05. 二度目のさよなら



 音に包まれて霞む彼女。光は淡く蛍のように輝いて、月明かりがまるでスポットライトのように照らし出す。けれどステージの華やかさはなく、そこに張り詰める空気は興奮と歓喜に溢れたものではなかった。
 悲哀と焦燥。溢れんばかりの愛しさと、離れてしまう恐怖。無理矢理に浮かべられた笑みが、ひどく胸を締め付けた。
 楽しかった、なんて言わないで。ありがとう、だなんて残さないで。別れの言葉など、聞きたくも無い。

「もう、皆には会えないけど、それでも、私は、幸せだった・・・!」

 引き攣れた声に、変な呼吸音が混じる。くしゃくしゃの顔で、会えてよかった、なんて。

「出来ることなら、私のこと、忘れないで欲しい、なぁ・・・っ」

 ほろりと零れる涙。まろやかな頬を伝い落ちる雫。ぽたぽたと地面に落ちて、それでも笑っているなんて。誰もが泣くのを堪えているかのように、引き攣れた声がする。噛み締めた唇から、低く誰かが当たり前だろ、と叫んだ気がした。
 忘れない。忘れない。君と過ごした日々を、輝いたあの日を。覚えた感情を。教えてくれた歌の全て。
 ――――今更、なかったことに?
 誰かが泣いている。寂しいよ、と縋るように泣いている。それは七海さんだったか、渋谷さんだったか。素直に泣いている彼女たち。名残惜しく、それでも我慢するように拳を握る彼女。
 白くなった拳。泣き笑いの顔。あぁ、本当に。

「君は、馬鹿ですね」
「ト、キヤ」

 薄くなっていく君。いなくなることを、この世界から消えることを、私が許すとでも?一歩踏み出す。もう半分ほど透けて見える彼女の腕を無理矢理掴んで、驚いた顔を正面に捉える。逃がさない。どこにも行かせない。今更、どうして手放せる。

「帰りたくないならそう言いなさい。ここにいたいなら声を出して抵抗すればいい。なに大人しく受け入れようとしているんですか。君らしくもない!」
「だ、って・・・私・・・っ」
「君がここではない世界の人間だから?だからなんだというのです。そんなこと、些細なことです。君はもうこの世界に受け入れられている。・・・私達が信用できませんか?」
「ちが・・・っ」

 光が弾ける。薄く、薄くなっていく。引き止めるようにきつく腕を握り締める。跡になっても構わない。それが彼女をここに留める枷になるのなら。
 ぼろぼろと泣きながら、顔をあげた彼女に微笑みかける。ねぇ言って。口にして。ここにいたいのだと、帰りたくないのだと。薄くなった頬に手を添えると、頬を伝う雫が指先にかかった。ころりと転がる透明な雫が、光を弾いてきらりと輝く。

「小春」
「・・・・っずるい、よ・・・!」

 光が、薄くなる。彼女が消えてしまう。駄目だ。待って。行かせない。泣き顔は、我慢していたものを決壊させたように、ぐしゃぐしゃに歪んでしまった。
 戦慄く唇が掠れた声を零す。小さく、彼女は再びずるい、と言った。どん、と掴まれていない腕で、彼女が私の胸を叩く。大して力の入っていないそれは、抵抗というよりも、言い知れない感情を抑える術が見つからないのだと、訴えているようだった。

「ずるい、ずるい、よ・・・っ。なん、で、そんなこと、いうの・・・私、一杯一杯、悩んだのに、我慢して、それでも、決めたのに・・・!いま、さら・・・っ」

 ふえ、と泣き声をあげる彼女が愛しい。細めた視界で、彼女は泣きじゃくりながら、ばかぁ、と、胸を叩いた。

「帰りたくない・・・・皆と、まだまだ一緒にいたい・・・離れたく、ないよぉ・・・!」

 この世界にいたい、と。泣き崩れる姿に、思わず笑みが零れる。泣いて欲しくないと思うのに、それでもその涙が恋しさからだというのならば、なんて甘美な涙だろう。
 胸が熱くなるような、心臓が締め付けられるような、けれども決して不快ではないその感情。誰かを思って自分がこんなにもしあわせになれるだなんて。
 だから、抱きしめて、その耳元で囁いた。

「なら、ここにいなさい。小春」
「ふ、ぅ・・・とき、やぁ・・・!」

 背中に回される腕。確かに存在する熱。光は、強く、輝いて。


『本当に、それでいいのですか?』


 声が、聞こえた。幾重にも重なって聞こえるハーモニー。それ一つが音楽かのように聞こえる、不思議な旋律。弾かれたように顔をあげる。腕の中の彼女がびくりを体を跳ねさせて、それに気がついて抱きしめる腕に力をこめた。
 周囲が息を呑む気配を感じて、視線を合わせればこちらも息を呑んだ。この世のものとは思えない美貌。人間の手が加わったかのように正確に作られた目鼻立ち、ふわりと風もないのに靡く金の巻き毛が、豊満な肉体に絡みつく。伏し目がちの瞼を縁取る金色の睫毛が、物憂げに震えていた。

『あなたは、本当にそれで良いのですか?』
「ミューズ・・・!」

 再び、彼女が問う。薄っすらと透ける美女は、静かな眼差しでこちらを見据えていた。その、何もかも見通すかのような眼差しに、脅えるように彼女が小さく女性を呼ぶ。
 ミューズ。音楽の女神。彼女の口から零れた俄かには信じがたいそれに軽く目を見張りながらも、その声一つが音楽かのように紡がれるそれと、人ならざる美貌。何故だろうか。すとんとそれら全てが落ちてきて、それが事実だと理解できて、呆然と女神を見上げる。

「私、は・・・っ」
『この世界を選ぶということは、あなたの世界を捨てるということ。もう二度と、向こうには戻れないということ。あなたを愛する家族とも友人とも会えないということ。――それで、よいのですか?一度手にしていたものを、捨てるその覚悟が、本当にあなたにあると?』
「私、は・・・!」

 淡々と、無機質に。何かを見定めるかのように、いっそ冷ややかさを纏わせる女神の無慈悲な問いかけは、彼女を追い詰める。言っていることは正論だ。こちらを選ぶということは、選ばせるということは。―――彼女に、全てを捨てさせるということだ。
 その時、初めて、自分はとても残酷なことを彼女に強いたのだと気がついた。
 選ばせる行為は、彼女の全てを捨てさせる、酷い行いなのだと。彼女を抱く腕が強張る。けれど。

それでも、自分は。
「それでも、私は・・・っ」

 思いに、声が重なる。はっと、腕の中の彼女を見下ろせば、彼女は涙で汚れた顔を、けれども決然と上げていた。あぁ・・・・そうですね。

「私は、ここにいたい。ここに、いたいんです・・・!」

 おねがい、めがみさま。泣きながら、願う少女は、美しく。瞬く光は、あまりに儚く。
 憂うように、瞼を伏せた女神。その次の瞬間には淡く微笑みを浮かべていた。

『―――それが、あなたの選択なのならば』
「っめがみさま、」

 目を見開いた彼女に、けれど、ど女神は遮るように口を開いた。零れる旋律のようなその声は、静かに染み渡るように、耳に届いて。

「・・・?」

 何故か、女神が彼女ではなく、私を見たような気がした。

『けれど、代償は支払わなければなりません。あなたはこの世界にとっては異物。本来有り得てはならぬ存在。この意味が、わかりますね?』
「・・・何を、私は、支払えば、」
『――過不足無く。天秤が吊りあうものを。あなたがこの世界を選ぶのならば、あなたという存在はあの世界から消えるでしょう。そして、』

 そこで、不自然に言葉が途切れる。女神はふと空を見上げて、何かを見つめるように、その眼差しを細めた。

『そして、この世界からも、天秤の片側は支払われるでしょう』
「え?」
『それでも、よいのですね?』

 最後の確認だと、女神は告げる。強い眼差しはこちらをも圧倒して、けれど、何故か。


 何故か、女神の問いは、自身に向けられているような気がして、ならなかった。


 何故?ざわり、と心がざわめく。彼女ではなく、どうして自分に?いや、気のせいだろう。女神に関わりがあるのは彼女で、決して自分ではないのだから。緩んだ腕に、もう一度力を篭めなおして彼女を引き寄せる。わ、と驚く彼女を後ろから抱きしめながら、挑戦的に女神を見上げた。

「彼女は帰しません。例え、何を支払ったとしても」

 視線が、交わる。深い、深い眼差し。見定めるかのような、その目を。逸らしたのは、女神だった。淡く光る瞼を閉じて、視界を遮った女神は、まるで何かを、憂いているかの、ような。


『あなたの未来に、音楽の祝福があらんことを―――』


 最後に、祈るように、その言葉だけを残して。パン、と光が弾けるようにその姿は消えて。
 ただこの腕には、彼女だけが、存在していた。





 消えた女神。残った少女。喜ぶ友人と、泣きながら笑う愛しい人。その様子に、知らず綻ぶ顔を隠しもしないで、愛しげに見つめれば、不意に耳を掠めた歌声に視線をさ迷わせる。

「トキヤ?どうしたの?」
「今、歌が、聞こえたような・・・」
「え?歌?・・・聞こえないよ?」

 呟けば、彼女も耳を欹てるが、何も聞こえないのか首を横に振る。各言う自分も、もう聞こえてはいないので、きっとあの歌は気のせいだったのだろう、とそのことを意識から追いやる。あるいは、ミューズの最後の名残だったのかもしれない。
 ただ今はそんなことよりも、今傍にいる彼女を慈しみたい。彼女がここにいる現実を、噛み締めていたい。



『ぼくがアイドルになるから        はぼくのためにうたをつくってね』



 だから、消えた歌声の在り処など、私は知らない。