思い出し、あれを振るのだから鍛えられていても可笑しくはないか、と納得して頷いた。
そう、あのきり丸が両腕で持っても上下に振るのが難しそうな重たい刀を、この人は片手で易々と振り回すのだ。不意に、白刃が無感動に鮮血を撒き散らす様を思い出して、きり丸の背筋がぞっと冷え込む。あの体についたものは、人を殺すために必要なものであったのだろうか。思い当たれば恐ろしいと思う。特に目の前の人は、人を人とも思わずあの能面のような無表情で切り捨てていくのだ。出会った時が、そうであったように。
体を拭き終わったが着崩した着物を着なおし、襟をしゅっと正している様子を見ながら、それでも、ときり丸は目を細めた。
「さん、髪まだ水落ちてますよ」
「あぁ」
ぽたり。髪の先から滴り落ちた雫に、溜息を零してきり丸は桶を置くとの手から手拭いを奪い取った。そして腕を引っ張り、桶をひっくり返した上に座らせて、全く、と唇を尖らせた。
「あぁ、なんて言って。どうせそのまま放っておくんでしょ。それで風邪でも引かれたら銭が飛んでっちまうじゃないっすか」
「そうか」
「そうっす。出て行かなくてもいい金を出すつもりは俺にはないっすからね!」
でも、自分が風邪を引いたって薬に出す金なんか一銭もないけれど、もしこの人が病を患ったら、自分は必死で金を作って薬を買ってくるのだろうなぁ、と漠然ときり丸は考える。
乱暴な口調とは裏腹に、水気を含んだ髪を拭う手つきは丁寧だ。手拭いで髪を挟み、そっと押し付けるようにして水滴を取っていきながら馬鹿だなぁ、と思う。
「完全に毒されてる・・・」
呟きに疑問の声さえかけられなかったけれど、きり丸はそれでいいと思っていた。
正直尋ねられたって今の言葉に対する答えなど言いたくはないし、言えない。丁寧に、柔らかく手入れの行き届いた髪を拭きながら、きり丸はこのよくわからない恐ろしい人の首筋に浮かぶ骨を見つめた。ぷっくりと一部が浮き上がって見えるそこを注視しながら、この人はとても恐ろしいけれど、と内心で一人呟く。それでも、暖かな温度をこの人が携えているのなら、俺は。柔らかな髪の一房を滑らせて、きり丸は微笑んだ。