04. 君なんか捨ててしまうよ



 無言で切れた電話を見つめる。つーつー、と通話が途切れた音を出す電話口をじぃっと食い入るように見ながら、僅かな違和感を探すように携帯を握り締めた。
 彼女は、わざわざ暇だからとそんな電話をするような人だっただろうか?まるでこの喧騒から逃げるようともいえそうな様子だった彼女を、口調はあくまでもいつも通りだった彼女を思い浮かべて、眉間に皺を刻んだ。

「あー残念。ちゃんとも遊びたかったのにな」
「また今度誘えばいいじゃんか。・・・・ところでさ、小春」
「ん?」
「えーと、って、誰だっけ?」
「え!ちょ、音也ひどっ。ちゃんじゃん!トキヤのパートナーの!」
「あ、あぁ!そっか、トキヤのパートナーのね!あはは、そっかそっかー」

 あれ?可笑しいな?と首を傾げる音也に、周囲すらもそういえば、というように視線を泳がせる。もう、皆ひどい!と憤慨したように眉を吊り上げる小春に、いつまでも切れた電話を見つめても仕方ないとズボンのポケットに仕舞いこみながら、幾分かの呆れを乗せて音也を半目で見た。

「馬鹿だ馬鹿だと思っていましたが、記憶力の方も危ういみたいですね」
「うっ。ご、ごめん・・・」
「別に、彼女もあまり音也達と話したことはないですから、多少は仕方ないかもしれませんが」

 そうだ。クラス関係なく仲のいい小春や七海君たちとは違って、彼女は積極的に他者と関わりを持とうとはしていない。小春と友人とはいえ、その友人とまでは深く関わろうとはしないのがだ。だから、記憶が薄いのも、ある意味では仕方の無いことで。
 だから、忘れられていることに、そこまで目くじらをたてるつもりはなくて。
 なのに、妙にざわめく心中に、違和感を隠せなくて胸元を握り締めた。薄い青みがかったシャツにくしゃくしゃと皺が作られる。

「ま、まぁそのトキヤのパートナーは今度また誘うとしてさ!小春もトキヤも見てないでゲームしようよ」
「私はしてたけどあんたらに弾きだされたんじゃないかー!」
「私もあまり興味がありませんので」

 元々あまりゲームの類は好きではない。本当なら今日は部屋で静かに読書をする予定で、・・・・・・・・予定、で?
 ふと、過ぎったものに口元に手をあてて俯いた。音也のブーイングを鬱陶しく思いながら適当にあしらいつつも、記憶の端に引っかかったものに眉間に皺を寄せて手繰り寄せる。
 それでも五月蝿い音也は視線で黙らせるとして(びくぅ!と肩を跳ねさせた音也を翔が慰めている)、時計をみて、カレンダーをみて、首を捻った。

「トキヤ、どうしたの?」

 日付をみたときには、何かが思い浮かんだ気もしたのだが、横からかけられた声にはっと意識を戻して振り返る。床に手をつき、上目に見上げてくる小春のきょとんとした黒色の双眸に、らしくもなくどきりとした。というよりも、その広い襟ぐりの服で前かがみにならないでください。なんですかこちらを試しているんですか無意識ですかもっと女性としての慎みを・・・!ちらちらちらちらと見える胸元や、ピンク色の下着の肩紐に視線が行かないように無理矢理顔を逸らしながら、なんでもありません、と素っ気無く突き返した。あぁもう、目のやり場に困る!

「でも、なんかすごい真剣な顔だったし・・・ちゃんのことが気になるの?」
?・・・あぁ、いえ、別に、そういうわけでは」

 だからその体勢で小首を傾げるなど、これで周りに音也たちがいなかったらどうなっていたか・・・あるいは私でなければどうなるのか、一度じっくりと教え込むべきか。
 そう思いながら、の名前が出てそういえば、と思考を巡らした。最初は、について悩んでいたはずだったのだが・・・。ちょっと様子が可笑しかったようにも思えますし、明日、問いただしてみましょうか。どこが、というわけでもない。けれど電話をかけてきた僅かな違和感を追求しようと考えて、とりあえずいい加減その体勢はやめなさい、と彼女の肩を掴んで真っ直ぐに座らせることにした。
 そういえば、今日はなんの日だったか。
 周りに無理矢理ゲームのコントローラーを握らされながら(後で覚えておいてくださいね、音也。翔)溜息を吐いてそのことを意識の隅に追いやった。





 夜。時計の針はもう深夜を指し示す頃。昼間の騒々しさが嘘のような静けさで、読んでいた本を閉じてパチリと机の上のスタンドライトを消したところで、まるで空から地上へと落とされたように、唐突にそれが思い出された。

「――――っ!!」

 愕然と目を見開き、口元に手を押し当てて息を殺す。ギターを弄っていた音也が、突然固まった私に気がついたのか、怪訝な表情で声をかけた。

「トキヤ?」
「・・・・・なんでもありません」

 疑念の声を、かろうじて絞り出した声で振り払いながら、ふらふらとした足取りで壁際のカレンダーまで近づいた。順次消されていく日付を指先で追いかけつつ、まだ消えていないがもう消えるだろう今日という日付で、ピタリと指を止める。
 逐一その様子を音也の視線が追いかけていることには気がついたが、正直それどころではない。その視線に睨みをきかせることも忘れて、日付という名の数字を食い入るように見つめて深く項垂れた。

「なんて、ことを・・・」
「トキヤ?どうしたんだよ。なにかまずいことでもあったの?課題提出忘れてたとか?」
「あなたじゃないんですから忘れるわけないでしょう。・・・あぁ、いえ。・・・音也のこともいえませんね、これでは」

 むしろ、それよりも性質が悪い。いっそ課題を忘れたほうがマシだ。冷たく音也に切り返しながらも、悔いるようにカレンダーに額を押し付けて、どうしよう、と思考を巡らした。
 まさか、約束を。との約束を、忘れるなんて。
 どんどんと押し寄せる罪悪感と後悔に、奥歯を噛み締めてごつり、と壁に頭をぶつける。
 後ろで困惑している音也がおろおろとしているようだが、気にかける余裕もなかった。
 約束。約束をしていたのに。一週間も前から、そのために今日は予定をあけていたはずで、仕事も融通してもらって、今日は一日、彼女に付き合う約束で。どうせ荷物持ちにされるだけだろうけれども、自分だって買いたいものがあったからそれにつき合わせる予定で。
 互いに気兼ねなく、過ごす予定だったのに、よりにもよって、日付ばかりかそのこと自体を、忘れているだなんて。
 何故忘れていたんだろう。何故忘れられていたんだろう。破ってしまった事実よりも、忘れてしまっていたことに愕然とする。今まで一度だって、こんなことは。

「・・・電話、しなければ」

 ふらふらと壁から離れ、心配そうに見てくる音也はこの際無視をして、携帯を手にとってふと気づく。・・・・・・あの時かけてきた電話は、もしかしてこの事を伝えるつもりだったのではないだろうか。あの時の違和感は、このことだったのではないか?でも、なら、何故。
 登録している彼女の電話番号を呼び出しながら、疑問に携帯の液晶を睨みつける。
 何故、彼女はあの時そのことを言わなかった?不満を訴えなかった?どうして、彼女は。
 発信ボタンを押して、幾度か流れるコール音。いつまでも流れる音。途切れることの無いそれに、眉を動かしてひたすらに待つが、やはり出ない。
 やがて溜息を吐いて通話を切り、なんでこうもタイミングが、と額に手をおいて項垂れた。
 すでに就寝しているのかそれとも他に集中していて聞こえていないのか・・・確かにこんな時間に電話をすることは非常識だとしても、こんな時ぐらい出て欲しかった。
 いや、それもこちらの勝手な言い分だ。そもそも忘れなければこんな時間に電話せずともすむ話で。あぁでも、何故彼女は自分に今日の約束を告げなかったのだろう。
 言ってもいいはずだ。約束はどうしたんだと。待ってるからと。言えばよかったはずだ。どうして?・・・小春がいたからだろうか。遠慮をして?いや、しかしそれでも口にすることぐらいあってもいいはずだ。どうして、彼女は、あの時。

 何も言わずに、口を閉ざしたのか。

 確か彼女がかけてきたときにはすでに12時を指していたはず。約束の時間は11時で、すでにその時点で気がついたとしても一時間の遅刻。申し開きのしようもない。
 いや、それでも忘れていなければ連絡はできたはずで、そもそも何故約束を忘れてしまっていたのか。どうして。
 あぁ、と溜息を吐いて、ベッドの上に身を投げ出した。ベッドのスプリングが体全体を受け止め、ぎしぎしと悲鳴をあげる。

「ト、トキヤ~?」
「・・・・・・・・・・・・・・・最低ですね」
「え?!」

 もしかしたら気がついてかかってくるんじゃないかと携帯を見てみるが、一向に震えすら走らない小さな機械に溜息をまた吐いて、今日連絡が取れなければ明日。明日、必ず。謝らなければ、と腕で目元を隠しながら、奥歯を噛み締めた。謝って許してもらえるような、生易しいことではないけれど。
 それでも最近、何かが可笑しいと目元から腕を退かして、天井を睨みつける。
 どうにも、彼女に対する様々なことが疎かになっているような気がしてならない。
 自分も、クラスメイトも、教師も。彼女は何も言わないが、もしかして他にも何かをしているのではないかと、不安になる。彼女は何も言わないから、そのまま流してしまいそうになるけれど。
 そういえば、他にも何か、彼女と約束をしていたように思う。なんだったか。大切なことだった気がする。今度こそ思い出さなければ。もう、約束を破ってはならない。ましてや忘れるなんて。

「思い、出さないと・・・」

 あぁでも、なんだか、ひどく、霞がかって、朧げで、なんだか、とても。

「――何を、考えていましたっけ」
「え?何か言った?」
「いえ。・・・なんでもありませんよ」

 すこん、と目の前がクリアになる。あれ?と思うぐらいはっきりと見える視界に、パチパチと瞬きを繰り返してあぁ、そうだ、ともぞもぞとベッドに潜り込みながら枕に頭を沈めた。

「明日、謝らないと・・・」

 目を閉じて、思い出す。の静かな微笑みと、それに重なるように浮かぶ、小春の暖かな微笑みを。



 ねぇ、他に、忘れている約束はありませんか?