ある夜のこと



 彼の長い髪の手入れをするのは、きり丸の役目だった。
 いや、本来ならば彼自身が行うのが普通であるのだが、髪どころか自分の体調さえ気遣わない相手に、髪の手入れをしろというほうが土台無理な話である。
 放っておけば濡れ髪のままろくに乾かさない、髪を梳くのも適当。下手をすればそのまま放置も十分ありえる。全く、周りにも己にも何にも関心を示さない徹底振りはいっそきり丸を感心させるほどだ。しかし同時に、無頓着なはきり丸を苛立たせるもので。髪の手入れを疎かにする行為はまたきり丸を苛立たせた。何故なら、そう。髪はお金になるからである。早々にそのことに気づいたきり丸が、丁寧に櫛で彼の柔らかな髪を梳るのは最早必然であったのかもしれない。豊かな髪は、初め手に取ったときどこかの貴族かと思うほど綺麗に手入れをされており、驚いたものだ。さらさらと指の間を滑り落ちる感触、しかし乾いてぱさつくでもなくしっとりと水気を孕んで柔らかく、少し癖のあるそれを、きり丸は事の他気に入っているし、重宝していた。櫛に絡み付いて抜けた髪や床に落ちたそれの一本一本を掻き集めて売れば、相応の金になるのだ、特に長く綺麗な髪はその価値も一層高まる。
 そういう点で、の髪はこれ以上ないほどの価値があり、また立派な商売道具でもあった。自分の髪も売ってはいるが、ほどの価値はなく、そのことも踏まえてきり丸は彼の髪の手入れを欠かすことは一度たりともなかった。の背後で膝立ちになりながら、きり丸は今日も変わらず就寝前の日課となっている髪の手入れを、文句を言うでもなくせっせとこなしていた。櫛を手にとり、そっと根元から下ろしていく。絡まりがあれば丁寧に解し、問題がなければ二度三度梳って、毛先まで整える。
 柔らかな髪の感触が掌で踊ると、きり丸は口元を綻ばせた。

「本当、綺麗な髪してますねー。さんの髪は立派な収入源なんすから、気をつけてくださいよ」

 と、小言を言ってもこの人が頓着するはずもないだろうけれど。言うだけ無駄、というのをしみじみ感じながら、きり丸の手は休まずに髪を梳る。さらさら、さらり。櫛の細かな隙間を抜ける細い流れ。裂いていくように真下に下ろすと、床に届きうねるように巻いている毛先まで拾い上げて、するりと抜けていく。香油などは高くて買えないけれど、あればもっと綺麗になるだろう。どこかからタダで貰えないものかと、きり丸は少し長さにばらつきのある毛先を抓んで考えた。・・まぁ、なくても今の所十分なのでいらないといえばいらないのだが。

「あ、そうそう。俺明日は戦で弁当売りのアルバイトしにいきますから、さん子守のバイトよろしくお願いします」
「わかった」
「あと洗濯物もあるんで、それもお願いしますねー」
「あぁ」
「んで、飯はちゃんと食べること!わかりました?」

 髪が寝ている間に絡まないように、と器用にあみあみと形が残らない程度に緩い三つ編みに編みこんで、白い結い紐で手早く結び終えるときり丸は満足気に頷いた。
 はきり丸の小言にも似た心配を緩慢に頷くことで了承の意とし、編みこんだ髪に不満を唱えるでもなく立ち上がった。さらりと、束ねた髪が背中で揺れてまるで尻尾のようだ。
 すく、と無駄な動作もなく立ち上がったを座り込んで見上げながら、きり丸はさて一仕事終えた、とばかりに脇に置いていた袋を手にとり、口を広げた。
 中にはずっしりと小銭が詰まっており、思わずきり丸の口元がだらしなく緩んできらり、と目が輝く。一種異様な雰囲気を見せるが、背中を向けて二つ敷いてある布団の内一つの上に座り込んだが気にすることは無かった。それは慣れというよりもやはり無関心のと言うほかなく。布団を捲り中に入ると、仰向けになっては薄い瞼を閉じた。
 その様子を見てから、きり丸は小銭の枚数を数え始めるのだ。いちまーい、にまーい。
 ゆっくりと数え上げる声は聞きようによっては幽霊のささやきにも似たものかもしれない。
 僅かな灯りを頼りに、小銭の一枚一枚を確認するように数え上げるのはの髪を整えるのと同じくきり丸の日課であり、やらなければ落ち着かない習慣だ。
 一枚足りなければ夜通し探す。枚数を数えることは一つの精神安定剤に含まれているのだろう。日々の生活で身についたドケチ根性の賜物である。
 目を閉じて、ほとんど寝息も聞こえないは、そんな幽鬼さながらの怪しい声にも微動だにせずそうとわからないほど僅かに胸部を上下させている。寝ているのか寝ていないのか、それすらも定かではない。相変わらず希薄な気配でそこに横たわっているのだから、きり丸も小銭を数える手を止めることはなかった。

 いちまーい、にまーい、さんまーい、よんまーい・・・・。

 薄暗い室内で、まるでそれは子守唄のように柔らかな響きを持っていたこと。
 きり丸が、小銭に目を輝かせながらも、ちらりと寝ているの様子を伺っていたこと。
 それは全部、深夜の空気に呑まれて消えていった。