4.追いかけると逃げて行くらしい



 馬鹿みたいに苛苛してた。朝から寝坊して髪のセットもちゃんとできなかったし、最低限化粧はしたけど決まらなかった髪型は気に食わなかった。授業では林檎ちゃんの質問に答えられなかったし、クラスのざわめきが鼻について、春歌達に対する態度だってよくなかった。心配そうな、それでいてショックを受けたような春歌や音也たちの顔がチラついて、何か物に当り散らしたくて仕方がなかった。そんな調子だから曲の練習中では失敗ばかりで、いつもなら問題ない部分だって歌えてなかった。終いには相手から今日はやめようとまで言わせてしまって、不甲斐ない自分が情けなくて苛立たしくて、本当に今日の自分はいいところなんてちっともない。
 だから、心配そうな春歌を振り切って一人当てもなく校舎を歩いていた。今春歌といたら、きっとアタシはまた春歌を傷つける。それだけはもうしたくなかったから、引き止める春歌を故意に無視をして逃げ出したのだ。そう、逃げ出す、と言う言葉が一番しっくりくる。
 ・・らしくない、と思う。いつだって勝気に負けん気だけは強くて、どんなことだってやればできるって挑んでいたのに、こんな時ばかり逃げてしまうなんて。でも、しょうがないじゃない。・・・しょうが、ないじゃない・・・。

「好きなひとがいる、か・・・」

 呟くだけで胸がキリリと痛んだ気がして、胸元を強く握り締めた。くしゃくしゃになるセーターの皺になんだか泣きそうになったけれど、ぐっと唇を噛むことで誤魔化してみる。だけど自ずと動かしていた足の動きは鈍くなり、ゆっくりと、とぼとぼという擬音が似合いそうな足取りになると、終いにはぴたりと止めてしまった。
 聞こえてしまった。聞いてしまった。恥ずかしそうに、それでも幸せそうに、誇らしげに。微笑んで、柔らかく囁くあいつを。知らなければ、卒業まではきっとこの鬱陶しいけどどこか幸せな気持ちのまま、いれたはずなのに。
 どうして聞こえてしまったのだろう。なんで聞いてしまったのだろう。そんなの決まってる。アタシが、あいつの声をずっと探しているから。あいつの声だけは、どうしても耳が拾ってしまうから。好きだから、聞きたくないことまで聞こえてしまうなんて、ひどい矛盾だ。
 辿り着いた場所は人気のない森の中で、なんで学園の中に森があるんだろうとかどんだけの規模よ、とか前は突っ込んでいた気もするけれど、今はちょっとありがたい。
 ここなら早々人なんてこないだろうし、一人になりたいときにはうってつけだ。勿論そんなことを考えてこんな森を学園の敷地内にいれたわけじゃないだろうけれど、今のアタシにとったらどうでもいいことだった。
 ただ、誰にも迷惑にならないところで、誰にも見つからないところで、泣いてしまいたかった。泣いてしまいたくなるほど、ショックだなんて、そこまで好きになっていたなんて、知らなかったけど。

「なによ・・好きな人がいるんなら、思わせぶりなことしないでよ・・・」

 ちょっとでも、もしかして気があるのかなとか、今日話せて嬉しいとか、あいつの行動一つで一喜一憂していたのが馬鹿みたいじゃないの。スカートのポケットにいれていた携帯を取り出し、そこにつけてあるストラップを見つめてきゅっと眉を寄せる。ぷらぷらと揺れる黄色いヒヨコのマスコットは、あの日からずっと携帯につけて揺れている。那月が羨ましそうな目でみていたって、絶対あげたりなんかしたくなかったのに、今ならあげてもいいかも、なんて思ってる自分はかなり重症だ。・・・あぁ、でも、やっぱりあげられないかも。
 ピヨちゃんを握り締めて、ぐっと奥歯を噛み締めた。相手にそんな気はなかったのだとしても、嬉しかった。アタシのことを少しでも考えてくれたのかなって思ったら、捨てられるはずなんてなかった。あぁ、もう、本当に。

「なんでこんなに、好きなのよ・・っ」

 吐き捨てるように呟いて、膝から力が抜けたようにしゃがみこむ。言葉ごと一緒に、思いも捨てられたらどれだけ楽になれるのだろう。携帯をストラップごと握り締めて、胸元に掻き抱くと膝頭に額を押し付けて、こみ上げてくるものをぐっと押し込める。
 別に、なにをされたってわけでもない。少女漫画やドラマや映画みたいな、ロマンティックな出来事なんてちっともなかった。好きになる要素も、恋に落ちる切欠も、そんな劇的なものなんてなかったのに、どうして、こんなに好きになっていたんだろう。いつから、こんなにあいつのこと考えるようになっていたんだろう。アイドルになりたくて学園に入ったのに、今、アタシ、アイドルになれなくてもいいから、あいつに好きになって欲しいって、思ってる。
 この学園の絶対の校則を、破ってしまいたいって、思ってる。あいつの、好きな人が、アタシだったらいいのにって、馬鹿みたいなこと考えてる。そんな都合のいいこと、早々あるはずがないのに、漫画みたいな、ドラマみたいな、映画みたいな。そんなことにならないかなって、願ってる。

「ばかね、ほんと」

 震える声は、多分に自嘲を含んでいた。本気の本気で、馬鹿だと思う。こんなこと考えるなんてどうかしてる。熱くなった目頭を、もう堪える方法がわからない。明確に失恋したわけでもないのに、まだ、何にも、始まってすらいなかったのに。それでも、どうしても、零れてくる涙を止める方法だけが、見つからなくて。
 声を押し殺して泣いた。ひくひくと肩が震えて、やっぱり春歌を振り切ってきてよかったと思う。こんな姿、誰にも見せられないし、見せたくなんてない。帰ったら結局心配かけちゃいそうだけど(目、真っ赤だろうし)、でも目の前で泣くよりもずっとマシ。
 さすがに大声をあげられるほど子供じゃなかったけれど、それでも次から次へと流れる涙は、まるで終わりがないかのように、頬をぽたぽたと伝い落ちた。



 あぁ、今、無性に、あいつの声が聞きたいわ。